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終章 黒い爪
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しおりを挟む頭の下がガタガタと揺れていて、スイは目を覚ました。スイは馬車の座席に横たわっていた。馬車は揺れながらどこかへ向かって走っている。
「もう起きたのか」
起きようとして身動きすると、向かいの座席に座ったナフリが気づいて声をかけてきた。ナフリはスイがなにか言う前にスイの顔に手を置き、板張りの座席に無理やり後頭部を押しつけた。
「眠れ」
魔力のこもった言葉を投げつけられた。たちまち睡魔が襲ってきて、スイは再び眠りについた。
◆
「起きろ、おい」
「んん……?」
せっかく穏やかに眠っているところを体を揺り動かされて起こされた。目を開けるとナフリに見下ろされていて、スイはたちまち覚醒した。
「着いたからおりろ」
慌てて起きようとしたが、両手を背中で縛られていてなかなかうまくいかなかった。寝ているうちに縛られたようだ。自分で歩けるよう足は拘束されていない。スイはナフリをにらみつけた。
「ここはどこだ?」
ナフリは答えない。
「きみは一体誰なんだ? なんのために――」
「それ以上無駄口たたくなら口をふさぐけど」
ナフリは人が変わったかのように冷たかった。こちらが本性なのだろう。
スイは黙ってナフリに従い馬車を降りた。そこは見知らぬ大きな建物の玄関前だった。何人かの男が立っていて、じっとスイを見ている。夜なので周囲はまっ暗だ。
スイはナフリに腕をつかまれて建物の中に連れて行かれた。スイはうつむき加減で歩きながら慎重に周囲を観察した。見知らぬ男たちがスイの周りを取り囲んで逃げ道をふさいでいる。誰も口を開かず、重たい空気が流れている。
ナフリとあの幼い兄弟は共謀してスイを人目のつかない場所におびき出し、デアマルクトから連れ去った。うまく検問も突破したらしい。ナフリはデュフォール総長の紹介でやってきた護衛だが、本来二人で来るところ一人で来て、すぐに来ると言っていた交代要員は何日経っても現れなかった。きっと何らかの手段で本物の護衛二人をどこかに隠し、平然とした顔で護衛になりすましていたのだろう。彼の柔らかな物腰にすっかりだまされてしまった。
これは組織的でかなり周到に計画された誘拐だ。どこまでが敵なのかわからない。デュフォール総長は関与していないと思いたい。
スイはある部屋に入れられ、椅子に座らされた。
「ここで待ってろ。動くなよ」
ナフリはそう言って部屋を出て行った。扉が閉められ、部屋にはスイと数人の男たちが残された。
男たちはナフリがいなくなると途端にリラックスして、空いている椅子に座ったりスイの周りをうろついてじろじろ眺めたりし始めた。スイは彼らと目を合わせまいと床の一点を見つめる。
「お、これいいな」
スイを正面から見ていた男がスイの顔に手を伸ばし、右耳のピアスに触れた。
「金でできてるな? 高く売れそうだ」
男はスイのピアスを外すと自分のポケットに仕舞いこんでしまった。
「返せ!」
スイは慌てて叫んだ。あれがないとエリトに助けを求められない。
「返せよ!」
スイは後ろ手に縛られたまま立ち上がって男に詰め寄った。男は急なスイの行動に面食らって一歩後ずさり、おもむろにスイを蹴り飛ばした。スイは床に倒れて腰をしたたかにぶつけてしまった。
「動くなって言ってんだろうが!」
男はいらだった声を上げてスイの腹を蹴り上げた。スイはうっと息を詰まらせて体を丸めた。反抗されたことが気にくわなかったらしく、男は怒ってスイを何度も蹴り始める。
「逃げるつもりか! おとなしくしてろ!」
「おいやめろって」
ほかの仲間が止めるがいったん怒り出した男は止まらない。スイは床に転がったまま歯を食いしばって痛みに耐えた。
部屋の扉が開き、男はようやくスイを蹴るのをやめた。
「……なにしてるんだ」
よく知った声がして、スイは息をするのを忘れた。目の前にきれいな革靴をはいた二本の足が立っている。覚えのある煙草の匂いが鼻をくすぐる。あいつが好んで吸っていた煙草の匂いだ。
「おい、誰がこんなことしろって言った」
怒りをにじませた低い静かな声。スイを蹴った男はうろたえて言い訳をし始めた。
「こいつ、動くなって言われてんのに急に立ち上がって向かってきたんですよ。逃げられちゃいけないと思って」
「この人数がいるのに、縛られた男一人に逃げられると思ったのか? 本気で?」
「万が一があっちゃいけないと思ったんです。それに精霊族は死なないから怪我も平気だと――」
「死なないわけあるか。精霊族だって人間だぞ。そんなデマに踊らされやがって。おい、こいつ座らせろ」
「す、すみませ――!」
スイを蹴った男は仲間二人に左右から両腕をつかまれて床に座らされ、口に布を突っこまれて言葉を封じられた。立場が上と見られる男はスイに向き直り、立て膝をついてしゃがみこんだ。スイは震えながら彼を見上げる。艶やかな濃い灰色の髪の、酷薄そうな黒い目をした美形の男がスイを見下ろしていた。
「大丈夫か?」
「……ディリオム……」
名を呼ぶとディリオムは嬉しそうに口角を上げた。まとう雰囲気がずいぶん変わっているが、笑うと昔の優雅で上品な彼っぽさが戻る。
「おかえり、スイ」
ディリオムはスイに笑いかけると、すぐに笑みを引っこめて再び立ち上がった。
「こいつは俺の弟だぞ。それをよく足蹴にできたな」
その場にいる男たちは一様に目を見開く。
「えっ……! 精霊族はディリオムさんの弟だったんですか!?」
「そうだよ。うちの養子だから、義理だけどな」
スイを蹴った男の顔が土気色になっていく。ディリオムは後ろに立つナフリを振り返った。
「数年ぶりだけど俺がスイの顔を忘れるわけがない。こいつは俺の弟に違いない。よく連れてきたな」
「ありがとうございます」
ナフリはスイの護衛をしていたときのような柔和な笑みを浮かべて礼を言った。部屋にいる男の一人は舌打ちをしてナフリをにらむ。
「おいナフリ、知ってたなら言えよ」
「あれ、言ったと思うけど。聞き逃したんじゃないの?」
ナフリは笑みを浮かべたまましらじらしく答えた。男たちは忌々しげにナフリを見たがナフリはまったく意に介していない。
ディリオムは土気色の顔に冷や汗を垂らしながら座っている男の前に立った。
「俺の弟に手を上げたんだ。覚悟はできてるな?」
男は口をふさがれているのでなにも喋らない。ただ荒い息を短くはきながら恐怖に満ちた目でディリオムを見上げている。ディリオムはすっと右腕を上げ、人差し指で男を指さした。指先の爪は真っ黒だ。その黒い爪が音もなく伸びて男の額を貫き、すぐに元の長さに戻った。
男は額に空いた小さな穴から鮮血を吹き出し、白目を剥いて痙攣しながら仰向けに倒れた。しばらくぴくぴくと体が動いていたがそのうち動かなくなった。
「きれいに片付けとけよ」
ディリオムはそう言い放つと、何事もなかったかのようにスイの前にしゃがみこんだ。
「久しぶりだな、スイ。ようやくあのいかれた騎士団長からお前を取り戻せたよ。お前がまた俺のところに戻ってきてくれて本当に嬉しいよ」
しかしスイはなにも言うことができなかった。ディリオムのところに連れてこられてしまったという事実に頭が追いつかない。認めたくなくて頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「……そんな顔をしないでくれ。お前には悪いことをしたと思ってるんだ。本当だよ? 騎士団に捕まってからずっと考えてたんだ。お前と一緒にいられなくなってしまったのは、きっとお前にひどいことをしてきた罰なんだって」
そう言うディリオムの背後で、怯えた様子の男たちが死んだ仲間を引きずって外に出て行く。血の匂いが漂ってきた。
「もうそんなことは絶対にしないって誓うよ。お前のことを大事にする。だからまた一緒に暮らそう」
スイはぽかんとしてディリオムを見上げた。ディリオムが過去の過ちを悔いている。悲しそうな顔をして、たった今仲間を殺したその手でスイの頭をなでる。
「また二人でやり直そう。いいだろ?」
それはとても紳士的な態度に見えた。だが、スイはディリオムが平気で嘘をつくことを知っていた。ディリオムは慈善家として活動しており、人当たりがよく贈り物もこまめにするのでほかの金持ち連中から親しまれていた。気遣いができるので女性からの評判もよく、とてもモテたらしい。しかし裏では奴隷売買に手を染めて汚い金で儲けていた。誰も見ていないところでスイをたたき、痛みに泣く声を心地よさそうに聞いていた。
ディリオムは二面性を持っている。彼の言葉は何一つ信用できない。
しかし、スイはディリオムにゆっくりと笑いかけた。
「うん、いいよ」
「そうか」
ディリオムはスイの両腕を縛っている縄を切って立たせた。スイはそのままディリオムに支えられて部屋を出た。
スイは子供のころから長らくディリオムと一緒に暮らし、彼の機嫌を損ねると痛い目に遭わせられてきた。ディリオムに反論することなどとてもじゃないができやしない。もはや本能の域でディリオムに従ってしまう。
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