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3巻
3-3
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久方ぶりの薫春殿には宦官が何名かいて、今も作業中のようだった。
「朱妃、申し訳ございません。室内はまだお通し出来る状況になく……」
作業をしている宦官のまとめ役がすぐに手を止めて、申し訳なさそうに跪いて頭を垂れる。
「ここで構わないわ。貴方たちも暑い中ありがとう。あの、黒猫を見なかった? 私の飼い猫なのよ。青妃の宮女にお願いして餌を与えてもらっているのだけれど」
「はい、器用に隙間から出入りしているようでございます。日中は、あまり姿を現さないのですが、朝や夕方には庭の方でお見かけします」
宦官がそう言った時、私の声を聞きつけてか、じゅうっとろくの声が聞こえた。
茂みからピョコッと顔を出し、頭には葉っぱをくっつけている。
「ろく!」
「じゅううっ!」
ろくはピョーンと飛び出して、私の腕の中に収まった。もうすっかり元気な様子だ。
一月前、薫春殿が襲われた際、朱華を操る白い石を破壊するのに、ろくはボロボロになるまで勇敢に戦ってくれたのだ。
「ろく! 良かった……」
抱き締めると頬に触れる柔らかな毛並みは綺麗なままだし、特に痩せてもいない。
ペロッと頬をザラザラの舌で舐められる。それすらも変わりなく、胸に愛しさが込み上げた。
「じゅう、じゅう!」
ろくはしきりに鳴きながらとある一方を示している。そちらを見れば少し離れた場所に幽霊宮女の汪蘭が微笑んでいた。私のそばに宦官がいるし、安麗俐も一緒だからあえて近付かないようにしているのだろう。
幽霊ながらも元気そうに見える汪蘭に安心し、私は彼女にだけ分かるように小さく頷いた。合図はちゃんと伝わったようで汪蘭の笑みが深くなる。
「ろく、汪蘭をよろしくね。雨了が元気になったら私も薫春殿に戻ってくるから」
そう耳元で囁けば、ろくは了解の意を示して、高らかにじゅう、と鳴いた。
それからぴょんと私の腕の中から飛び降りて汪蘭の方へ戻っていく。尻尾がピーンと真っ直ぐに立ち、僅かに揺れていた。
汪蘭とろくならしばらくの間、留守を任せられるだろう。私はそちらに向かって小さく手を振った。
「安麗俐。お待たせ」
「いえ、構いません。もうよろしいのですか」
「ええ。それと、あともう一箇所だけ行きたいの」
「承知いたしました」
安麗俐は表情を変えず、汪蘭とろくがいる方をじいっと見つめている。私を見ている時と似た目付きだ。やはり鋭い眼差しに見えるのだが、まさか彼女も妖が見える体質だったりするのだろうか。
例えば恩永玉は幽霊宮女の汪蘭の姿がまったく見えなかったが、人によってはうっすら見えたりするのだという。しかしろくの足が六本に見えると宮女の誰からも指摘されたことはなかったから油断していた。
「あ、あの……どうかした?」
私は恐る恐る尋ねる。
「なんでもございません」
「そ、そう……」
話はそれで途絶えてしまう。どっちなのか分からず、私は決まり悪さに手をもぞもぞとさせた。
無言で歩くうちに、古井戸の広場に続く道に差し掛かる。
「案麗俐にはここで待っていてほしいのだけれど……」
「いえ、朱妃をお一人にするわけには参りません」
困った。古井戸の広場には円茘がいるのだ。円茘は幽霊なのだろうか、私は詳しいことは知らない。笑った顔は可愛らしいし、甘いものや茘枝が大好きなのだが、見た目は少し恐ろしい。なんせ斬られた己の首を胸の前で抱えているのだ。
安麗俐の先程の態度も気になるし、もし幽霊が見えてしまう体質だとしたら、円茘を見せるのはちょっとまずい。このまま連れて行って騒ぎにはしたくない。それなら会いたいのを我慢して引き返すべきだろうか。
「朱妃、こちらは幽霊が出るという古井戸でしたか」
「し、知っているの? ええと、怖くはない?」
「噂話だけですが。しかしご安心ください。幽霊など恐れはしません」
「あの、一応聞くけれど、安麗俐は幽霊を見たことって……」
「ございません。武の達人であれば妖の気配にも勘付くと聞いたことがございますが、恥ずかしながら私はまだその域に達しておりません」
なるほど。では先程ろくや汪蘭の方をじっと見ていたのは、たまたまのようだ。
「分かったわ。じゃあ行きましょう。ちょっとお祈りとかするから、その間だけ少し離れていてもらえるかしら」
「はい」
せっかくここまで来て円茘と話せないのも味気ない。何より彼女は恩人でもある。直接お礼を言いたいのだ。
私は安麗俐を連れて古井戸の広場に向かった。
井戸の前には円茘がいつものように立っていた。足元に台が置かれ、空の皿があるのはきっと頼んだ通り、青妃の宮女がお供えを置いてくれているのだろう。
円茘は私に気が付き、ニコッと微笑むものの、私の背後にくっついている安麗俐を見て目を丸くした。私がここに来る時はいつも一人だったから驚いているようだ。
「安麗俐、ここまででいいわ」
「しかし井戸の近くは危険では」
「そこの台の手前までだから。井戸の間近には行かないって約束する」
「はい。それくらいでしたら」
数歩離れる程度なら許してもらえるらしい。
私は安麗俐に背を向けて、円茘のそばに寄った。お祈りをすると言った手前、手をそれっぽく組み、円茘に向けて囁いた。
「円茘、久しぶり。こないだは私と雨了を助けてくれてありがとうね。おかげで無事に逃げられたのよ」
円茘は戸惑うように安麗俐の方へと視線をチラチラ向けていたが、私がこっそりお礼を言うと胸の前に抱えた顔に可愛らしい笑みを浮かべた。
「青妃に頼んでお供えしてもらっているけど、ちゃんと美味しいもの食べている?」
そう聞けば、抱えている首を元気に縦に振った。
「そう、良かった。実はね、雨了の静養で少し遠くに行くのよ。でも、元気になったら戻ってくるし、そうしたらまた改めてお礼に美味しいものを持ってくるから。それまで待っていて」
またブン、と首を縦に振る円茘。嬉しそうに口元が緩んでいる。私もつい笑ってしまった。
「茘枝ね? なるべくたくさん用意してもらうから」
そう囁けば目をキラキラさせた。
円茘は喋ることは出来ない。しかし意思疎通は出来るし、悪い妖ではない。
私と雨了は妖である玉石に窮地に追いやられたけれど、同じく妖に何度も救われている。人間だって同様だ。世の中には善人も悪人もいる。そして善人だとしても、時に唆されて、悪事に手を染めてしまうことだってある。善悪は簡単に割り切れるものではないのだ。
(安麗俐とも、いつかは打ち解けられるかもしれないし)
そう思いながら振り返る。
安麗俐は無表情で私のお祈りが終わるのを待っている。少し離れた場所でピクリとも動かず背筋を伸ばして真っ直ぐに立っていた。私が見ていなくてもまったく気を緩めることなくしゃんと伸びた背筋は、彼女の真面目な性格を表しているのだろう。
「お待たせ。月影宮に戻りましょうか」
「はい」
重々しく頷く安麗俐。彼女だって、ただ表情が読みにくいだけなのかもしれない。この暑い中、後宮内をウロウロする私に文句の一つも言わず付き添ってくれたのだ。そう思うと自然と笑みが浮かぶ。
「安麗俐、付き合ってくれてありがとうね」
「いえ。仕事ですから」
しかしやはり安麗俐はじいっと私を射すくめるような目で見つめてくる。
「あの……私に何か付いているかしら?」
「いいえ」
首を傾げていると、ようやく視線は外された。特に理由なんてなく、無意識なのかもしれない。しかしどうにも眼光が鋭いので、睨んでいるのかとつい聞きたくなってしまう。しかし聞いたところで答えてくれないだろう。
――うん、分かり合うにはまだまだ前途多難のようだ。
いよいよ出立の日、朝日が出た頃に起こされた。
旅に出ると言っても妃の私は何の準備もない。忙しいのは周囲だけだ。
陸寧に身支度を整えてもらい、あくびを噛み殺して外へ出ると、馬車数台が並んでいた。既に荷物の積み込みもされているようだ。宦官だけでなく、兵士や従者が多数立ち働いている。さすがにここにいる全員ではないのだろうが、結構な人数が共に向かうようだ。
しかし、まだ早朝だというのに既にじっとりと暑い。馬もなんだか不機嫌そうに嘶いている。
「おはようございます、朱妃」
そんな暑さの中、凛勢は汗一つかかず、涼しげな顔で采配を振っている。一体、凛勢の汗腺はどうなっているのだろうか。
「おはよう、凛勢。すごい馬車ね」
おそらくこの中で一番大きくて立派な馬車に雨了が乗るのだろう。一度乗ったことのある馬車よりずっと大きい。そう仰ぎ見るが、凛勢は首を横に振る。
「いえ、陛下がお乗りになる馬車として、全く相応しくありません」
凛勢は冷ややかな目で馬車を見ている。
「しかし今回はお忍びになりますから。出来る限り目立たない意匠で、かつ寝台ごとお運び出来る大きさに該当する馬車がこれくらいしかありませんでした」
「寝台ごと運ぶの? そうね、馬車とはいえ、座っているのも疲れるでしょうね」
それだけ雨了の体力が落ちているのだから配慮が必要なのだ。
「はい。陛下の体調を最優先にしながら参ります。朱妃はその隣の馬車となっております。準備がお済みでしたら、どうぞご乗車を」
「あの……私も雨了と同じ馬車に乗るのは駄目かしら?」
凛勢から指示され、私は眉を寄せてそう食い下がった。ほとんど寝ているとは言え、せめて移動中くらいは雨了のそばにいたかった。
だが私のそんな気持ちは凛勢にあっさりと却下されてしまう。
「なりません。陛下のお乗りになる馬車は寝台が入るため、中が狭くなっております。空いた場所に近衛と私が乗り込みます。朱妃のお座りになる場所がございません。どうかご了承ください」
凛勢の言うことはまさしく正論だ。
雨了を守る近衛と、雨了の身の回りの世話をする凛勢は必須だし、私がいても役に立たない。いや、狭いなら邪魔にしかならない。
「近衛で最も腕の立つ秋維成がおりますから、道中もどうぞご安心を」
「秋維成?」
聞き覚えのある名前だ。どこで聞いたのだったか。私は首を捻る。
「ええ、朱妃にご挨拶させましょう」
凛勢が片手を挙げると、馬のそばにいた男性がやってきて私の前に跪いた。軽装だが胸当てをしており、腰には剣を帯びていた。
「秋維成と申します。この度は朱妃にお目通りが叶い、恐悦至極に存じます」
近衛はただの兵ではない。皇帝の警護のために腕の立つ武官だけで構成されているそうだ。凛勢曰く、その中でも最も腕が立つ男。だから秋維成が想像していたよりもずっと若いことに驚き、更に珍しい髪の色に私は目を見開いた。
「赤い髪……」
赤毛というのだろうか。日に焼けて茶色っぽくなった髪とも違う、艶のある赤銅色をしている。
「ああ、この髪ですか。母方が南方の属国の血筋でありますので」
秋維成はニッと笑う。
よくよく見れば瞳は榛色をしている。顔立ちもどことなく外つ国の空気を感じさせた。
年は雨了より幾つか年上といったくらいか。背が高く、隣にいる凛勢が男性にしては小柄な方だから随分と身長差がある。もしかすると雨了よりも大きいかもしれない。近衛だけあってがっしりとした立派な体格をしている。それでいて厳つさは感じさせない。見目麗しく、まるで物語で読んだ外つ国の騎士のような雰囲気だ。
「あ、思い出した! 以前うりょ……コホン、陛下がいざとなったら頼れって言っていた人だわ」
秋維成の名前に聞き覚えがあるはずだ。そしてその発言が出るということは、それだけ雨了の信頼も厚いのだろう。
「なんと……誠に光栄にございます。陛下からのお言葉のみならず、麗しい朱妃にこの秋維成の名を覚えていただけているとは」
秋維成はそう言いながら、片目をパチリと瞑ってみせた。顔立ちが整っていることもあり、いかにも色男といった仕草である。私はついつい顔が引き攣る。きっと秋維成には近衛としての実力があるのだろう。しかしどうにも軽薄そうなのが鼻についた。
「と、まあ堅苦しいのは苦手でして。どうか俺相手には気楽にお過ごしください」
胸に手を当て、そう言う秋維成に、凛勢は冷たい視線を向ける。
「秋維成、朱妃に失礼な態度を取らないように」
「おっと。朱妃、申し訳ありません。どうにも武ばかりの不調法者で」
凛勢にそんな冷ややかな声を出されても秋維成はケロッとしている。私は凛勢にあんな風に言われたら、反射的に謝ってしまいたくなるというのに。武人だけあって胆力もすごいのだろうか。
「ま、まあ、その辺りは臨機応変にしましょうよ。私も堅苦しいのはちょっと……」
「いやあ、さすが陛下の愛妃。話が分かるお方だ」
秋維成を庇うつもりはないが、雨了もなかなか目覚めないし、このままでは旅の間に息が詰まってしまいそうだ。そう思っての発言だったのだが、藪蛇だったかもしれない。
「秋維成。貴方は少し黙っていてください」
凛勢の冷ややかな声が飛んだ。そして視線はすぐ私に向かい、思わず背筋を伸ばす。
「――朱妃、臣下に対し、そういった態度はあまりよろしくありません。陛下の格を下げることに繋がります。ご自覚を持ち、今後は改めてください」
凛勢の眉間にくっきりと皺が刻まれている。冷たい視線も相まって背筋がゾッとしてしまう。
「わ、分かってる。でも今回は陛下の静養のためにお忍びで行くのでしょう? 人前でもそんなに畏まられると、すぐバレて騒ぎになってしまうんじゃないかしら」
「確かにそうですが――」
まずい。なんだか雲行きが怪しい。私だって喧嘩をしたいわけではないのだ。そもそも凛勢は口も達者そうだ。
私は慌てて話を変えることにした。
「あ、そういえば二人は陛下に仕えて長いのかしら? そのあたり一度聞いてみたかったのよね」
凛勢はピクリと片眉を上げたが、それ以上の追及はせずに私の問いに答えてくれた。
「私は八年、この秋維成は五年ほど陛下にお仕えしております」
「へえ、八年! じゃあ陛下が子供の頃からなのね」
思いの外長い。やはり凛勢は年齢が分かりにくいだけで雨了よりも年上のようだ。
「私が宦官となったのはまだ上皇陛下の御世の頃でした。当時、陛下は太子として、政務を本格的に学び始めておりました」
「それだけ長い期間仕えているのなら、陛下からしても心が許せるのは当然ね」
「お心を許していただいているかはともかく、臣としてこの身を陛下に捧げるのは当然のことです」
凛勢の声が柔らかくなる。ほんのちょこっと態度が軟化した気がしてホッとした。
「俺の方は父が陛下の武芸指南役をしていたことがあるものですから。幼馴染というほど気安くはありませんが、それもあって近衛に引き立てていただいたのです」
「じゃあ親子二代で武芸に優れているのね!」
「はい。とはいえ、親の七光りとならぬよう、武芸を磨き続けて参りましたから、この旅でも陛下と朱妃をこの身に代えてもお守りいたします」
「ええ、よろしくね、秋維成。それから凛勢も。二人がいると心強いわ」
二人は、はっ、と私に礼を取った。よし、なんとかいい感じに誤魔化せた。離宮へ向かう道中でギスギスするのはごめんだ。
凛勢はそのまませかせかと仕事に戻っていく。忙しないが、それだけ采配することが多いのだろう。
「朱妃、馬車の準備が整いました。どうぞこちらへ」
「分かったわ」
この旅に同行してくれる陸寧が呼びに来たので私は頷く。そのまま馬車に向かおうとした私だが、当の陸寧にクイッと袖を引かれた。
「あのぉ朱妃、よろしければご紹介を……」
陸寧はそう言いながら、秋維成を上目遣いで見つめている。
おや、陸寧はこういう人が好みらしい。確かに秋維成は色男だし、普段異性に会うことの少ない宮女ではのぼせ上がってしまうのも無理もないのかもしれない。
秋維成は慣れたように歯を見せて微笑みかけ、陸寧はポッと頬を染めた。
「彼女は陸寧よ。月影宮の宮女なのだけど、私の身の回りのことをしてもらうために同行してもらうの」
「陸寧と申します。武芸並びなしと称される秋維成様にお目にかかれ、誠に光栄にございます」
陸寧は淑やかに秋維成に挨拶をした。
「秋維成だ。陛下の近衛をしている。これほどの美女と同行出来るとはこちらこそ光栄だ。よろしくな」
さらりと出る甘い言葉に陸寧は頬を押さえ、ほう、と息を吐いてうっとりと見つめている。
「その、わ、わたくしのお茶の腕前は、上皇陛下からも覚えめでたく、秋維成様にも是非一度ご披露をと思っておりました。まさかこのような機会があるとは――」
陸寧は顔を赤くして秋維成に必死に言葉を紡いでいる。
しかし、暑い。陸寧の頑張りを見守っていたが長くなりそうだ。日が昇ってきて、早朝と思えない暑さに私は手巾を取り出して汗を拭う。馬車の準備に思いがけず時間がかかり日も高くなってきたため、暑さもひとしおだ。
「あの、どなたか……こちらの荷物はどちらに運べば……」
そんな中、困り顔で荷物を抱え、右往左往している従僕に気が付いた。凛勢は忙しそうに動き回っていて捕まらないのだろう。そして陸寧は相変わらず秋維成にべったりだ。私は暑い中不憫な従僕に声をかけた。
「あ、それは一番後ろの馬車でいいはずよ」
「しゅ、朱妃でいらっしゃいますか! 申し訳ありません。お手間をおかけしてしまい……」
「いいの、いいの。暑くて大変だけど残りの荷物もよろしくね」
「は、ははーっ!」
従僕は畏まって体が折れてしまうのではというくらい頭を下げた。
「……悪いことしたかしら。それにしても暑いわ」
そう呟くと、不意に涼しくなる。不思議に思ったのも束の間、私の真後ろに安麗俐が立っていた。
「わっ、ビックリした!」
背の高い安麗俐の陰に入ったから涼しく感じたのだ。安麗俐は朝の爽やかさを微塵も感じさせない、いつもの仏頂面だ。
「驚かせてしまいましたか。急に近寄り、申し訳ありませんでした」
「ううん。足音がしなかったものだから」
「陸寧も同行すると伺っていましたが、いないのですか」
「あっちよ」
陸寧はまだ秋維成に張り付き、何事かを話しかけている。さすがに秋維成もうんざりしているようだ。
「ああ分かった、分かった。もう話は結構だ。――朱妃、そちらの美しい方は?」
秋維成は話を無理矢理打ち切り、こちらに歩み寄ってくる。
「秋維成、彼女は私の護衛よ」
挨拶するよう促すと安麗俐はビシッと礼を取った。
「月影宮にて護衛女官をしております安麗俐と申します。この度は朱妃の護衛を務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
「安麗俐か、美しい名だな。俺は秋維成だ。実は先程から気になっていたんだ」
秋維成は外つ国の騎士のような風貌に甘い笑みを浮かべた。
「すぐそばに来るまで朱妃が気が付かれなかったのも無理はありません。彼女の立ち振る舞いは武人として素晴らしい。足運びが綺麗でまったく隙がない」
秋維成はベタ褒めである。陸寧はそんな秋維成を追いかけてきて唇を尖らせた。秋維成に無視された形になってしまい、気分を害してしまったようだ
「ひどい方っ……わたくしがまだ話している最中でしたのに!」
「悪いが、自分の本分を放ったらかしにするようなのは、どんな美女でもお断りでね」
「まあっ!」
陸寧は顔を真っ赤にし、秋維成をすごい目で睨んでいる。
とはいえ安麗俐は褒め殺す秋維成に眉一つ上げることさえしなかった。
「朱妃、挨拶はもう済みました。暑い外ではなく、どうぞ馬車に」
「待ってくれ。あんたは姿勢がいいし、体幹がしっかりしている。さぞかし手練れなのだろうと思ってな。得意武器はなんだ? 一度手合わせをしてみたい!」
安麗俐にそう食い下がる秋維成。
当の安麗俐は頬を赤らめるどころか迷惑そうに眉を寄せた。
「朱妃、申し訳ございません。室内はまだお通し出来る状況になく……」
作業をしている宦官のまとめ役がすぐに手を止めて、申し訳なさそうに跪いて頭を垂れる。
「ここで構わないわ。貴方たちも暑い中ありがとう。あの、黒猫を見なかった? 私の飼い猫なのよ。青妃の宮女にお願いして餌を与えてもらっているのだけれど」
「はい、器用に隙間から出入りしているようでございます。日中は、あまり姿を現さないのですが、朝や夕方には庭の方でお見かけします」
宦官がそう言った時、私の声を聞きつけてか、じゅうっとろくの声が聞こえた。
茂みからピョコッと顔を出し、頭には葉っぱをくっつけている。
「ろく!」
「じゅううっ!」
ろくはピョーンと飛び出して、私の腕の中に収まった。もうすっかり元気な様子だ。
一月前、薫春殿が襲われた際、朱華を操る白い石を破壊するのに、ろくはボロボロになるまで勇敢に戦ってくれたのだ。
「ろく! 良かった……」
抱き締めると頬に触れる柔らかな毛並みは綺麗なままだし、特に痩せてもいない。
ペロッと頬をザラザラの舌で舐められる。それすらも変わりなく、胸に愛しさが込み上げた。
「じゅう、じゅう!」
ろくはしきりに鳴きながらとある一方を示している。そちらを見れば少し離れた場所に幽霊宮女の汪蘭が微笑んでいた。私のそばに宦官がいるし、安麗俐も一緒だからあえて近付かないようにしているのだろう。
幽霊ながらも元気そうに見える汪蘭に安心し、私は彼女にだけ分かるように小さく頷いた。合図はちゃんと伝わったようで汪蘭の笑みが深くなる。
「ろく、汪蘭をよろしくね。雨了が元気になったら私も薫春殿に戻ってくるから」
そう耳元で囁けば、ろくは了解の意を示して、高らかにじゅう、と鳴いた。
それからぴょんと私の腕の中から飛び降りて汪蘭の方へ戻っていく。尻尾がピーンと真っ直ぐに立ち、僅かに揺れていた。
汪蘭とろくならしばらくの間、留守を任せられるだろう。私はそちらに向かって小さく手を振った。
「安麗俐。お待たせ」
「いえ、構いません。もうよろしいのですか」
「ええ。それと、あともう一箇所だけ行きたいの」
「承知いたしました」
安麗俐は表情を変えず、汪蘭とろくがいる方をじいっと見つめている。私を見ている時と似た目付きだ。やはり鋭い眼差しに見えるのだが、まさか彼女も妖が見える体質だったりするのだろうか。
例えば恩永玉は幽霊宮女の汪蘭の姿がまったく見えなかったが、人によってはうっすら見えたりするのだという。しかしろくの足が六本に見えると宮女の誰からも指摘されたことはなかったから油断していた。
「あ、あの……どうかした?」
私は恐る恐る尋ねる。
「なんでもございません」
「そ、そう……」
話はそれで途絶えてしまう。どっちなのか分からず、私は決まり悪さに手をもぞもぞとさせた。
無言で歩くうちに、古井戸の広場に続く道に差し掛かる。
「案麗俐にはここで待っていてほしいのだけれど……」
「いえ、朱妃をお一人にするわけには参りません」
困った。古井戸の広場には円茘がいるのだ。円茘は幽霊なのだろうか、私は詳しいことは知らない。笑った顔は可愛らしいし、甘いものや茘枝が大好きなのだが、見た目は少し恐ろしい。なんせ斬られた己の首を胸の前で抱えているのだ。
安麗俐の先程の態度も気になるし、もし幽霊が見えてしまう体質だとしたら、円茘を見せるのはちょっとまずい。このまま連れて行って騒ぎにはしたくない。それなら会いたいのを我慢して引き返すべきだろうか。
「朱妃、こちらは幽霊が出るという古井戸でしたか」
「し、知っているの? ええと、怖くはない?」
「噂話だけですが。しかしご安心ください。幽霊など恐れはしません」
「あの、一応聞くけれど、安麗俐は幽霊を見たことって……」
「ございません。武の達人であれば妖の気配にも勘付くと聞いたことがございますが、恥ずかしながら私はまだその域に達しておりません」
なるほど。では先程ろくや汪蘭の方をじっと見ていたのは、たまたまのようだ。
「分かったわ。じゃあ行きましょう。ちょっとお祈りとかするから、その間だけ少し離れていてもらえるかしら」
「はい」
せっかくここまで来て円茘と話せないのも味気ない。何より彼女は恩人でもある。直接お礼を言いたいのだ。
私は安麗俐を連れて古井戸の広場に向かった。
井戸の前には円茘がいつものように立っていた。足元に台が置かれ、空の皿があるのはきっと頼んだ通り、青妃の宮女がお供えを置いてくれているのだろう。
円茘は私に気が付き、ニコッと微笑むものの、私の背後にくっついている安麗俐を見て目を丸くした。私がここに来る時はいつも一人だったから驚いているようだ。
「安麗俐、ここまででいいわ」
「しかし井戸の近くは危険では」
「そこの台の手前までだから。井戸の間近には行かないって約束する」
「はい。それくらいでしたら」
数歩離れる程度なら許してもらえるらしい。
私は安麗俐に背を向けて、円茘のそばに寄った。お祈りをすると言った手前、手をそれっぽく組み、円茘に向けて囁いた。
「円茘、久しぶり。こないだは私と雨了を助けてくれてありがとうね。おかげで無事に逃げられたのよ」
円茘は戸惑うように安麗俐の方へと視線をチラチラ向けていたが、私がこっそりお礼を言うと胸の前に抱えた顔に可愛らしい笑みを浮かべた。
「青妃に頼んでお供えしてもらっているけど、ちゃんと美味しいもの食べている?」
そう聞けば、抱えている首を元気に縦に振った。
「そう、良かった。実はね、雨了の静養で少し遠くに行くのよ。でも、元気になったら戻ってくるし、そうしたらまた改めてお礼に美味しいものを持ってくるから。それまで待っていて」
またブン、と首を縦に振る円茘。嬉しそうに口元が緩んでいる。私もつい笑ってしまった。
「茘枝ね? なるべくたくさん用意してもらうから」
そう囁けば目をキラキラさせた。
円茘は喋ることは出来ない。しかし意思疎通は出来るし、悪い妖ではない。
私と雨了は妖である玉石に窮地に追いやられたけれど、同じく妖に何度も救われている。人間だって同様だ。世の中には善人も悪人もいる。そして善人だとしても、時に唆されて、悪事に手を染めてしまうことだってある。善悪は簡単に割り切れるものではないのだ。
(安麗俐とも、いつかは打ち解けられるかもしれないし)
そう思いながら振り返る。
安麗俐は無表情で私のお祈りが終わるのを待っている。少し離れた場所でピクリとも動かず背筋を伸ばして真っ直ぐに立っていた。私が見ていなくてもまったく気を緩めることなくしゃんと伸びた背筋は、彼女の真面目な性格を表しているのだろう。
「お待たせ。月影宮に戻りましょうか」
「はい」
重々しく頷く安麗俐。彼女だって、ただ表情が読みにくいだけなのかもしれない。この暑い中、後宮内をウロウロする私に文句の一つも言わず付き添ってくれたのだ。そう思うと自然と笑みが浮かぶ。
「安麗俐、付き合ってくれてありがとうね」
「いえ。仕事ですから」
しかしやはり安麗俐はじいっと私を射すくめるような目で見つめてくる。
「あの……私に何か付いているかしら?」
「いいえ」
首を傾げていると、ようやく視線は外された。特に理由なんてなく、無意識なのかもしれない。しかしどうにも眼光が鋭いので、睨んでいるのかとつい聞きたくなってしまう。しかし聞いたところで答えてくれないだろう。
――うん、分かり合うにはまだまだ前途多難のようだ。
いよいよ出立の日、朝日が出た頃に起こされた。
旅に出ると言っても妃の私は何の準備もない。忙しいのは周囲だけだ。
陸寧に身支度を整えてもらい、あくびを噛み殺して外へ出ると、馬車数台が並んでいた。既に荷物の積み込みもされているようだ。宦官だけでなく、兵士や従者が多数立ち働いている。さすがにここにいる全員ではないのだろうが、結構な人数が共に向かうようだ。
しかし、まだ早朝だというのに既にじっとりと暑い。馬もなんだか不機嫌そうに嘶いている。
「おはようございます、朱妃」
そんな暑さの中、凛勢は汗一つかかず、涼しげな顔で采配を振っている。一体、凛勢の汗腺はどうなっているのだろうか。
「おはよう、凛勢。すごい馬車ね」
おそらくこの中で一番大きくて立派な馬車に雨了が乗るのだろう。一度乗ったことのある馬車よりずっと大きい。そう仰ぎ見るが、凛勢は首を横に振る。
「いえ、陛下がお乗りになる馬車として、全く相応しくありません」
凛勢は冷ややかな目で馬車を見ている。
「しかし今回はお忍びになりますから。出来る限り目立たない意匠で、かつ寝台ごとお運び出来る大きさに該当する馬車がこれくらいしかありませんでした」
「寝台ごと運ぶの? そうね、馬車とはいえ、座っているのも疲れるでしょうね」
それだけ雨了の体力が落ちているのだから配慮が必要なのだ。
「はい。陛下の体調を最優先にしながら参ります。朱妃はその隣の馬車となっております。準備がお済みでしたら、どうぞご乗車を」
「あの……私も雨了と同じ馬車に乗るのは駄目かしら?」
凛勢から指示され、私は眉を寄せてそう食い下がった。ほとんど寝ているとは言え、せめて移動中くらいは雨了のそばにいたかった。
だが私のそんな気持ちは凛勢にあっさりと却下されてしまう。
「なりません。陛下のお乗りになる馬車は寝台が入るため、中が狭くなっております。空いた場所に近衛と私が乗り込みます。朱妃のお座りになる場所がございません。どうかご了承ください」
凛勢の言うことはまさしく正論だ。
雨了を守る近衛と、雨了の身の回りの世話をする凛勢は必須だし、私がいても役に立たない。いや、狭いなら邪魔にしかならない。
「近衛で最も腕の立つ秋維成がおりますから、道中もどうぞご安心を」
「秋維成?」
聞き覚えのある名前だ。どこで聞いたのだったか。私は首を捻る。
「ええ、朱妃にご挨拶させましょう」
凛勢が片手を挙げると、馬のそばにいた男性がやってきて私の前に跪いた。軽装だが胸当てをしており、腰には剣を帯びていた。
「秋維成と申します。この度は朱妃にお目通りが叶い、恐悦至極に存じます」
近衛はただの兵ではない。皇帝の警護のために腕の立つ武官だけで構成されているそうだ。凛勢曰く、その中でも最も腕が立つ男。だから秋維成が想像していたよりもずっと若いことに驚き、更に珍しい髪の色に私は目を見開いた。
「赤い髪……」
赤毛というのだろうか。日に焼けて茶色っぽくなった髪とも違う、艶のある赤銅色をしている。
「ああ、この髪ですか。母方が南方の属国の血筋でありますので」
秋維成はニッと笑う。
よくよく見れば瞳は榛色をしている。顔立ちもどことなく外つ国の空気を感じさせた。
年は雨了より幾つか年上といったくらいか。背が高く、隣にいる凛勢が男性にしては小柄な方だから随分と身長差がある。もしかすると雨了よりも大きいかもしれない。近衛だけあってがっしりとした立派な体格をしている。それでいて厳つさは感じさせない。見目麗しく、まるで物語で読んだ外つ国の騎士のような雰囲気だ。
「あ、思い出した! 以前うりょ……コホン、陛下がいざとなったら頼れって言っていた人だわ」
秋維成の名前に聞き覚えがあるはずだ。そしてその発言が出るということは、それだけ雨了の信頼も厚いのだろう。
「なんと……誠に光栄にございます。陛下からのお言葉のみならず、麗しい朱妃にこの秋維成の名を覚えていただけているとは」
秋維成はそう言いながら、片目をパチリと瞑ってみせた。顔立ちが整っていることもあり、いかにも色男といった仕草である。私はついつい顔が引き攣る。きっと秋維成には近衛としての実力があるのだろう。しかしどうにも軽薄そうなのが鼻についた。
「と、まあ堅苦しいのは苦手でして。どうか俺相手には気楽にお過ごしください」
胸に手を当て、そう言う秋維成に、凛勢は冷たい視線を向ける。
「秋維成、朱妃に失礼な態度を取らないように」
「おっと。朱妃、申し訳ありません。どうにも武ばかりの不調法者で」
凛勢にそんな冷ややかな声を出されても秋維成はケロッとしている。私は凛勢にあんな風に言われたら、反射的に謝ってしまいたくなるというのに。武人だけあって胆力もすごいのだろうか。
「ま、まあ、その辺りは臨機応変にしましょうよ。私も堅苦しいのはちょっと……」
「いやあ、さすが陛下の愛妃。話が分かるお方だ」
秋維成を庇うつもりはないが、雨了もなかなか目覚めないし、このままでは旅の間に息が詰まってしまいそうだ。そう思っての発言だったのだが、藪蛇だったかもしれない。
「秋維成。貴方は少し黙っていてください」
凛勢の冷ややかな声が飛んだ。そして視線はすぐ私に向かい、思わず背筋を伸ばす。
「――朱妃、臣下に対し、そういった態度はあまりよろしくありません。陛下の格を下げることに繋がります。ご自覚を持ち、今後は改めてください」
凛勢の眉間にくっきりと皺が刻まれている。冷たい視線も相まって背筋がゾッとしてしまう。
「わ、分かってる。でも今回は陛下の静養のためにお忍びで行くのでしょう? 人前でもそんなに畏まられると、すぐバレて騒ぎになってしまうんじゃないかしら」
「確かにそうですが――」
まずい。なんだか雲行きが怪しい。私だって喧嘩をしたいわけではないのだ。そもそも凛勢は口も達者そうだ。
私は慌てて話を変えることにした。
「あ、そういえば二人は陛下に仕えて長いのかしら? そのあたり一度聞いてみたかったのよね」
凛勢はピクリと片眉を上げたが、それ以上の追及はせずに私の問いに答えてくれた。
「私は八年、この秋維成は五年ほど陛下にお仕えしております」
「へえ、八年! じゃあ陛下が子供の頃からなのね」
思いの外長い。やはり凛勢は年齢が分かりにくいだけで雨了よりも年上のようだ。
「私が宦官となったのはまだ上皇陛下の御世の頃でした。当時、陛下は太子として、政務を本格的に学び始めておりました」
「それだけ長い期間仕えているのなら、陛下からしても心が許せるのは当然ね」
「お心を許していただいているかはともかく、臣としてこの身を陛下に捧げるのは当然のことです」
凛勢の声が柔らかくなる。ほんのちょこっと態度が軟化した気がしてホッとした。
「俺の方は父が陛下の武芸指南役をしていたことがあるものですから。幼馴染というほど気安くはありませんが、それもあって近衛に引き立てていただいたのです」
「じゃあ親子二代で武芸に優れているのね!」
「はい。とはいえ、親の七光りとならぬよう、武芸を磨き続けて参りましたから、この旅でも陛下と朱妃をこの身に代えてもお守りいたします」
「ええ、よろしくね、秋維成。それから凛勢も。二人がいると心強いわ」
二人は、はっ、と私に礼を取った。よし、なんとかいい感じに誤魔化せた。離宮へ向かう道中でギスギスするのはごめんだ。
凛勢はそのまませかせかと仕事に戻っていく。忙しないが、それだけ采配することが多いのだろう。
「朱妃、馬車の準備が整いました。どうぞこちらへ」
「分かったわ」
この旅に同行してくれる陸寧が呼びに来たので私は頷く。そのまま馬車に向かおうとした私だが、当の陸寧にクイッと袖を引かれた。
「あのぉ朱妃、よろしければご紹介を……」
陸寧はそう言いながら、秋維成を上目遣いで見つめている。
おや、陸寧はこういう人が好みらしい。確かに秋維成は色男だし、普段異性に会うことの少ない宮女ではのぼせ上がってしまうのも無理もないのかもしれない。
秋維成は慣れたように歯を見せて微笑みかけ、陸寧はポッと頬を染めた。
「彼女は陸寧よ。月影宮の宮女なのだけど、私の身の回りのことをしてもらうために同行してもらうの」
「陸寧と申します。武芸並びなしと称される秋維成様にお目にかかれ、誠に光栄にございます」
陸寧は淑やかに秋維成に挨拶をした。
「秋維成だ。陛下の近衛をしている。これほどの美女と同行出来るとはこちらこそ光栄だ。よろしくな」
さらりと出る甘い言葉に陸寧は頬を押さえ、ほう、と息を吐いてうっとりと見つめている。
「その、わ、わたくしのお茶の腕前は、上皇陛下からも覚えめでたく、秋維成様にも是非一度ご披露をと思っておりました。まさかこのような機会があるとは――」
陸寧は顔を赤くして秋維成に必死に言葉を紡いでいる。
しかし、暑い。陸寧の頑張りを見守っていたが長くなりそうだ。日が昇ってきて、早朝と思えない暑さに私は手巾を取り出して汗を拭う。馬車の準備に思いがけず時間がかかり日も高くなってきたため、暑さもひとしおだ。
「あの、どなたか……こちらの荷物はどちらに運べば……」
そんな中、困り顔で荷物を抱え、右往左往している従僕に気が付いた。凛勢は忙しそうに動き回っていて捕まらないのだろう。そして陸寧は相変わらず秋維成にべったりだ。私は暑い中不憫な従僕に声をかけた。
「あ、それは一番後ろの馬車でいいはずよ」
「しゅ、朱妃でいらっしゃいますか! 申し訳ありません。お手間をおかけしてしまい……」
「いいの、いいの。暑くて大変だけど残りの荷物もよろしくね」
「は、ははーっ!」
従僕は畏まって体が折れてしまうのではというくらい頭を下げた。
「……悪いことしたかしら。それにしても暑いわ」
そう呟くと、不意に涼しくなる。不思議に思ったのも束の間、私の真後ろに安麗俐が立っていた。
「わっ、ビックリした!」
背の高い安麗俐の陰に入ったから涼しく感じたのだ。安麗俐は朝の爽やかさを微塵も感じさせない、いつもの仏頂面だ。
「驚かせてしまいましたか。急に近寄り、申し訳ありませんでした」
「ううん。足音がしなかったものだから」
「陸寧も同行すると伺っていましたが、いないのですか」
「あっちよ」
陸寧はまだ秋維成に張り付き、何事かを話しかけている。さすがに秋維成もうんざりしているようだ。
「ああ分かった、分かった。もう話は結構だ。――朱妃、そちらの美しい方は?」
秋維成は話を無理矢理打ち切り、こちらに歩み寄ってくる。
「秋維成、彼女は私の護衛よ」
挨拶するよう促すと安麗俐はビシッと礼を取った。
「月影宮にて護衛女官をしております安麗俐と申します。この度は朱妃の護衛を務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
「安麗俐か、美しい名だな。俺は秋維成だ。実は先程から気になっていたんだ」
秋維成は外つ国の騎士のような風貌に甘い笑みを浮かべた。
「すぐそばに来るまで朱妃が気が付かれなかったのも無理はありません。彼女の立ち振る舞いは武人として素晴らしい。足運びが綺麗でまったく隙がない」
秋維成はベタ褒めである。陸寧はそんな秋維成を追いかけてきて唇を尖らせた。秋維成に無視された形になってしまい、気分を害してしまったようだ
「ひどい方っ……わたくしがまだ話している最中でしたのに!」
「悪いが、自分の本分を放ったらかしにするようなのは、どんな美女でもお断りでね」
「まあっ!」
陸寧は顔を真っ赤にし、秋維成をすごい目で睨んでいる。
とはいえ安麗俐は褒め殺す秋維成に眉一つ上げることさえしなかった。
「朱妃、挨拶はもう済みました。暑い外ではなく、どうぞ馬車に」
「待ってくれ。あんたは姿勢がいいし、体幹がしっかりしている。さぞかし手練れなのだろうと思ってな。得意武器はなんだ? 一度手合わせをしてみたい!」
安麗俐にそう食い下がる秋維成。
当の安麗俐は頬を赤らめるどころか迷惑そうに眉を寄せた。
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