53 / 59
うつろな夜に
住処
しおりを挟むそれでも、わたしは引き返そうという気にはならなかった。少しでも海の近くへ行きたい。わたしが彼に近付ける限界があの地点。もうとっくにおばあちゃんの顔より見慣れてしまった、二つの岩のある場所へ。
ようやく海岸に到着する頃には息が切れていた。まさか、一日のうちに二回もあの岩に向かう舟を漕ぐことになろうとは。彼には会えもしないのに。ちょうど二つの岩の真ん中に小舟を着ける。彼と過ごすときは六角形の岩を眺める形になるので、いつもとは違う位置だ。待ち合わせをしていないときも、彼が来たらいいなという願いを込めて所定の位置に着けている。わざとそうしたわけではない。常ならぬ事態に狼狽し、角の取れた六角形をひたすらに目指した結果だ。
平らな岩に降り立つ事もせず、アンカーを打っても不安定な小舟の上で、大岩の威容を味わう。いつもよりほんの少し近いだけで、慣れ親しんだこの自然物が全然違うものに思えてくるのは、なぜだろう。夜間はあまり海へ寄り付かなかったせいもあるだろうか。しかし、粘土のような香りだけは変わらない。この先、六角形を保てなくなる日が来たとしても、潮風がわたしにこの香りを届けてくれるなら、大丈夫。
だんだんと気持ちが落ち着いてきたわたしは、急いで舞い戻って正解だったと考えられるまでに回復した。
別に困る事はなにもない。圧倒的におばあちゃんの家に滞在していた時間のほうが長いとはいえ、生活していたのは粗末なアパートのほうだった。あそこで食事や睡眠を取ろうとは思わなかったからだ。元は生活空間だったとしても、自分があそこをなにと定めたのか忘れるほど愚かではない。到底使い切れない金額の資産だって家にある。
さぁ、帰ろう。美術館ではなく、正真正銘、わたしの住処へ。
独り暮らしには十分なそのアパートの一室は、文字どおりダイニングとキッチンなどの設備以外の居室が一室のみの、必要なものが必要なだけある空間だった。散らかっているわけでもなければ、片付いているというわけでもない。特に安らげもしないが、雨風凌げる有難みだけは常日頃から感じている。こんなにズタズタな状態でも気にせずに過ごせるのは、ここだけだ。
今日はもう寝てしまおう。シャワーを浴びる元気もない。それどころか簡易ベッドを広げる気にもなれなくて、ミニテーブルに突っ伏した。
翌日、起床したら正午を過ぎていたが、ちっとも寝た気がしない。横着せずにベッドで体を休めるべきだった。とりあえず、海風に長時間さらされてパリパリになった髪と服をなんとかしなければ。重い腰を上げてお湯を沸かしに行く。
この国の水は硬度が高く、冷たいままでは洗剤の消費量が嵩んでしまったり、うまく汚れが落ちなかったりするため、洗濯にも必要不可欠なのだ。どこの国でもそういうものだとばかり思っていたが、おばあちゃんに教えてもらったから知っている。
おばあちゃん……会いたいなぁ。わたしは随分、自分の行動に助けられていたらしい。故人から譲り受けたものをどうするかは人それぞれだ。体裁などを気にしなければ、なにをしたっていいはずだ。だからといって、一人でここまでする人間が他にいるだろうか。愛しの彼の肉を誤って取り込み、年を取らなくなったわたしが人間と言えるかどうかは別として。
元々、他人よりも多少特異な環境で生まれ育ったのだから、生物としての分類が変わったところでどうということはなかったのではないか。人間でなくなる前から、わたしは異物だった。人間たちの中での仲間外れ。わたしを人間たらしめていたのは、おばあちゃんの存在だった。彼女からもたらされていたものは、常識や知識だけではなかった。わたしの閉ざされていた世界を、外の……他の人たちの世界と接続してくれていた。へその緒のように。彼女に教わったすべてが血肉となり、徐々に普通の人間に近付いていけたのだ。ああ、本当にわたしを『育てて』くれたんだ、おばあちゃんは。
わたしはきっと、その繋がりを保つために、大好きなおばあちゃんの家を彼女の作品の展示場と……美術館としたのだと、いまになって気付く。わたしがかろうじて人間の生活をはみ出さずにいられたのは、あの屋敷で過ごす時間があったからだ。それを失っては、いよいよ孤独な怪物になってしまいそうで、身震いする。
あの家にいると、おばあちゃんが生きてそこにいる気がした。心のなかで絶えず話しかけていた。返ってくる声もないのに、にこにこと相槌を打ってくれ、時には諫めてくれて――――……。そう錯覚できるほどに、彼女の残り香を噴霧するようにして作り上げた空間が、ものの数時間でがらんどうになってしまったなんて事、一夜明けたいまも信じられない。
確かめに行こう。悪い夢でも、現実に起きた出来事でも、どちらかはっきりしないままでいるよりはよほどいい。こんなに沈んだ気持ちで坂を上った日はない。緩やかな傾斜も険しい登山道のよう。――――記憶はそこで途切れていた。おばあちゃんの家に着いてからの行動を、わたしはどうしても思い出せない。でも、それで十分だ。それこそが答えなのだから。もう一度、傷付きに行く事はない。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
やがて海はすべてを食らう
片喰 一歌
ファンタジー
海底のとある王国に生まれた黄緑色の鱗を持つ人魚は、ひょんなことからかつて栄えた漁村に住む人間の少女と出会い、恋に落ちる。
特徴的な岩の前で逢瀬を重ねるふたりのあいだに起きた微笑ましいアクシデント。
そして、黄緑色の鱗を持つ人魚の好敵手である金色の鱗を持つ人魚の暗殺事件。
ふたつの出来事が思わぬ事態を引き起こし、ふたりを出会う前の世界へと押し戻していく。
『やがて海はすべてを食らう』の外伝、『うつろな夜に』もあわせてお楽しみください。
荷車尼僧の回顧録
石田空
大衆娯楽
戦国時代。
密偵と疑われて牢屋に閉じ込められた尼僧を気の毒に思った百合姫。
座敷牢に食事を持っていったら、尼僧に体を入れ替えられた挙句、尼僧になってしまった百合姫は処刑されてしまう。
しかし。
尼僧になった百合姫は何故か生きていた。
生きていることがばれたらまた処刑されてしまうかもしれないと逃げるしかなかった百合姫は、尼寺に辿り着き、僧に泣きつく。
「あなたはおそらく、八百比丘尼に体を奪われてしまったのでしょう。不死の体を持っていては、いずれ心も人からかけ離れていきます。人に戻るには人魚を探しなさい」
僧の連れてきてくれた人形職人に義体をつくってもらい、日頃は人形の姿で人らしく生き、有事の際には八百比丘尼の体で人助けをする。
旅の道連れを伴い、彼女は戦国時代を生きていく。
和風ファンタジー。
カクヨム、エブリスタにて先行掲載中です。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
とあるおっさんのVRMMO活動記
椎名ほわほわ
ファンタジー
VRMMORPGが普及した世界。
念のため申し上げますが戦闘も生産もあります。
戦闘は生々しい表現も含みます。
のんびりする時もあるし、えぐい戦闘もあります。
また一話一話が3000文字ぐらいの日記帳ぐらいの分量であり
一人の冒険者の一日の活動記録を覗く、ぐらいの感覚が
お好みではない場合は読まれないほうがよろしいと思われます。
また、このお話の舞台となっているVRMMOはクリアする事や
無双する事が目的ではなく、冒険し生きていくもう1つの人生が
テーマとなっているVRMMOですので、極端に戦闘続きという
事もございません。
また、転生物やデスゲームなどに変化することもございませんので、そのようなお話がお好みの方は読まれないほうが良いと思われます。
スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活
昼寝部
ファンタジー
この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。
しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。
そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。
しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。
そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。
これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる