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9章 紫の旗を掲げて
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一方、屋島を攻略し、次には彦島を攻めて平家との戦を求めて長門国近くまで進軍してきた通称義経軍は、彦島まで三日の距離で立ち往生していた。
一つは兵糧の欠乏。山陽道は近年の不作に続き、つい先ごろ範頼軍が無茶な徴発を行ったせいか、近隣の村に人も米もない状況で、今は伊予の河野氏などに細々と兵糧を補給させている状態だった。
二つには、指揮官の不在である。坂東から参陣していた者たちは、渋々ながらも鎌倉殿の御舎弟と言う権威のある義経を指揮官として見ていたが、近畿で参陣した多田氏などは鎌倉殿の意向を笠に着て主張を激しくする梶原景時等と共謀し、義経に反発していた。
義経との不和から一度鎌倉に戻った梶原景時は、屋島の戦の後に合流し、軍を掌握せんとして様々な手を用いている。
問題は、名目上正統な指揮官である義経殿の不在だ。
屋島陥落後、義経殿は戻ってきていない。首を取られたとも聞かぬことから、死んではいないだろうが、病でも発したのだろうか、もしくは伊予の世良家などと組んで、独自に何かをしているのではないかと囁かれている。
そのような事で、義経不在の平家討伐軍は動きが止まっている。
鎌倉に問い合わせ様にも、鎌倉殿の意向は某を通さねば厳罰が下ると主張する梶原景時によって阻止され、ならばと九州陣にいる範頼殿と繋ぎを取ろうとするも、瀬戸内の水軍の協力が得られない。
自身瀬戸内水軍の一人である河野通有からは、彦島の平家水軍が短期間に勢力を強め、九州との道をふさいでいるとの事。今は伊予から日向を廻り、豊前辺りに居るであろう範頼軍との繋ぎを試みている状況だ。片道に一月以上かかる状態だが、出来る事はしなければならぬと土肥実平らが動いた結果だ。
土肥実平は義経に近い武将として見られており、軍議では梶原等から睨まれているが、その実は伊豆の土肥の庄を本拠にする武士で、北条氏と共に頼朝挙兵の時から従っている重鎮である。その為に、梶原側も睨むだけで実質的な行為には及んでいない。
義経とは一の谷で同陣し、その奇襲を助ける動きをした沈着な将である。ただあまりに見事な奇襲を成功させた義経を一角の武士として認めているところがあり、それが梶原側には煙たいと思われる由縁となっていた。
「梶原殿、彦島攻略、平家壊滅は我らが鎌倉殿の宿願であろう事は重々承知ではあるが、総大将も居ない今、どのように戦を行うつもりぞ、ただ進め、ただ勝てと言うはやすし、行うは至難とみる、なんぞ梶原殿には策があるというのか」
何度目かの軍議である。この場には梶原景時親子、摂津多田源氏の多田摂津守、土肥実平に加えて河野道有、道信親子が参加している。
「鎌倉殿の宿願を語るのであれば、このような場所でいつまでも日和見しているのは如何なもので御座ろうか、我ら一万騎が即刻彦島を落とせば良いのだ、九州の範頼殿にて背後の逃げ場を無くした平家を討つのに、緻密な策などいり申さぬ、ただひた押しに進めば鬼も退けると言う物」
「つまり、梶原殿は兵糧も船も足りない我らに、船も兵糧も充足している相手に対せよとおっしゃるのか、総大将も居ない状態では士気が保てませぬぞ」
もし、ここに義経が居たらなんと言っただろうか。
梶原殿の様にただひた押しに進めとは言うまい。おそらく誰もが気づかなかった盲点をつき、見事に戦支度を指示したであろう。
「船も兵糧も、それは河野殿ら瀬戸内水軍の役目で御座ろう、河野殿、その方らは如何考えておるのだ」
在地の水軍の代表として参加していた河野通有が、顔を朱に染める。
貴様らの働きが不甲斐ないから、鎌倉殿のご不興を買っているのだと言う事を梶原殿は言っている。
「これはしたり、我ら河野水軍の合力が不足とのお話か、瀬戸内は広いのです、かの純友殿の乱よりこれかた一枚岩にはなった事が無い瀬戸内水軍を纏めよと仰せならば、それなりの事をして頂かねば、皆納得して船を出すことはありますまい」
権威や権力に反発して乱まで起こした瀬戸内水軍である。その水軍が平家の清盛入道を好意的に見ていたのは、水軍の在り方に共感し交易と言う生活の糧になる物を提供してくれたからだ。決して官位や力に屈して臣従したわけではないのだ。
彼等も生活や家族があるため、命を賭けて敗亡寸前の平家に味方をすると言う事は無かろうが、ただ暴力だけで従わせようとする源氏のやり方に不満を持つ者は多い。今の源氏など坂東の田舎者にしか見えず、それが水軍に頭から命を発する等、従うわけがない。
河野家が味方してくれているのは、屋島の前哨戦で平家側から攻め込まれた所を、義経主従が救ったことが理由で、彼等は鎌倉殿に従うと言うよりも義経個人に恩を感じて味方してくれていると言う側面が強い。
「恩賞の事を言っているのか河野殿、それは鎌倉殿の専権事項であるぞ、それを一土豪が求めるなど、どんな増長か判っているのか」
いや判っていないのは梶原殿であろうと、土肥実平は思う。こうやって頭ごなしで在地の土豪が動くのならば、それは簡単で良い話だが現実は違う。これでは敵に回すかもしれぬ。
「梶原殿、そう頭ごなしに話しては皆旗幟に迷いが生じまするぞ、まずは協力を願い、出来る事、出来ない事を見極めて論じるが、最後には早道となりはすまいか」
「それでは、土肥殿にはどのような策があるのであろうか、もちろん我らとは違い義経殿から何か策を伝授されていたりするのであろうからな」
とことんの義経嫌いである、梶原景時の皮肉だ。一の谷の戦功報告で土肥実平が義経を高く評価したことを根に持っているのだろう。梶原景時が軍監として送った報告書では義経の名前は一言もなかったと聞く。
「まずは在地の者たちとの談合と、出せる船の数の把握、それと陸路でも兵糧を集める必要がござろう、また熊野の別当殿への再度の協力要請、鎌倉への現状報告と指揮官の任命依頼、まずはやる事は多くあると存ずる、ただ前に進むだけでも最低でもこれだけの事が必要ぞ、梶原殿はどう割り当てする所存であるか」
土肥実平はこれでも一族を率いての戦経験は豊富で、そこを買われての義経軍別動隊の副将も務めた経験がある。ただ鎌倉殿への報告を重視する事ばかりに集中して、戦自体を見ていない梶原景時とは考え方からして違う。
「鎌倉殿への報告と、陸路での兵糧集めは某が勤めよう、後の事は経験豊富であるのだろう土肥殿にてお任せいたす」
悔しい顔の一つでも見れるかと期待した実平であったが、存外梶原景時の顔には不満などは現れていなかった。まさかとは思うが自身は再度鎌倉に戻り、敵前逃亡に等しい義経殿をさらに追い込むべく画策をしたいと言うのが本音だったのではないか。ただ自身も自儘に鎌倉に戻ると言えば、義経殿と同罪になるため、この結果を導き出したとしたら、意外に梶原景時と言う男、策士である。
嵌められたのかも知れぬとは思う土肥実平であったが、それでも小うるさい男が一人消えるだけで、在地の土豪との談合は随分とやりやすくなるだろう。そうなれば船や兵糧の事もうまく行くかもしれない。
わずかな時は必要になるが、それでも平家討伐までの道のりに間違いはない筈だ。
やっと有意義に動き出せる、と、そう確信した矢先に、驚愕の知らせが届くことになる。
それは梶原景時が、一族の大半を連れて鎌倉へと戻った三日後の事出来事であった。
「お歴々、外へ、海に平家の赤旗を掲げた船がおります」
一つは兵糧の欠乏。山陽道は近年の不作に続き、つい先ごろ範頼軍が無茶な徴発を行ったせいか、近隣の村に人も米もない状況で、今は伊予の河野氏などに細々と兵糧を補給させている状態だった。
二つには、指揮官の不在である。坂東から参陣していた者たちは、渋々ながらも鎌倉殿の御舎弟と言う権威のある義経を指揮官として見ていたが、近畿で参陣した多田氏などは鎌倉殿の意向を笠に着て主張を激しくする梶原景時等と共謀し、義経に反発していた。
義経との不和から一度鎌倉に戻った梶原景時は、屋島の戦の後に合流し、軍を掌握せんとして様々な手を用いている。
問題は、名目上正統な指揮官である義経殿の不在だ。
屋島陥落後、義経殿は戻ってきていない。首を取られたとも聞かぬことから、死んではいないだろうが、病でも発したのだろうか、もしくは伊予の世良家などと組んで、独自に何かをしているのではないかと囁かれている。
そのような事で、義経不在の平家討伐軍は動きが止まっている。
鎌倉に問い合わせ様にも、鎌倉殿の意向は某を通さねば厳罰が下ると主張する梶原景時によって阻止され、ならばと九州陣にいる範頼殿と繋ぎを取ろうとするも、瀬戸内の水軍の協力が得られない。
自身瀬戸内水軍の一人である河野通有からは、彦島の平家水軍が短期間に勢力を強め、九州との道をふさいでいるとの事。今は伊予から日向を廻り、豊前辺りに居るであろう範頼軍との繋ぎを試みている状況だ。片道に一月以上かかる状態だが、出来る事はしなければならぬと土肥実平らが動いた結果だ。
土肥実平は義経に近い武将として見られており、軍議では梶原等から睨まれているが、その実は伊豆の土肥の庄を本拠にする武士で、北条氏と共に頼朝挙兵の時から従っている重鎮である。その為に、梶原側も睨むだけで実質的な行為には及んでいない。
義経とは一の谷で同陣し、その奇襲を助ける動きをした沈着な将である。ただあまりに見事な奇襲を成功させた義経を一角の武士として認めているところがあり、それが梶原側には煙たいと思われる由縁となっていた。
「梶原殿、彦島攻略、平家壊滅は我らが鎌倉殿の宿願であろう事は重々承知ではあるが、総大将も居ない今、どのように戦を行うつもりぞ、ただ進め、ただ勝てと言うはやすし、行うは至難とみる、なんぞ梶原殿には策があるというのか」
何度目かの軍議である。この場には梶原景時親子、摂津多田源氏の多田摂津守、土肥実平に加えて河野道有、道信親子が参加している。
「鎌倉殿の宿願を語るのであれば、このような場所でいつまでも日和見しているのは如何なもので御座ろうか、我ら一万騎が即刻彦島を落とせば良いのだ、九州の範頼殿にて背後の逃げ場を無くした平家を討つのに、緻密な策などいり申さぬ、ただひた押しに進めば鬼も退けると言う物」
「つまり、梶原殿は兵糧も船も足りない我らに、船も兵糧も充足している相手に対せよとおっしゃるのか、総大将も居ない状態では士気が保てませぬぞ」
もし、ここに義経が居たらなんと言っただろうか。
梶原殿の様にただひた押しに進めとは言うまい。おそらく誰もが気づかなかった盲点をつき、見事に戦支度を指示したであろう。
「船も兵糧も、それは河野殿ら瀬戸内水軍の役目で御座ろう、河野殿、その方らは如何考えておるのだ」
在地の水軍の代表として参加していた河野通有が、顔を朱に染める。
貴様らの働きが不甲斐ないから、鎌倉殿のご不興を買っているのだと言う事を梶原殿は言っている。
「これはしたり、我ら河野水軍の合力が不足とのお話か、瀬戸内は広いのです、かの純友殿の乱よりこれかた一枚岩にはなった事が無い瀬戸内水軍を纏めよと仰せならば、それなりの事をして頂かねば、皆納得して船を出すことはありますまい」
権威や権力に反発して乱まで起こした瀬戸内水軍である。その水軍が平家の清盛入道を好意的に見ていたのは、水軍の在り方に共感し交易と言う生活の糧になる物を提供してくれたからだ。決して官位や力に屈して臣従したわけではないのだ。
彼等も生活や家族があるため、命を賭けて敗亡寸前の平家に味方をすると言う事は無かろうが、ただ暴力だけで従わせようとする源氏のやり方に不満を持つ者は多い。今の源氏など坂東の田舎者にしか見えず、それが水軍に頭から命を発する等、従うわけがない。
河野家が味方してくれているのは、屋島の前哨戦で平家側から攻め込まれた所を、義経主従が救ったことが理由で、彼等は鎌倉殿に従うと言うよりも義経個人に恩を感じて味方してくれていると言う側面が強い。
「恩賞の事を言っているのか河野殿、それは鎌倉殿の専権事項であるぞ、それを一土豪が求めるなど、どんな増長か判っているのか」
いや判っていないのは梶原殿であろうと、土肥実平は思う。こうやって頭ごなしで在地の土豪が動くのならば、それは簡単で良い話だが現実は違う。これでは敵に回すかもしれぬ。
「梶原殿、そう頭ごなしに話しては皆旗幟に迷いが生じまするぞ、まずは協力を願い、出来る事、出来ない事を見極めて論じるが、最後には早道となりはすまいか」
「それでは、土肥殿にはどのような策があるのであろうか、もちろん我らとは違い義経殿から何か策を伝授されていたりするのであろうからな」
とことんの義経嫌いである、梶原景時の皮肉だ。一の谷の戦功報告で土肥実平が義経を高く評価したことを根に持っているのだろう。梶原景時が軍監として送った報告書では義経の名前は一言もなかったと聞く。
「まずは在地の者たちとの談合と、出せる船の数の把握、それと陸路でも兵糧を集める必要がござろう、また熊野の別当殿への再度の協力要請、鎌倉への現状報告と指揮官の任命依頼、まずはやる事は多くあると存ずる、ただ前に進むだけでも最低でもこれだけの事が必要ぞ、梶原殿はどう割り当てする所存であるか」
土肥実平はこれでも一族を率いての戦経験は豊富で、そこを買われての義経軍別動隊の副将も務めた経験がある。ただ鎌倉殿への報告を重視する事ばかりに集中して、戦自体を見ていない梶原景時とは考え方からして違う。
「鎌倉殿への報告と、陸路での兵糧集めは某が勤めよう、後の事は経験豊富であるのだろう土肥殿にてお任せいたす」
悔しい顔の一つでも見れるかと期待した実平であったが、存外梶原景時の顔には不満などは現れていなかった。まさかとは思うが自身は再度鎌倉に戻り、敵前逃亡に等しい義経殿をさらに追い込むべく画策をしたいと言うのが本音だったのではないか。ただ自身も自儘に鎌倉に戻ると言えば、義経殿と同罪になるため、この結果を導き出したとしたら、意外に梶原景時と言う男、策士である。
嵌められたのかも知れぬとは思う土肥実平であったが、それでも小うるさい男が一人消えるだけで、在地の土豪との談合は随分とやりやすくなるだろう。そうなれば船や兵糧の事もうまく行くかもしれない。
わずかな時は必要になるが、それでも平家討伐までの道のりに間違いはない筈だ。
やっと有意義に動き出せる、と、そう確信した矢先に、驚愕の知らせが届くことになる。
それは梶原景時が、一族の大半を連れて鎌倉へと戻った三日後の事出来事であった。
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