うつろな夜に

片喰 一歌

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うつろな夜に

盗まれたもの

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 晴れ晴れとした気分で家に着いたわたしは、自宅のただならぬ様子を見て、すぐに頭を切り替えた。この程度、些細な事なのかもしれない。だが、いまはその異変に胸騒ぎを覚えている。

 おかしい。旅に出るときは施錠を忘れてしまう事もあるが、今日はきちんと閉めて出たはずの門が開いている。不在の間に、一体なにがあったというのか。そうだ、玄関はどうなっている? 扉は閉まっているが、目視では鍵の状態までわからない。

 確かめるのが怖い。腹を固めたつもりでいたが、元がいくじなしなのだ。仕方ない。心を落ち着かせ、取手に手を掛けた。わたしが重い扉を開けると、そこで信じがたい光景を目の当たりにする事になった。

 ――――――見渡す限りの『無』。

 あるべきものがなく、だだっ広いだけの空間が無限に続くように思えて、無様に腰を抜かしてしまう。数分して、ようやく目が慣れてきた。家具もなければ、衣装も残っていない。他の部屋もおそらく同じ有様だろう。なにかを予測するなら、考えつく最悪の事態を想定しておくに限る。そうすれば、どんな状況にも多少は耐えられる。

 『なにが起こったの?』だなんて……本当はそんな事、思っていない。わかっていた。わかりきっていた。わたしの留守中にこの屋敷は空き巣被害を受けたのだ。

 むしろ、いままでよく無事だったと思うべきなのかもしれない。ゴーストタウンとはいえ、外部からの客が迷い込んでこないとも限らない。この国の居住区制度も、国が指定した居住区の位置も知らない海の向こうからの来訪者には、いまは使われていない港湾施設も、遠目には立派に見えるだろうから。わたしの防犯対策など無に等しかった。侵入者が絶対的に悪いのは確かだが、己の無用心を恥じる気持ちが彼らを詰りたい気持ちを上回っている。

 施錠の有無について確かめる術はないが、もし今日じゃなくても、きっといつかは同じ事が起きていた。鍵の掛かっていない豪邸なんて、恰好の餌食だ。大切なものなら、必ず守りきらなければいけないのに。わたしはわたしの宝物を簡単に明け渡してしまった。わたしのものだけど、わたしのものじゃない、おばあちゃんの宝物でもあったそれを。

 彼女の死後、わたしは託されたそれらをできるだけ美しく保存し、守るためだけに生きてきた。わたしの死後、打ち捨てられたこの屋敷を訪れた誰かが発見し、その価値を認めてくれる日が来るのを夢見て、大胆にも美術館への改装を行ったのに。すべて独断。頼まれたわけではない。なにもかも、自分で自分に取り付けた約束。別にそんな事をする必要はない。果たせなかったとしても、おばあちゃんはわたしを責めたりしない。

 ……それでも、生き甲斐だった。わたしは元いた家を引き払ってはいなかったが、一日の半分以上をおばあちゃんの遺したこの豪邸で過ごしていた。手入れの名目で入り浸ってでも、ここにいたかったから。ここにはすべてがあったから。

 ここはもう、わたしのよく知る場所ではない。立ち上がって、埃を払う。いつもなら塵ひとつないはずの床は、砂や土で汚れている事に気付いた。…………ああ。せっかくを請け負ってくれたなら、床まで綺麗にしていってくれればいいのに。書き置きの代わり? それともお土産のつもり? ふざけないで。なんて疎ましい。忌々しい。それならいっそ、床ごと剥がして持っていけばよかっただろうに。この屋敷まるごとでもいい。もしそんな事が可能なら。

 しかし、マグマのように煮え滾る怒りは、急速に温度を失っていく。どんな感情も無意味だと気付いている冷静な自分は、頭の片隅で計算を開始した。ここから港までの距離。わたしが海を離れたときから経過した時間――――……。嘆くのも悲しむのもあとでいい。怒りはしかるべき相手に直接ぶつけてやろう。望みは薄いが、せめて取り返す努力くらいはしてみようか。情けない自分を見返すためにも。犯人の目星は付いている。先ほど港に停泊していた見慣れない船……に乗ってきた不届き者たち。それ以外にないだろう。

 わたしは駆け出した。玄関も門も開け放ったまま。目指すは海。運がよければまだ出港していないはずの巨大な船舶。どうか間に合って。ひと言文句を言いたい。できるなら全部奪い返したいが、そんなのはきっと無理だ。返り討ちに遭って殺されるだけ。でも、なにもしないでいるなんて嫌だ。

 彼との約束に遅れそうになって以来の全力疾走。あれはいつの事だったか。あの日はずっと口中に血の味が広がって、気持ち悪かった。競争相手などいないので比べようもないが、わたしは人間のなかでも走りがあまり得意なほうではないのかもしれない。

 足が縺れる。動作自体は歩行とさほど変わらないのに、早く動かすだけでどうしてこんなに難しくなってしまうのか。ほとんど凹凸のない道に悪態をつきたくなる。起伏の激しい道よりはいいけれど。

 幸か不幸か、この村は憎たらしいほどに見通しがいい。倉庫街や港湾施設が目隠しになってくれてもよさそうなものだが、あいにくとこの住宅街は海辺に比べて標高が高い。

 いま、わたしが走っているのだって、下り坂。さっきまでの平らな道よりも加速は容易くて、急に止まるほうが難しいけれど、走る理由も失ってしまった。帰りに見かけたあの船が見当たらない。無駄に場所を取る巨大な船は、跡形もなく消えていた。盗人たちは、すでに出港してしまったらしい。

 この感情にも、二本の脚にも行き場がない。……明日からの生き方も、わからなくなっていた。
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