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第5章 宵の口
第54話 不得手
しおりを挟む「外国、それも東方からの注文が入るんだもんね……。本当に有名なお店なんだなあ、ここ。こんなところで働けるなんて……」
――――松林から聞いていたように、そこでの千鶴の仕事は『東方で使用されている薬の知識を伝えること』でした。
しかし、その仕事に取り掛かる前にも、さまざまな問題が彼女の前に立ちはだかります。その最たるものがヒルフェギフト語での会話、ならびにそれによる意思の伝達でした。
発音については松林の助けもあり、どうにか短期間で形にはなりましたが、問題は文法に則った文章を瞬時に組み立てていくことでした。
「調製も……ずっとしてない……。勘が鈍ってて、もう前みたいにはできないかも…………」
診療所時代の知識を買われて重用されたはいいものの、千鶴は話すことが得意ではありません。人に教えることはもっと苦手でした。
(勉強するのは好きなほうだと思うけど、勉強自体は得意じゃなかった……。自分で理解するだけでも時間がかかって仕方ないんだから、他の人にもわかるように教えるのはもっと難しいよね……)
そのため、準備に時間を取られ、予定していた西方の薬の勉強は少しも進まないまま、最初の数ヶ月は矢のように過ぎ去っていきました。
「…………あっちでは、まだ漢方が主流なのかな。植生が違うし、薬草だって似たようなものだけど……」
ようやく知識の伝達もひと段落つき、誰もいなくなった部屋でひとり、千鶴は回想に耽っていました。
(どっちかが進んでて、どっちかが遅れてる……ってふうには言えないんだよね。向こうにいたときは、向こう側の人たちは一方的にこっちを見下してたし、こっちの人も同じ感じ。普段はみんないい人なのになあ……)
しかし、なにがあっても千鶴の心を癒し、奮い立たせていた存在があったから、彼女はそのような人に囲まれていても平気でいられたのです。
「会いたいよ、紫水さん……」
声に出していたのか、いないのか――――。心の叫びは一瞬にして、孤独な空間に吸い込まれていきました。
「『旅が好き』っていうのが本当なら、西方の薬のことも知ってるはずだよね。読んでた本だって、こっちの技術がこっちの文字で書かれたもののほうが多かったし」
千鶴は厚い書物の並ぶ書棚から薄っぺらい本を一冊持ってきて、大きな机の上で広げました。
(紫水さん、絶対こっちのほうの人だと思うんだけどなあ……。どうしてお薬はあっちのばっかりだったんだろう? 患者さんに持って帰ってもらう分はわかるけど、診療のときに使う分は別にこっちのでもよかったんじゃないの……?)
簡単な会話の練習のために購入した絵本は、いまでは表紙が取れてしまいそうなほど、ぼろぼろになっていました。
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