誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

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第3章 昼下がりの川辺

第20話 無意識

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「紫水さん。その字は……?」

 千鶴の視線は、単語とおぼしき短い文字列を何往復もします。

「ん?」

「このあたりで使われてるもの…………じゃ、ないですよね?」

 紫水の綴ったその文字は、血液検査の日に彼が捲っていた書物に記されていたものに近い字体でしたが、それが同じ言語なのかどうかさえ、彼女には判別がつきません。
 
「……ああ、これか。そうだよ。報告に合わせて、の字で表記しようと思っていたのになあ」

 それは紫水にとっても意図したものではなかったらしく、彼は筆を持ったまま、はにかみました。

「やっぱり……。なんて書いてあるんですか? 『川の水、変化なし』?」
 
「うんうん、なかなか近いよ。千鶴から見て左が『水質』、右が『異常なし』、だね。読めないと、なおさらなにが書いてあるのか気になってしまうよねえ」

「…………? 全然、読める気がしないです。紫水さんはこの字を読んだり書いたりできるんですよね。すごいなあ……」

 千鶴は鼻先が触れてしまいそうなほどに顔を近付け、間隔を空けて書かれたふたつの単語を凝視しましたが、少しも理解できないとわかると、ほんの少し頬を膨らませて身体を引きました。

「ありがとう。だけど、これは外国の……とりわけ、医学を学ぶうえでは必須級の言語だから、覚えないわけにもいかなかったし、習得する過程で母国語よりも馴染んでしまっただけともいえるんじゃないかな」

 で、筆を置いた紫水の横顔が、髪や瞳の色が示唆しているのは、彼が異邦人であるという事実にも等しい可能性です。
 
「……と、まあそんなわけで、自分しか読まないものは大抵、この言語を用いているよ。他の人も目を通すものはそうもいかないけれど。いまみたいに、無意識にこの字で控えを取っていることもあるね。書ける言語はひととおり試してみたけれど、速記にいちばん向いているのもこれだったなあ」

 しかし、たとえ同郷であったとしても、彼の辿ってきた道のりを思えば、千鶴は肩を並べるそのひとをとてつもなく遠い存在だと感じていたことでしょう。

字……。わたしも……読めるようになりたいです」

 上手い下手もわからない字を眺める千鶴は、無意識にそんな言葉を発していました。 
 
「それはいい! 千鶴も医学に興味があると言っていたし、この字を習得できたら、読める医学書だって格段に増えるしね」 

 ささやかな願いのようでもあり、決意の萌芽とも取れそうな呟きを耳にした紫水は、わかりやすく声を弾ませましたが、彼の認識は明後日の方向を向いていました。

「…………あ。もちろん、それもありますよ! あるんですけど……。うう……。やっぱりそういうことにしておいてください……」

「うん? まあ、なんにせよ感心なことだ。なにかを学ぶうえで、最後にものを言うのは、適性以上に向上心だったりするからね」

「そうかもしれないですね。……え、えっと。あ、そうでした。お話の続きがあれば、お願いします」

「おっと、そうだったね。確か、川の水質が変化している可能性について論じていたところだったか。現時点で影響を受けているのは、君とウグイだけだけれど、数値に表れていない些細な変化が起きていないとも断定できないんじゃないか……と、私は考えていてね」

「もし、紫水さんの仮説が正しければ、わたしは……青龍川の使ってた水のせいで……?」

「あくまで仮説がひとつ増えただけだけれどね。一度にどれだけのお酒を飲めるかが人それぞれ違うように、その水に含まれるなんらかの物質に対する耐性の強弱が関係しているかもしれない、という話さ。とりあえず、を分析してみないことには始まらないか」

 紫水は大きく伸びをして、検査準備に取り掛かりました。
 
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