誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

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第3章 昼下がりの川辺

第36話 内緒話(前)

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「これだけ読めれば、十分じゃない? そのへんに積まれた本読んでても、わからない単語はいくらもないのよね?」

 花笠は、差し入れに持ってきた煎餅を木製の菓子鉢の上に開けました。

 彼女は所用で近所まできたついでに、ふたりの住まう屋敷に立ち寄ったようでした。

「それは…………まあ、そうなんですけど」

 草臥れた語学教本と何冊もの医学書に囲まれた千鶴は、眉間をつまんで引っ張ります。

「そうなんだよ。作文だって問題ないし、その気になれば論文だって書けそうなくらいなのに、千鶴は自分に厳しいよねえ。他人には優しすぎるくらい、優しいのに」

 ひょっこり顔を出した紫水も会話に加わりました。

「『自分を甘やかしてない』ってことでしょ。私は千鶴さんのそういうところ尊敬してるし、だからこそ、習得が早かったんじゃない? 紫水の手……ってより、この場合は頭? だって、ほとんど借りてないって話だし」

「確かにそうだね。私はそろそろ研究に戻るけれど…………花笠。千鶴のこと、よろしく頼むよ」

 口ではそう言ったものの、気遣わしげな視線はいつまでも、細かい文字とにらめっこしている少女の元を離れられずにいるようでした。

「もちろん。私が見るまでもないと思うけどね。あ、そうだ。これ、持っていきなさいよ。机の上にあったら、紫水でも忘れないでしょ?」

 紫水の限界すぎる時期の食事内容に驚愕した花笠は、全種類の煎餅をひとつずつ、彼に押し付けました。

「今日はやけに優しいじゃないか。ありがとう、花笠」

「千鶴さんを心配させないでほしいと思っただけ。このくらい、普通でしょ」

「それでもだよ。私の周りには、優しい人しかいないとも」  
 
 と言い切った紫水は、うんうん唸っている少女の背後に回り、そっと肩に手を置きました。
 
「千鶴」

「はい。なんですか……?」

「頑張るのはいいけれど、疲れたら休憩を入れるんだよ」

「はい! 紫水さんもちゃんと休んでるか、たまに見に行きますからね!」

 千鶴は声を掛けられた途端にしゃっきりして、とびきりの笑顔で振り向きました。

「ふふ。それは楽しみだ」

 肘をついた花笠は、親密そうに言葉を交わすふたりの様子をにやにやと眺めていました。
 


「…………さて、紫水がいなくなったところで……。単刀直入に訊くけど、最近、あいつとはどう?」

「? どう、って……どういうことですか?」

 大きく伸びをした千鶴は、身体と一緒に首を傾けます。

「んー? 『紫水となにか進展あったのかなあ』、ってこと」

「!? な、なにをおっしゃいますか! はなざさささん!?」

「あっははは!! 千鶴さんでも、私の名前が言えなくなるほど取り乱すことってあるのね? 親近感湧いちゃう!」

 わかりやすく狼狽えた乙女がおかしいやらかわいらしいやらで、花笠は華やかな髪をひときわ大きく揺らして笑いました。

「…………心のなかは、わりといつもこんな感じかもしれないです。でも、どうしてそんなことを……? わたしたち、いままでとそんなに違いましたか?」

「強いて言えば、ふたりのあいだに流れる雰囲気? 前に来たときも、いい感じだとは思ってたんだけど……。あのときよりもさらに距離が縮まった気がしたから、もう好い仲になったのかと思って」

「え? いや、まだ…………まだ、っていうか、わたしが勝手に意識してるだけで……。紫水さんはきっと、わたしのことなんて、なんとも思ってませんって!」

 千鶴は両手をわたわたさせて否定しますが――――。

「……本当に? 千鶴さんは、本当にそう思ってる?」

 花笠は真剣な表情で切り込んできました。
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