誰かが尾鰭をつけた話

片喰 一歌

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第2章 夜明けの海辺

第29話 止まり木

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「うん、いいねえ。千鶴と一緒の旅は、いままでよりもっと楽しいものになるだろうなあ」

 開け放した窓の外から、出会いの海辺へ。

 そして、海の向こうにある国で、紫水と並んで歩くところを想像していると、彼が懐かしい香りの微風を連れて戻ってきました。

「だけど、そんなに旅が好きなのに、どうして紫水さんはここに?」

「ああ、そうか。そこはまだ話していなかったか」

 紫水は椅子に掛けると、書物を脇にどけ、作業に必要な空間を確保しました。

 どことなく恩人の一人を彷彿とさせる仕草ですが、彼の築いていた堆い本の山に比べれば、紫水の作った小山はかわいらしいものでした。

「あ……。えっと、さっきから訊いてばっかりですよね。ごめんなさい」

 想像の世界の自分が姿をしていたことに遅れて気付いた千鶴の頬は、ほんのり熱を帯びました。

「…………千鶴は、どうしてだと思う?」

 机に向かった紫水は、先ほど採取した血液を調べているようでした。

「この近所だけに生息する珍しい生きものの研究に専念することにした、とか……」

 なんとなく血を見るのが怖かった千鶴は、その横顔を見上げて語りかけます。
 
「生息地の限られた生きものに魅入られて……か。そういうわけではないんだけれど、そこまで魅了される生きものに出会えたら幸せだろうねえ」

 紫水は、うっとりと目を細めました。

「『家を持たずに……』と言ったから、あらかた予想はついているだろうけれど、私は数年前まで行くあてのない旅をしていてね」

 彼がそれこそ人を魅了してしまいそうな魔性を漂わせたのを見て、千鶴は慌てて目を背けました。
 
「じゃあ、目的地がここだったわけじゃ……」

「ないね。休憩がてら海に立ち寄って、そのまま去るつもりだったんだけれど……。この近くを通りかかったとき、道の端でうずくまっている人を見つけてね。その人に軽い処置をしたら、とても感謝されてしまって」

「道端で苦しんでた人からしたら、近付いてきてくれる人がいたってだけで、すごく救われたと思います」
 
「そうだったかもしれないね。普通の人には命に関わる症状かどうかの見極めも難しいだろうし」

 紫水は手を止め、少し考えてから再度口を開きました。

「……そのあと、私はその人を家まで送って、旅を続けるつもりでいたんだけれど……。その人のご家族にもいたく感謝されて、根掘り葉掘り尋ねられて……深く考えずに正直に答えていたら、泣きつかれてしまってね」

「『この近くには医者がいないから、しばらくのあいだ、代わりを務めてくれないか』、みたいな感じですか?」

「ここまで話せばわかってしまうよねえ。おおむね、そんなところだよ。こんな立派な屋敷に住まわせてもらえることになったのも、そのおかげでね。以来、旅はして、ここをとさせてもらっているというわけさ」

「そうだったんですね。ここなら広いですし、お仕事用にいくつかお部屋を使っても、生活するのに不自由するってことはなさそうですよね」

 彼の発言のなかに『いずれ旅暮らしに復帰する意思』を垣間見た千鶴は、口元を綻ばせました。
 
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