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恋とピアノとチョコレート 2

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 教室のある雑居ビルから出ると、すっかり日が沈んでいた。
 信号待ちの合間にスマホを操作し、連絡先一覧から目的の人物の名前を探り当てる。
 あとひと押しで電話がかけられるというところまできて、衣都の指がピタリと止まる。

(急に電話したら……ご迷惑よね?)

 悩んだ末に電話ではなくメッセージを送ろうと思い直し、衣都はアポイントをとるべく文章をしたため始めた。

(和歌子先生ったら……。いくら私が『元居候』でも、おば様とそうそう気軽に連絡できるわけではないのに……)

 衣都はスマホ片手に大きなため息をついた。
 四季杜家とは長年の付き合いがある和歌子は、衣都が四季杜家に厄介になっていたことを知っており、あえて屋敷への訪問をすすめたのだ。
 和歌子の老婆心を理解できないわけではない。
 ただ、衣都が四季杜家の居候だったのは六年も前の話だ。
 今は季節の変わり目にご挨拶の葉書を送るのと、年中行事に時々足を運ぶぐらい。
 文章を半分ほど打ったところで信号が変わり、大勢の人が横断歩道を渡り始める。
 メッセージを送るのは家に着いてからにしようと思ったその時、スマホがにわかに着信を知らせた。

「え?」

 衣都は思わず、その場に立ち尽くした。
 画面には先ほど電話を掛けようとしたその人、四季杜綾子しきもりあやこの名前が、煌々と表示されていた。
 衣都は慌てて通話マークを押した。

「もしもし?」
『衣都ちゃん、今大丈夫かしら~?』

 聞き慣れた朗らかな声、スプリングのように弾むソプラノ。語尾が少しのびるのが、綾子の話し方の特徴だった。衣都に電話を掛けてきたのは本人に間違いない。
 
「はい、大丈夫です。仕事が終わって帰るところだったので……」
『ちょうどよかったわ~。今からうちに来ない~?』

 まさに、渡りに船。衣都は誘いに飛びついた。

「私もおば様のところにお伺いしようと思っていたところなんです」

 衣都は綾子との通話を終えると、横断歩道を渡らずに駅へ向かい、丘の上の住宅街行きの路線バスに乗り込んだ。
 ちょうど発車時刻だったのか、バスがまもなく出発した。
 衣都は空いている座席に腰掛け、しばらく外の景色を眺めていた。
 丘の上に向かうにつれ、街並みが次第に変わっていく。
 チェーンの飲食店や小売店が軒を連ねる駅前を通り過ぎると、単身の賃貸アパートやファミリーマンションの多く立ち並ぶ住宅街へ。
 更に丘を上っていくと、まさに豪邸と呼ぶに相応しい広大な敷地に建てられた一軒家がいくつも乱立していた。
 ――まるで、階級のピラミッドのようだ。
 この街のつくりは、小高い丘の上からあくせく働く労働階級の人間を見下ろしたいという支配階級のエゴを感じさせた。

 衣都は目的のバス停に到着すると、テクテクと坂道を歩き始めた。
 用があるのは丘の上――階級のピラミッドの頂点だ。
 四季杜家の屋敷は街を一望できる丘の頂上にある。
 かつて通い慣れた道を昔を懐かしむようにゆっくり歩いていく。
 しばらくすると欧州の風情ある宮殿を思わせるような、素晴らしい意匠の洋館が姿を現す。

(相変わらず、大きな家ね)
 
 六年前まで、自分もこの家の住人だったというのに、今では他人のような感想しか抱くことができない自分に、つい笑ってしまう。

 四季杜グループといえば、日本で五本の指に入る大企業だ。その歴史は古く、開業は江戸時代まで遡る。
 小さな回漕問屋から始まった四季杜家は、時代の流れを巧みに乗り切ることでその頭角を表した。
 明治維新、幾たびの戦争、高度経済成長期という歴史の転換期を経て、現在は陸、海、空を牛耳り、日本の物流を一手に担っている。
 いつからか、四季杜グループは日本の発展に大きく貢献したことに敬意を表され『四季杜財閥』と呼ばれるようになった。

 衣都は使用人に門の鍵を開けてもらうと、ギイっと金属の擦れる門扉をくぐった。
 美しく剪定されたイングリッシュガーデンを通り過ぎ、屋敷の中に足を踏み入れていく。
 高い天井が特長的な玄関ホールを抜け、恭しく頭を下げる家令に従い、アンティークのインテリアで彩られているリビングルームまで案内される。

「失礼します」

 リビングルームに入るやいなや、衣都は綾子から甲高い声で歓迎された。

「衣都ちゃん、よく来てくれたわね~!」
「ご無沙汰しております、おば様!」

 衣都はベルベッドのソファに座る綾子に、その場で一礼した。
 頭を元の位置に戻し、ソファに視線を移すと驚きのあまり目を見開く。

「衣都、久し振り」

 綾子の隣に座り、陽気に片手をあげていたのは、本来この屋敷にはいないはずの『あの人』だった。

ひびきさん!お帰りになっていたんですね!」

 衣都はパアッと顔を輝かせた。
 長い足を優雅に組み衣都を待っていたのは、四季杜家の長男である響だった。

「たまには顔を出せと、母さんがうるさくてね」

 響が冗談めかしてそう言うと、サプライズが成功した綾子はうふふと楽しそうに笑った。

「だから、衣都ちゃんを呼んだのよ~。久し振りに皆でお夕食を食べましょう~!」
「忙しいなら断ってもよかったんだよ、衣都。母さんに捕まると長いんだから」
 
 さりげなく衣都を気遣ってくれる響に、とんでもないと大袈裟に首を横に振る。

「呼んでいただいてとっても嬉しいです!」

 心の底から嬉しいと伝えると、響は目を細め、口の端を上げ微笑んでくれた。


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