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7章 欠け月の屋島

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暗闇に眩しいほどの火矢が飛ぶのを、丈の高い草に潜んで義経は見つめていた。
 場所は、屋島の平家陣の裏手。平家の陣は海から攻め寄せてくる事を考えているため、背後の防備は薄く、防御用の建物ではなく、生活するための建物が多いと聞く。
 聞いた相手は、伊予の豪族、河野氏に連なる世良と言う者だ。
 平家が力ある時は平家に従っていたが、平家の都落ち、さらには一の谷の敗戦で主家である河野氏が旗幟を翻した。
 世良家は主筋である河野家の方針に従い、源氏に繋ぎを取り義経の渡海を支援したという流れだ。
 世の流れに敏感で、簡単に靡く武士などを信用する事などない義経であるが、それでも平家の、屋島の陣を単独で抜けるとなれば利用できる相手は利用する。
 梶原家との対立から、ここで戦勝を上げなければ鎌倉殿からどのような指示が来るか。
 良くて解任、悪ければ鎌倉での蟄居が待っているかもしれない。
 なればこそここで、後白河院の望みでもあり、兄である鎌倉殿の指示である平家討滅を進めなければならない。退くことは出来ない義経であった。
「若殿、まずは火矢にて敵の反応を見ます、騒ぎが収まって一刻後が夜襲の好機と見ます」
 世良家の郎党が囁いてくる。火矢の手配は世良家の者どもだ。
 人数は二十数名と多くは無いが、土地勘があり篝火を焚いている平家陣に火矢を打ち込むのは造作もないことだろう。
「ふむ、そなた・・・、む、まぁいい」
 この世良の郎党が言う事は納得できる。少数が多数に勝つためには相手の不意を衝く事は勿論だが、相手の疲労や疑心暗鬼誘うのも上策である。
 しかしながら坂東武者を自負する武士たちは、闇討ちなどは卑怯との言で勝敗など無視して簡単に批判する。
 その実、闇夜で戦って手柄を上げても周囲に誇ることが出来ず、褒美にあずかりがたいという欲の面がある。なんのために戦うのか、所領を寸土でも増やしたいものが大半で、源氏の為、鎌倉殿の為などと思い参戦している武士はほとんどいない。
 火矢の飛ぶ先では、少数だった叫び声が複数の怒鳴り合うような声に変わっていく。裏手から攻められるとは考えていなかった屋島の陣は大分混乱しているようだ。
ここで大手と裏手の双方から攻め寄せれば、千もいれば陣を抜けるかもしれない。
しかし、ここは待ちだ。
 初期の夜襲に反対な世良の郎党を無視し、義経主従だけで突撃する事は出来るが、それではさすがに数が足りない。目に見える範囲の敵は倒せるかもしれないが、それだけの事で、ついには十重二十重に囲まれて首になる。
「次はどうする」
「はっ、次は一刻後、場所を変えてまた火矢を打ち込み、またさらに半刻後、今度は左右より火矢を、そして一気に本陣を突くのが上策かと」
 世良の郎党の話は理に適っている。
 義経は静かに頷くと、背後に控える義経直属の者に目線で、動くなと伝える。
 義経直属の者どもは数にして百にも満たない。さらにその半数以上は他家から選抜された者どもが主だ。誰しもが本隊に先じての行動にもろ手を挙げてつき従っているわけではない。その心根は、勝利に貢献した時の褒美を望みつつも、抜け駆けの様な動きに違和感も感じているだろう。義経に従えば勝てるとは考えても、その勝ちを味わう目に無謀な突撃で無意味な死は望んでいないのは当たり前だ。
「では、しばし待つか」
 次第に落ち着きを取り戻していく平家の陣。だが、これから夜を通しての火矢に次第に疲弊していく事だろう。
 時が過ぎていく。
 あちこちで火矢が射られ、その対応に右往左往していた平家の陣も夜明け近くになって流石に動きが悪くなっていた。
 具体的には義経から見える裏手は、最初の襲撃こそ慌てふためくさまが見えたが、今では人の声も姿も見えず、ところどころ焼け焦げた小屋が無惨な姿を晒している。
 武具だけでなく、下働きの者と見える布なども散乱したまま拾う者もなく、戦う意思のまったくない陣の様相である。
「それでは、行きますかな若殿」
「待ちくたびれたわい、我らにしてはじっとする時間が長うこざりましたな」
 熊の様な巨体を、草の中で隠れる為に小さくしていた弁慶が薙刀片手に立ち上がり、足の具合を確認している。三刻近く隠れていたのだ。大柄な弁慶には、よほど堪えたのだろう。
「よし、行くぞ、周囲に敵は見えぬが油断などせぬようにな」
「おうっ」
武蔵坊、常陸坊等の僧兵、佐藤継信など奥州からの合力衆などを中心に声を上がる。
船上では頼りになる者どもで、義経にとって無二の郎党たちだ。
義経が走り出すよりも先に、郎党衆が平家陣に向かって先を争って突っ込んでいく。次いで義経、その後ろから世良家の者が続く。
総勢で百五十と少し。対する平家の屋島の陣はすべて合わせて一万と豪語しているが、実際のところ戦う者は二千も居ないことだろう、安徳帝に供奉する者、二位の尼に従う女房衆やその親族の足弱衆がいるせいだ。
「おおぉぉ~」
 蛮声をあげ陣の中に突っ込む。夜からの疲弊で反応は鈍くなっていようが、流石に陣の中まで攻め込まれて無言と言う事はないだろう。そう思って義経は太刀を抜き、一歩引いて周囲を見渡すが一向に平家の武士は出てこない。
 佐藤継信が小屋の中に踏み込んでいる姿が見える。気持ちの良い爽やかな武士であるが、戦場では鬼神の強さを誇る。兄弟で奥州から義経に従って来た忠義にも厚い男だ。だが、戦場の混乱の中では獣性が強くなりすぎて一の谷では逃げ惑う女房衆に斬りかかった事もあるのが若干心配だ。平家に仕える女房衆の中には後白河院近くに仕える公家と血縁がある物も居る。無体が過ぎれば院から叱責に繋がることもある。
「継信、逸りすぎるなっ」
 義経の声が聞こえたのか、小屋からすぐに佐藤継信が出てくる。構えた太刀に血の曇りは無く、銀色に輝いている事から無体な事は無かったようだ。
「三郎兄っ、これはおかしいぞ」
 継信の弟である忠信が、背後を守りながらも声をかける。
「うむ、確かに、御曹司、如何」
「どういうことだ、これは」
 小屋の中は無人。床に散らばっている土器や、打掛の衣、塗りの器等が散らばっている事から急いで逃げたと言う事なのだろうが、武士と違って位階まで持っている女房衆や帝が簡単に逃げる事が可能かどうか。
 後白河院が動座する時も、最低三日は必要だった。
「しかし、逃げるにしても何処へ行ったと言うのか、簡単に動ける身でもあるまいに」
 継信の言葉に、弁慶ら郎党たちが小屋に集まってくる。世良の郎党たちは背後に居て周囲を警戒しつつ距離を開けている。若干怪しい動きだ。
 もしや、世良の家は平家に通じていたのだろうか。最初の火矢を合図に逃げるように平家方に伝え、その逃走を助けたのではないか。
 そんな疑心が浮かんでくるが、すぐに否定する。
 平家に本当に味方するならば、逃走を促すなどと迂遠な方法を取らずに、こちらが少数と知っているのだから、包囲殲滅を促すことだろう。
 心情的には平家方を哀れとは思っているが、現実問題として源氏に味方しているのだろう。
「御曹司っ、如何しますか」
「山海か、これはどう見る」
「はっ、策とは見えませぬ、こちらが大勢と感じて必死に逃げたと言うのが真実かと、また逃げたのは帝や女房衆を中心にそれを護衛する者のみでしょう、いまだ屋島陣には武士も多くいると見ます、故に僅かな時が経てば逆襲を受ける恐れも」
「そうか、夜襲は失敗だな、平家の主力が背後の帝が不在と知ればこちらに兵の大半を割くであろう、そうなれば大手から攻める本隊の上陸も容易になる乱戦になるな」
 屋島陣の大手を攻める源氏方は、坂東武士を中心に大軍ではあるが、戦意は高くない。
 それでも攻めれば勝てる戦を無視するほど愚かでもない筈だ。
「よし、それで」
「御曹司!」
 声の主は弁慶だったか、それとも佐藤継信だったか。
 それを確かめる間もなく、複数の矢が降ってきた。本数から見て数百の敵が迫ってきている事が判る。
「弁慶っ、山海、継信、伊勢、固まれっ、退くと見せて突っかける、後に退く」
「承知!」
 少数の郎党だが、その動きは機敏で歴戦の武士にもない集団での動きが出来る、
 即座に一塊になり、鎧を連ねて矢を防ぐ。
 その中心には義経、先頭は弁慶だ。
 わずかな時でバラバラと武士が集まってくる。数は予想した通り三百程。多数は元は良いが手入れの行き届いていない使い古しの鎧を着ている。おそらく参集した四国の平家方であろう。その中心に色も鮮やかな緋色縅の大鎧、鹿角の兜がいかめしく、手に持つ重藤の弓も朱色に塗られ、戦記絵巻の主役級の武士が居た。さぞ名のある大将なのであろう。
 平家の武士はもはや公家となりおおせ、戦う武士などごく少数とも言われているが、そのごく少数が目の前に現れたと見える。
「どこの土臭い土豪や盗賊かと見たが、何の事は無い、蛭が小島に幽閉された源氏の口車に乗ったたわけ者どもか、おとなしく首となるならば血縁の者には手を出さぬこと、この平教経が約束しようぞ」
 中心の華美な鎧の男が叫んだ。こちらが少数だけであるか確かめる時を稼ぐつもりなのであろう。篝火があるとは言え、未だ周囲は薄暗い。
 向こうも誘い込まれての闇からの伏兵には注意していると言う事か。
「これは情けなき言葉、やはり平家に武士は無いと見える、院や帝をないがしろにして多数の武士に苦しみのみを与えるのみ平家武士、この原九朗義経が郎党、佐藤継信がそっ首刎ねてしんぜよう」
 佐藤次信が集団から抜け出し、数歩前に出る。それに合わせたかのように平家方の兵が弓を引くが、それを平教経が手を挙げて制する。
「これはこれは、一騎打ちとは見事な心意気と見える、いざ勝負」
「喚くな下郎ごときがっ、だがいいだろう、皆殺し前の余興じゃ、相手取ってやろうほどに」
 その言葉が終わる前に、継信が教経に長刀を持って突っ込む、対して教経は手に弓を持っているため即座の対応は難しいと見る。
 その予想通り、初手は継信の薙刀が教経に迫るが、なんと教経は太刀に持ち帰ることもせずに弓を持ったまま継信の薙刀をひらりひらりと躱していく。
 継信の薙刀の腕は、弁慶や山海程ではないものの、義経よりも上だ。それをあしらう様に躱す教経は、相当な腕前の持ち主だ。奥州藤原氏を代表して義経に従っている佐藤兄弟は、奥州でも有数の武士で、打ち物持っての試合では負けなしだったのにだ。
「どうした下郎っ、口だけではないか、そんな腕でよくも源九朗の郎党などと言えるな、もしやそれは嘘か」
「黙れっ、躱すばかりで逃げ平家の面目とはその程度かっ、人を殺すことが恐ろしいのであれば院に平伏し、源氏の袖に許しを請え」
 言葉に煽られたのか、継信の長刀が大きく振りかぶられる。渾身の一撃を当てるためだが、そんな大ぶりな動きを教経が見逃すはずはなかった。
「はっ、未熟ものがっ」
 継信の長刀は空を切り、かわりに教経の弓を握ったままの拳が継信の顔面を襲った。
「ぐっふっ」
 兜で覆われている狭い標的を、見事に教経の拳が打ち抜いた。
「これでしまいじゃ、さて嘘か誠か、ここで一の谷の雪辱を果たせるとはまこと快なり」
 足元に転がる継信を目にも入れず、教経は義経に向かって弓を引き絞る。
 満月の様にきりきりと引き絞られた弓から矢が放たれる。
 しっかりと構えていれば、大抵の矢ならば叩き落すことが出来る義経だが、教経の矢はそれを大きく上回っていた。
 ここで教経の足元で殴り倒されていた継信が、教経の足元に絡みつかねば、致命傷とまではいかないが傷は避ける事が出来なかっただろう。
「殿には手をださせん」
「下郎なれど天晴な忠義心、この教経感じ入った、昨今の武士にはこのような死に物狂いの忠義が見られんで、甚だ不快だったが、下郎なれどその方は天晴よ、名は何という」
 継信はすでに名乗っていたが、どうやら教経は所詮下郎とみて聞いても居なかったようだ」
「奥州藤原氏が生まれ、源九朗判官義経が郎党、佐藤継信だ、老いた頭にきっかりと刻み付けるがよかろうず」
 半ば教経の足に縋りつくようにして立ち上がった継信は名乗りと共に義経と、教経の間に立つ。
「見事見事、それぞ武士の鏡と言う者、坂東武者には無い奥州武者の矜持しかと見せてもらった、だが残念ながらここは戦場で某は武士である、武士の習いとして見事な首は逃すことが出来ぬが宜しいか」
「片腹痛し、何がこの場に及んでの説教か、そちらこそ武士の覚悟を軽んじているのではないか」
 すでに立っているのもやっとの継信に対して、再度ゆっくりと弓を弾き絞る教経。
 距離があってさえ、避ける事も難しい弓勢を、至近距離で受ければ死は免れない。
「失礼仕った、なんぞ言うべきことはあるか?」
「ない、なんとなれば我が主にも武士の一分を・・・」
「承知、この教経、卑怯未練な事はせずに正々堂々と義経殿に挑むことを誓う、ではさらばだ」
 引き絞られた弓から、甲高い弦音が響ききる前、矢尻が継信の喉を捕え、一気に切り裂いた。
 矢での一撃とは思えないほど、継信の喉から首後ろまでを引き裂いた。
「教経殿、宗盛殿より伝令っ、殿軍は十分との事、はや本隊は伊予へと退き申した、教経殿も有無の一戦仕るべく、はや退きそうらえとの事」
「有無の一戦だと、あの臆病者の宗盛殿の言葉とも思えぬ、思えぬがちまちまとやっているよりそれの方が面白い、いいだろう退いてやる。おい 源九朗とら」
「なんだ」
「ここは見事な奥州武士に譲り、我らは退く、しかし次は有無の一戦との事、そこで正々堂々と戦をしよう」
「次はどちらかが・・・」
「ああ、首になる時ぞ」
 平家武士にはあるまじき、豪快な笑いと共に教経は義経達を包囲していた兵ともども退いて行った。
 事態が呑み込めない義経だったが、その後世良家の郎党により、大手の源氏にて屋島陣は陥落せりと伝えられ、憤懣やるかたなく地団駄を踏んだ。
「御曹司、いきりたちも判り申すが、平家最強の教経殿をこちらで引き受けた故、大手が勝利できたのだと思いましょう」
 伊勢能盛がなだめるように言ってくるが、義経もそれは判っている。判っているが佐藤継信と言う奥州以来の兄弟の様な男を無為に死なせ、自身は何もできなかったことが悔しかったのだ。
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