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第3章 昼下がりの川辺
第1話 花笠
しおりを挟む二日後、少し片付いた診療所の門を叩いたのは、患者ではない来客でした。
「おはよう。久しぶり、紫水」
千鶴が扉を開けると、そこには話に聞いていたとおりの細身の女性がひとり、うねりのある長い髪を靡かせていました。
少し青みの差した紅色の毛先が風に踊るさまは、いつまでも飽きずに見ていられそうです。
「おはよう。こんな早くに呼びつけて、すまない。今日は千鶴をよろしくね」
と紫水は詫びましたが、巳の刻のどこが早いというのでしょう。
「まったくだわ。でも、他に頼める人もいなかったんだろうし、今回は特別ってことで」
しかし、その女性も、まるでいまが寅の刻であるかのように欠伸を噛み殺しました。
「恩に着るよ」
「あなたが千鶴さんね。初めまして」
千鶴が彼らの時間感覚を不思議に思っていると、来訪者の女性と目が合いました。
「お、おはようございます! 千鶴です。今日は一日、お世話になります」
「私は花笠。なんでも好きに呼んでね。今日はよろしくお願いします!」
「よろしくお願いします、花笠さん」
「…………『やっと補佐役が見つかった』なんて言うから、どんな人かと思ってたんだけど、しっかりしてそうな人でよかった!」
同行者の人当たりのよさに安心した千鶴の声から緊張感が抜けると、花笠は安堵のため息をつきました。
「紫水、仕事以外はぼうっとしてるところがあるでしょう? 『満潮になったのに気付かないで、海に呑まれそうになっていそう』というか!」
「!」
彼女が例として挙げたのは、数日前の紫水との出会いの状況――――の、ふたりの立ち位置を入れ替えたものでした。
人生の分岐点となった夜明けの海辺での出来事を振り返った千鶴が紫水を一瞥すると、彼も彼女を見つめていました。
「? どうしたの? 沖まで流されてく紫水でも想像して、面白くなっちゃった?」
千鶴の反応を見た花笠は、頬に手を当てました。
「君って、昔から私にだけはなんだか当たりが強いよねえ……。別にいいけれど」
紫水はへの字口でぼやいていますが、笑いを抑えきれないようで、口角をひくひく引き攣らせています。
「気のせいじゃない?」
「ふ……ふふ……。花笠さん、実はわたし――――」
千鶴が紫水に声を掛けられたときのことを簡単に話すと、花笠は素っ頓狂な声を上げました。
「えっ? 意外! 千鶴さんが助けられた側なの!?」
身振り手振りの大きい花笠が話すたびに揺れる髪の毛に注目していた千鶴でしたが、彼女がひときわ大きくのけぞった際、毛先のほうにもう一色、紅色ではなく黄緑色になっている部分があるのを見つけました。
「はい。いろんな意味で恩人なんです、紫水さんは」
快活な彼女にぴったりの華やかな髪を羨ましく思う一方で、迫害の的にされてはこなかったかと不安にもなりましたが、彼女のいた環境があの村のように閉鎖的だったとは限りません。
千鶴は暗い考えを振り切り、笑顔を見せました。
「へえ……。紫水もたまにはやるじゃない。ただの昼行灯じゃなかったんだ」
「失礼だなあ、本当に。……ふふふっ」
花笠が肘で小突くと、紫水はついに噴き出し、顔を背けました。
「冗談だけどね。二足の草鞋を履いているからには、仕事以外の時間であっても、一秒だって惜しいでしょ。本当にぼうっとしていたら、片方だってできないんじゃないの。医者と研究者なんて」
「そうかな。ありがとう、花笠」
「なんにせよ、こんなしっかりした助手さんがついてくれてたら、紫水だけじゃなくて、私たちの負担もかなり軽くなりそう!」
花笠は、千鶴にきらきらした眼差しを向けました。
千鶴は、年上の同性であり、紫水と同じく子ども扱いしてこない彼女のことがすっかり好きになりました。
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