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第3章 昼下がりの川辺
第61話 変化/返歌
しおりを挟む「『頼ってきてくれて嬉しい』、ですか?」
「それはもう。大事なひとに頼られて、嬉しくないわけがないじゃないか」
紫水は、腕のなかの少女に向けて語りかけます。
「千鶴は私を『好き』だとはっきり伝えてくれていたのに、卑怯な言い方をしてしまった気がして……。逃げたり誤魔化したりする気はなかったんだけれど、すまなかったね……。誰より愛しく思っているのに…………」
「いえ。紫水さんは、あのときも『愛しいひと』って言ってくれてました。だから、そんなに自分を責めないでほしいです」
寒さからくる震えは、いつしかおさまっていました。
「…………でも、もし気が済まないっていうなら……。もっと紫水さんのこと、頼っていいですか?」
「ああ、なんなりと。叶えられるとは限らないけれど、可能な限り、叶えてみせよう。さあ、言ってごらん。君は他になにをお望みかな?」
紫水は、固く握られた手指を、内側から一本一本、丁寧に開いていきます。
「じゃあ……紫水さん。ふたりで海に行ったとき、わたしが足を捻っちゃったこと、覚えてますか?」
「どんなものであれ、私が君との思い出を忘れるはずがないじゃないか。とても楽しい一日だったね。泳ぎを教えてあげられなかったのは残念だけれど、重大な怪我ではなくて本当によかったよ」
「それはきっと、紫水さんが家までわたしを運んで、すぐに手当てしてくれたおかげで……! あのときは、応急処置だけじゃなくて、『早く治るおまじない』もしてくれましたよね。よくなるまで、毎日……」
千鶴は、まだ少し指先の丸まっている手を、紫水の手に合わせました。
多くの人々を救ってきた手は、いままでより少しあたたかく、熱を送り返してきます。
「そんなこともあったねえ」
「すぐによくなったのは、あのおまじないのおかげなんじゃないかなって思ったんです」
「…………おまじないは、どこまでいってもおまじないであって、民間療法にも劣るのにかい?」
あたたかな眼差しはそのままでしたが、言葉選びには、医者としての知識や経験に基づいた彼の思想が垣間見えました。
「はい。紫水さんは早くよくなるように願うだけじゃなくて、それを行動で表してくれたから、わたしも気を付けて過ごせたんです」
かといって、千鶴も非現実的なものを偏重する性質ではありませんでした。
「……なるほど。そういう作用はついぞ考えたことがなかったけれど、案外、否定できないかもしれないね」
「そうでしょう? だから、『よく眠れるおまじない』は、ないのかなあって思って…………」
「うーん……。どうだろうねえ。千鶴は、あると思う? それとも、ないと思う?」
風の精のような囁きが、まっすぐ伸びた黒い髪のあいだを潜り抜けていきました。
「あると思います。……ねえ、紫水さん。わたしに『よく眠れるおまじない』、かけてくれませんか……?」
望みを詳らかにした唇は、緊張のせいか、ぎゅっと縮こまっています。
「またそんなことを言って…………。おまじないなんてかけなくても、君の瞼たちは口付けをしたまま、離れたくはなさそうだよ?」
「してくれないんですか? ……あ。もしかして……もう、かけてくれてる…………?」
「さあ、どうだろう? もし『よく眠れるおまじない』があったとして、その場合、患部にあたる部位はどこになるんだろうね。やっぱり脳……頭部ということになるのかな?」
丸い額を掻き分けた紫水は、言葉を止め、音を立てて唇を触れ合わせました。
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