誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

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第4章 夕べの調べ

第57話 誰かが尾鰭をつけたがった話<XXXVII>

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「強いて言うなら、『』…………でしょうか」

「捕食や虐待を目的としていたのではなく?」

 疑るような台詞を投げつけてしまったが、ひと目見ただけで恋心が芽生えてしまったとすれば、捕らえた彼の細君獲物を瞬時に握り潰さなかったことにも説明がつく。
 
「はい。『わたくしは貴女様が気に入りました! なぜ、なぜなぜわたくしのから逃げようとなさるのです!? おまえの恋人も女でしょうに……!』」

 声色を変えた彼は、すっかり巨大なタコの人魚になりきっていた。

「『そんなパッとしない女はやめて、わたくしにしなさいな? 人間なんかとじゃ味わえない、極上の快楽を与えて差し上げますから』……というようなことも言っていたそうですから」 

(どうして出会ったばかりの人間にそこまで執着を?)

 人魚という種族には、情熱的……より精確に言い表すなら、色恋に現を抜かすことを厭わない性情の者が多いということだろうか。

(…………いや、そうか。娯楽の少ない海中世界では、『恋愛はこのうえなく楽しいもの』という位置付けなのかもしれない。相手さえ見つかれば……)

 脳内で仮説を展開し始めて、ふと立ち止まる。
 
「奥方様の恋人も人魚も女性だったということですか?」  
 
「ええ。しかし、妻は『男とか女とかではなく、一方的に好意を押し付けてくる人を好きになれるわけないでしょう。欠けた足lackのまま、この海を彷徨うといい!』と言い捨て、すべての攻撃を躱したそうです」

「痛快ですね」

 僕が素直な感想を呟いた途端、彼は物憂げにパイプを吹かした。

「それがそうでもないんですよ……。妻の言葉を聞いた人魚は『幸運luckですって!? わたくし、いまからそう名乗ってしまおうかしら! 美しい女性すきなひとからの贈り物はいつの世も嬉しいものですね』と狂喜していた、と…………」 

「……そうでしたか。非常に恐ろしい思いをされたようですね。結果的に人魚はそのこと贈り物に満足して、自ら海に帰って引き上げていったんでしょうか?」  

「いえいえ。その人魚が高笑いを響かせていたら、海のなかから体格のいい男の人魚が数名出てきて、『ここはお前のいていい場所ではない!』と怒鳴りつけて……」

(居住区が定められているのか? イーヴァは自由にどこにでも行っていたようだが……。全員がそうだとも、すべての場所がそうだとも限らなかったか。なんて愚かな…………)

 持ち直してきた様子の彼とは対照的に、重苦しい気分に気道を塞がれたように、相槌すら満足に打てなかった。

「その人魚を拘束して連れて行ったという話でしたよ。通報でも受けたんでしょうかねえ。妻が助かったのでボクなんかは感謝していますが」

(まあ、愛する者が被害を受けているんだ。こういった反応になるのは特段おかしなこととは言えないか。しかし……)

 人間に害をなした人魚の行いを肯定するわけではないし、するわけにはいかない。
 
 しかし、遠因を探っていけば、本人の力の及ばない大きななにかに行き当たる気がしてならなかった。

「そうですね。本当にご無事でよかった……。しかし、その人魚はまだ諦めていないかもしれませんし、心に残った傷も消えはしないでしょう。ご本人の決断どおり、海の近くに住まないのが最も安全かもしれませんね……」

「外傷も残っていますよ。吸盤の痕です。せっかく綺麗な肌をしているのに、くっきりついてしまっていて消えそうにありません。本人は大袈裟だと言いますが、気の毒でなりませんよ…………」

 煙草をみ終えた彼は、ことん、とパイプを置いた。
 
 火皿にこびりついたカーボンは、人魚に襲われた人間の苦い記憶を体現しているかのようだった。
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