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どうかその冷たい指を握らせて4
しおりを挟む月のない夜、影は踊る。
エレノアから広がった影は処刑人を台から振り落とした。
処刑人は白木の階段を破壊しながら転がり落ち、地面に倒れる。そのままピクリともせず、重そうな剣は重力のままに半ば程まで地面に突き刺さった。
エレノアの後ろ手を拘束していた縄がふっつりと切れた。影は処刑人がエレノアの髪を切った小刀をスルリと飲み込んでいた。
「……ルカーシュ……!」
エレノアの呟きは鳴り続ける鐘の音にかき消された。
ルカーシュはこの時を待っていた。
吸血鬼は鋭敏な感覚を持っているが、むせ返るような薔薇の匂いで鼻が利かず、激しい鐘の音で聴覚も麻痺するこの一瞬。
ルカーシュは処刑台の上から月の王へと踊りかかった。
「貴様、生きていたのか!」
月の王へと飛びかかる影は瞬時に人の形を作り出す。
月の王を目掛け、重力のスピードも足したルカーシュは一瞬で間合いを詰める。月の王がそのステッキを掲げ、作り出した炎の壁に髪の先が焦げても、風のカマイタチで体に傷が出来ようとも、そのスピードは緩まない。
選定の儀の前日、エレノアの血を吸ったルカーシュはその魔力の濃い血によって成体にまで成長し、吸血鬼としての力をより強くさせていた。
しかしそれでも一度は月の王に敗北した。
ルカーシュはどうしてもエレノアを月の王の花嫁にしたくなかったのだ。血を吸ってルカーシュの臭いを付けることでエレノアが死ぬかもしれない。それでも、と。愛とエゴの区別など、自分でもつかなかった。
ルカーシュとてエレノアの血を吸い尽くし、己の中で永遠にしてしまいたいと思ったこともある。だがどうしてもエレノアを殺すことは出来なかった。
だから、エレノアが花嫁に選ばれる前に命を賭けてでも、月の王を殺すと決めた。
多勢に無勢であったのもあるが、それでもルカーシュは、庇おうとする若い吸血鬼ごと月の王の胸をその爪で貫いたはずだった。現にその若い吸血鬼は消滅した。だというのに月の王の胸の傷はみるみる塞がり、涼しい顔で赤い石のステッキを振り上げ、風でカマイタチを作り出してルカーシュのその四肢を切り裂いた。そして身動きが出来なくなったルカーシュに、杭を打ち込んだのだ。
「……確かに杭を打ち込んだ! 貴様の核は破壊したはずだ!」
月の王は叫んだ。確かにあの時、ルカーシュが消滅する様を見たはずだというのに。
「それはお互い様だ!」
「貴様ぁあああ!!!」
ルカーシュは月の王と何度も戦ったことがある。
幼体だった頃は逃げたり隠れるのに精一杯であったが、月の王が山奥に隠れ住むはぐれの吸血鬼を殺す様も何度も見た。
その中にはルカーシュの育ての親もいた。ルカーシュは育ての親であったはぐれの吸血鬼が殺され、彼と生活を共にしていた人間の血が吸い尽くされて死ぬのを隠れて見ていたのだった。
そしてその際に気になっていたことがあった。それは手にしたステッキを一度も物理攻撃に使わないことだった。ただ、掲げて魔法を生み出すためにのみ使う。しかし、ルカーシュも吸血鬼の端くれである。吸血鬼は生まれながらにして魔法を扱えることを知っていた。わざわざ道具を必要としない。もちろん、威力を高めたり、射出スピードを上げる魔道具もある。そうであればもっと別の形……戦闘に役立てる槍や棍、仕込み杖にしても良さそうなものなのに。混戦では邪魔になるそれを、月の王は決して手放さず、偶然に炎の攻撃が杖に向かった時には庇うようにしていた。あからさまな仕草ではなかったから、気のせいとも思えたが、そのステッキに秘密があるとすれば。
ルカーシュは威力は小さいが、風のカマイタチを針のような形にして射出する。利点は通常のカマイタチよりも広範囲に数多く出せることだった。
「オズワルド様! オズワルド様をお守りせよ!」
重鎧を着込んだ護衛騎士は王太子であるオズワルドを真っ先に庇い、盾とその分厚い鎧で針のような風を防いだ。
それでもその鎧はズタズタになり、護衛騎士に傷を負わせ、そのまま動けなくした。
護衛騎士には月の王を守る余力などあるはずもなく、かといって一般の兵士にルカーシュの動きについていけるような強さを持つ者はいない。
この時、いくつかの偶然がルカーシュに味方していた。
新月で最も力の溢れる時間であること。
ルカーシュが守るべきエレノアは攻撃の届かない頭上にいること。階段は処刑人が落ちる際にクッションとなって壊されており、人間ではそこに辿り着けない。この場で最も安全な位置にいた。
ルカーシュは全力を攻撃に回すことが出来たのだ。
そして護衛騎士はオズワルドを優先する。人は吸血鬼を守らない。
他の守護吸血鬼は人間との契約を果たすため、国の各地で魔物を狩り、今この場にはいない。異変を感じたところで来るまでに時間がかかる。ここに月の王を守る者は誰もいなかった。
それでも月の王が魔力の濃いシェリーの血を既に吸っていたならば、若いルカーシュには勝ち目はなかっただろう。しかし勝利を慢心し、シェリーの血を吸うことを後回しにしていた月の王の力は最盛期よりも落ち込んでいる。
月の王とて、ただ1人であれば対処が出来たかもしれない。だが、月の王のすぐ横には呆然と目を見開くシェリーがいた。
月の王は思わず防壁の範囲を広げ、ルカーシュの攻撃を防いだ。
防壁に針の風がマシンガンのように突き刺さる。
「きゃああっ!」
爆音にシェリーは身を竦ませる。そのシェリーを庇うように立つ背中が見えた。
雪のように白い肌、一つに括った長い黒髪、シルクの黒い外套を身に付けて、赤い石のステッキをいつも持っている。
シェリーは魅力的だと思う反面、時折怖いとも思っていた。シェリーには優しいがその体には体温がなく冷たい。人とは違う、魔物。
吸血鬼の王……彼はシェリーを庇い、ルカーシュの攻撃を受けていた。防壁を引き伸ばせばその分薄くなる。それでもシェリーが傷を負わないよう、手を広げて立つその姿は、かつてシェリーがエレノアを庇った時と同じであった。
ルカーシュは月の王の防壁を破り、その胸元に飛び込んだ。
しかし狙ったのは、月の王の心臓ではなく、手にしているそのステッキの赤い石。それを先程拾った小刀で、全身全霊の力を込め、突いた。
エレノアの髪を切った小刀には偶然にもエレノアの髪が数本絡んだままであった。濃い魔力を含む乙女の髪。それはルカーシュの力と共にただの小刀に神秘の力を与え、威力を上げていく。
ステッキの赤い石……月の王の核にヒビが入る。ピシリと儚い音を立てて割れ、その赤い破片がハラハラと散った。
「シェリー……」
月の王は背中に庇うシェリーを見た。怯えたように目を見開いていたが、どこにも怪我はしていない。
「ああ……良かった、無事なようだ」
「……なんでっ……わ、私を……」
核を破壊された月の王は、末端からサラサラと灰になっていく。
何故、シェリーを庇ったのか。
月の王にとって、シェリーはただの吸血対象でしかなかった。素晴らしい血だと思ってはいたが、それは人間にとっての滅多に食べられないご馳走と同じ。この処刑が終わればその血を吸い尽くす予定で、結果、死んだところで構わなかったはずなのに。
月の王含め、守護吸血鬼はアテマ国から血液の提供を受けていたが、それでも時折、いなくなっても分からないような暮らしをしている平民を拐かし、その血を吸い、証拠の死体すらも平気で処分していた。人間など、ただの餌でしかなかったはずだ。だというのに無意識にシェリーを庇ってしまっていた。
「何故だろうか……ただ、お前が傷付くのが許せなかったのだ。我が花嫁……シェリーよ」
「あ……」
シェリーは思わず月の王から伸ばされた手を握り、その冷たい指がシェリーの手の中で灰になり、手の隙間からサラサラと零れて行くのを見守った。
「……今まで人間を守ってくれて、ありがとう」
その返事はなく、月の王は灰となって消滅した。
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