誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

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第4章 夕べの調べ

第41話 誰かが尾鰭をつけたがった話<XXI>

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「…………!」

 大きな岩の壁を越えた――僕たちの場合、『抜けた』としておくべきだろうが――先には、小さな空間があった。

 景勝地とはこういう場所のことをいうのだろう。
 
 ヒトの手で再現することのできない自然美にひれ伏すのも、存外嫌いではない。
 
「お疲れ様! 全速力出したけど、苦しくなかった?」
 
 砂浜に上がってからも感動しきりで、水を吸った衣服を絞るのも忘れて立ち尽くしていると、横から労いの言葉がかけられた。
 
 彼女のほうこそ、服を纏ったままの大人の男を抱えて泳ぐのは骨が折れただろうに。

「ああ、問題ない。水の中を高速で移動できるなんて、夢のようだったよ。貴重な経験をありがとう。……ただ、『手を引く』と言っていた気がしたんだが、聞き間違いだったか?」 

「あ~……。最初はそうするつもりだったんだけど、そんなことしたら脱臼じゃ済まないかもと思って」 

 腕を引かれて膝に倒れ込んだときの記憶がよみがえってきた。

 あのときはすぐに手を離してもらえたからよかったものの、あの力で継続して牽引されていたら?

「…………そういう事情が……。本当にありがとう。……いろいろと」 

「『礼を言うほどのことじゃない』」 

 ぷいっと顔を背けた彼女だったが、細い肩を大きく揺らしている。

「僕の真似をしたのかもしれないが、ふてぶてしさが足りないんじゃないか?」

「あははっ! そうかも! 愛嬌だけはあるからね、あたし」

 背後から腕を回して覗き込めば、ひときわ楽しそうな笑い声が響いた。

「そんなことはない。……にしても、こんなところに入り江があったとはな。君が教えてくれなかったら、確実に見過ごしていた。この規模なら、解放感がある広めの部屋だと思えなくもないな……」

「そう。向こうも全然人こないけど、こっちはあっち以上にだーれもこないの。どうしてかなあ。こんなに素敵な場所、他にないのに! そのおかげであたしはきみとふたりきりになれたから、いいけどね?」

 彼女は身体を回転させ、首の後ろに腕を回してきた。
 
「……単に知らないだけかもしれないが、愛しい者と誰にも邪魔されずに愛を交わしたいと願うとき……大半の人間は家に籠るんじゃないか?」 

「あはははっ! 言えてるかも! でもさ、ものすごく思い切ったことするぞってときなのに、堅い言い方は変わらないんだね?」

「悪かったな。つまらない男で」

「ううん! 抒情的っていうのかな。あたしはすごく好き……」

 薄闇に転じ始めた世界のなかで、星の煌めきを映し取った鱗がちらちらと瞬いている。
 
 彼女が幻のように消えてしまうのを恐れて引き寄せた――――なんていうのは言い訳に過ぎず、まっすぐな好意を打ち明けられて、僕のものであるはずの身体が制御を外れてしまっただけだ。

「君は僕を褒め殺しにする気か?」

「なにその言葉。はじめて聞いたけど、あんまりいい意味じゃなさそう!」
 
「ああ。いい意味ではないな」

「んー? あたしはどっちかっていうと、きみをにするつもりでいるかな?」

「それなら、とっくになっている……」

 そのまま、あと一歩のところで触れ合わない唇を盗もうとしたが―――。
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