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第二章「とりさんのおはなし 弐」
とりさんのおはなし 弐
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第二章「とりさんのおはなし 弐」
うす雲たなびく空を朱に染めて、空に輝いていた大輪の陽が空の支配権を黒に譲ろうとしていた。肌寒く乾燥している風に淡い色合いの着物、真っ白な肌着が揺れている。
渡会の家で女物の着物が干されるのは何時以来であったろうか。
離縁した妻が洗濯していただろうが、ついぞ気にした事がなかった正嗣の記憶には無い。
妻がいて父が健在であった頃は、ただ動物の事を考え、はるか過去に生類哀れみの令を出した公方様の研究に明け暮れるか、父の手前仕方なく武芸を磨くばかりで奥向きの事は考えてもいなかった。
武芸では父が熱望する槍はまったく芽が出ず、変わりと言うのもおこがましいが、刀術、弓術にはいささかの芽が生えた。父は嘆きながらも武士の子であることは最低限認められたなと肩を叩いたもんだ。
十三に成る頃に、京に上る父の役向きにあわせて一月と少しだが高名な道場に通わせてももらった。
その父も、もういない。
この家も、もう無くなるかもしれない。
「あ、あの、それでお願いなのですが、渡会様、大丈夫でしょうか」
「ん、ああ、もう大丈夫だ、申してみてくれ」
先ほどまで湧き上がっていた怒りを押さえ込むため庭に視線をやり、少し過去を思い出すなどして心を平静に保つ。怒りは刃を鈍らせるとは、京の吉岡先生の言葉だったか。
「父の闘鶏狂いを辞めさせて貰えるのが一番ですけど、それを渡会様にお願いするのは間違いで、本来家族である私の役目、それでお願いなのです、闘鶏自体を何とかするのに協力してほしいのです、方法ももう考えてあります」
そこからふたみは昨晩調べた情報から得た策を披露した。
「三日後、この久居の町に 熊野権現さんの神事がやってきます、闘鶏を神事として祭っています熊野権現さんですから、必ず闘鶏奉納されるでしょう」
熊野権現での闘鶏は、源平の時代、熊野の衆が源氏に味方するか平氏に味方するかを、七番勝負をして決めたのが発祥とされる。白鶏と赤鶏を闘わせた結果、白鶏が勝利、これで源氏の勝利間違いなしとなった逸話だ。
「神事としてなら、まあそれはそれか、殺生まではいたさぬだろうし」
神に勝負事を奉納することは、ほかにも相撲や流鏑馬などさまざまある。神への奉納で、殺生は穢れとして推奨されない。
「神事としての奉納はもちろんなんですが、そこは闘鶏、熊野の大親分である板野親分が大興行主として大きな賭場を開き、全国の親分衆も参加するみたいで、久居の谷垣親分も地元衆として協力するそうです、ですからここで、全国の親分衆の前で、なんとか出来ればと思ったんです」
「それはちょっと無理があるだろう、伊勢屋の子女殿」
頭から否定の言葉を言ってしまって少し後悔するが、ええいここは正直に伝えることこそ、まごころと心を叱咤して言葉を続ける。
「まず、大親分が来るにして、どうやって繋ぎをつける?当たり前だが某にはそんな伝手はないぞ、第二に神事である闘鶏はお上も認めた公式な行事、それは止められぬ、表の神事が止められぬなら、裏も止まらぬが道理、第三に、そもそも止める直接的な方法が見えぬ」
例えば久居の博徒を締め上げて、熊野の大親分がいる旅籠が判った所で、面会出来るのか?博徒の大親分と言えば下手な武士よりも権力のある存在だ。切った張ったで生きている男たちは、もしかしたら今の武士たちより好戦的である。
そんな好戦的な男たちの中、なんとか大親分にたどり着いて、さてそこで何を言えばよいのか。
動物を殺し合わせるなぞ、人の傲慢の証、しかもそれを賭け事として行うなど、間違っている。とでも言えば良いのか?
そんな事を言えば、苦笑いはおろか激しい笑いの大合唱を奏でさせる事になるに違いない。
「しかしっ、渡会様はとりさんがかわいそうじゃないんですか?」
とりさん・・・。
とりさんか・・・。
今までその様に鶏たちを評した事がなかった、だが、とりさんと言うのは何か良い響きだ。
「私はいやです、とりさんが殺しあうのも、それを見て父が賭け事をするのも、そのお金で店が傾くのも、全部いやなんです」
「自分もいやだな、と、そのとりさんが無為に殺されるのは看過できぬ、かと言え、お上に逆らう道も見つからぬ、さても難儀なことよな」
冷静に冷静に。嫌な感情が渦巻くが、少女の願いは当然であるし、助けたいとも思うのだが、方法が見つからぬ。
動物が好きで、私財を使って保護を行ってきた正嗣は、基本世事に疎く、闘鶏も知らないほどの朴念仁だ。動物に向ける愛情は人一倍なのだが、それ以外はからっきしと言える。
にゃ~
二人して四半刻ほど黙り合ってしまう。
正嗣の沈黙は、普段は動物にしか使わない脳を珍しく人の為にも使おうと苦慮している沈黙であり、ふたみのそれは、このおじさんに任せておけば何かしら答えを出してくれる筈と言う期待の沈黙であった。
ふたみにしてみれば、この正嗣という男、聞きしに勝る不思議な男だったが、足元でじゃれる猫や、規則正しく縁側で二列縦隊待機している犬さん達を見ると、こと動物がかかわる事ならば、何かしら良案を生み出してくれる筈と期待できる。だからこそ、少しだけ感情っぽい言い方もしてみた。
元々がそう出来たら良いな、くらいの発想で、今回が上手くいかなくても、まだ時間はあるとふたみは考えているので、実は正嗣に比べると切迫感は薄い。
そんな二人が黙って見詰め合っている。
色気は、もちろんない。部屋の中は陽も落ちかけ、薄暗闇に覆われて、行灯が必要な間となっているが、それでもまったく色気はない。
そんな時、轟音が響いた。
「きゃっ」
落雷のような音。
どこかで聞いたことがあるような気がするが、それでも黙って見詰め合っている時に轟音が響けばびっくりする。
ふたみも其の通りにびっくりして立ち上がろうとしたが、正座が良くなかった。不用意に立ち上がろうとして、体が傾き、痺れた足はその体を支えてはくれず、正嗣へと転がってしまった。
「ぐはっ」
集中していたせいで、そんなふたみの動きに反応できなかった正嗣は、目の前に星を散らせる事になる。
「あっあの、すみません、大丈夫ですか」
自らも頭を強打していたが、体自体は正嗣に受け止められているふたみ。
心配そうな顔をして正嗣の顔を見上げる。
「問題ない、それよりもだ、あの鳴き声は」
痛みでくらっとはしたが、そこは侍のやせ我慢。少女に痛がる顔はみせられぬ。
それに先ほどの鳴き声は裏手の鶏の声だ。普通、このような時分に鳴くことは無い。となれば、何かしらの異常が発生したと考えて間違いないだろう。もしや正之助が仲間でも連れて引き返して来たのか。
「鳴き声・・・なんですか、あの音」
雷の様な轟音を、鳴き声と判断できるのは正嗣と、それを先ほど耳元で聞いてしまった正之助位だろう。遠くには聞いていたふたみだったが、雷鳴の様な轟音から、鶏の鳴き声の連想は出来なかった。
「そうだ、ちょっと裏に行ってくる」
抱きついている状態のふたみを、正嗣なりには優しく押し返し、すばやく立ち上がって走り始める。ふたみのように正座で足が痺れる、なんてことは無い。正座は侍の基本だからこれぐらいではまったく影響が無い。もし影響するというのならば城勤めは出来ない。殿の出座をきっちり正座で待てない者は、当然ながらいないのだから。
「は、はひっ」
情けない声を上げながら、ふたみが後ろ向きに転がるが、正嗣は気にすることなく裏手に走る。
闇の帳が降りてきているとはいえ、勝手知ったる我が家である。小石に躓くことも無くすぐに現場に到着。ぼんやりと闇に浮かぶ三つの影を確認する。
ひとつは鶏。群の長と言って良い見事な鶏冠と、ふたみより大きいんじゃないかという立派で筋肉質な体。威嚇なのか羽を開いたり閉じたりしている。
もうひとつの影は、動物の毛皮を上着にしている、背は小さいががっしりとした男だ。耳に手を当てているので、この男が鶏を鳴かせた原因かもしれない。
最後は白っぽい水干に草臥れた烏帽子姿の男。若干寂れた神社の宮司が似合いそうな風貌で、この辺りではあまり見ない格好だ。
「お主らっ何をしているか!」
そうそう大声を上げることの少ない正嗣であるが、動物がかかわると豹変する。さすがに雷の様な大声ではないが、正嗣なりには精一杯の声だった。
その声に気づいた毛皮の男が、即座に逃げに入る。
大して烏帽子男はゆったりとした動きで毛皮男の前に出る。
「そのように急がなくとも良いではないかの、家主に挨拶もせずでは情けないのではないかな」
「うるせぇいどけやっ」
毛皮男が烏帽子男を押し退けようとするが、その動きに逆らわず合わせた烏帽子男は、すっと毛皮男の足を払った。
「そうそう急がすとも良いと申したではないか、闇夜は足元注意ぞ」
「ぐぬ~」
毛皮男に手を貸して立ち上がせるが、貸した手を離さずに毛皮男が逃げるのを防ぐ烏帽子男。
「なんなんだその方らは、人の家に勝手に入り何をしている、何がしたいのだ」
「これは失礼仕った、麿は細かくは申せないが、京の貧乏公家よ、呼び名ならそうさな、武家に馴染みが合って呼びやすい鷹司殿とでも呼ぶが良いぞ」
公家の一門である鷹司家の中で、かなり前に武士になった公家がいた事を生類憐みの令を調べていた正嗣は知っていた。確か家光公の時代あたりの話だ。この公家はそれに倣って鷹司を名乗ったのだろう。つまり偽名だ。
「公家の方でござったか、某は渡会正嗣と申す、してそっちは」
正嗣の問いかけに答えるそぶりの無い毛皮男に対して、鶏が迫り足に一撃を入れる。
「わっ痛っ、ええいわかったわい、わしは熊野の別当が手下、熊野の伊増だ」
「ふむ、して鷹司殿、伊増とやら、それぞれ何をしにここに来たのだ」
二人は顔を見合わせると、鷹司の方からしゃべり出した。
「麿はこの度、この地にて久方ぶりの闘鶏神事が行われる故、その見聞に来たのじゃ古き時代より闘鶏は朝臣の嗜み、京は最近物騒での、こんな催しはついぞ行われぬ。そこで久居で行われると聞き、これは看過できぬと来たのじゃが、いざ来てみれば何やら若い侍が鶏のあやかしを見たと大騒ぎしておる、誰も相手にはしておらなんだが、麿の家はこれでも古い古い桓武帝の御世では、そちら側の素養もあった由、これも見聞ついでじゃとまかりこしたのよ」
町で騒いでいたのは間違いなく正之助だろう。まさかただの鶏に負けたとは言える筈もなく、相手は鶏の様なあやかしで、それが渡会家に巣食っているとでも言ったのだろう。
「屋敷はあれど、静かな闇、これはこれはと心躍らせて探索したところ、この男が物盗りでもするかのように裏に入っていくのが見え、そしたらこれは見事としか言いようの無い鶏殿に出会っての」
「物盗りじゃねぇ、俺はただ鶏を」
「あわよくば盗もうとしたのであろう?物ではなく鶏攫いとでも言うか」
「ちっ、俺は熊野の別当の手下だぞ、盗みはご法度だ、そうじゃなくこの度天下の大親分が集っての闘鶏の華を捜していたら、妙なうわさを聞きつけて来たって寸法だ、確かにあんたの鶏は凄いな」
つまりは二人とも、正嗣の鶏見物に来たという話か。
自分の鶏が褒められて悪い気のしない正嗣。心底の動物好きである。
この怪しげな二人に対して警戒を解いてしまう。
「なるほど、それでの鶏見物か、では、もう、十分であろう、陽も落ちた、早々に帰ったほうが良いぞ、ここには動物以外は何もないしな」
「あ、あの渡会様」
闇が怖くなったのか、足の痺れが治まったのか、ふたみが裏に出てくる。
「これ、渡会とやら、今はとにかく火が必要じゃ、こやつは麿が面倒見るゆえ、しばし部屋でも貸してたもれ」
公家言葉にびっくりしてふたみが正嗣の裾をぎゅっと握る。昨今の公家の中には脱藩浪人と組んで陰謀めいた活動したり、それでなくとも商い人を同じ人と思わない種類の公家も多い。父から聞いた話で公家とは立場だけの傲慢な決して良い商い相手とは言えない人種と教わっている。
「勝手にきめるんじゃなぇや、俺はとっとと帰って準備に奔走しなけりゃ親分にどやされちまう、大闘鶏はもうすぐなんだからよ」
「そんな忙しい身がここに来ていると言うだけで嘘と判るぞよ伊増とやら、もはや逃げも隠れもできぬ、まずは一息ついて、しっかり話すが筋じゃろうて」
伊増の手をがっしり捕まえたまま、鷹司が正嗣とふたみを置いて屋敷に向かってしまう。あっけに取られる正嗣だったが
「ほれっ渡会氏、とっとと案内せい」
との鷹司の言葉に、なぜかふたみと二人で灯の準備を始めるのであった。
「さて、渡会氏、この度は世話になる、何を申そう麿は今回、旅籠も決めずに飛び出して来ての、もはや町に戻って宿探しともいくまい時、しばしの間、そうさな闘鶏神事が終わるまで此方に逗留したいと思うが如何か?」
えっ公家様が我が家に逗留?
久居の町は小さな町ではないが、言うとおり確かに今から公家様を受け入れる旅籠などは無いだろう。貧乏公家と自分で言い、共も連れずに汚れた水干烏帽子姿とは言え、偽公家とも見えず、官位が低くとも公家様をぞんざいに扱えば後からどんな災いが降ってくるか判らない。そう思って正嗣は取り合えず頭を下げた。
公家に対する礼など知らぬ正嗣である。
とにかく頭を下げればなんとかなるかと思ったのだ。
灯の下で見る鷹司の顔は三十と少し上、正嗣より若干の年上に見える。悪戯好きそうな瞳が印象的で、公家とも思えぬ好奇心旺盛な男に見えた。
「さて、次はそちじゃよ伊増とやら、本心を明かさねば明日にでも番所に麿自身が訴人となって訴えるぞ、そうしたら熊野の大親分にも大変な迷惑がかかろうよ」
涼しい顔をして、目だけは悪戯っぽく話す鷹司。
正嗣もふたみも、だまってその言葉の先にいる伊増を見る。
伊増は声の割には若く見えて、薄い髭が生えてきたばかりの青年に見える。武士で言えば元服してからいいとこ五年と言う所だろう。小さな顔に切れ長の目。白い肌は役者にでもいそうな男で裏家業にいる曲がった感じの少ない男に見える。
「ええい、なら本当を言うぜ、実はよ熊野の別当の手下であるのは間違いねぇが、俺は大親分である板野の親分の直参なんだ、さっきも言ったとおり今回の大闘鶏に全国の親分衆が来るってんで、先触れとして町に入り準備に明け暮れていた矢先、ある騒がしい武士に親分の大事な雅雪丸が傷つけられてよ、もちろん返しは闘鶏の後できっちり入れる、だがよ、問題はそこじゃねぇんだ、板野親分が東西を駆けて勝負する雅雪丸が傷ついた以上、もし負けでもすれば全国の親分衆に恥を晒すことになっちまう、あせって侍をとっちめたら、ここにあやかしと見まごう鶏がいるって話じゃねぇか、とにかく姿だけでも確かめなきゃって事でよ、まぁ来た訳だ」
まったく正之助は何をやっているんだ。博徒の鶏に手を出すなんて。自分だけが傷つくだけじゃなく、家にも迷惑がかかる大事だ。博徒は恥をかかせた相手を、そうは簡単に許さない。あの手この手できっちり落とし前をつけに来るだろう。
「それがしの鶏は確かに、そんじょそこらの鶏に負けるはずも無い最高の鶏だが、伊増とやら、その方の話だと、つまりなんだ、鶏を貸せと言う事か」
自分の鶏が闘鶏に出れば、勝ちは間違いないと正嗣は思っている。無傷で勝ち上がるだろう。しかしそんな賭け事に自らの愛しい鶏を出場させたいとは露ほども思っていない。
人間の都合で動物が殺しあわされるなど、許せぬのだ。
「ほっ、もしそれが出来ればお願いしてぇ、勝ち負けどうこうよりも板野親分の面子を俺は守りてぇんだ、そしたら一家一門、あんたさんの危急の時には必ず駆けつけるからよ、俺の仁義にかけて誓うぜ」
ぐっと上衣をはだけ、おそらくだが博徒にとって大事なのだろう肩に入った竜の彫物を見せる伊増。
それに対して正嗣は、伊増の熱の篭った話し方に座ったままでわずかに後ずさりした。仁義だなんだと陶酔気味に話す伊増が、話しの通じない異人の様に感じられた正嗣。しかし、自分が動物を語る時は同じような物であると言う事に気づいてはいない。
だが、やはり人の問題に動物を巻き込みたくない正嗣である。
「あ、あの伊増さん、でいいんですよね」
「ああ、なんだいお侍さんとこの娘さんかい、今は大人の話だ、小娘が口を挟む場所じゃねぇぞ」
「いえ、わたしは渡会様とは商いの関係で、娘じゃないです、でで、あの」
勇気を振り絞り伊増にしゃべりかけるふたみ。その手はこっそりと正嗣の裾をつかんでいる。
「その形で商いだと、ふうむ良くはわからねぇが、ほんとうの事かいお侍さん」
問われて正嗣、ゆっくりと頷く。
まだ正式に何かを約束したわけではないが、助けてはやりたいと思ったのは事実だ。ならば商いかどうかはさておき、頷くくらいはなんでもない。
「そうかっお侍さんがそうなら、まぁ話位はききまっせお嬢さん」
「ふたみです、伊勢屋のふたみと覚えておいてください、それで伊増さん、もし渡会様が協力したとして、条件をつけるのは当たり前ですよね」
「おう、なんでも言ってみろ」
「でしたら、もし渡会様の鶏が闘鶏で見事に勝てたら、今後久居では賭け事の闘鶏はやらないと約束できますか?」
賭け事の種類は多数あり、それこそ札物から采の目を使ったも物もある。闘鶏は華やかだが、手間もかかり隠れてひっそりと行うのが難しい。神事を隠れ蓑にして行う今回の行事は久しぶりの大闘鶏だ。
そんな事を考えてのふたみの言葉は伊増の首が、横に振られる事によって砕け散る。
「えっなんで?」
「板野親分の闘鶏好きは半端じゃなぇんだ、それを止めさせるなんて事は、俺ぐらいじゃあできねぇ、ほかの条件ならなんとかするんだがなぁ」
「ちょっと待て、伊増、それは少し意味を間違えているぞ、伊勢屋の娘が申しておるのは、賭け事の闘鶏をするなという話だ、神事だろうが私闘だろうが趣味だろうが、その大親分の闘鶏を辞めさせる話ではなかろうよ」
前提として自分の家の鶏が闘鶏に参加することになるのだが、その事に気づかず正嗣は口を挟んだ。ついつい裾を握り閉めてきたふたみを手助けしなければならぬ、と思ったからだ。
「そうさなぁ、俺が勝手に約束できねぇな、だが親分に話しを持っていく事は出来る、あの鶏と一緒に久居の町に下りてきてくれたら直接訴えてみてくれ、それでいいか」
それが妥当なところだろう。博徒と言うのは言葉に誇を持つらしいから、安易に約束をしない。逆にそれが信じられるというものだ。
「いえ、まだです」
またぐっと裾を掴みながら、それでもふたみは顔を上げ伊増に鋭い目を向ける。
「条件は、闘鶏の賭け事の件は、親分さんとの直接交渉、今回の闘鶏で勝った場合に得られる物の半分は渡会様とその鶏の物、今後渡会様の鶏は闘鶏に出ない、闘鶏が終わるまでは渡会様と私の身の安全を保証する事、これぐらいで良いですか度会様」
たて板に水ですらすらと条件を唱えるふたみ。正嗣と伊増は面食らった顔をしていたが、一人鷹司は面白そうな顔をしていた。
「これ伊増、このようないといけな娘が言う条件を満たせば、大親分の顔が立つのであろ、ましてやあの鶏殿であれば勝利は間違いなしでもある、悪い条件ではないと麿は思うがの」
正嗣もふたみが出した条件に異存はない。特に二度と闘鶏には参加しないという条件が正嗣にとっては一番良かった。本当は一度も闘鶏に参加しない、が希望だが、ふたみの手前、もうそれは言い出せない。
「出来るだけはする、今はそれしか言えねぇ、勘弁してくれ」
「博徒が、そのような情けない顔をする物ではないぞよ伊増、それでそちはどうだ渡会氏」
「異存はありませぬ、明日になって親分さんと話せば済む事を承り候、その時は・・・」
ぐっと裾が握られる。
わかっておる。そなたが居たほうが交渉事はうまく良くというのであろう。確かに条件なんて考えてなかったのだから、わかっておるわ。
「この娘、ふたみも同道する、それだけだ」
「あっ、でもでも、あの渡会様、この屋敷の事は・・・・・・」
「ああ、そうか、実はご両者、それがしはこの度、お家取り潰しの沙汰を受けることになる、この屋敷は役宅のため、明日にも押収されるかも知れぬのだ、そうなればこの先どうなるかは読めぬのだ」
「なるほどな渡会氏、その件は一宿の恩として麿が何とかして進ぜよう、さて夜も更けて来た、麿は寝ることといたそう、伊増、娘殿に悪さはするなよ」
「するかいっ、なんて事言いやがるんだこの公家様はっ、明日のこともあるから俺は一回町に降りて、夜中のうちに戻ってくるからよ」
言うとすぱっと立ち上がり、あっとういうまに走っていった。今夜の内に親分に話を通すのであろう。
心の中で、正之助の家族の安全を願う事を忘れていたと思ったが、しかたなしと正嗣は鷹司を今は使っていない寝室に案内した。そこは父が寝起きしていた場所で、唯一きれいと言って良い状態であったからだ。
「そのほうはどうする?もはや一人で帰れとも言えぬが、かといって公家様を一人にも出来ぬ、いかがいたそうか」
屋敷に部屋はまだあるが、掃除などしていないし、犬達が占有している場所もある。ミツキには気に入られている節があるが、それでも犬に囲まれて寝るというのも勧め難い。
「わたしはどこでも大丈夫です、それよりも渡会様、気になる事があるのです」
干してあった着物を取り込みきれいに畳みながらふたみが言う。
「なんだ、なにか残りの問題があったかな」
「その、渡会様はとりさんをなんと呼んでいるのですか?話を聞いていると名がないのかもと思いまして」
実は動物に名をつけるのが正嗣は苦手であった、ミツキの名前は離縁した妻が呼んでいたから名付けているだけで、猫も鶏も名は無い。見れば判るので名は必要ではなかったのだ。
「そうだな、名は無い、なんとなく苦手でな、そなたが良ければどのような名でも構わぬぞ」
「そうですか、ならとりさんは、一番強そうなのが雷鳴丸、中くらいの二羽が天丸、地丸で如何でしょう?」
「雷鳴丸と天丸、地丸か、良いな、そのほうは名づけの特技があるな、名づけに困ったときはその方に頼むかな」
「はいっ」
二
次の日の朝。
布団をふたみに譲り、自らは柱に背中を預けて寝ていた正嗣は、両脇を犬たちに囲まれ暖かさが心地よく、陽が昇っても起きれなかった。
起きたのは猫達が膝に乗って来てぺたぺたと頬を突いたからだ。
「む、むむ」
横にならずに寝たせいで痛む節々を伸ばし、立ち上がる。視線を布団に向けると、そこにふたみの姿はなく、布団は外で干されていた。
これは寝過ごしたか。
客がいるのに寝過ごすとは、と恥ずかしさを覚えて周囲に注意を向けると、誰やらの話し合う声が聞こえる。口調こそ静かではあるが、問答をしているようだ。
表か。
正嗣は手早く、裾など確認し、昨晩ふたみが握り締めたせいで型崩れした場所を見つめて微笑みながら、玄関に向かう。
すると、どうやら外から来た誰かに公家様、鷹司が応対しているようだ。声をかけようとすると、玄関から見えない位置にいたふたみに引っ張られる。
「どうしたのだ」
「おはようございます渡会様、ここは鷹司様にお任せしたほうが無難と思いますので」
小声で言われ、寝起きで鈍っていた脳がやっと動き出す。
この屋敷の件について、鷹司がなんとかすると言っていたあれか。
そうなると相手は藩の役人。
昨日の今日で来たと言う事は、よほど酷い報告を正之助はしたのだろうな。即刻追い出せねば藩の体面たたずとかなんとか。
「ほほう、その方らは、こう申すのかや、この、麿に出て行けと、それが久居藩の意思であると、しっかと相違ないのだな」
やわらかい響きの言葉であるが、しっかりと棘を含めるのはさすがの公家様だ。
「しかし、ここは藩の役宅、本当に公家様であらせられるのであれば本陣でも町の旅籠でもどこでも良いのですから、この場にては藩として大変心苦しゅうございます」
答えているのは、昨日と同じ正之助の上役だ。朝から仕事熱心に来てみれば公家が出てきて困惑していることだろう。
「ほほう本陣とな、麿が昨日町に居た時に何もせぬ本陣に麿を誘うとはの、まったく話にならぬな、麿に話を通したければ佐渡の守殿はもちろん承知おきであろうの」
佐渡の守とは従五位佐渡の守の官位で、久居藩主の官位だ。つまり殿様に許可を受けてから出直せと鷹司は言っているのだ。
「なっ、そのような事ができるとでも思っているのか、大体そのほうは何者だ、見たところただの貧乏な偽公家にも見える、なにか証でもあるというのか」
「ほう、麿を疑うか、鷹司藤原朝臣、従三位なる麿を疑うとはの、これは賢きところに申し上げたほうが良いかもな、久居藩は先ごろ闘鶏の神事を大きく行い、内裏では殊勝な者よとの噂は大きな間違いであったとな」
「じゅっ従三位ですとっ、まさか、そんな語りが通用するとでも、そんな高位の方が供も連れずにこのような場所にいきなり現れるなど信じられるか」
「鷹司の家は麿が言うのもなんだが、ご先祖様は京よりかの家光公に会いに、単独で江戸を訪問するくらい足も腰も軽くての、京と久居ならば指呼の距離であるから、偲んでの神事見物に参った、これ以上問答を続けるのであれば、これは真心で申すが、その方、覚悟が必要ぞ」
いかに武家徳川幕府の世とはいえ、官位のありがたみは厳然として残っている。形骸化しているが、幕府は内裏に対して官位を下して貰えるようにお願いをして、官位を得ている。今回の件で久居藩主の官位剥奪などは無いだろうが、幕府が官位を申請した際に嫌味の一つも出るかもしれない。そうなれば幕府の事だ、久居藩に取り潰しを匂わせつつ、主犯の切腹くらいは言ってくるだろう。
こんな屋敷一つの事でそこまで覚悟するのは難しい。武士は家を残す事が命なのだ。
「しっしかし、証がなくば我々も引けませぬ、なにか証がないのですか」
「仕方ないの、その方らが知っていれば僥倖だが、ほれっこれを見るが良い」
鷹司が何かを懐から出したようだ。証になるものだろう。
「むっ、これは確かに鷹司牡丹紋、申し訳ございませぬ、しかしならば尚一層このような役宅ではなく、本陣に来ていただき馳走させていただきたいと」
「ええい面倒なっ、麿はここに居る、聞けば役宅の主は任を解かれたのだろう、ならば麿がここに居る間の接待役はその者に任せる、麿を疑わなかった男が信用できるのでな、そちも大事にしたら藩主の前で腹切らねばなるまい、ここは穏便にすますが上策ではないかな」
「承知いたしました、それではせめて身の回りの物をご用意して」
「よいっ久居には伊勢屋と申す商い人がおろう、そこに差配させたわ、どうしてもというならばそちと伊勢屋で話すが良い」
ぶるっとふたみの体が震えた。いきなり実家の名前が出たのだから当然だろう。まさかあの貧乏公家にしか見えない鷹司が遥か雲の上の従三位であったなど狐に化かされているとしか思えない。そんな高位の公家が名指しで伊勢屋を指名したとなれば名誉になる。
「見ていたのかや、これで麿は約束を守ったであろ、つぎはそちたちの番ぞ」
正之助の上役を帰した鷹司がしたり顔でやってきた。正嗣は膝たて頭を垂れ、ふたみもその場でぺたりと正座して頭を下げる。
「そのような大仰に感謝など表さずともよいぞ」
「いっいえ、まさか鷹司、様が従三位の公卿殿であらせられたとは露知らず、それほど高貴な身分の方にどう接すればよいのか・・・」
「あっはっはっ、なんじゃなんじゃ、そちらも信じたのか、麿が鷹司家に連なる者である事は真実じゃが、貧乏公家であることも、これまた真実じゃて」
ぽかんとした顔で二人が鷹司を見上げる。さも楽しいものを発見したと言うような鷹司の顔がそこにある。
「麿の鷹司家、藤原北家はこれはもうなんとも親族の多い一族での、五摂家随一の人数がいる一門じゃて、先祖はあまりに多い一族のために武家になり生計を立てるほどじゃ、それだけ数多い一族の中で公卿になれる者は極僅か、麿はその他のほうじゃて、家紋もな鷹司牡丹ではない、これは身の証として借り受けたものよ、家司にも与えられているものじゃ」
鷹司の手には古びた短刀にうっすらと鷹司の家紋が彫られている。知らない者が見れば係累の者ではないかと考えても不思議はない。
「そう、なんですか?」
「そうじゃそうじゃ、だからそちたちにはそのような態度は必要ないぞ、麿はただの貧乏公家、それで良いのじゃ、してふたみや、朝餉はまだかの?」
「はっはい、あの侍たちのせいで少し冷めてしまいましたが準備はできてます」
「そうかそうか、久しぶりの長広舌で腹が減ったわ、楽しみにしておるぞ、はっはっはっ」
たたっ後を追うふたみ、正嗣が寝ている間に朝餉の支度をしたのだろう。知らない家でろくに食材もなかったはずなのに何を作ってくれたのやら。
「おっと、皆の朝餉も用意せねばならんな」
こうして正嗣は動物たちの餌を準備し、なぜか鶏小屋の近くで寝ずの番をしていた伊増と合流、ふたみの作った朝餉を取ることになった。
親分に渡りをつけて戻った伊増であったが、その夜のうちに鷹司とふたみ両名に頼まれて食材や調味料、雑貨等の手配をさせられていたようだ。伊勢屋とこの屋敷を二往復もさせられたと愚痴っている。
どうにも愚痴っているが、この男、その本質は善人であるように見える
世のはみ出し者である事は間違いないのだが、ふたみのような弱い者にはやさしく接しているように見える。
「それで旦那、昨日の話ですが親分に渡りがつきやした、朝餉の後に久居の八幡宮で会うとのことでさ、鶏とあの娘っこと一緒にお願いしやすぜ」
伊増の話で、朝餉の後に雷鳴丸を籠に、人が入れる大きさの藤籠に入れて背負い、ふたみと楽しそうに当然な顔をしてついて来る鷹司と共に八幡宮まで行くことになった。
久居の八幡宮は、元は藩内の小戸木村に鎮座していたが、後年に本陣の丑寅の方角に鬼門除けとして移築された古い神社であり、藩主を始め近隣住民からも厚い信仰のある神社である。今回の発起人である熊野の板野親分が、闘鶏神事をこの場所で行うように手配したのだろう。
鳥居をくぐれば、左右には樹木が立ち並び砂利が敷き詰められている参道。その神域は厳かでこの神社の権勢が判ると言うものだ。闘鶏神事を明日に控えて、様々な人が忙しく動いているのが見える。
「にぎやかであるの~祇園の祭りには及ばぬが、これも味があって良い良い」
左右を忙しく見ながら、目が回りはしないのかと思えるはしゃぎようの鷹司。たいして大親分に会うことに緊張してやや青ざめている伊増。背中の雷鳴丸は眠っているのか静かにしている。
人が多いので逸れないようにふたみの手を握っていた正嗣は、不意にその手が離されて違和感を感じた。それまで素直に手を握られていたふたみが、いきなり手を乱暴に離したからだ。
「ん、どうした?」
「えっいや、あの」
明瞭でないもの言いにいぶかしむ正嗣だったが、答えはすぐに判った。正嗣も見慣れていた男がこちらに歩いてくるからだ。
「渡会はん、色々話は聞いてまっせ、なんやごちゃごちゃとややこしい事になってるいうて、もしや渡会はん、そこにうちの娘を巻き込んだりはしてへんやろね、いくら渡会はんかて、うちの娘にいけんことは許しゃしませんへんで」
先日会った時よりやつれている様に見える伊勢屋藤兵衛。しかし娘の事だからだろう口調は強いものだった。
「お父さん、渡会様に何てこと言うの、私は渡会様と商いをしているの、商い人の娘が商いをするのに文句なんか言わないで」
ふいっと走っていってしまうふたみ。伊勢屋藤兵衛とふたみ親子を交互に見ると、伊増が追って行った。やはりあやつは良いやつだ。
正嗣は背中の雷鳴丸の事もあり、いきなり走り出して追いかけるわけにいかなかった。
「伊勢屋さん、某が子女殿に面倒をかけているは真実かもしれぬ、だが決して悪の道ではなく、どちらかといえば考の道でもあるのだ、この正嗣が全力で決して危ない目には合わせぬと誓う、今回の闘鶏が終われば子女殿も話してくれよう」
「そんな事言うて渡会はん、博徒が絡んでいるんやないですか」
明日行われる闘鶏神事の場所に現れたのだ。裏で仕切っている博徒の存在も伊勢屋藤兵衛ならば知っても居よう。加えて正之助がばら撒いた噂も耳に入っているに違いないし、昨晩は家にも帰らなかった。心配しない親がいれば、それは親ではない。
「まぁまぁ伊勢屋とやら、ここは麿も請け負うゆえ、少しこの男に時間をかしてやってたも、鷹司の顔も立てての」
すっと横から伊勢屋籐兵衛と正嗣の間に入る鷹司。あっけにとられた顔の藤兵衛の耳元になにやら囁く。
「これはっ、申し訳ありませぬ、そっそれではここで鷹司様にお願い致します」
深く一礼すると、そそくさと伊勢屋藤兵衛は去って行った。
「何を言ったのですか鷹司殿」
「何、先ほどと同じことよ、でまかせではない範囲で麿の家を説明しただけである、すでに昨晩には伊増を先触れに申し込んでもいたからの」
そういえば食材だの何だのの手配は伊勢屋にて手配済みとか言っていた。さらにその掛かりは藩にて払わせる様、匂わせていた。自らの懐を痛めず恩を売る。公家の本領発揮だった。
「恐ろしいことですな、某など思いもよらぬ事です」
正嗣、素直な気持ちであった。
「はっはっはっ、公家は総出で数百年前から同じ事をしておるのよ、麿らが生き残る道はこれしかないでの、それよりもこれからはおぬしの手腕をみせてもらうつもりよ、まずは、ほれ、あの娘の事もな」
笑いながら鷹司が指差す先には、伊増に引き止められているふたみがいた。ふたみだけではどこにもいけないのをふたみ自身わかっているのだろう。
「そうですな、ではしばし御免」
背中の雷鳴丸を揺らさないように慎重に、でもできるだけの早足でふたみの前にたどり着く
「ふたみ、安心せよそなたが思い行う事を某が協力し、身の安全は守る、だから気にするなよふたみ」
「えっ、あっありがとうございます、どちらかと言いますと私の家族が渡会様にあのような無礼な物言いで迫ったのが、少し、いいえ、かなり気に入りませんで、私がもっと認められていれば、あのようの事にはなりませんでしたのに」
「よいよ、ふたみはまだ若いのだ、これからもっともっと誰からも認められる存在になるだろう、既に大の男が三人もふたみを認めておるのだからな」
「はいっ、今後はお父さんに変なことを言わせません、この商いは必ず成功させましょうね渡会様」
笑顔だった。鋭い目だけはいつも通りだが、それでも年相応の笑顔だった。
これは今まで無理をさせていたなと気づく正嗣であった。
三
周りを歩く人間の人相が、どんどんと悪くなってきた。
交わされる言葉も博徒らしく、威勢の良いものばかりで、ここにふたみを連れて来て良かったのかと思う正嗣だったが、彼女は正嗣が勝手に話をつけてきたら、それはそれで落ち込むことだろう。
危険なことがあれば、守れば良いだけの事。気合をいれて正嗣は伊増の案内に従い進む。
神殿社の左奥に簡易な小屋が幾つも作られており、門番のように屈強な男たちが長脇差を腰に差して近づくこちらを睨み付けている。
案内役の伊増の背中が緊張しているのがわかる。隣をみれば相変わらず飄々と左右を物珍しげに見ている鷹司。
背後に守る形でいたふたみは、いつかのように正嗣の裾を掴んでいる。
「なんでぃ手前ら、堅気さんはこっちには来ちゃいけねぇな、回れ右して道を戻りな」
大きい声ではないが、迫力のある低い声だ。声自体が圧を持っているかのように寸刻、伊増の動きが止まる。だが大きく息を吸った伊増がしゃべり始める。
「親分には話を通してあるよ忠助兄貴、お客人が来たと言ってもらえねぇかな」
「ふんっ伊増か、てめえがどう落とし前をつけるか皆が注目しているからな、逃げずに来た事は褒めてやるよ」
顎で進めと合図してくる。じろじろとこちらを見てくるが正嗣は気にしても仕方ないと、背中の雷鳴丸に振動を与えないようにゆっくりと進む。
小屋の中はそれほど広くもなく四畳もあるかという所。戸の無い入り口から一畳分は土間になっており、奥に硬そうな箱が幾つも積みあがり、その前に小柄な男が半被を着て座っている。
「すみませんなお武家さん、うちの若い者が迷惑をかけたねぇ、わざわざうち等博徒の為にこんな場所に来てくださって、それになんやお公家さんもいるんかい、こりゃここでは失礼だったかね」
「麿は気にせぬぞ、話はこの渡会氏と娘がするよって、まぁ気にせんでな」
「ふむ、なら格式だなんだは外にほうっておこうかね、それでお武家さんの話とはなんですかな」
あくまで礼儀正しい話し方だが、底にある響きはこちらを威圧してくる。下手なことを言えば、あっという間に叩き出されそうだ。
「某が渡会正嗣です、忙しい時に会ってくださり感謝いたします、今回、闘鶏神事、それに全国の親分衆が参加される大闘鶏会について、某から提案があるのだ、聞けば西の闘鶏代表の鶏が傷ついているとの事」
「それで、お武家さんが何かしてくれるというのかい」
口調は変わらなかったが、一瞬伊増を睨み付ける親分。余計なことを外に漏らして恥さらすな、という事だろう。
「それでな、物は試しで某の雷鳴丸で勝負しないかという話だ、雷鳴丸は、今はほれこのとおり背中にいるのだ」
「なるほど、噂の鶏殿は雷鳴丸と言うのか、あやかしと間違われる位に強いんだろう、座興のひとつで参加してもらえれば盛り上がるがね、東の横綱に挑むには、失礼な言い方かもしれんが、まぁ信用できないな、勝ち負けで全てが決まる博徒の世界に簡単に首突っ込むと痛い目見るぜ、お、ぶ、け、さ、ん」
それはそうだ。親分の言う事に間違いは無い。いきなり現れた見ず知らずの相手を信用するほど馬鹿な話も無い。賭け事で生きる博徒ならばなおさらだ。
「な、なら、試してみればいいです、雷鳴丸は、雷鳴丸は人よりも強いんです、だから同じ鶏であれば負けないです」
「なんでい嬢ちゃん、大人の話に割り込むたぁ行儀がよくねぇな、それに試せだと、言ってる言葉の意味がわかっているかい」
声にならない喉の音が正嗣にも聞こえた。裾がつよく握られるのが分かる。すっと正嗣はふたみの背中に手を添えた。ここに自分がいるから好きに言えば良いと。
「あっはいっ、そうです、もしこちらの強いとりさんと勝負すれば雷鳴丸の強さがわかると思います、そしたら、えっと、あの、おじさんにも渡会様の助けが必要って分かるはずです」
「ふうむ・・・」
親分は手を口元にあて考え始める。損得で言えば試すことには無理が無い。試して無駄なら仕方なし、もし雷鳴丸が勝てば明日の東との闘鶏で面子が守られる。
「なぁ試しとはいえ嬢ちゃんよ、博徒に勝負を仕掛けるんだ、そっちは何を賭けるんだい、まさか賭ける物も無しって話じゃねぇよな」
親分の話し方が変わった事に正嗣は気づいた。ここでふたみが引けば無かったことにしてやろうと言う優しさが感じられる。子供の戯言ならばこれでしまいにしてやろうと
「え、えっと、あの、賭ける物は」
ふたみが出せる物などでは親分を納得させられ無いだろう、それは伊増も、鷹司も同様だ。正嗣は考える。ここで何も言わなければ話は流れ、ふたみとの商いは失敗し、朱桜の槍は戻らず、ふたみの父親も、引いては伊勢屋も没落への道へと落ちてしまう。朱桜の槍は諦めもつくが、ふたみの父親である伊勢屋の事は諦めるわけには行かない。自身が浪人でふたみが没落した商い人の娘では、どちらも野垂れ死にだ。
「賭ける物については、これでどうであろうか親分さん」
すっと腰に挿した刀、細刃波紋嵯峨之桜を親分の前に差し出す。親分はそれを丁重に受け取り、刃紋と拵えを確認すると正嗣に返してくる。
「足りぬか?」
「いや滅相も無い、こんな業物久しぶりに見たよ、これを賭けるとなればこちらの方が都合が良すぎだね、そうだな、何かお武家さんが何か追加はないかい」
「追加か、そうだな、もし雷鳴丸が勝ったら、今回のそちらの被害、無かった事にはならんかな」
錯乱して鶏に斬りかかった正之助の件は、少しだけ気にかかっていた。
闘鶏神事が終わったら、家族を巻き込んで大変な落とし前をつけさせられるのだろう。元はと言えば正嗣の鶏、雷鳴丸が原因といえば原因。本人もしっかり雷鳴丸にやられている、その上で家族も巻き込むとなれば寝覚めも良くない。
「ほうかい、奇特なお武家さんだね、わかった、おい伊増、奇岩丸を連れてこけら落としだ、準備しな」
「へいっ」
そうして試しとしての闘鶏が行われることになった。
うす雲たなびく空を朱に染めて、空に輝いていた大輪の陽が空の支配権を黒に譲ろうとしていた。肌寒く乾燥している風に淡い色合いの着物、真っ白な肌着が揺れている。
渡会の家で女物の着物が干されるのは何時以来であったろうか。
離縁した妻が洗濯していただろうが、ついぞ気にした事がなかった正嗣の記憶には無い。
妻がいて父が健在であった頃は、ただ動物の事を考え、はるか過去に生類哀れみの令を出した公方様の研究に明け暮れるか、父の手前仕方なく武芸を磨くばかりで奥向きの事は考えてもいなかった。
武芸では父が熱望する槍はまったく芽が出ず、変わりと言うのもおこがましいが、刀術、弓術にはいささかの芽が生えた。父は嘆きながらも武士の子であることは最低限認められたなと肩を叩いたもんだ。
十三に成る頃に、京に上る父の役向きにあわせて一月と少しだが高名な道場に通わせてももらった。
その父も、もういない。
この家も、もう無くなるかもしれない。
「あ、あの、それでお願いなのですが、渡会様、大丈夫でしょうか」
「ん、ああ、もう大丈夫だ、申してみてくれ」
先ほどまで湧き上がっていた怒りを押さえ込むため庭に視線をやり、少し過去を思い出すなどして心を平静に保つ。怒りは刃を鈍らせるとは、京の吉岡先生の言葉だったか。
「父の闘鶏狂いを辞めさせて貰えるのが一番ですけど、それを渡会様にお願いするのは間違いで、本来家族である私の役目、それでお願いなのです、闘鶏自体を何とかするのに協力してほしいのです、方法ももう考えてあります」
そこからふたみは昨晩調べた情報から得た策を披露した。
「三日後、この久居の町に 熊野権現さんの神事がやってきます、闘鶏を神事として祭っています熊野権現さんですから、必ず闘鶏奉納されるでしょう」
熊野権現での闘鶏は、源平の時代、熊野の衆が源氏に味方するか平氏に味方するかを、七番勝負をして決めたのが発祥とされる。白鶏と赤鶏を闘わせた結果、白鶏が勝利、これで源氏の勝利間違いなしとなった逸話だ。
「神事としてなら、まあそれはそれか、殺生まではいたさぬだろうし」
神に勝負事を奉納することは、ほかにも相撲や流鏑馬などさまざまある。神への奉納で、殺生は穢れとして推奨されない。
「神事としての奉納はもちろんなんですが、そこは闘鶏、熊野の大親分である板野親分が大興行主として大きな賭場を開き、全国の親分衆も参加するみたいで、久居の谷垣親分も地元衆として協力するそうです、ですからここで、全国の親分衆の前で、なんとか出来ればと思ったんです」
「それはちょっと無理があるだろう、伊勢屋の子女殿」
頭から否定の言葉を言ってしまって少し後悔するが、ええいここは正直に伝えることこそ、まごころと心を叱咤して言葉を続ける。
「まず、大親分が来るにして、どうやって繋ぎをつける?当たり前だが某にはそんな伝手はないぞ、第二に神事である闘鶏はお上も認めた公式な行事、それは止められぬ、表の神事が止められぬなら、裏も止まらぬが道理、第三に、そもそも止める直接的な方法が見えぬ」
例えば久居の博徒を締め上げて、熊野の大親分がいる旅籠が判った所で、面会出来るのか?博徒の大親分と言えば下手な武士よりも権力のある存在だ。切った張ったで生きている男たちは、もしかしたら今の武士たちより好戦的である。
そんな好戦的な男たちの中、なんとか大親分にたどり着いて、さてそこで何を言えばよいのか。
動物を殺し合わせるなぞ、人の傲慢の証、しかもそれを賭け事として行うなど、間違っている。とでも言えば良いのか?
そんな事を言えば、苦笑いはおろか激しい笑いの大合唱を奏でさせる事になるに違いない。
「しかしっ、渡会様はとりさんがかわいそうじゃないんですか?」
とりさん・・・。
とりさんか・・・。
今までその様に鶏たちを評した事がなかった、だが、とりさんと言うのは何か良い響きだ。
「私はいやです、とりさんが殺しあうのも、それを見て父が賭け事をするのも、そのお金で店が傾くのも、全部いやなんです」
「自分もいやだな、と、そのとりさんが無為に殺されるのは看過できぬ、かと言え、お上に逆らう道も見つからぬ、さても難儀なことよな」
冷静に冷静に。嫌な感情が渦巻くが、少女の願いは当然であるし、助けたいとも思うのだが、方法が見つからぬ。
動物が好きで、私財を使って保護を行ってきた正嗣は、基本世事に疎く、闘鶏も知らないほどの朴念仁だ。動物に向ける愛情は人一倍なのだが、それ以外はからっきしと言える。
にゃ~
二人して四半刻ほど黙り合ってしまう。
正嗣の沈黙は、普段は動物にしか使わない脳を珍しく人の為にも使おうと苦慮している沈黙であり、ふたみのそれは、このおじさんに任せておけば何かしら答えを出してくれる筈と言う期待の沈黙であった。
ふたみにしてみれば、この正嗣という男、聞きしに勝る不思議な男だったが、足元でじゃれる猫や、規則正しく縁側で二列縦隊待機している犬さん達を見ると、こと動物がかかわる事ならば、何かしら良案を生み出してくれる筈と期待できる。だからこそ、少しだけ感情っぽい言い方もしてみた。
元々がそう出来たら良いな、くらいの発想で、今回が上手くいかなくても、まだ時間はあるとふたみは考えているので、実は正嗣に比べると切迫感は薄い。
そんな二人が黙って見詰め合っている。
色気は、もちろんない。部屋の中は陽も落ちかけ、薄暗闇に覆われて、行灯が必要な間となっているが、それでもまったく色気はない。
そんな時、轟音が響いた。
「きゃっ」
落雷のような音。
どこかで聞いたことがあるような気がするが、それでも黙って見詰め合っている時に轟音が響けばびっくりする。
ふたみも其の通りにびっくりして立ち上がろうとしたが、正座が良くなかった。不用意に立ち上がろうとして、体が傾き、痺れた足はその体を支えてはくれず、正嗣へと転がってしまった。
「ぐはっ」
集中していたせいで、そんなふたみの動きに反応できなかった正嗣は、目の前に星を散らせる事になる。
「あっあの、すみません、大丈夫ですか」
自らも頭を強打していたが、体自体は正嗣に受け止められているふたみ。
心配そうな顔をして正嗣の顔を見上げる。
「問題ない、それよりもだ、あの鳴き声は」
痛みでくらっとはしたが、そこは侍のやせ我慢。少女に痛がる顔はみせられぬ。
それに先ほどの鳴き声は裏手の鶏の声だ。普通、このような時分に鳴くことは無い。となれば、何かしらの異常が発生したと考えて間違いないだろう。もしや正之助が仲間でも連れて引き返して来たのか。
「鳴き声・・・なんですか、あの音」
雷の様な轟音を、鳴き声と判断できるのは正嗣と、それを先ほど耳元で聞いてしまった正之助位だろう。遠くには聞いていたふたみだったが、雷鳴の様な轟音から、鶏の鳴き声の連想は出来なかった。
「そうだ、ちょっと裏に行ってくる」
抱きついている状態のふたみを、正嗣なりには優しく押し返し、すばやく立ち上がって走り始める。ふたみのように正座で足が痺れる、なんてことは無い。正座は侍の基本だからこれぐらいではまったく影響が無い。もし影響するというのならば城勤めは出来ない。殿の出座をきっちり正座で待てない者は、当然ながらいないのだから。
「は、はひっ」
情けない声を上げながら、ふたみが後ろ向きに転がるが、正嗣は気にすることなく裏手に走る。
闇の帳が降りてきているとはいえ、勝手知ったる我が家である。小石に躓くことも無くすぐに現場に到着。ぼんやりと闇に浮かぶ三つの影を確認する。
ひとつは鶏。群の長と言って良い見事な鶏冠と、ふたみより大きいんじゃないかという立派で筋肉質な体。威嚇なのか羽を開いたり閉じたりしている。
もうひとつの影は、動物の毛皮を上着にしている、背は小さいががっしりとした男だ。耳に手を当てているので、この男が鶏を鳴かせた原因かもしれない。
最後は白っぽい水干に草臥れた烏帽子姿の男。若干寂れた神社の宮司が似合いそうな風貌で、この辺りではあまり見ない格好だ。
「お主らっ何をしているか!」
そうそう大声を上げることの少ない正嗣であるが、動物がかかわると豹変する。さすがに雷の様な大声ではないが、正嗣なりには精一杯の声だった。
その声に気づいた毛皮の男が、即座に逃げに入る。
大して烏帽子男はゆったりとした動きで毛皮男の前に出る。
「そのように急がなくとも良いではないかの、家主に挨拶もせずでは情けないのではないかな」
「うるせぇいどけやっ」
毛皮男が烏帽子男を押し退けようとするが、その動きに逆らわず合わせた烏帽子男は、すっと毛皮男の足を払った。
「そうそう急がすとも良いと申したではないか、闇夜は足元注意ぞ」
「ぐぬ~」
毛皮男に手を貸して立ち上がせるが、貸した手を離さずに毛皮男が逃げるのを防ぐ烏帽子男。
「なんなんだその方らは、人の家に勝手に入り何をしている、何がしたいのだ」
「これは失礼仕った、麿は細かくは申せないが、京の貧乏公家よ、呼び名ならそうさな、武家に馴染みが合って呼びやすい鷹司殿とでも呼ぶが良いぞ」
公家の一門である鷹司家の中で、かなり前に武士になった公家がいた事を生類憐みの令を調べていた正嗣は知っていた。確か家光公の時代あたりの話だ。この公家はそれに倣って鷹司を名乗ったのだろう。つまり偽名だ。
「公家の方でござったか、某は渡会正嗣と申す、してそっちは」
正嗣の問いかけに答えるそぶりの無い毛皮男に対して、鶏が迫り足に一撃を入れる。
「わっ痛っ、ええいわかったわい、わしは熊野の別当が手下、熊野の伊増だ」
「ふむ、して鷹司殿、伊増とやら、それぞれ何をしにここに来たのだ」
二人は顔を見合わせると、鷹司の方からしゃべり出した。
「麿はこの度、この地にて久方ぶりの闘鶏神事が行われる故、その見聞に来たのじゃ古き時代より闘鶏は朝臣の嗜み、京は最近物騒での、こんな催しはついぞ行われぬ。そこで久居で行われると聞き、これは看過できぬと来たのじゃが、いざ来てみれば何やら若い侍が鶏のあやかしを見たと大騒ぎしておる、誰も相手にはしておらなんだが、麿の家はこれでも古い古い桓武帝の御世では、そちら側の素養もあった由、これも見聞ついでじゃとまかりこしたのよ」
町で騒いでいたのは間違いなく正之助だろう。まさかただの鶏に負けたとは言える筈もなく、相手は鶏の様なあやかしで、それが渡会家に巣食っているとでも言ったのだろう。
「屋敷はあれど、静かな闇、これはこれはと心躍らせて探索したところ、この男が物盗りでもするかのように裏に入っていくのが見え、そしたらこれは見事としか言いようの無い鶏殿に出会っての」
「物盗りじゃねぇ、俺はただ鶏を」
「あわよくば盗もうとしたのであろう?物ではなく鶏攫いとでも言うか」
「ちっ、俺は熊野の別当の手下だぞ、盗みはご法度だ、そうじゃなくこの度天下の大親分が集っての闘鶏の華を捜していたら、妙なうわさを聞きつけて来たって寸法だ、確かにあんたの鶏は凄いな」
つまりは二人とも、正嗣の鶏見物に来たという話か。
自分の鶏が褒められて悪い気のしない正嗣。心底の動物好きである。
この怪しげな二人に対して警戒を解いてしまう。
「なるほど、それでの鶏見物か、では、もう、十分であろう、陽も落ちた、早々に帰ったほうが良いぞ、ここには動物以外は何もないしな」
「あ、あの渡会様」
闇が怖くなったのか、足の痺れが治まったのか、ふたみが裏に出てくる。
「これ、渡会とやら、今はとにかく火が必要じゃ、こやつは麿が面倒見るゆえ、しばし部屋でも貸してたもれ」
公家言葉にびっくりしてふたみが正嗣の裾をぎゅっと握る。昨今の公家の中には脱藩浪人と組んで陰謀めいた活動したり、それでなくとも商い人を同じ人と思わない種類の公家も多い。父から聞いた話で公家とは立場だけの傲慢な決して良い商い相手とは言えない人種と教わっている。
「勝手にきめるんじゃなぇや、俺はとっとと帰って準備に奔走しなけりゃ親分にどやされちまう、大闘鶏はもうすぐなんだからよ」
「そんな忙しい身がここに来ていると言うだけで嘘と判るぞよ伊増とやら、もはや逃げも隠れもできぬ、まずは一息ついて、しっかり話すが筋じゃろうて」
伊増の手をがっしり捕まえたまま、鷹司が正嗣とふたみを置いて屋敷に向かってしまう。あっけに取られる正嗣だったが
「ほれっ渡会氏、とっとと案内せい」
との鷹司の言葉に、なぜかふたみと二人で灯の準備を始めるのであった。
「さて、渡会氏、この度は世話になる、何を申そう麿は今回、旅籠も決めずに飛び出して来ての、もはや町に戻って宿探しともいくまい時、しばしの間、そうさな闘鶏神事が終わるまで此方に逗留したいと思うが如何か?」
えっ公家様が我が家に逗留?
久居の町は小さな町ではないが、言うとおり確かに今から公家様を受け入れる旅籠などは無いだろう。貧乏公家と自分で言い、共も連れずに汚れた水干烏帽子姿とは言え、偽公家とも見えず、官位が低くとも公家様をぞんざいに扱えば後からどんな災いが降ってくるか判らない。そう思って正嗣は取り合えず頭を下げた。
公家に対する礼など知らぬ正嗣である。
とにかく頭を下げればなんとかなるかと思ったのだ。
灯の下で見る鷹司の顔は三十と少し上、正嗣より若干の年上に見える。悪戯好きそうな瞳が印象的で、公家とも思えぬ好奇心旺盛な男に見えた。
「さて、次はそちじゃよ伊増とやら、本心を明かさねば明日にでも番所に麿自身が訴人となって訴えるぞ、そうしたら熊野の大親分にも大変な迷惑がかかろうよ」
涼しい顔をして、目だけは悪戯っぽく話す鷹司。
正嗣もふたみも、だまってその言葉の先にいる伊増を見る。
伊増は声の割には若く見えて、薄い髭が生えてきたばかりの青年に見える。武士で言えば元服してからいいとこ五年と言う所だろう。小さな顔に切れ長の目。白い肌は役者にでもいそうな男で裏家業にいる曲がった感じの少ない男に見える。
「ええい、なら本当を言うぜ、実はよ熊野の別当の手下であるのは間違いねぇが、俺は大親分である板野の親分の直参なんだ、さっきも言ったとおり今回の大闘鶏に全国の親分衆が来るってんで、先触れとして町に入り準備に明け暮れていた矢先、ある騒がしい武士に親分の大事な雅雪丸が傷つけられてよ、もちろん返しは闘鶏の後できっちり入れる、だがよ、問題はそこじゃねぇんだ、板野親分が東西を駆けて勝負する雅雪丸が傷ついた以上、もし負けでもすれば全国の親分衆に恥を晒すことになっちまう、あせって侍をとっちめたら、ここにあやかしと見まごう鶏がいるって話じゃねぇか、とにかく姿だけでも確かめなきゃって事でよ、まぁ来た訳だ」
まったく正之助は何をやっているんだ。博徒の鶏に手を出すなんて。自分だけが傷つくだけじゃなく、家にも迷惑がかかる大事だ。博徒は恥をかかせた相手を、そうは簡単に許さない。あの手この手できっちり落とし前をつけに来るだろう。
「それがしの鶏は確かに、そんじょそこらの鶏に負けるはずも無い最高の鶏だが、伊増とやら、その方の話だと、つまりなんだ、鶏を貸せと言う事か」
自分の鶏が闘鶏に出れば、勝ちは間違いないと正嗣は思っている。無傷で勝ち上がるだろう。しかしそんな賭け事に自らの愛しい鶏を出場させたいとは露ほども思っていない。
人間の都合で動物が殺しあわされるなど、許せぬのだ。
「ほっ、もしそれが出来ればお願いしてぇ、勝ち負けどうこうよりも板野親分の面子を俺は守りてぇんだ、そしたら一家一門、あんたさんの危急の時には必ず駆けつけるからよ、俺の仁義にかけて誓うぜ」
ぐっと上衣をはだけ、おそらくだが博徒にとって大事なのだろう肩に入った竜の彫物を見せる伊増。
それに対して正嗣は、伊増の熱の篭った話し方に座ったままでわずかに後ずさりした。仁義だなんだと陶酔気味に話す伊増が、話しの通じない異人の様に感じられた正嗣。しかし、自分が動物を語る時は同じような物であると言う事に気づいてはいない。
だが、やはり人の問題に動物を巻き込みたくない正嗣である。
「あ、あの伊増さん、でいいんですよね」
「ああ、なんだいお侍さんとこの娘さんかい、今は大人の話だ、小娘が口を挟む場所じゃねぇぞ」
「いえ、わたしは渡会様とは商いの関係で、娘じゃないです、でで、あの」
勇気を振り絞り伊増にしゃべりかけるふたみ。その手はこっそりと正嗣の裾をつかんでいる。
「その形で商いだと、ふうむ良くはわからねぇが、ほんとうの事かいお侍さん」
問われて正嗣、ゆっくりと頷く。
まだ正式に何かを約束したわけではないが、助けてはやりたいと思ったのは事実だ。ならば商いかどうかはさておき、頷くくらいはなんでもない。
「そうかっお侍さんがそうなら、まぁ話位はききまっせお嬢さん」
「ふたみです、伊勢屋のふたみと覚えておいてください、それで伊増さん、もし渡会様が協力したとして、条件をつけるのは当たり前ですよね」
「おう、なんでも言ってみろ」
「でしたら、もし渡会様の鶏が闘鶏で見事に勝てたら、今後久居では賭け事の闘鶏はやらないと約束できますか?」
賭け事の種類は多数あり、それこそ札物から采の目を使ったも物もある。闘鶏は華やかだが、手間もかかり隠れてひっそりと行うのが難しい。神事を隠れ蓑にして行う今回の行事は久しぶりの大闘鶏だ。
そんな事を考えてのふたみの言葉は伊増の首が、横に振られる事によって砕け散る。
「えっなんで?」
「板野親分の闘鶏好きは半端じゃなぇんだ、それを止めさせるなんて事は、俺ぐらいじゃあできねぇ、ほかの条件ならなんとかするんだがなぁ」
「ちょっと待て、伊増、それは少し意味を間違えているぞ、伊勢屋の娘が申しておるのは、賭け事の闘鶏をするなという話だ、神事だろうが私闘だろうが趣味だろうが、その大親分の闘鶏を辞めさせる話ではなかろうよ」
前提として自分の家の鶏が闘鶏に参加することになるのだが、その事に気づかず正嗣は口を挟んだ。ついつい裾を握り閉めてきたふたみを手助けしなければならぬ、と思ったからだ。
「そうさなぁ、俺が勝手に約束できねぇな、だが親分に話しを持っていく事は出来る、あの鶏と一緒に久居の町に下りてきてくれたら直接訴えてみてくれ、それでいいか」
それが妥当なところだろう。博徒と言うのは言葉に誇を持つらしいから、安易に約束をしない。逆にそれが信じられるというものだ。
「いえ、まだです」
またぐっと裾を掴みながら、それでもふたみは顔を上げ伊増に鋭い目を向ける。
「条件は、闘鶏の賭け事の件は、親分さんとの直接交渉、今回の闘鶏で勝った場合に得られる物の半分は渡会様とその鶏の物、今後渡会様の鶏は闘鶏に出ない、闘鶏が終わるまでは渡会様と私の身の安全を保証する事、これぐらいで良いですか度会様」
たて板に水ですらすらと条件を唱えるふたみ。正嗣と伊増は面食らった顔をしていたが、一人鷹司は面白そうな顔をしていた。
「これ伊増、このようないといけな娘が言う条件を満たせば、大親分の顔が立つのであろ、ましてやあの鶏殿であれば勝利は間違いなしでもある、悪い条件ではないと麿は思うがの」
正嗣もふたみが出した条件に異存はない。特に二度と闘鶏には参加しないという条件が正嗣にとっては一番良かった。本当は一度も闘鶏に参加しない、が希望だが、ふたみの手前、もうそれは言い出せない。
「出来るだけはする、今はそれしか言えねぇ、勘弁してくれ」
「博徒が、そのような情けない顔をする物ではないぞよ伊増、それでそちはどうだ渡会氏」
「異存はありませぬ、明日になって親分さんと話せば済む事を承り候、その時は・・・」
ぐっと裾が握られる。
わかっておる。そなたが居たほうが交渉事はうまく良くというのであろう。確かに条件なんて考えてなかったのだから、わかっておるわ。
「この娘、ふたみも同道する、それだけだ」
「あっ、でもでも、あの渡会様、この屋敷の事は・・・・・・」
「ああ、そうか、実はご両者、それがしはこの度、お家取り潰しの沙汰を受けることになる、この屋敷は役宅のため、明日にも押収されるかも知れぬのだ、そうなればこの先どうなるかは読めぬのだ」
「なるほどな渡会氏、その件は一宿の恩として麿が何とかして進ぜよう、さて夜も更けて来た、麿は寝ることといたそう、伊増、娘殿に悪さはするなよ」
「するかいっ、なんて事言いやがるんだこの公家様はっ、明日のこともあるから俺は一回町に降りて、夜中のうちに戻ってくるからよ」
言うとすぱっと立ち上がり、あっとういうまに走っていった。今夜の内に親分に話を通すのであろう。
心の中で、正之助の家族の安全を願う事を忘れていたと思ったが、しかたなしと正嗣は鷹司を今は使っていない寝室に案内した。そこは父が寝起きしていた場所で、唯一きれいと言って良い状態であったからだ。
「そのほうはどうする?もはや一人で帰れとも言えぬが、かといって公家様を一人にも出来ぬ、いかがいたそうか」
屋敷に部屋はまだあるが、掃除などしていないし、犬達が占有している場所もある。ミツキには気に入られている節があるが、それでも犬に囲まれて寝るというのも勧め難い。
「わたしはどこでも大丈夫です、それよりも渡会様、気になる事があるのです」
干してあった着物を取り込みきれいに畳みながらふたみが言う。
「なんだ、なにか残りの問題があったかな」
「その、渡会様はとりさんをなんと呼んでいるのですか?話を聞いていると名がないのかもと思いまして」
実は動物に名をつけるのが正嗣は苦手であった、ミツキの名前は離縁した妻が呼んでいたから名付けているだけで、猫も鶏も名は無い。見れば判るので名は必要ではなかったのだ。
「そうだな、名は無い、なんとなく苦手でな、そなたが良ければどのような名でも構わぬぞ」
「そうですか、ならとりさんは、一番強そうなのが雷鳴丸、中くらいの二羽が天丸、地丸で如何でしょう?」
「雷鳴丸と天丸、地丸か、良いな、そのほうは名づけの特技があるな、名づけに困ったときはその方に頼むかな」
「はいっ」
二
次の日の朝。
布団をふたみに譲り、自らは柱に背中を預けて寝ていた正嗣は、両脇を犬たちに囲まれ暖かさが心地よく、陽が昇っても起きれなかった。
起きたのは猫達が膝に乗って来てぺたぺたと頬を突いたからだ。
「む、むむ」
横にならずに寝たせいで痛む節々を伸ばし、立ち上がる。視線を布団に向けると、そこにふたみの姿はなく、布団は外で干されていた。
これは寝過ごしたか。
客がいるのに寝過ごすとは、と恥ずかしさを覚えて周囲に注意を向けると、誰やらの話し合う声が聞こえる。口調こそ静かではあるが、問答をしているようだ。
表か。
正嗣は手早く、裾など確認し、昨晩ふたみが握り締めたせいで型崩れした場所を見つめて微笑みながら、玄関に向かう。
すると、どうやら外から来た誰かに公家様、鷹司が応対しているようだ。声をかけようとすると、玄関から見えない位置にいたふたみに引っ張られる。
「どうしたのだ」
「おはようございます渡会様、ここは鷹司様にお任せしたほうが無難と思いますので」
小声で言われ、寝起きで鈍っていた脳がやっと動き出す。
この屋敷の件について、鷹司がなんとかすると言っていたあれか。
そうなると相手は藩の役人。
昨日の今日で来たと言う事は、よほど酷い報告を正之助はしたのだろうな。即刻追い出せねば藩の体面たたずとかなんとか。
「ほほう、その方らは、こう申すのかや、この、麿に出て行けと、それが久居藩の意思であると、しっかと相違ないのだな」
やわらかい響きの言葉であるが、しっかりと棘を含めるのはさすがの公家様だ。
「しかし、ここは藩の役宅、本当に公家様であらせられるのであれば本陣でも町の旅籠でもどこでも良いのですから、この場にては藩として大変心苦しゅうございます」
答えているのは、昨日と同じ正之助の上役だ。朝から仕事熱心に来てみれば公家が出てきて困惑していることだろう。
「ほほう本陣とな、麿が昨日町に居た時に何もせぬ本陣に麿を誘うとはの、まったく話にならぬな、麿に話を通したければ佐渡の守殿はもちろん承知おきであろうの」
佐渡の守とは従五位佐渡の守の官位で、久居藩主の官位だ。つまり殿様に許可を受けてから出直せと鷹司は言っているのだ。
「なっ、そのような事ができるとでも思っているのか、大体そのほうは何者だ、見たところただの貧乏な偽公家にも見える、なにか証でもあるというのか」
「ほう、麿を疑うか、鷹司藤原朝臣、従三位なる麿を疑うとはの、これは賢きところに申し上げたほうが良いかもな、久居藩は先ごろ闘鶏の神事を大きく行い、内裏では殊勝な者よとの噂は大きな間違いであったとな」
「じゅっ従三位ですとっ、まさか、そんな語りが通用するとでも、そんな高位の方が供も連れずにこのような場所にいきなり現れるなど信じられるか」
「鷹司の家は麿が言うのもなんだが、ご先祖様は京よりかの家光公に会いに、単独で江戸を訪問するくらい足も腰も軽くての、京と久居ならば指呼の距離であるから、偲んでの神事見物に参った、これ以上問答を続けるのであれば、これは真心で申すが、その方、覚悟が必要ぞ」
いかに武家徳川幕府の世とはいえ、官位のありがたみは厳然として残っている。形骸化しているが、幕府は内裏に対して官位を下して貰えるようにお願いをして、官位を得ている。今回の件で久居藩主の官位剥奪などは無いだろうが、幕府が官位を申請した際に嫌味の一つも出るかもしれない。そうなれば幕府の事だ、久居藩に取り潰しを匂わせつつ、主犯の切腹くらいは言ってくるだろう。
こんな屋敷一つの事でそこまで覚悟するのは難しい。武士は家を残す事が命なのだ。
「しっしかし、証がなくば我々も引けませぬ、なにか証がないのですか」
「仕方ないの、その方らが知っていれば僥倖だが、ほれっこれを見るが良い」
鷹司が何かを懐から出したようだ。証になるものだろう。
「むっ、これは確かに鷹司牡丹紋、申し訳ございませぬ、しかしならば尚一層このような役宅ではなく、本陣に来ていただき馳走させていただきたいと」
「ええい面倒なっ、麿はここに居る、聞けば役宅の主は任を解かれたのだろう、ならば麿がここに居る間の接待役はその者に任せる、麿を疑わなかった男が信用できるのでな、そちも大事にしたら藩主の前で腹切らねばなるまい、ここは穏便にすますが上策ではないかな」
「承知いたしました、それではせめて身の回りの物をご用意して」
「よいっ久居には伊勢屋と申す商い人がおろう、そこに差配させたわ、どうしてもというならばそちと伊勢屋で話すが良い」
ぶるっとふたみの体が震えた。いきなり実家の名前が出たのだから当然だろう。まさかあの貧乏公家にしか見えない鷹司が遥か雲の上の従三位であったなど狐に化かされているとしか思えない。そんな高位の公家が名指しで伊勢屋を指名したとなれば名誉になる。
「見ていたのかや、これで麿は約束を守ったであろ、つぎはそちたちの番ぞ」
正之助の上役を帰した鷹司がしたり顔でやってきた。正嗣は膝たて頭を垂れ、ふたみもその場でぺたりと正座して頭を下げる。
「そのような大仰に感謝など表さずともよいぞ」
「いっいえ、まさか鷹司、様が従三位の公卿殿であらせられたとは露知らず、それほど高貴な身分の方にどう接すればよいのか・・・」
「あっはっはっ、なんじゃなんじゃ、そちらも信じたのか、麿が鷹司家に連なる者である事は真実じゃが、貧乏公家であることも、これまた真実じゃて」
ぽかんとした顔で二人が鷹司を見上げる。さも楽しいものを発見したと言うような鷹司の顔がそこにある。
「麿の鷹司家、藤原北家はこれはもうなんとも親族の多い一族での、五摂家随一の人数がいる一門じゃて、先祖はあまりに多い一族のために武家になり生計を立てるほどじゃ、それだけ数多い一族の中で公卿になれる者は極僅か、麿はその他のほうじゃて、家紋もな鷹司牡丹ではない、これは身の証として借り受けたものよ、家司にも与えられているものじゃ」
鷹司の手には古びた短刀にうっすらと鷹司の家紋が彫られている。知らない者が見れば係累の者ではないかと考えても不思議はない。
「そう、なんですか?」
「そうじゃそうじゃ、だからそちたちにはそのような態度は必要ないぞ、麿はただの貧乏公家、それで良いのじゃ、してふたみや、朝餉はまだかの?」
「はっはい、あの侍たちのせいで少し冷めてしまいましたが準備はできてます」
「そうかそうか、久しぶりの長広舌で腹が減ったわ、楽しみにしておるぞ、はっはっはっ」
たたっ後を追うふたみ、正嗣が寝ている間に朝餉の支度をしたのだろう。知らない家でろくに食材もなかったはずなのに何を作ってくれたのやら。
「おっと、皆の朝餉も用意せねばならんな」
こうして正嗣は動物たちの餌を準備し、なぜか鶏小屋の近くで寝ずの番をしていた伊増と合流、ふたみの作った朝餉を取ることになった。
親分に渡りをつけて戻った伊増であったが、その夜のうちに鷹司とふたみ両名に頼まれて食材や調味料、雑貨等の手配をさせられていたようだ。伊勢屋とこの屋敷を二往復もさせられたと愚痴っている。
どうにも愚痴っているが、この男、その本質は善人であるように見える
世のはみ出し者である事は間違いないのだが、ふたみのような弱い者にはやさしく接しているように見える。
「それで旦那、昨日の話ですが親分に渡りがつきやした、朝餉の後に久居の八幡宮で会うとのことでさ、鶏とあの娘っこと一緒にお願いしやすぜ」
伊増の話で、朝餉の後に雷鳴丸を籠に、人が入れる大きさの藤籠に入れて背負い、ふたみと楽しそうに当然な顔をしてついて来る鷹司と共に八幡宮まで行くことになった。
久居の八幡宮は、元は藩内の小戸木村に鎮座していたが、後年に本陣の丑寅の方角に鬼門除けとして移築された古い神社であり、藩主を始め近隣住民からも厚い信仰のある神社である。今回の発起人である熊野の板野親分が、闘鶏神事をこの場所で行うように手配したのだろう。
鳥居をくぐれば、左右には樹木が立ち並び砂利が敷き詰められている参道。その神域は厳かでこの神社の権勢が判ると言うものだ。闘鶏神事を明日に控えて、様々な人が忙しく動いているのが見える。
「にぎやかであるの~祇園の祭りには及ばぬが、これも味があって良い良い」
左右を忙しく見ながら、目が回りはしないのかと思えるはしゃぎようの鷹司。たいして大親分に会うことに緊張してやや青ざめている伊増。背中の雷鳴丸は眠っているのか静かにしている。
人が多いので逸れないようにふたみの手を握っていた正嗣は、不意にその手が離されて違和感を感じた。それまで素直に手を握られていたふたみが、いきなり手を乱暴に離したからだ。
「ん、どうした?」
「えっいや、あの」
明瞭でないもの言いにいぶかしむ正嗣だったが、答えはすぐに判った。正嗣も見慣れていた男がこちらに歩いてくるからだ。
「渡会はん、色々話は聞いてまっせ、なんやごちゃごちゃとややこしい事になってるいうて、もしや渡会はん、そこにうちの娘を巻き込んだりはしてへんやろね、いくら渡会はんかて、うちの娘にいけんことは許しゃしませんへんで」
先日会った時よりやつれている様に見える伊勢屋藤兵衛。しかし娘の事だからだろう口調は強いものだった。
「お父さん、渡会様に何てこと言うの、私は渡会様と商いをしているの、商い人の娘が商いをするのに文句なんか言わないで」
ふいっと走っていってしまうふたみ。伊勢屋藤兵衛とふたみ親子を交互に見ると、伊増が追って行った。やはりあやつは良いやつだ。
正嗣は背中の雷鳴丸の事もあり、いきなり走り出して追いかけるわけにいかなかった。
「伊勢屋さん、某が子女殿に面倒をかけているは真実かもしれぬ、だが決して悪の道ではなく、どちらかといえば考の道でもあるのだ、この正嗣が全力で決して危ない目には合わせぬと誓う、今回の闘鶏が終われば子女殿も話してくれよう」
「そんな事言うて渡会はん、博徒が絡んでいるんやないですか」
明日行われる闘鶏神事の場所に現れたのだ。裏で仕切っている博徒の存在も伊勢屋藤兵衛ならば知っても居よう。加えて正之助がばら撒いた噂も耳に入っているに違いないし、昨晩は家にも帰らなかった。心配しない親がいれば、それは親ではない。
「まぁまぁ伊勢屋とやら、ここは麿も請け負うゆえ、少しこの男に時間をかしてやってたも、鷹司の顔も立てての」
すっと横から伊勢屋籐兵衛と正嗣の間に入る鷹司。あっけにとられた顔の藤兵衛の耳元になにやら囁く。
「これはっ、申し訳ありませぬ、そっそれではここで鷹司様にお願い致します」
深く一礼すると、そそくさと伊勢屋藤兵衛は去って行った。
「何を言ったのですか鷹司殿」
「何、先ほどと同じことよ、でまかせではない範囲で麿の家を説明しただけである、すでに昨晩には伊増を先触れに申し込んでもいたからの」
そういえば食材だの何だのの手配は伊勢屋にて手配済みとか言っていた。さらにその掛かりは藩にて払わせる様、匂わせていた。自らの懐を痛めず恩を売る。公家の本領発揮だった。
「恐ろしいことですな、某など思いもよらぬ事です」
正嗣、素直な気持ちであった。
「はっはっはっ、公家は総出で数百年前から同じ事をしておるのよ、麿らが生き残る道はこれしかないでの、それよりもこれからはおぬしの手腕をみせてもらうつもりよ、まずは、ほれ、あの娘の事もな」
笑いながら鷹司が指差す先には、伊増に引き止められているふたみがいた。ふたみだけではどこにもいけないのをふたみ自身わかっているのだろう。
「そうですな、ではしばし御免」
背中の雷鳴丸を揺らさないように慎重に、でもできるだけの早足でふたみの前にたどり着く
「ふたみ、安心せよそなたが思い行う事を某が協力し、身の安全は守る、だから気にするなよふたみ」
「えっ、あっありがとうございます、どちらかと言いますと私の家族が渡会様にあのような無礼な物言いで迫ったのが、少し、いいえ、かなり気に入りませんで、私がもっと認められていれば、あのようの事にはなりませんでしたのに」
「よいよ、ふたみはまだ若いのだ、これからもっともっと誰からも認められる存在になるだろう、既に大の男が三人もふたみを認めておるのだからな」
「はいっ、今後はお父さんに変なことを言わせません、この商いは必ず成功させましょうね渡会様」
笑顔だった。鋭い目だけはいつも通りだが、それでも年相応の笑顔だった。
これは今まで無理をさせていたなと気づく正嗣であった。
三
周りを歩く人間の人相が、どんどんと悪くなってきた。
交わされる言葉も博徒らしく、威勢の良いものばかりで、ここにふたみを連れて来て良かったのかと思う正嗣だったが、彼女は正嗣が勝手に話をつけてきたら、それはそれで落ち込むことだろう。
危険なことがあれば、守れば良いだけの事。気合をいれて正嗣は伊増の案内に従い進む。
神殿社の左奥に簡易な小屋が幾つも作られており、門番のように屈強な男たちが長脇差を腰に差して近づくこちらを睨み付けている。
案内役の伊増の背中が緊張しているのがわかる。隣をみれば相変わらず飄々と左右を物珍しげに見ている鷹司。
背後に守る形でいたふたみは、いつかのように正嗣の裾を掴んでいる。
「なんでぃ手前ら、堅気さんはこっちには来ちゃいけねぇな、回れ右して道を戻りな」
大きい声ではないが、迫力のある低い声だ。声自体が圧を持っているかのように寸刻、伊増の動きが止まる。だが大きく息を吸った伊増がしゃべり始める。
「親分には話を通してあるよ忠助兄貴、お客人が来たと言ってもらえねぇかな」
「ふんっ伊増か、てめえがどう落とし前をつけるか皆が注目しているからな、逃げずに来た事は褒めてやるよ」
顎で進めと合図してくる。じろじろとこちらを見てくるが正嗣は気にしても仕方ないと、背中の雷鳴丸に振動を与えないようにゆっくりと進む。
小屋の中はそれほど広くもなく四畳もあるかという所。戸の無い入り口から一畳分は土間になっており、奥に硬そうな箱が幾つも積みあがり、その前に小柄な男が半被を着て座っている。
「すみませんなお武家さん、うちの若い者が迷惑をかけたねぇ、わざわざうち等博徒の為にこんな場所に来てくださって、それになんやお公家さんもいるんかい、こりゃここでは失礼だったかね」
「麿は気にせぬぞ、話はこの渡会氏と娘がするよって、まぁ気にせんでな」
「ふむ、なら格式だなんだは外にほうっておこうかね、それでお武家さんの話とはなんですかな」
あくまで礼儀正しい話し方だが、底にある響きはこちらを威圧してくる。下手なことを言えば、あっという間に叩き出されそうだ。
「某が渡会正嗣です、忙しい時に会ってくださり感謝いたします、今回、闘鶏神事、それに全国の親分衆が参加される大闘鶏会について、某から提案があるのだ、聞けば西の闘鶏代表の鶏が傷ついているとの事」
「それで、お武家さんが何かしてくれるというのかい」
口調は変わらなかったが、一瞬伊増を睨み付ける親分。余計なことを外に漏らして恥さらすな、という事だろう。
「それでな、物は試しで某の雷鳴丸で勝負しないかという話だ、雷鳴丸は、今はほれこのとおり背中にいるのだ」
「なるほど、噂の鶏殿は雷鳴丸と言うのか、あやかしと間違われる位に強いんだろう、座興のひとつで参加してもらえれば盛り上がるがね、東の横綱に挑むには、失礼な言い方かもしれんが、まぁ信用できないな、勝ち負けで全てが決まる博徒の世界に簡単に首突っ込むと痛い目見るぜ、お、ぶ、け、さ、ん」
それはそうだ。親分の言う事に間違いは無い。いきなり現れた見ず知らずの相手を信用するほど馬鹿な話も無い。賭け事で生きる博徒ならばなおさらだ。
「な、なら、試してみればいいです、雷鳴丸は、雷鳴丸は人よりも強いんです、だから同じ鶏であれば負けないです」
「なんでい嬢ちゃん、大人の話に割り込むたぁ行儀がよくねぇな、それに試せだと、言ってる言葉の意味がわかっているかい」
声にならない喉の音が正嗣にも聞こえた。裾がつよく握られるのが分かる。すっと正嗣はふたみの背中に手を添えた。ここに自分がいるから好きに言えば良いと。
「あっはいっ、そうです、もしこちらの強いとりさんと勝負すれば雷鳴丸の強さがわかると思います、そしたら、えっと、あの、おじさんにも渡会様の助けが必要って分かるはずです」
「ふうむ・・・」
親分は手を口元にあて考え始める。損得で言えば試すことには無理が無い。試して無駄なら仕方なし、もし雷鳴丸が勝てば明日の東との闘鶏で面子が守られる。
「なぁ試しとはいえ嬢ちゃんよ、博徒に勝負を仕掛けるんだ、そっちは何を賭けるんだい、まさか賭ける物も無しって話じゃねぇよな」
親分の話し方が変わった事に正嗣は気づいた。ここでふたみが引けば無かったことにしてやろうと言う優しさが感じられる。子供の戯言ならばこれでしまいにしてやろうと
「え、えっと、あの、賭ける物は」
ふたみが出せる物などでは親分を納得させられ無いだろう、それは伊増も、鷹司も同様だ。正嗣は考える。ここで何も言わなければ話は流れ、ふたみとの商いは失敗し、朱桜の槍は戻らず、ふたみの父親も、引いては伊勢屋も没落への道へと落ちてしまう。朱桜の槍は諦めもつくが、ふたみの父親である伊勢屋の事は諦めるわけには行かない。自身が浪人でふたみが没落した商い人の娘では、どちらも野垂れ死にだ。
「賭ける物については、これでどうであろうか親分さん」
すっと腰に挿した刀、細刃波紋嵯峨之桜を親分の前に差し出す。親分はそれを丁重に受け取り、刃紋と拵えを確認すると正嗣に返してくる。
「足りぬか?」
「いや滅相も無い、こんな業物久しぶりに見たよ、これを賭けるとなればこちらの方が都合が良すぎだね、そうだな、何かお武家さんが何か追加はないかい」
「追加か、そうだな、もし雷鳴丸が勝ったら、今回のそちらの被害、無かった事にはならんかな」
錯乱して鶏に斬りかかった正之助の件は、少しだけ気にかかっていた。
闘鶏神事が終わったら、家族を巻き込んで大変な落とし前をつけさせられるのだろう。元はと言えば正嗣の鶏、雷鳴丸が原因といえば原因。本人もしっかり雷鳴丸にやられている、その上で家族も巻き込むとなれば寝覚めも良くない。
「ほうかい、奇特なお武家さんだね、わかった、おい伊増、奇岩丸を連れてこけら落としだ、準備しな」
「へいっ」
そうして試しとしての闘鶏が行われることになった。
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