誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

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第3章 昼下がりの川辺

第23話 扉の向こう

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「おはようございます。紫水さん」 

 ぱちっと目を覚ました千鶴は、ご飯の炊ける香りに誘われて、台所に繋がる戸を引きました。

「おはよう、千鶴。もう起きたのかい? せっかくの休日なんだから、もっと遅くまで寝ていてもよかったのに」

 紫水が振り返ると、出汁の香りが千鶴のいる入り口のほうまで届きました。

「昔から毎日早く起きてましたから、一回起きた時点で目が冴えちゃうんです」

「なるほど。布団から出るのにも気合いを入れないといけない私とは大違いだなあ。見習わないといけないね。勤勉なのは結構だけど、きちんと身体を休めるのだって、大事なことだよ? 私は、早くから千鶴の顔が見られて嬉しいけれどね」

「紫水さんこそ、昨日も遅かったのに、こんな時間から朝ご飯なんて作っちゃって……。わたしより遅く寝たのに、起きる時間も早かったってことじゃないですか。ちゃんと寝てくださいって言ったのに……」

 むすっと膨れる千鶴の耳には、口説き文句がごとき言葉は届いていないようでした。
 
「もしかして、作ってくれるつもりだったのかい? それはすまないことをしたね」
 
 紫水は紫水で、彼女が剥れている理由を取り違えているようで、いつもの調子で軽く笑っています。
 
「でも、君。くどいようだけれど、今日は休日じゃないか。私のことはいいから、好きなように過ごしてほしいな。外に出てもいいし、家にいてもいいから、使おくれ」

「『好きなように』、『自分のために』ですか。…………あ。だったら、したいことがあって……。でも、ここには、簡単な語学の本……なんて、さすがにないですよね。このあたりじゃ、いちばんの蔵書家なんじゃないかと思うくらいですけど、大半はお仕事関係のものでしょうし」

「簡単な語学の……? ああ、そうか。千鶴は医学書を読めるようになりたいと言っていたね。そのための勉強を早速始めるというわけか。感心なことだ」

「……はい。ゆくゆくは!」

 答えるまでに少し間が空いたのは、正確には『紫水が普段から使用している言語を理解したい』というのが彼女のいちばん強い動機でしたが、面と向かって伝えるのは気恥ずかしく、また、彼の言うことも間違いではなかったためでした。

「私が使っていたものならきっと、あの部屋の奥のほうにあると思うよ。つい先日、分野ごとに整理しただろう? その他の区画を探せば、すぐに見つかるはずさ」
 
「ありがとうございます」 

「……ああ、そうだった。今日は遅くに来客があるけれど、気にしないで普段どおりに過ごしていておくれ」

 紫水は最後にそう言いましたが、あまりにもさりげない伝え方だったので長くは残らず、そよ風のように千鶴の耳を通り過ぎていってしまいました。
 


「…………疲れた。勉強するの、ものすごく久しぶりな気がする……」

 日の高いうちから机に向かっていた千鶴は、喉の渇きをおぼえて、借りていた本に栞を挟みました。
 
「お水、もらってこよう。お茶のほうがいいかな。そしたら、紫水さんも飲むかも……」
 
 千鶴が私室として与えられた部屋は、屋敷の奥のほうに存在します。

 大きく伸びをした彼女は、迷うことなく台所までやってきて、いつもの手順でお茶を淹れました。

「いい香り……」

 そして、お盆にお茶を乗せ、彼の居室に通じる扉の前までやってきた千鶴は、小さく声を上げます。

「あ。また開いてる。紫水さん、全部がふんわりしてるから……。ふふふ」

 扉がきっちり閉まっていないことがある――――というのが、ここに住み始めて得た、はじめての気付きだったかもしれません。

「え? うまくやっているかって? もちろん、抜かりはないさ」

 千鶴が扉に手をかけたとき、紫水の声がして、彼女は反射的に動きを止めました。
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