迦国あやかし後宮譚

シアノ

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4巻

4-1

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   第一章


 季節は秋になっていた。
 薫春殿くんしゅんでんは花ではなく、だんだんと赤や黄色に染まる色とりどりの葉でいろどられている。
 そんな庭の光景を、私は自室の窓際でぼんやりと眺めていた。
 窓からは涼やかな風が吹き込み、私の頬を優しく撫でていく。心地良く、過ごしやすい季節だ。
 夏の終わりに離宮から戻ってからというもの、こうして何事もない穏やかな日々を享受していた。
 夏は本当に大変だった。雨了うりょうの体調を回復させに向かったはずの離宮で、蛇のあやかしに襲われたのだ。悲しいことに、少なからず犠牲も出てしまった。しかし、自分と星見ほしみの里との繋がりが分かったし、夏の異常な暑さに関しても、無事に解決することが出来たのだ。
 その反動なのだろう。ここ最近はやることがまったくない。
 平和なのはありがたいが、そろそろ退屈で我慢の限界が来てしまいそうだ。
 何かしようかしら、と室内を見回すと、あやかしの猫であるろくが昼寝をしているのが目に留まった。六本の足を器用に折り畳んで丸くなり、気持ち良さそうに眠っている。呼吸をするたびにゆっくりお腹が膨らんでは戻っていく。耳を澄ませば微かにぷうぷうと寝息が聞こえてくる。実に平和極まりない光景だ。そんな姿を見ていると、私まで眠くなってしまう。私はふわぁ、とあくびを噛み殺した。

「ふふ、ろくは気持ち良さそうに寝ていますね」

 幽霊宮女きゅうじょ汪蘭おうらんが唇をほころばせながらそう言った。彼女も変わらず私のそばにいてくれていて、すやすやと眠るろくを優しい目で見つめている。

「本当ね。見ているだけであくびが出ちゃう」

 そう言った時、もう一度あくびが出た。しかも、さっきよりも大きなあくびである。つい口元を押さえて照れ笑いをした。
 汪蘭もクスクスと笑っている。秋の午後らしい穏やかな時間が過ぎていく。
 そんな時、扉を控えめに叩く音がした。

「失礼致します。お茶をお持ちしました」

 茶器の載った盆をたずさえて入ってきたのは、宮女きゅうじょ恩永玉おんえいぎょくだ。テキパキとお茶の準備をして、湯気の立つお茶をそそいでくれた。

「ありがとう。ちょうど飲みたいと思っていたの」
朱妃しゅひ、窓の近くは寒くありませんか?」
「平気よ。風が気持ちいいから」
「わあ、本当にいい風ですね」

 ふわっと入る風を頬に受け、恩永玉は微笑む。
 その微笑みを見ながら、私は少し前に後宮で起きた事件を思い出していた。
 あやかし傀儡くぐつになっていた胡嬪により、後宮に大騒動が起こってから数ヶ月。恐ろしい目にあった宮女きゅうじょたちだったが、変わらず私に仕えてくれていた。あの時に怪我をしてしまった恩永玉もすっかり元気だ。
 思えばまだ寒い春の初めに宮女きゅうじょ募集の掲示を見つけてからというもの、私の周囲ではあやかし絡みの事件が目まぐるしく起こっていた。たかだか半年と少し程度の期間に随分と色々なことが起きたものだ。暇だというのは、これらのことが無事に解決し、平和になったおかげである。
 やっぱり平和が一番よね、と思いながら私は恩永玉がれてくれたお茶を飲み、ほうっと息を吐いた。

「そうだ、朱妃。汪蘭はこの部屋にいらっしゃいますか?」

 ふと、恩永玉はそう言い、汪蘭を捜すようにキョロキョロと見回している。

「汪蘭ならそこよ。ろくが寝ている横辺り」

 突然名前を呼ばれた汪蘭は、きょとんとした顔で首をかしげている。
 恩永玉は汪蘭がいる方向からほんの少しズレた場所に、ペコッと頭を下げた。

「汪蘭、さっきはありがとうございました!」
「まあ、わざわざお礼なんて」

 汪蘭は恥ずかしそうに頬を押さえてそう言う。

「あら、汪蘭が照れてるわ。ねえ恩永玉、何かあったの?」
「ええ、実は恥ずかしいことに、宦官かんがんに頼まれていた仕事を一つ忘れていまして……。それを汪蘭がやっておいてくれたのです。おかげで叱られずにすみました。さすが、元々は陛下にお仕えしていた宮女きゅうじょですね。その気遣いを私も見習わなくては」
「へえ、さすが汪蘭ね」

 私がそう言うと、汪蘭はますます恥ずかしそうに縮こまっている。その姿は、一般的な人々が想像するだろう幽霊の姿から随分とかけ離れていた。

「ほ、ほんの少しお節介をしただけです。あまり気にしないでほしいのですが……」
「いいじゃないの。恩永玉が喜んでくれているのだから」

 私と汪蘭の会話を恩永玉はニコニコして聞いている。いや、恩永玉に聞こえるのは、厳密には私の声だけであるのだが。
 恩永玉には幽霊宮女きゅうじょである汪蘭の姿を見ることも、声を聞くことも出来ない。しかし、汪蘭がいることを知って、今は彼女を尊重し、宮女きゅうじょ仲間として慕っているのだ。大切な人たちがいい関係を築いてくれるのは私にとっても嬉しいことである。

「実は前々から、忙しくて手が回らない仕事や、今日のようにうっかりしていたことを誰かがやってくれていたことがありまして。その時は金苑きんえんや他の宮女きゅうじょがやっておいてくれたのかしら、と思っていたのです。ですが、それも汪蘭のおかげだったんでしょうね。感謝しています」

 胸元に手を当て、微笑む恩永玉の姿は眩しいくらいだ。汪蘭も幽霊ながら顔を赤くしている。
 汪蘭は幽霊だが、頑張れば物に触れることも出来る。これまでもこっそり宮女きゅうじょたちの手助けをしてくれたのだろう。
 私の目はあやかしが見える。それも、生きている人間と同じようにはっきりと。
 そのことを知られたら、宮女きゅうじょたちから気味悪がられ、薫春殿から離れてしまうのではないかと危惧きぐしていたのだが、全て杞憂きゆうだった。薫春殿の宮女きゅうじょたちの度量が広いおかげだが、それだけでなく、身近な幽霊である汪蘭が善良な幽霊だったから受け入れやすかったというのもあるだろう。

「──恐れ入ります。朱妃、少しよろしいでしょうか」

 そんなやりとりの最中、キビキビとした所作で入ってきたのは金苑だった。
 薫春殿の宮女きゅうじょたちのまとめ役で、特にしっかり者の宮女きゅうじょである。

「あら、金苑。どうかしたの?」
「陛下付きの宦官かんがん凛勢りんぜい様よりご連絡がございました。朱妃に執務殿までいらしてほしいとのことです」
「凛勢が? 珍しいわね」
「ご休憩中に申し訳ありません」
「ううん、ちょうど暇してたから構わないわ。それじゃ、出かける用意をしてもらえる?」
「かしこまりました」

 一体何の用だろう。
 私は首をひねるが思い当たらない。
 付き添いとして金苑を伴い、薫春殿を出た。
 執務殿は外廷がいていにある建物のうちの一つで、その名前の通り、皇帝である雨了が主に執務を執り行っている宮殿である。
 後宮から執務殿のある外廷がいていに出るためには大門を通らなければならない。大門は固く閉じられて、複数の衛士えじたちが常に出入りを見張っている。基本的に後宮の女性は簡単には出られないようになっていた。
 しかし今回は既に話が通っていたようだ。私の姿を見た衛士えじが外に向かって合図をすると、大門がゆっくりと開かれる。
 大門が開いた先には雨了付きの宦官かんがん、凛勢が背筋をスッと伸ばして待っていた。私の顔を見て、お手本のような綺麗な拝礼をする。

「朱妃、お待ちしておりました。急にお呼び立てして申し訳ありません」

 凛勢は雨了より年上ながら、小柄で少年のような体付きをしている。おそらく若くして宦官かんがんになったせいなのだろう。
 しかも並大抵の女性なら、ポッと顔を赤らめるだろう美形なのだ。衛士えじですら、凛勢にチラチラと視線を送っている。
 しかし金苑はそんな凛勢に対して顔色一つ変えず、礼儀正しく挨拶を返した。さすが薫春殿自慢の宮女きゅうじょである。

「凛勢、何かあったの?」
「ここではなんですので、こちらに。陛下も執務殿にいらっしゃいます」

 凛勢の態度からして、雨了に何かあったとか、そういう悪い話ではなさそうだ。
 凛勢に付いていくと、以前にも来たことがある執務殿の一室に通される。
 部屋には雨了が待っていた。
 部屋の奥側にある長椅子に深く腰掛けて、手元の書類らしき紙束に視線を落としている。もうそれだけで絵にしたくなるほど格好いい。
 また、部屋の隅で仁王立ちしている近衛の秋維成しゅういせいの姿が見えた。私に黙礼だけして護衛の仕事を続けている。女好きで軽薄な男だが、さすがに護衛中は真面目にしている様子だ。
 私が到着した物音に気付いたらしく、雨了は読んでいた書類から視線を上げた。
 龍の血を引く青い瞳が、私を見た瞬間キラッときらめく。黒絹こっけんのような長い髪もサラサラと揺れた。何度見ても見惚みとれてしまう美しさだ。

莉珠りじゅ! 急に呼び立ててしまい、すまなかったな」

 快活な声になんだか嬉しくなってしまう。

「ううん、平気。暇だったから」
「本当は薫春殿まで出向きたかったのだが、凛勢が少ししか時間をくれなかったのだ」

 雨了は唇をとがらせた。美丈夫びじょうふだが私の前では子供みたいな表情をする。そんなところも好きだ。

「ええ、仕事が溜まっておりますので。陛下、早く本題に」

 凛勢に急かされ、雨了はほらな、と言わんばかりの苦虫を噛み潰した顔だ。しかし凛勢は眉一つ動かさず澄ましている。
 雨了の向かいに座ると、雨了は真剣な面持ちで口を開いた。

「実はな、莉珠に貴妃きひの位を授けようと考えているのだ」
「えっ、貴妃きひ? わ、私が?」

 思いがけない話だったので、私は大きく目を見開き、己を指差してしまった。
 雨了はコクリと頷く。

「ああ。莉珠が後宮に入ってそろそろ半年といったところか。頃合いとしては悪くないはずだ」

 当たり前だが貴妃きひは妃より上の身分となるし、迦国かのくにでは特別な地位のはずだ。貴妃きひや皇后は亡くなった後も皇帝の霊廟れいびょうで共にまつられているし、歴史書にも名が残る。そして現状の後宮内で一番偉くなるわけだ。雨了の従姉妹いとこで、公主でもある青妃せいひよりも。普通に考えれば大出世なのである。
 しかし私は嬉しいよりも先に困惑してしまった。
 なんというか、そうなる自分が想像つかない。雨了の愛妃と呼ばれて半年くらい経つのだが、貴妃きひになる日が来るかもしれないなんて、私は考えたこともなかったのだ。

「そなたは俺の命を何度も救ってくれた。離宮での大蛇退治の件でも、兵士から女神の化身だの、龍の守護神だのと呼ばれていただろう。その話が一般にも広まっているようでな。そなたの人気が高まっている」

 それを聞いて頬がカーッと熱くなる。さすがに女神の化身などと呼ばれるのは恥ずかしい。

「ちょ、ちょっと、待って。その話ってそんなに広まってるの? は、恥ずかしいんだけどっ……!」
「人気というものは存外に大切なのだぞ。俺からの寵愛ちょうあいが深く、かつ一般の人気も高いそなたであれば、貴妃きひの位を授けるとしても、従属国や後宮に妃嬪ひひんを差し出している者らも口出し出来まい」

 そういうものなのか、と首をかしげていると、凛勢が説明をしてくれる。

「龍の血を引く尊き方々は、ご存知の通り、ただ一人の愛する方を見つけると、他の異性に目がいかなくなるものです。しかし理解の浅い者も少なからずいるのですよ。特に娘を後宮に差し出している者ほどそう考えるようですね。貴妃きひとそれ以外の妃嬪ひひんでは明確に差がついてしまいますから。娘を使い、我が国を操ろうと目論もくろむ者、または、男であれば多くの妃嬪をはべらせるのが甲斐性、などと勘違いしている下半身で動くやからも──失礼。朱妃に汚い言葉をお聞かせしてしまいました。ご容赦を。とにかく、朱妃の人気が高まっているこの機会を逃さぬうちに貴妃きひの位を、と陛下はお考えなのです」

 凛勢の言葉に私は頷く。

「なるほど、事情は理解したわ。ただ私、貴妃きひより偉いって程度のことしか知らないのよね。皇后が一番偉いから、二番目だったかしら」
「はい。ただ、皇后は最高位ではありますが、我が国では世継ぎの母としての意味合いが強いですね。陛下と朱妃の間にお世継ぎが生まれ、その御子が立太子したあかつきには皇后の位となりますが、それまでは貴妃きひが最高位であり、実質上の第一夫人と考えていただいて問題ございません」

 世継ぎ、つまりは雨了との赤ちゃんが生まれたら。そういうのを考えるのはとても気恥ずかしい。いずれはそうなるのもしれないが、まだ先の話だ。それより第一夫人という言い方にドキドキしてしまった。貴妃きひは、妃とたった一文字違うだけではない、真に特別な立場なのだ。

貴妃きひとなられましたら、今より権限が大きくなります。外遊に付いていくことも可能になるでしょう。学んでいただくことも増えますが、同時にやれることも広がります。いかがでしょう」

 凛勢の説明で特に私が気になったのは、外遊という言葉である。

「外遊ってことは……私が貴妃きひになったら、もし雨了がくにに行くとしても、付いていけるってことよね?」
「そうなります。本格的な戦となれば難しいこともありますが、視察などの行幸ぎょうこうであれば。また、今日のように執務殿にいらしていただくのも、もう少し簡単になります。貴妃きひの権限内で陛下の執務をお手伝いしていただくことも可能になりますし、休憩の際にも陛下とお過ごしいただけます。共に過ごす時間が増えることは間違いありません」

 それを聞いて、私は前のめりになった。
 少しでも雨了の手伝いになれるなら嬉しい。休憩時に会えるのなら尚更だ。

「それはいいわね。私は特別なことは出来ないけれど、それでも後宮でダラダラ過ごすだけなのはあまり性に合わないんだもの。少しでも手伝えるならやりたいわ!」

 まさにここしばらく、暇すぎてどうにかしたいと思っていたくらいだ。
 雨了も頷く。

「ああ。これまでは夜にほんのひととき会うので精一杯だったからな。昼にも莉珠の顔を見られるようになるのは嬉しい。休憩時に莉珠に癒してもらえるならば、俺の仕事も今よりはかどるだろう」

 雨了が目を細めて微笑みながら言う。そう思ってくれたのが嬉しくて、私の方も頬が緩んでしまう。輝く青い瞳をじっと見つめると、雨了も私を優しく視線を返してくれる。
 そんな、ほんわかした時間が流れていく──

「……ほう、陛下。そのお言葉、しかと覚えました」

 ほわほわとした空気を切り裂くような冷たい声は凛勢のものだった。

はかどるとおっしゃるのでしたら、今後はこれ以上の仕事をお渡ししても大丈夫ということですね。ちょうど、仕事は山積みでございます。こうしている間にも着々と増えておりますから」

 凛勢は美しい顔でニッコリと笑った。
 しかし、その笑みの冷ややかで恐ろしいことといったら。
 私だけでなく雨了までブルッと震えてしまうほどだ。部屋の温度が一、二度下がったような気さえしてしまう。

「わ、悪かった。時間がないのだったな。凛勢、先を続けてくれ」
「では、詳しい説明をさせていただきます」

 凛勢は表情をスッと戻す。私と雨了は凛勢に向かって、黙ってコクコクと頷いたのだった。


「やりましたね、朱妃! とうとう貴妃きひに……! 本当に嬉しゅうございます」

 話を終えて後宮に戻ってくるなり、金苑は満面の笑みで言った。
 凛勢や秋維成のような美男子を前にしても、ピクリとも動かなかった金苑の表情筋が目いっぱい仕事をし、頬まで紅潮している。
 しかし自分の声が大きかったと気付いたのか、金苑は慌てて口元を押さえた。まだこの件はすぐには公表しないことになっているのだ。まだ大門近くで、周囲には誰もいないが、念には念を入れなければならない。

「失礼しました。私は朱妃が貴妃きひになるのは、もちろん賛成でございます。ゆくゆくは立派な皇后になられることでしょう。その日が来るのが今から楽しみです」

 金苑は小声でそう言った。

「……でも、式典が大変そうなのよね」

 あの後、凛勢から貴妃きひの位を授かる式典について説明を受けたのだ。それを思い出して、はあ、と重苦しい息を吐く。

「楽器演奏か、舞、歌のどれかを披露する、だなんて……」

 陛下から特別に愛されるほど優れた妃であることを示すために、式典にて、そのどれかを披露するのがしきたりなのだという。
 公式な式典だから、入宮の儀を行った龍圭殿りゅうけいでんで、あの時よりもさらに多くの官吏や、くにのお偉いさんを多数呼んだ中で披露するらしい。考えただけで胃がギュッと縮む気がする。
 本来なら一年程度は練習期間があるらしいのだが、雨了としてはなるべく早く、半年以内に式典を行いたいそうだ。

「情勢を考えるとちょうどいい時期ということなのでしょうが、練習期間が短いですね。朱妃はそれらのご経験は?」

 私は力なく首を振った。

「実は全然ないのよ。私、祖父から勉強は習っていたけれど、そういう教養まではちょっとね……」

 祖父は幼い私が雨了の鱗を持って帰ったその日から、いずれ後宮に入ることを想定していたらしく、読み書き計算はしっかり教え込んでくれた。しかし、祖父自身も習ったことのない楽器などは教えようがなかったのだろう。

「金苑は出来るの?」
「一応、一通りは。ただ、どれも得意というほどではありませんでした」

 宮女きゅうじょになれるような家柄の子女なら、何かしらの楽器で一、二曲は披露出来るようにと習うものらしい。そういえば、しゅ家にいた頃、朱華しゅかは習い事に行ったり、部屋から楽器を演奏する音が聞こえたりしていた時期があったのを思い出す。こうなると知っていたら、立ち聞きでもしてこっそり練習しておいたのに。

「大丈夫です。教師を呼んでくれるとのことですし、案じることはありません」
「うん、そうね。やる前からあんまり不安がっていたら良くないわね」
「ええ。さすが朱妃です」

 今後の練習は今日のように、執務殿の一室を借りて行うとのことだ。穏やかな日々もよかったが、少々暇を持て余していたところである。ちょうどいいかもしれない。

「ただ、外廷がいていに出るためには、毎回付き添いの宮女きゅうじょが必要なのよね。薫春殿はただでさえ人手が足りなくて、仕事もギリギリで回しているでしょう。私の都合でもっと忙しくさせてしまうのは申し訳ないわ」
「いえ、そちらはお気になさらず。私たち朱妃付きの宮女きゅうじょは、朱妃のために動くのが仕事です。それに今回のことは、薫春殿の宮女きゅうじょたちにとっても我がことのように誇らしいのですから」
「ありがとね」

 本当に、薫春殿の宮女きゅうじょは素晴らしい。


 しかし、練習は私が思っていたより、ずっと大変だった。
 琵琶びわそう、そして笛。楽器の種類はいくつもあるが、よく演奏されるのはこの三種なのだという。
 一流の演奏家が教師として呼ばれ、執務殿の一室にて練習を行うことになったのだが。

「えーと、こう?」

 やればやるほど、教師の顔が曇っていく。

運指うんしが違います。そこはもっと強く、次は弱く……」

 教師は何度も実践してくれるのだが、思ったように指は動かない。そもそも譜面の見方も分からないところから始まって、両手を別々に動かすことすら難易度が高い。
 なんせ楽器を触った経験などほとんどない。手習いを始めたばかりの幼子と同じくらいだ。ここから数ヶ月程度で、披露して恥ずかしくない演奏を行うのは難しいかもしれない。
 自分でもそう思ったが、教師も同様だったらしく、各楽器を習って一週間ほど経ったところで教師たちから早々にさじを投げられてしまった。それも三種の楽器全て。

「朱妃には楽器演奏は向いていないようですね」

 凛勢からもため息混じりにそう言われてしまった。思わず眉をひそめるほど酷かったらしい。

「う……ごめんなさい」

 申し訳なくて縮こまりたくなる。
 さすがに可哀想に思ったのか、凛勢の態度が軟化した。

「謝ることではありません。基礎からだと時間がかかるものです。星見の一族は笛の演奏に長けているようでしたので、笛ならと思ったのですが……笛を扱うには肺活量が足りていないのかもしれませんね」

 従兄弟いとこである星見の一族の生き残り、昂翔輝こうしょうきは子供ながらたくみに笛を吹いていた。昂翔輝の母で私の叔母にあたる昂聖樹せいじゅも笛が上手だったと聞く。おそらく、星見の一族は代々笛が上手いのだろう。私にも才能の片鱗があるかも、と少し期待していたのだが。

「全然ダメだったわ……。確かに肺活量はあんまりないかもしれないわね……」

 そういえば、夏の大蛇退治の後に天狗てんこうと話す機会があったのだが、天狗から笛が下手くそでしょ、と言われてしまっていたのを思い出す。歴代の星見の一族を知っている天狗から、見ただけでそう言われてしまうくらいなのだ。きっと壊滅的に才能がないのだろう。


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