誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

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第3章 昼下がりの川辺

第14話 人魚の言葉

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「……す、すみません! 紫水さん、しなきゃいけないこともたくさんあるのに……わたし、邪魔しちゃって……」

 机の上の蝋燭に火が灯され、千鶴ははっとして紫水の腕を離しました。

 どのくらいの時間が経過したのでしょう。部屋の外は闇に包まれていました。

「ああ、いいんだよ。恐怖に支配された状態では、話もろくに入ってこないだろうしね。……でも、残念だなあ」

「?」

「私は花笠と違って、身振り手振りの大きいほうではないし、片腕を貸していたって話すのに支障はないんだ。ずっとあのままでも構わなかったのに。抱き着かれていたって、私は同じことを言ったと思うよ」
 
「…………そういうわけにも、いきませんよ」
 
 千鶴の心の真ん中には、すべてのことに対するやる気や思考を妨げるように、花笠の告げた断片的な情報がどっかりと居座っていました。
 
 『大事なひと』というのが具体的にどのような存在を指すのか明示されてはいませんでしたが、花笠の大事なひと死に別れた夫の話を聞いたあとだったために、紫水の大事なひともまた、彼と永遠の愛を誓い合った間柄なのではないか……と、恋をするどころではなかった少女は思い込んでいたのです。

「そうかい? まあ、千鶴には千鶴の基準というものがあるだろうし、好きにしておくれ」

 千鶴の懊悩など知る由もない紫水は、頭蓋の形状を慈しむように、彼女の頭を撫でました。

「! はい。紫水さん……」
 
 突然のことに身を硬くした千鶴でしたが、眠気を誘うほどの優しい手つきのおかげで、頑なだった彼女の心は次第に解れていきます。
 
「人魚について、話すんだったね。私も詳しいわけじゃないから、あまり無責任なことは言えないけれど……。彼らが私たちと同じ言語を使用しているとは限らないんじゃないかな?」

「あ……! わたし、当然、同じ言葉で喋ると思ってて……」

 千鶴は、心地好さにより閉じていた瞼を全開にして言いました。
 
「…………ああ。上半身はヒトと見分けがつかないし、そういう先入観を持つのも理解できる。私の立てた仮説のほうが間違っているかもしれないしね。人魚たちも人間と似たような言語体系を持っていたり、響きの近い言語を使用していたりする可能性もある。千鶴の考えているとおり、私たちとまったく同じ言葉を扱うことができるかもしれない」

「でも、海の向こうの国の人だって、わたしたちと全然違う言葉を話すって考えたら……。人間と同じ言葉で話してたとしても、このあたりで使われてる言葉じゃない可能性も高いですよね」 

 しかし、あの人魚が個体であったのならば――――?
  
「そうだね。言語にせよ生活様式にせよ、遠くなれば遠くなるほど、共通項は少なくなるものだ」

 千鶴の思考は紫水のひと言で遮られ、浮かびかかったひとつの可能性は水泡のごとく消え失せました。

「わたしは外国の言葉はさっぱりなんですけど、そういうものなんですね。遠い場所かあ……。海……。海…………?」
 
「どうかしたのかな?」

「…………紫水さん。人魚って、そもそも……んでしょうか?」

 その代わりに浮上したのは、まったく別の考えでした。

 人間とは生きる場所を異にする人魚たちの情報伝達手段が、自分たちと同じであると判断するのも早計だ――――と。

「うん?」 

 海面に映し出された月がごとく好奇心で揺らめく紫水の双眸に見守られながら、千鶴はいましがた浮かんだ考えを組み上げていきました。
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