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第3章 昼下がりの川辺
第37話 内緒話(中)
しおりを挟む「…………たまに。たまに、『紫水さんも、わたしのこと……』って思うことはあります。でも、自惚れなんじゃないかな、って……」
『平等』。『公平』。そして――――『博愛』。
千鶴の脳裏には、想い人を象徴する単語がちらつきます。
「そっか……。切ないし、苦しいでしょうけど、すごく楽しい時期でもあるわね」
「はい。考えたくないことも、考えても仕方ないことも、たくさん浮かんじゃって…………」
「『誰かを好きになる』って、本当にすごいことよね。比率に直せば、苦しんでる時間のほうが長いのに、『今日はいっぱい話せた』みたいな、ほんのちょっとの嬉しい出来事がやけに残るから、止められないし、のめり込んでいっちゃうし……。自分が自分じゃなくなってくのが怖い反面、とても楽しくて…………」
両手で湯呑を包んだ花笠は、いつにもまして儚く見えました。
「わかってくれますか」
「ええ、すごくね。自分はもう、そういうのはいいかなって感じだけど……」
切なげに微笑んだ彼女の心には、亡き夫以外の者が入り込む隙などないのでしょう。
「聞いてる分には楽しいし、応援してるわ」
「応援?」
「そう! 私は紫水の友達だけど、千鶴さんの味方だから。あいつが千鶴さんを悲しませたら、代わりにひっぱたいてあげる。私の平手打ちは効くって、一部に評判なの」
(花笠さん、老若男女問わず人に好かれてる感じするもんね。人気でいえば、紫水さんより上かも。だけど、好かれるってことは、それだけ大変な思いもしてるんだろうなあ……)
胸を張った花笠の横で、千鶴は考え込みました。
「千鶴さん? もしかして、踵落としとか後ろ蹴りとかのほうがいい?」
そんなこととは露知らず、花笠は体格に見合わぬ荒っぽい提案をしてきます。
「え!? 違います違います!」
「そう?」
「花笠さんがわたしの味方でいてくれるのは、ものすごく心強いんですけど……。できれば、平手打ちもしないでほしいです。紫水さんのお顔が腫れちゃうのは、わたしも悲しいですから。……あんなに綺麗なのに……。腫れたって、かっこいいとは思いますよ? でも、痛いのはかわいそうじゃないですか……!」
千鶴は、肩を回し始めた華奢な美女の腕に取り付きました。
「ああ、そういうこと! ごめんなさいね、そこまで気が回らなくて……。本当にはしないから大丈夫! でも、少し意外ね?」
「なにがですか?」
「千鶴さんは人を見た目で判断する感じじゃないし、外見はそこまで重視しないほうかなと思ってたの」
「たし…………かに、顔で好きになったわけじゃないと思います。いつ好きになったかもわからないので、相当いい加減なこと言ってるなあって思うんですけど」
「『好きになった』よりも『惹かれた』、『恋をした』じゃなくて『恋に落ちた』感じなわけね」
「ああ……! 本当にそんな感じでした!」
記憶の海から引き揚げたあの日の紫水の表情は判然としませんでした。
しかし、疲弊しきった心に染み入る声も、ともに過ごす心地好さも、そのときすでに好ましく感じていた千鶴は、彼女の言葉に膝を打ちます。
「わたし、じろじろ見られるのが好きじゃなくて……。だから、最初のほうは目を合わせるのも最低限にしてましたし、紫水さんのお顔がすごく綺麗だってことに気付いたのも、だいぶ経ってからだったと思います」
「えっ、そうだったんだ!? ごめんなさい。私、話してる相手の顔すごく見ちゃうから、喋りづらかったでしょ。気を付けるようにするわね!」
「あ、花笠さんの視線は全然嫌じゃないですよ! むしろ、そのままでいてほしいです」
「そう? じゃあ、ありがたく……あ。ちなみに、紫水はどう? あいつも、じーっと見てこない?」
「嫌ってわけじゃないんですけど、もうちょっとわかりにくくしてほしい……かもしれないです。見られてると、落ち着かないので」
「でしょうね……。無意識だとしても、千鶴さんのほう見すぎなのよ」
「……とにかく、自分でもびっくりしてます。…………けど、どこを好きになっても、最終的には同じことになってたんじゃないかなあ、とも思います」
千鶴は火照る頬を手で仰ぎましたが、その熱はまだまだ冷める気配がありませんでした。
「同じこと?」
「はい。外見で好きになったとしても、そのうち『好きの入り口』がどこだったかも忘れちゃうくらい、相手のなにもかもを好きになってる、みたいな……」
「…………確かに、恋ってそういうものかも」
瞼を閉じた花笠の対面には、無比の愛を向ける相手が座しているかのようでした。
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