上 下
7 / 33

1章「羽なし」と呼ばれた娘⑥

しおりを挟む
 夕花は風呂に入れられ、普段着ているより幾分マシな着物を着せられて自室に追いやられていた。

 玄関近くは後妻が、勝手口には早紀が陣取って、夕花が逃げないか見張っている。外に出してもらえそうにない。もし本当に死んでしまうとしても、お世話になった人たちに、最後の挨拶くらいはしたかったのに。
 夕花は不意に閃いた。

「確か……他にも出入り口があったはずだわ」

 今は物置部屋になっている部屋に、大きな荷物の搬入搬出するための扉があるのを覚えていた。屋敷の裏手にある蔵に近く、大型の箪笥や、亡き母のピアノを売る時にもその扉が使われていたはずだ。

 そして使用人が早紀しかいないのも幸いした。そっと覗いてみたが、その部屋には誰もいない。もしかしたら愛菜がいるかもとドキドキしていたが、愛菜はこの部屋に扉があることを知らないのか、それとも埃っぽい部屋で見張りなどしたくないのか、とりあえず見張りはしていない様子だ。

 埃っぽい物置部屋で古道具を動かすと、記憶していた通りに出入り口が見つかった。ネジ式の鍵を開け、引き手に力を加えると、錆びた音を立てながら少しだけ開く。夕花が通れる程度だからほんの少しでいい。隙間に体を捩じ込ませ、外に出た。

 決して逃げるわけではない。ただ最後に挨拶をするだけ。夕方なら代書屋に行って戻ってくる時間がじゅうぶんにあるはずだ。九郎には会えるかわからないが、せめて登美にだけでも──そう思った時、思いがけないほど近くから声が聞こえた。

「──やあ、待ったかい?」

 夕花は声を上げそうになり、慌てて口を手で塞ぎ、物陰に隠れた。
 その声は夕花が会いたかった人物──九郎のものだった。

(どうして九郎くんが……?)

 ほんの一瞬、夕花を助けに来たのかと期待してしまったが、まさか夕花が吸血鬼に嫁ぐなど、九郎が知るはずがない。そして、誰かに親しげに呼びかけている。それを理解し、夕花の胸の中が冷えていくのを感じていた。

「んもー遅いよぉ」

 そしてそれに応じた媚びたような声色は、愛菜のものに間違いない。

 どうして二人が。夕花はそう思ったが、考えてみれば、九郎は母親がこの屋敷で働いていたから、ちょくちょく訪れていたのだ。ということは、愛菜もまた九郎に面識があるのは当然の話である。

 夕花は激しいショックを受けながらも、見つからないように声の方を伺った。

 屋敷の裏手にはもう何年も使われていない蔵がある。その蔵の陰に二人の姿があった。

 それがどういう意味か理解し、心臓がドッドッドと激しい音を立てる。

 近くの塀がV字に壊れている。身軽な九郎であれば、あの壊れた部分を乗り越えて敷地内に入れるのだろう。
 二人はクスクスと笑いながら抱き合っている。

「ねえ、何か変な音しなかった?」

 愛菜はそう言う。今しがた夕花が扉を開けた音が聞こえたのかもしれない。

「俺が塀を乗り越えた音じゃないのか?」
「だといいけど。父様だったらどうしようかと思っちゃった。こんなことしてるって知ったら、きっとひっくり返っちゃうわ」

 夕花は口元を押さえたまま、二人が話すのを聞いていた。
 愛菜はすぐに物音のことはどうでもよくなったようで、話を変えた。

「あ、そうだ九郎。姉さんが結婚するのよ。それも今日」
「ええっ、初耳だよ!」
「急に決まったんですって」
「ショックだなあ……」

 夕花は己の話題が出たことで、つい聞き耳を立てる。はしたない行為だとわかっていたが、立ち去ることはできなかった。

「なによ九郎ったら、まさか姉さんのことが好きなのかしらぁ?」

 愛菜は不満げに口を尖らせる。九郎はククッとくぐもった声で笑った。

「そんなわけないだろ。あんな陰気な娘に興味ないよ。幼馴染だから特別に優しくしてやってただけさ」

 吐き捨てるような言い方は、本当にあの九郎なのだろうか。
 つい先日の優しい笑みや泣きそうな顔、そして夕花の手を握って感謝してくれた、あの九郎だと思えない。しかし紛れもなく九郎の唇が言葉を紡いでいた。

「俺が好きなのは、可愛くて小悪魔な愛菜だけだよ」

 ふふっと愛菜は勝ち誇ったように笑う。それと裏腹に、夕花の心は完全に凍てついていた。

「まあ、そうだよねえ。姉さん、地味で暗いし、なんか小汚い着物しか持ってないんだもん。そもそも神楽家に生まれたくせに羽なしとか、ただの役立たずだしね」
「あー、でも、困った。遊ぶ金がなくなると、夕花にもらってたのに、当てがなくなっちまう。あ、もらってないや、借りてるんだっけ。まあ、返す予定なんて、最初からなかったけどさ」

 九郎は悪びれずケラケラと笑う。愛菜もキャハハと甲高い声で笑い、二人の声が不協和音になって夕花は頭がくらくらするのを感じた。

 夕花は声を出さないよう、しっかりと己の口を押さえる手が震えるのを止められない。それでも押さえていてよかった。少しでも気を抜いたら声を上げて泣いてしまいそうだったのだ。

「うちの親もケチでさ、お小遣いが少ないから嫌になっちゃう。あ、でもあの人のおかげで借金がなくなるって言ってたし、これからはもっともらえるかも。あんな姉でも少しは役に立つのね。でも、九郎もお金は自分でなんとかしてよ。奢ってくれなきゃ嫌なんだから」
「もちろん、わかってるって。上山手って、暇なオバサンが結構いてさ、俺みたいな可哀想な男の子が母さんが病気で……って言うとコロッと騙されて、小遣いをくれるんだ。俺の母ちゃん、遠くの町の飲み屋で働いて、ピンピンしてるってのにさ!」
「あはは、何が可哀想な男の子よ。悪い男ね」
「お前もだろ。この不良娘」

 クスクス、クスクスと抱き合いながら、笑っている。

 夕花と違い、何もかもを持っている愛菜。夕花への優しさは全て嘘だった九郎。

 楽しそうな二人と裏腹に、夕花は埃まみれで立ち聞きするしかない。それがなおさら惨めだった。

「ねえ、九郎。あれやってよ。キャラメル食べたぁい」
「愛菜はこれが好きだよな」

 九郎は角の潰れたキャラメルの箱から一粒取り出し、自分の口に咥える。そのまま愛菜を抱き寄せ、唇を合わせた。

「んふふ、甘ぁい」

 その言葉に、キャラメルを口移ししたのだと夕花は気付いた。同時にあの日食べたキャラメルの甘さを思い出し、ぐうっと吐き気が込み上げる。

 夕花は物音が立つのも気にせず、扉を閉めることも忘れて自室に戻った。

 胃がぐるぐるとして気持ち悪い。
 夕花は畳に横たわり、丸くなって吐き気を堪えていた。
 泣くつもりはなかったのに、次から次へと涙が出てしまう。気持ち悪さのせいだけではない。ずっと耐えていた悲しさ、悔しさが涙となり、夕花の目から溢れていった。



 どれくらい経ったのだろう。

「……夕花、おい、夕花!」

 父が慌てたように呼ぶ声で、夕花は我に返った。

「は、はい……」

 慌てて涙の滲む目を袖で拭う。

「逃げていなかったようだな。迎えが来た」

 泣いているうちに夕方になってしまったのだ。
 夕花は父に背を強く押され、転がるように玄関から押し出された。

 屋敷から出ると、愛菜がポカンと口を開けて呆けていた。後妻や、その後ろに控える早紀も同様である。

 吸血鬼とは、どんな恐ろしい姿なのだろう。
 夕花はおそるおそる前を向く。

 開け放たれた門の前に、バサバサと音を立てて、一匹の蝙蝠が円を描くように飛んでいた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】神から貰ったスキルが強すぎなので、異世界で楽しく生活します!

桜もふ
恋愛
神の『ある行動』のせいで死んだらしい。私の人生を奪った神様に便利なスキルを貰い、転生した異世界で使えるチートの魔法が強すぎて楽しくて便利なの。でもね、ここは異世界。地球のように安全で自由な世界ではない、魔物やモンスターが襲って来る危険な世界……。 「生きたければ魔物やモンスターを倒せ!!」倒さなければ自分が死ぬ世界だからだ。 異世界で過ごす中で仲間ができ、時には可愛がられながら魔物を倒し、食料確保をし、この世界での生活を楽しく生き抜いて行こうと思います。 初めはファンタジー要素が多いが、中盤あたりから恋愛に入ります!!

生贄の花嫁~鬼の総領様と身代わり婚~

硝子町玻璃
キャラ文芸
旧題:化け猫姉妹の身代わり婚 多くの人々があやかしの血を引く現代。 猫又族の東條家の長女である霞は、妹の雅とともに平穏な日々を送っていた。 けれどある日、雅に縁談が舞い込む。 お相手は鬼族を統べる鬼灯家の次期当主である鬼灯蓮。 絶対的権力を持つ鬼灯家に逆らうことが出来ず、両親は了承。雅も縁談を受け入れることにしたが…… 「私が雅の代わりに鬼灯家に行く。私がお嫁に行くよ!」 妹を守るために自分が鬼灯家に嫁ぐと決心した霞。 しかしそんな彼女を待っていたのは、絶世の美青年だった。

異世界召喚されたけどヤバい国だったので逃げ出したら、イケメン騎士様に溺愛されました

平山和人
恋愛
平凡なOLの清水恭子は異世界に集団召喚されたが、見るからに怪しい匂いがプンプンしていた。 騎士団長のカイトの出引きで国を脱出することになったが、追っ手に追われる逃亡生活が始まった。 そうした生活を続けていくうちに二人は相思相愛の関係となり、やがて結婚を誓い合うのであった。

【完結】冷酷眼鏡とウワサされる副騎士団長様が、一直線に溺愛してきますっ!

楠結衣
恋愛
触ると人の心の声が聞こえてしまう聖女リリアンは、冷酷と噂の副騎士団長のアルバート様に触ってしまう。 (リリアン嬢、かわいい……。耳も小さくて、かわいい。リリアン嬢の耳、舐めたら甘そうだな……いや寧ろ齧りたい……) 遠くで見かけるだけだったアルバート様の思わぬ声にリリアンは激しく動揺してしまう。きっと聞き間違えだったと結論付けた筈が、聖女の試験で必須な魔物についてアルバート様から勉強を教わることに──! (かわいい、好きです、愛してます) (誰にも見せたくない。執務室から出さなくてもいいですよね?) 二人きりの勉強会。アルバート様に触らないように気をつけているのに、リリアンのうっかりで毎回触れられてしまう。甘すぎる声にリリアンのドキドキが止まらない! ところが、ある日、リリアンはアルバート様の声にうっかり反応してしまう。 (まさか。もしかして、心の声が聞こえている?) リリアンの秘密を知ったアルバート様はどうなる? 二人の恋の結末はどうなっちゃうの?! 心の声が聞こえる聖女リリアンと変態あまあまな声がダダ漏れなアルバート様の、甘すぎるハッピーエンドラブストーリー。 ✳︎表紙イラストは、さらさらしるな。様の作品です。 ✳︎小説家になろうにも投稿しています♪

【完結】神様に嫌われた神官でしたが、高位神に愛されました

土広真丘
ファンタジー
神と交信する力を持つ者が生まれる国、ミレニアム帝国。 神官としての力が弱いアマーリエは、両親から疎まれていた。 追い討ちをかけるように神にも拒絶され、両親は妹のみを溺愛し、妹の婚約者には無能と罵倒される日々。 居場所も立場もない中、アマーリエが出会ったのは、紅蓮の炎を操る青年だった。 小説家になろう、カクヨムでも公開していますが、一部内容が異なります。

【完結】うっかり異世界召喚されましたが騎士様が過保護すぎます!

雨宮羽那
恋愛
 いきなり神子様と呼ばれるようになってしまった女子高生×過保護気味な騎士のラブストーリー。 ◇◇◇◇  私、立花葵(たちばなあおい)は普通の高校二年生。  元気よく始業式に向かっていたはずなのに、うっかり神様とぶつかってしまったらしく、異世界へ飛ばされてしまいました!  気がつくと神殿にいた私を『神子様』と呼んで出迎えてくれたのは、爽やかなイケメン騎士様!?  元の世界に戻れるまで騎士様が守ってくれることになったけど……。この騎士様、過保護すぎます!  だけどこの騎士様、何やら秘密があるようで――。 ◇◇◇◇ ※過去に同名タイトルで途中まで連載していましたが、連載再開にあたり設定に大幅変更があったため、加筆どころか書き直してます。 ※アルファポリス先行公開。 ※表紙はAIにより作成したものです。

ポムポムスライム☆キュルキュルハートピースは転生しないよ♡

あたみん
キャラ文芸
自分でも良くわかんないけど、私には周りのものすべてにハート型のスライムが引っ付いてんのが見えんの。ドンキのグミみたいなものかな。まあ、迷惑な話ではあるんだけど物心ついてからだから慣れていることではある。そのスライムはモノの本質を表すらしくて、見たくないものまで見せられちゃうから人間関係不信街道まっしぐらでクラスでも浮きまくりの陰キャ認定されてんの。そんなだから俗に言うめんどいイジメも受けてんだけどそれすらもあんま心は動かされない現実にタメ息しか出ない。そんな私でも迫りくる出来事に変な能力を駆使して対峙するようになるわけで、ここに闇落ちしないで戦うことを誓いま~す♡

後宮で立派な継母になるために

絹乃
キャラ文芸
母である皇后を喪った4歳の蒼海(ツァンハイ)皇女。未来視のできる皇女の養育者は見つからない。妃嬪の一人である玲華(リンホア)は皇女の継母となることを誓う。しかし玲華の兄が不穏な動きをする。そして玲華の元にやって来たのは、侍女に扮した麗しの青年、凌星(リンシー)だった。凌星は皇子であり、未来を語る蒼海の監視と玲華の兄の様子を探るために派遣された。玲華が得意の側寫術(プロファイリング)を駆使し、娘や凌星と共に兄の陰謀を阻止する継母後宮ミステリー。※表紙は、てんぱる様のフリー素材をお借りしています。

処理中です...