誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

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第3章 昼下がりの川辺

第31話 音なき者の訪いのあと

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「この私が完成を待てずに事を起こすとでも? これでも、辛抱強さには自信も定評もあるんだけれどねえ」

「『そうだな。しかし……どんな奴にも、気が急いてしまう時期というのはある。などは、その最たるものではないか? いま言ったことの意味もわからないほど、貴様は愚鈍な者ではなかったはずだ』」

 紫水は俯き加減に文字を追っていましたが、咀嚼を終えると、感心したように天を仰ぎました。
 
「『に協力しているのは、貴様が同様の事態を引き起こさないためだ。“おひいさん”のためではあるが、決して貴様のためなどではない。勘違いするなよ』」

「……ふふ、そうかい」

 彼女がこうして警告を寄越すのは、今回がはじめてではありません。

「ありがとう。嘘でも本当でも、君が長いあいだ協力してくれているのは事実だから、そのあたりはなんだっていいさ」

 『決して二の舞を演じるな』という再三にわたる念押しは、紫水のためでもあると言っているも同然です。

「『わかっているのなら、言葉ではなく行動で示してほしいものだな。証明してほしい。――が違えども、――――ことはあるのだと……』」

 いまの彼女が押さえるものは、帳面ではなく荒ぶる自身の袖でした。

「『このところ、そんなものは幻想だったのではないかと弱気になっていたが、貴様らが想い合い、慈しみ合う光景をこの目で見ることができたのならば、再び心から信じられるようになる気がする』」

 淀みなく綴られた文面からは、時に辛辣な彼女が彼の純愛を誰より信じているのだということが見て取れます。
 
「“”とやらを? お前も案外、情緒豊かで愛情深い性質みたいだね。私よりもよほど、無害で純粋で…………。いやはや、なんとも麗しいね?」
 
「『茶化すな。貴様らが幸せにならないのであれば、容赦はしないぞ』」

 堅苦しい口調はそのままに、彼女は人差し指と中指を組み、照れた様子の友人に向けました。

「……!」

 それを見た紫水は、目頭を押さえます。

「本当に、君には感謝しきれないな……。必ず幸せになってみせるよ。ふたりで、永遠に……ね…………」

 彼が固く誓いを立てると、隣の友人は静かにひとつ頷きました。

  

****** 
  
 
 
「…………おや? もしかして、お茶を届けにきてくれたのかな。かわいいことをしてくれるじゃないか。来客のことを忘れていて、遠慮して引き返してしまったとか? だとしても、声くらい掛けてくれてよかったのに」

 深夜の訪問客を無事に見送った紫水は、を発見し、整った顔を綻ばせました。

「いや……違うな。今朝の言付けなど消え去ってしまうほど、集中していたということか。頑張りすぎじゃないかとは思うけれど、君は言っても聞かないだろうなあ」 

 温度の高すぎるものが得意でない彼は、湯呑に手を翳します。

 大丈夫そうだとわかると、縁に口をつけ、極上の美酒を堪能するかのように出っ張った喉を鳴らしました。
  
「渇いた喉を潤すには、このくらいが飲み頃なのかもしれないな。ありがとう、千鶴。お返しはなにがいいかな……」

 冷えきった茶が滑り落ちていくにつけ、あたたかいもので満たされていく心地の彼でしたが、底に目を遣ったが最後、柔らかな笑みは失われてしまいました。

「………………」
 
 取り残された沈殿物は、さながらその身に巣喰う悍ましい欲のよう。
 
「…………君には、しか見えていないんだろうね。私が……それ以外をそこしか見せていないから……」

 紫水は、ほとんど中身の入っていない湯呑に口をつけ、苦い苦いそれを流し込みました。
 


「ん?」

 湯呑を片付けに行ったあと、紫水は身体の一部に違和感をおぼえました。

 唐突に彼を苛み始めたに、自室を目指す足が止まります。

「……男の身というのも、厄介だね」

 彼は苦笑したのち、来た道を引き返しました。
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