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第4章 夕べの調べ
第20話 誰かが尾鰭をつけたがった話<まえがき>
しおりを挟むあらかじめ言っておくが、これを綴っているのは僕の意思ではない。
……ん? 言う? 書く? …………まあ、そこはいいか。
最初は、ただの日記になる予定だった。
しかし、これを手にしているということは、君は例の報告書を読んだクチだろうから、僕が日記をつけるような性格でないことは理解してくれていると思う。
そのとおりだ。日記を書くのも気乗りはしなかった。
だが、僕には押しに弱いところがあるのかもしれない。
発端となったのは、当時の恋人のひと言だ。
――――『きみは、毎日のように難しい本をたくさん読んでるんでしょ? あたしとの思い出なんて、すぐに埋もれちゃうんじゃないの?』。
もちろん否定した。『そんなことはない』、と。
知識としての記憶と思い出としての記憶は、まったくの別物だ。
両方優れているに越したことはないし、僕はどちらも長く詳細に記憶していられるほうだと自負している。
だが、彼女は用心深いのか計算高いのか、あらゆる場面で証拠を欲しがった。
口約束など、藻屑ほどの価値もないということなんだろう。
ああ。いまの表現は、彼女の故郷での言い回しらしい。
環境が違うと、こういった言語表現にも差異が生じるな。それでも、なんとなく意味が通じるのが面白い……なんて思ってしまう。
これは各国の慣用句なんかを見ていても思うことなんだが、僕も立派な職業病なんだろう。
国なんていうのは便宜上の区切りであって、僕たちは……生きとし生けるすべてのものたちは、人為的に分断されているだけで、本当はみんな繋がっているのだと感じられる。
だから、僕は民俗学が好きだ。
『同じ』を見つけるために『違い』に向き合う必要があるし、差異を見つめるのも好きだったんだが……。
彼女という比較対象と出会って、『違う』ことが苦しいこともあるのだとはじめて知った。
その最たるものが寿命だ。
……だから、彼女の『確たるものが欲しい』という気持ちも理解できる。
だとすれば、死後、ひとりで生きていくための準備の一環として、手記をねだったのかもしれない。
それを計算高いとか用意周到だとか言って一蹴してしまうのは、無神経にすぎたな……。
だが、それでも、自身の体験を赤裸々に綴るのは抵抗があった。
『多少の脚色を許してくれるのであれば、書けなくもない』と言ったら、彼女は『そっちのが難しくない?』なんて言うものだから、仕方なく『作家を目指していた時期があるから、そう難しくはない』と伝えたんだ。
そうしたら、間髪入れずにせがんできた。『じゃあ、あたしたちのこと、一編の物語にしてよ!』と。
だから、こうして僕は筆を執った。日記をつけるのではなく、物語を綴るために。
言うまでもないが、彼女のほうが僕よりもずっと長生きだ。
とはいえ、とても寂しがりだからな。僕がいなくなったら、また恋をすればいいと思っているんだが、彼女自身はそう考えてはいないらしい。
彼女の愛の深さは常々感じているし、死後も想ってもらえるなんて、これ以上の幸福はないんだろうが……。
ともに過ごす時間が長くなれば、否応なしにその相手に惹かれてしまうものだ。僕の場合は、というべきかもしれないが。
情も懐も僕なんかとは比べるのもおこがましいほど深い彼女は、なおさらその傾向が強まるのではないかと思ったんだが……。
――――ひょっとして、ひとりで過ごすつもりか? こんな、素人の書いた下手くそな小説片手に、余生を過ごすとでも?
……いや、まさかな。考えすぎだ。そうであってほしい。
『彼女はなにも書かないのか』?
僕もそう思って、『努力はしてみるが、君も君でなにか残しておいたらいいんじゃないか』と提案してみた。
しかし、海底世界では、記録媒体があまり発達していないらしい。
……考えてみれば当然のことなんだが、言われるまで想像したこともなかった。
僕たちだって、もっぱら紙を使用して記録を残しているし、多少材質は違えど、海の向こうの国々でだって同じことだ。
だが、海中ではそうもいかない。
記録媒体は石(……いや、岩といっていたか?)らしいが、危険生物がそのへんを泳いでいるんだ。落ち着いて文章を認める機会など、そうそうないだろう。
海と陸とでは、環境が、条件が、あまりにも異なっている。
書に親しみすぎた弊害かもしれない……なんて、ぞんざいに片付けずに、『想像力に欠けていた』とすべきだな。
もうひとつ、考えられる理由があるとすれば――――。
彼女は『少しでも長く僕を生かす』ために、この物語の執筆を依頼してきたのかもしれない。
『すべきことがあるうちは死ねない』という、僕の難儀な性質をよく理解している。
皮肉ではなく、心から思うよ。――――『なんて優しい人魚なんだろう』、と。
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