誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

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第3章 昼下がりの川辺

第18話 村の名前

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「まずは、この地図を見てほしい」

 暗がりのなかで照らし出された地図は、新品同様に見えました。
 
「…………さっきも思ったんですけど、なんですね」

 千鶴が追っていたのは、浮き上がろうとする紙を押さえる長く美しい指……ではなく、随所に紛れ込む細かい字でした。
  
「そうそう。私は地名を覚えるのが苦手なほうでね、このほうがなにかと便利なんだ」

「意外です。紫水さん、なんでも一度見ただけで覚えちゃいそうなのに」
 
「千鶴は私を買い被りすぎじゃないかい? まあ、仕事に関する記憶なら、そこそこ自信があるけれど。興味が湧かないと、どうもだめみたいで……。恥ずかしいなあ」 
 
「興味? 紫水さんにも、そんなところあったんですね。……かわいい」

「かわいいかい? ふふふ。照れてしまうね」

 手を口元に持っていって、上品に笑んだ紫水ですが、その言葉は本当に本心からのものだったのでしょうか。
 
「……じゃ、なくて! あ、いえ。紫水さんがかわいくないって言いたいわけじゃないんですけど……。この地図がどうかしたんですか?」

 口を衝いて出た言葉を塗り替えようとして千鶴が大きく否定すると、紫水は彼女にも紙上が見えやすいように、地図をがさりと傾けました。

「うん。今日、君たちに行ってもらった手入川がここだね」

「はい。当たり前だけど、地図だとものすごく近く感じます」

「本当だね。『指で示した場所に移動できたら楽なのに』と私も考えることがあるよ。山だって海だって、一瞬で越えられるなら、行きたい場所にもすぐに行けるだろう?」

 多忙な彼は、目を伏せました。

「いいなあ。そしたら、旅にだって、もっと気軽に出られますね」

「そうだね。……だけど、希望でいっぱいの道行きも、寂しさを抱えて歩く帰り道も、なかなか悪くないものだよ。時間がなければできないのが、玉に瑕だけれどね。それでも、私は結局、と思っているみたいだ。そして、きっと、それは……」

「…………はい。わたしも同じです」

 視線を投げかけられた千鶴は深く頷き、消失した言葉の先を引き取ります。
 
「うん。ありがとう。……話の続きに戻っても?」

「はい。すみません、途中で止めちゃって」
 
「いいんだよ。私もは好きなほうだしね。事務的な会話だけじゃ、味気ないさ」

 慌てて背筋を伸ばした千鶴の耳に届く声は軽やかで、はじめてここに来たときの彼の足取りのようでした。

「ええと……そうだ。地図で見ると近く思える手入川。この川をずっと上に行くと、青龍川になる。途中で名前が変わるなんて、知らない人は驚いてしまうよね。千鶴は……驚いてはいないみたいだけれど、知っていたのかな」

「はい。川の名前が変わることは、花笠さんが詳しく教えてくれて……。上のほうが龍で、下のほうが尾っぽなんて、本当に一匹の龍が横たわってるみたいで面白いですよね」

「ああ、よかった。それなら話は早いね。どのあたりで名前が変わってしまうのかはわからないけれど、千鶴の故郷のには……この川が流れているんだったね?」

 紫水の指はすいすいと地図上を移動し、ある一点へと到着します。

 懐かしくも忌まわしい、山あいの村の名称。それは――――。

「…………そう、ですけど……。わたし、紫水さんに村の名前なんて教えてなかったです……よね?」

 花笠との会話中、手入川の上流域が青龍川だと発覚しても、千鶴が平静を装うことができていたのは、偏に『紫水は故郷の名前を知らないがゆえに、その川が故郷の東を流れていることも知らないだろう』と信じ込んでいたからでした。

 いままで出会った誰よりも細やかな気遣いを見せる彼に限って、わざわざもう二度と帰ることのできないかつての居場所を思い出させるようなことはしないだろう――――と。
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