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第3章 昼下がりの川辺
第26話 “おひいさん”
しおりを挟む「――――――△△――――。――――――……」
落ち込む千鶴を置いてけぼりにして、ふたりの会話は進んでいきます。
「『そのかわいい女の子とやらは、どうせ“おひいさん”のことなんだろう。惚気なら今度聞いてやるから、今日は勘弁してくれ』?」
(『おひいさん』……。相手が何人もいるわけじゃなさそうだけど、『おひいさま』と同じ意味だよね。大事なひとのこと、そんなふうに呼んでるの……?)
「――――!」
「…………ああ、そうだよね。早く帰って、家族に会いたいよねえ。その気持ちは痛いほどわかるとも。数刻離れているだけで、恋しくて恋しくて。顔が見たくて、仕方なくなってしまう……」
哀切で形作られた独白は、やがて本人不在の愛の告白へと移ろっていきました。
(……そのひとのこと、本当に愛してるんだなあ。……でも、だったら。だったら、わたしのこと……あんなに優しく呼ばないでよ。勘違い、しそうになる…………)
しかし、それがあまりにも名前を呼ばれるときの声音とそっくりだったので、千鶴はいまにも呻吟を漏らしそうな喉をぐっと押さえつけました。
「――――。――――……。――?」
(あれ? だけど、紫水さんは誰かに会いに行ったりはしてない……よね。少なくとも、わたしがここに住むようになってからは、まだ。……もしかして、そのひとのほうが紫水さんに会いにきてるのかな。いまより遅い時間に……)
千鶴の脳裏を過ったのは、夜更けにこの家を訪ねてきた麗しい女性が、まっすぐ彼の寝室に招かれていく場面。
(…………だけど。お姫様なんて呼ぶくらい大事にしてるのに。会いたがってもいるのに……。そのひとのそばにいてあげてないのはどうして?)
口付けで再会を喜び合った男女が部屋に着いたら、そのあとは――――。
(わたしさえいなければ、全部が解決するはずなのに、仕事までくれて、ずっと先の約束までしてくれたのは、どんな考えがあってのこと? 約束だけなら、口先だけかなって疑うこともできたのに……)
初心な少女が生々しい情景を追い払うために腕をつねったところ、今度はいくつもの疑問に支配されてしまいました。
想い人への心情を吐露する彼と、ともに旅に出ようと誘ってくれた彼。
いずれかが偽りだとは、千鶴には到底思えなかったのです。
(わたし、紫水さんのこと……いろんな意味でわからないよ……。あなたは、なにを考えてるの?)
紫水が掴めない人物であることは承知済みとはいえ、共感はおろか理解さえ及ばないという事実に打ちのめされそうになりながらも、千鶴はわずかに残った希望を搔き集めるように、自分で自分を抱き締めました。
「――――? ――――――……」
「『結局、どうなんだ? はっきり言え。貴様のことを聞いている』、か。もちろん『かわいい女の子』なんて、あの子以外にいるはずがないさ。私の一途さは、誰よりも君が知っているだろうに……。かわいいかわいい、私の――――」
口を噤んだ紫水は、唇の形のみで愛しきひとの名を呼んだのでしょうか。
――――それとも、その女の子の名前の代わりに、恍惚のため息をついたのでしょうか。
彼の声はやはり、少女の名を呼ぶときと同じく、柔らかに吹き抜けていくだけでした。
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