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第2章 夜明けの海辺
第30話 用
しおりを挟む「私もそう思って……いや、調子に乗ってしまったんだろうね。あれもこれもと片っ端から書物を取り寄せていたら、この有様さ」
千鶴のほうへ向いた紫水は、両腕をばっと大きく広げます。
「お仕事に必要なんですよね?」
「必要ではあるね。でも、私の場合は……なんというか、ふたつの仕事の境目が曖昧なんだよねえ。要は、興味がふたつの分野に著しく傾いているんだ」
そして、今度は広げた腕をぎゅっと縮めました。
「ってことは……。すごく大雑把な言い方をすれば、ここにある全部が『興味があって必要な本』みたいな感じ……ですか?」
「あはは。いいねえ、その考え方。言われてみれば、研究の資料として取り寄せた本が普段の診療に役立つ……なんてこともあったなあ。件数は決して多くはないけれど」
「そうなんですか? でも、人間のための医療と水に棲む生きものの研究じゃ、重なる部分がそんなにないんじゃないかと思うんですけど……。……もしかして、わたしが知らないだけで、人間とお魚とかって案外似た者同士なんでしょうか?」
千鶴が『すべての生きものは海から来た』という言説に触れたのは、いつのことだったでしょうか。
はじめて見たはずの海を目にしたときに吹き抜けていった郷愁も、実はそのひと言で説明がつくのかもしれません。
「『重なる部分がそんなにない』か。うんうん、そう思うよねえ。確かにそのとおりなんだけれど、私はそこをどうにかしたいというか……」
紫水は、水平線のそのまた先を眺めていたときと同じ目をしました。
彼は海を愛しているようだったし、魚にでもなりたいのだろうか……なんて、千鶴が無茶苦茶な妄想を始めた直後。
「私が生物の研究をしているのは、その生物に特有の構造や細胞などが人体にも転用、あるいは応用……かな。そういうことができるようになれば、治せる病が格段に増えると思ってのことだ」
疑問に対する答えは、すぐにもたらされました。
「……そういえば、さっきも『病を根絶することはできなくても、お医者さんが必要とされない世界が理想』って……」
「覚えていてくれたんだね。ありがとう。本当は予防できるのがいちばんだけれど、私たちが最も大切にしなければいけないのは、『いま、苦しんでいるひとりひとりの人』だ。まず優先すべきは、困難とされている病の治療……つまり、対処ということになるね。だから、予防はそのあと、というわけさ」
「お医者さんも研究者さんも、全然足りないんですね……」
「ああ、病は発見される一方だというのにね。……心苦しいし、言い訳にしかならないけれど、そちらに回すだけの余裕がないというのが現状で……。でも、嘆いていても始まらないどころか、こうしているうちにも命は失われていっている。だから、少しずつでも対処から予防の段階へと移行していくために、私は私の研究を進めなくてはいけないんだ」
唇を噛んだ紫水の手には、上下で濃淡の分かれた血液の容器が握られていました。
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