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第4章 夕べの調べ
第76話 誰かが尾鰭をつけたがった話<LVI>
しおりを挟む「いまのは聞かなかったことにして? えっと……そう! 『大きい独り言』ってことで! ね?」
贅沢もわがままも滅多に口にしない彼女が頼み事をしてくるなど、相当のことだ。
撥ねつけてしまうのは容易いが、果たしてそれを正しい行いと言えるのか。
仮に聞き入れなかったとして、この先、胸を張って生きていくことができるのか。
「返事もしていないのに、勝手に願いを取り下げないでくれ」
「だけど、きみは…………!!」
「『書きたくない』とは言ったが、『書けない』とも『書かない』とも言っていないじゃないか」
幸いなことに、彼女の依頼は僕にとって難度の高いオーダーではなかった。
「え……?」
迷いと憂いの二色が混在していた表情に、期待の光が差し込んだ。
「すべてをありのままに…………というのは無理だ。そういったものを望んでいるのであれば、断らざるをえないだろうな。記憶力の面と、それから……僕自身の羞恥心の面から考えて。しかし、多少の脚色を許してくれるのであれば、書けなくもない。……それでは、君の期待には沿えないだろうか?」
「ううん! あたしは全然構わないけど……。そっちのが難しくない?」
「言っただろう。『作家を志していた時期もある』と。だから、そう難しいことではないよ」
と微笑みかければ、彼女はぱあっと輝かせ――――。
「じゃあ、あたしたちのこと、一編の物語にしてよ!」
やっと、やっと……わがままを聞かせてくれた。
「…………仕方ないな」
達成感と安堵感のこもった息を吐き出して答えれば、全身に衝撃が走った。
前触れもなく突撃してくる癖も、受ける衝撃の強さも、はじめて抱き着いてこられたときから変わらない。
ひとつ変わったことがあるとすれば、僕がよろけずに彼女を受け止められるようになったことだろうか。
「大好き!!」
年甲斐もなく無邪気に抱き着いてきたせいで、全身がずぶ濡れだ。
ああ、でも――――。次に僕の服がびしょ濡れになるのは、いつだろう。
「……そうだ。物語を作るにあたって、なにか希望はあるか? 力を入れて描写してほしいシーンの指定や、絶対に省略されたくないエピソードなどがあれば、教えてほしい」
感傷から目を背け、そっと身体を離した。
「ううん! きみの好きなように書いてほしいな。あたしはそれが読みたいの。あ、でも……節目節目できみが感じてきたことを知りたいから、できれば一人称がいいかも!」
「わかった。全力を尽くそう。任せてくれ」
「うん。楽しみにしてるね!」
彼女は眩い笑顔を向けるばかりで、一向に立ち去ろうとしない。
「…………と、確認事項はこんなところか。話し込んでいる場合ではなかったな。長々と引き留めてしまって、本当にすまない。僕のことは気にしないで、早く友人のところに……」
気を遣わせているのかと思い、急かしたが――――。
「あー! きみってば、また勝手に話終わらせようとしてる!」
「? 他にも用件が?」
非難の声が上がり、首を捻る。
「あるある! まだ大事なこと訊いてないんだから、終わらせるわけにはいかないよ」
「なんでも訊けばいいが、そんな悠長に構えていて間に合うのか?」
「大丈夫! そこまで時間は取らせないから!」
なぜだろう。両の眉が項垂れているように見えるのは。思い過ごしであってほしいが――――。
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