黄昏の花は吸血鬼に愛される

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1章「羽なし」と呼ばれた娘④

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 午後三時を過ぎた頃、登美が戻ってきた。

「遅くなって悪かったね。夕花、休憩は取ったかい? アンタは言わないと中々休まないんだから」
「大丈夫です。ちゃんと取りました。それより──」

 夕花は店の前で倒れた男性の話をした。

「というわけなんです。本当に来るかはわかりませんが、お礼をすると言っていましたから、登美さんに言っておいた方がいいかと思って」

 登美は眉間に皺を寄せ、こめかみをグリッと押した。

「アンタねえ、若い女一人のところに、得体の知れない男を入れるもんじゃないよ」
「あっ、すみません……登美さんの家なのに、勝手なことをしてしまって……」
「アタシのことじゃないよ。夕花、アンタには危機感ってもんがない。今回は何もなかったからよかったけど、次こういうことがあったらすぐに饅頭屋に助けを求めるんだよ! いいね?」

 夕花は素直に頷く。

「そうですよね。本当に具合が悪い人だったなら大変ですから。これからはそうします」
「そういうことを言ってるんじゃないよ。まったくこの子は。あ、そうそう」

 登美はモゴモゴと呟いてから、風呂敷から衣類を取り出して夕花に突き付けた。桃色の布地に白い冬鳥模様の半纏だ。

「夕花、知り合いから古着をもらったんだが、アタシはこの柄が好きじゃなくてね。アンタにあげるよ」
「え、でも……」
「いいから風邪を引く前に着なさい。アンタはいつも寒そうな格好しているんだから!」
「……ありがとうございます」

 半ば強引に被せられるように着た半纏は、綿が入っていて温かい。

「それじゃ、仕事再開だよ。帰る前に今月分の賃金を渡すから、それまでしっかり働きな!」

 そうキビキビ言う登美に頷き、夕花は文机に向かった。

 終業時間になり、夕花は代書屋を出た。日が暮れて気温は下がっていたが、登美に貰った綿入りの半纏のおかげで寒くない。賃金で懐が暖かいのもあって、つい微笑みそうになる顔を引き締めた。

 あたりが薄暗くなってきて、人気のない霊園のそばを通るのは少しだけ恐ろしい。

 幼い頃、母親に教えてもらった吸血鬼の話を思い出してしまうせいだ。綾地町よりさらに遠い下香墨という町には吸血鬼がたくさん住んでいるそうだ。幻羽族の若い女性の血を好み、夜遅くに独り歩きすると攫われてしまうとも伝えられている。人攫いがいるのなら、こんな風に人気の少ない場所は危険だろう。

 ビクビクしながら、早く通り過ぎてしまおうと、急ぎ足で歩いていた。

「ゆ、う、かちゃーん!」

 そんな声と共に突然肩に腕が回され、夕花は肩を震わせた。しかし声は聞き覚えのあるものだ。ホッとして力を抜く。

「わ、九郎くろうくん……? びっくりしたぁ」
「ごめんごめん、驚かせちゃったね」

 夕花に人懐っこい笑みを向けたのは、幼馴染の九郎だった。柔和で優しげな風貌の青年である。彼の母親が神楽家の使用人をしていた縁で、幼い頃から会話をする仲なのだった。

「久しぶりに夕花ちゃんに会えて嬉しくてさ」
「わ、私も九郎くんに会えて嬉しい」

 九郎は夕花が羽なしだと知っても、態度が変わらなかった。幻羽族ではないせいかもしれない。それでも優しく接してくれる九郎に、夕花は昔から仄かな想いを寄せていた。

 神楽家から使用人がどんどん解雇され、九郎の母も数年前に神楽家を辞めてからは、こうして九郎が偶然通りかかって声をかけてくれる時しか会う機会がない。久しぶりに会えた九郎の姿を見て、夕花の白い花のような顔がほころぶ。

 九郎は夕花にサッと手を差し出した。

「もう暗いし家まで送るよ。俺も夜から上山手で仕事だから、同じ方向だし」
「うん、ありがとう」

 夕花は頷く。九郎は上山手で仕事をしているだけあって、夕花よりずっと身綺麗にしている。九郎と一緒の方が、橋門で見張りをしている衛士も快く通してくれることを、これまでの経験により知っていた。それに、好意を抱いている相手と、家までの短い時間ながら共に過ごせるのだ。嬉しくないはずがなかった。

「九郎くん、これから仕事って、いつも大変ね」

 九郎と歩調を合わせながら、夕花はそう言った。九郎はいくつもの仕事を掛け持ちしていると以前聞いていた。

「まあ、ちょっと大変だよ。でも、たくさん稼がないと、母ちゃんのことがあるからさ」

 九郎は柔和な顔を少し曇らせた。

「九郎くんのお母さん、まだ具合が……?」

 なんでも九郎の母親は使用人を辞めた後、無理して働き、体を壊してしまったのだそうだ。それを聞いて、夕花も神楽家の人間として、何も出来ないなりに気になっていたのだ。

「……うん、今は隣町の病院にいるよ。たった一人の母ちゃんだから、大事にしてやらないと。でも、入院代がかなり厳しくてさ……いい治療法があるそうなんだけど、そっちもかなり高額でなかなかね。まあ九郎なだけに苦労してるってわけ」

 九郎はカラカラと笑う。しかしその笑い方は無理をしているのだと如実に伝えてくる。

「あ、あの……九郎くんさえ嫌じゃなければ、少しだけどお金貸そうか?」

 夕花はそう言った。賃金をもらったばかりで懐に余裕がある。登美が夕花は真面目によく働くからと、今月分を多めに包んでくれたのだ。

 九郎は笑顔を引っ込め、眉を下げて八の字にした。目には涙が浮かんでいる。

「ゆ、夕花ちゃん……申し訳ないけど貸してもらっていいかな。俺……この数日、ろくに食べてなくて……ほんとはすごく辛かったんだ」
「うん、もちろん。これくらいしかなくて申し訳ないけど……」

 夕花は貰ったばかりの賃金から半分ほどを九郎に渡した。
 九郎は浮かんだ涙をゴシゴシと袖で擦る。

「ごめんよ。前に借りた分もまだ返せてないのに……もう少し待ってくれたら、この仕事の賃金が入るからさ」

 そう言って夕花の手をしっかり握った。その手の温かさに、夕花の胸はドキドキと音を立てる。

「気にしないで。確か、前は先輩が職場のお金を持って逃げてしまったのでしょう。その前は勤め先が倒産したって。九郎くんが大変なのはわかっているから」

 彼は随分と運が悪いようだ。夕花もお金はないが、それでも登美のおかげでなんとかやっていけている。困った時はお互い様だ。

「そうなんだ。俺、運が悪くてさ。もしかしたら、美人で優しい夕花ちゃんに出会えたことで、人生の運を全部使っちゃったのかもしれないな」

 そんなことを言われ、夕花は頬が熱くなるのを感じた。
 夕花ちゃん、と九郎は甘やかな声で夕花の名前を呼ぶ。

「お金の代わりにはならないけど、これ仕事先でもらったんだ。一粒あげるよ」

 そう言って、角が潰れたキャラメルの箱から一粒取り出して夕花の手のひらに乗せる。

「飯が食えない時に、この一粒を大事に舐めてるんだ」

 また笑顔を取り戻した九郎に、夕花も釣られて微笑んだ。
 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。気付けば神楽家の門の前に着いていた。

「おっと、もう着いちゃった。夕花ちゃん、じゃあ、また!」
「うん、九郎くん、またね」

 夕花は門の横の通用口から入り、玄関を開けた。急いで夕飯の支度をしなければ。
 しかし、玄関には愛菜が仁王立ちで待っていた。

「姉さぁん、今日って、お給料日じゃない?」

 甘えた声でそう言って手を差し出す。

「姉さんは神楽家の人間なんだから、働いた分は家に入れるのが当たり前でしょう。わたしから母様に渡しておいてあげるから」

 強引に賃金が入った紙袋を取り上げた。
 夕花は唇を噛む。神楽家の者どころか、普段は羽なしと蔑まれ、まともに食べさせてもらえない。だというのに給料日になるとこうして借金を取り立てるがごとく、奪われてしまうのだった。

「何よその目。全部は取らないわよ。わたしだって鬼じゃないもの。うわっ、これっぽっちしかないわけ? まあいいや、はいこれ」

 愛菜は紙袋から数枚の紙幣を抜き、残りを突っ返してきた。しかし、もうわずかな金額になってしまっているのが紙袋を触った薄さでわかる。この神楽家を出るために貯金したいのだが、今月も難しそうだった。

 金を受け取ると、用は済んだとばかりに愛菜はそそくさと去っていく。

 その後夕花は、休む間もなく、台所へ向かう。早紀に文句を言われながら夕飯を作り、ほんの少しの残り物を流し込んだ。

 後妻から呼ばれ、朝の愛菜のハンカチのことで叱られた。物差しで腕を叩かれ、冷たい廊下で正座をしばらくした後、ようやく許されてから残りの家事を済ませる。

 痛む腕を押さえて狭い使用人部屋に戻ると、もう深夜だった。体は疲労困憊し、あれだけ暖かい気持ちだったのに、再び夕花の心は冷え切ってしまっていた。

 どれほど頑張ってもなかなか報われない。はあ、とため息を吐いた時、脳裏に九郎の顔が過った。

「そうだ、キャラメル……」

 彼も大変なのに、夕花にキャラメルをくれたのだ。飯が食えない時に大事に舐めるのだと教えてくれて。
 夕花は九郎からもらったキャラメルをそうっと包み紙から剥がし、口に運んだ。

「……ふふ、甘い」

 笑っているのにじわり、と涙が浮かぶ。

 泣くもんか、そう自分に言い聞かせた。優しくしてくれる人だってたくさんいるのだから。夕花は自分を抱きしめるように体を丸めたのだった。
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