誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

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第3章 昼下がりの川辺

第54話 問答(前)

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(紫水さん、普段からそんなふうに思ってくれてたんだ…………。嬉しいな……)

「私は妻を娶った経験がないし、いまいち結婚というものがどういうものなのかも、夫婦とはどうあるべきかもわからないけれどね」 

 紫水は千鶴の頬を包んだまま、まなじりに浮かぶ雫を優しく優しく拭います。

(それはわたしにもわからないけど、もし紫水さんが夫だったら……? 絶対幸せだよね。いま以上に大事にしてくれそう。……そんなふうに思えるひとから、『結婚してほしい』なんて言ってもらえたら、浮かれちゃうよね……。わたしは直接、求婚されたわけじゃないけど)

 千鶴はいまになって、村を出る前の女の子たちのはしゃぎっぷりを心の底から理解できた気がしました。

「でも、わたしたちは……その…………あ! ほら、あれですよ!」

「『あれ』というのは?」
 
「もう一緒に生活してますし、結婚しててもしてなくても、特に違いなんてないんじゃないかな、って……!」

 千鶴は両手で紫水の手首を捕まえます。
 
(い……言っちゃった……! でも、紫水さんのことだし、きっとそんなに重く受け止めたりはしないはず……! 言ってから気付いたけど、『結婚したくない』って意味に聞こえなくもないのだけは、ちょっとまずかったかな。むしろわたしは…………)

「あるよ」

「え……?」

「違いはあるよ。がね」
 
 紫水は茶化すことも否定もせず大真面目に頷き、畳み掛けるように凄味のある美声を響かせました。
 
「じゃあ、教えてください。紫水さんの考える『夫婦とわたしたちとの違い』って……?」

 千鶴も負けじと聞き返します。

「…………またまた。千鶴だって、本当は心当たりがあるんじゃないのかい? 君がこと、私はよく知っているよ……?」

 拘束をものともせず、頬を滑り下りた長い指は、薄く開いた唇に到着しました。

「!!」 

「…………夫婦は、寝室……いや、し、ものだろう……?」

「……っ! ……そうですね。でも、わたしは…………紫水さんとと思ってますよ?」 

 くいっと顎を持ち上げられてなお、千鶴は彼を見上げ、挑発し返します。

(紫水さんは、どういう意味だと思うかな? 嘘は吐いてないけど、大胆すぎた……?)

「…………。私と同じ部屋で?」

「そうです」
 
「千鶴は『私と』のかな。そうしたら、眠る直前まで話ができて、楽しそうだね?」

「…………ふふ。紫水さん、本当に眠る気ありますか?」

 夢を見ているかのごとく、うっとりと目を眇めた紫水に安堵した千鶴は、それとなく彼の話の長さをからかいましたが――――。

「……そうではなくて、『』……? もしで言ったことだったなら、眠る気がないのは、千鶴のほうだと思うんだけれど」

 それも束の間、紫水は可憐な唇に迫ります。

「わたしは……両方、したいです…………」

 親指の腹を押し当てられた千鶴は、彼から目を逸らすことなく言い切りました。

「!」

 紫水の瞳に広がった海面は、一度だけ大きく波立ち、元の凪へと収束していきました。
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