迦国あやかし後宮譚

シアノ

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3巻

3-2

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 上皇の青い瞳がせられ、深い色になった。きっと汪蘭に関しては複雑な思いがあるのだろう。

「それで、幽霊の汪蘭を、普通の宮女と勘違いするほど鮮明に見ていたと」
「その通りです」
「それから、井戸守もだな。あやつが道を開いた形跡があった。ろくとかいう従従じゅうじゅうもだが、朱莉珠はあやかしを味方に付けられるほど意思疎通が可能なのだな」
「従従?」

 聞きなれない単語に私はまた首をかしげた。

「ろくのあやかしとしての種族の名じゃ。六つ足の獣で、その名の通りじゅうじゅうと鳴く。生まれはただの獣だが、あやかしに乳を分けられて育つと、まれに従従になると伝えられておる。大抵は犬の姿で、猫の姿をしているのは珍しいのだがな。まあ、それは置いておいて。わしが言いたいのはだな、おまえさんの目は見え過ぎている、ということだ」
「見え過ぎていると言われても。それに雨了だって……」

 私には今の見え方が普通なのだし、雨了にも汪蘭や円茘えんれいが見えていたはずだ。

「雨了は龍の血が強いせいだ。今から話すのはただの人間に関してでな。と言ってもただの人間にだってあやかしや霊が見えるのは珍しくない。例えば、あやかしの中でも幽霊のような実体がないものとなると、まったく見えない者からなんとなく感じる者、実体があるかのように見える者まで様々いる。個人差はあるが中でも子供というのは敏感で、そういった人ならざるモノが見える率が高い。はっきり見えてしまう子供もいるのだ。しかしな、そういう力は成長と共にだんだんおとろえる。ほとんどの場合、子供の頃に見えていたあやかしは、成人する頃にはもうぼんやりとしか見えず、声も届かなくなるものなのだ」
「……でも、私にははっきり見えるし、ちゃんと話も出来るんです」
「ええ、疑っているわけではないのですよ。朱妃。わたくしとて、雨了ほど龍の力は強くありませんが、成人してから幽霊を見たことは幾度となくありますから」
「つまりな、おまえさんの目は何か特別なのではないか、ということなのだ。それを視鬼しきの力と呼ぶことがある。そしてその力は親から子へ受け継がれることが多いのだ。特におまえさんは見えるだけではなく、妙に好かれる性質でもあるようだしな。朱羨には特別な力はなかったから、おそらく母方の血なのだろうが……」
「朱妃の母君が神職の血を引いていたのかもしれませんね。その辺りはいずれ楊益に調べさせるにしても、朱妃のその目はこれからも幽霊やあやかしを見てしまう可能性が高い。雨了がこの地をきよめても、幽霊やあやかしが消えてなくなるわけではありませんからね」
「えっと、それはどういう……?」

 私は彼らの言いたいことが分からず首をかしげた。上皇はわずかに表情をくもらせる。

「これまで、朱妃にとってはあやかしも幽霊もそれほど恐ろしい存在ではなかったかもしれない。しかし、今後は雨了の愛妃として、見たくないものも見てしまうことになる。その目が神職の血を引くせいなら、歳と共ににぶくなることはないのですから。それは時に辛いことにもなるでしょう」

 上皇は優しくそう言った。その声は私を本気で案じてくれているのだと伝わる。間違いなく母親としての包容力のある声だった。
 小さな壁巍は指先くらいの大きさに切り分けられた梨にかじり付いてから口を開く。

「幽霊とは死の間際に強い感情にり固まって生じた実体のないあやかしの一種だ。つまり、殺された者や死に際の心残りが大きい者は幽霊になる確率が高いとも言えるのだ。そして恨みや悪意が強ければ悪霊となる」
「……そういうことです。例えば、先日の事件の主犯、胡玉栄こぎょくえいが悪霊となる可能性もあるのです。その父である胡将軍は責任を取るためにと、既に自刃し果てています」
「そんな……!」
「それが胡の家名を残す条件でした。元々そういう約定があったのです。胡将軍の不始末はこれで二度目ですから……。胡家は遠縁の者が継ぐこととなります。そして、胡玉栄の兄も胡玉栄宛てで後宮に毒物を複数回送ったことが調べで分かりました。後宮を混乱させた罪により現在は捕縛されています。……彼を含め、この件に関わった幾人かは死罪となるでしょう」
「……はい」

 きっとそこにはあの衛士えじちょうも入るのだろう。顔を知っている人物が死罪になるというのは被害者の私からしても複雑なものがあった。

「死罪の後、その者らが悪霊と成り果てるかもしれません。死罪後には必ずはらい、まつる決まりごとがありますが、完全ではないのです。もし彼らが悪霊となってしまえば……もう分かりますね。そなたには人と変わらないほどはっきりと見えてしまう。意思疎通が出来る悪霊に毎晩責め立てられることさえあるやもしれません」

 それはなんて恐ろしいのだろう。胡玉栄に胡将軍、そして衛士えじ長が私を毎晩責め立ててくるとしたら。
 そんな想像をしてブルッと震えが走る。

わしがこの月影宮に来たのも、ここの結界にほころびがないかを定期的に確認する必要があるからなのだ。ま、今のわしにはそれ以上は難しいがの」

 疲れ果てたように息を吐く壁巍。

「朱妃、そなたを怖がらせたいわけではないのです。ただ、心構えだけはしておくように。それから、雨了のそばは安全なはずです。あの子には特別強い龍気が取り巻いていますから、悪霊もそうそう近寄れません」
「あ、確かに……汪蘭も雨了の龍気が強いから近寄れなかったと言っていました」

 上皇は静かに頷く。

「ええ。うろこも戻ったことだし、体力さえ回復すれば龍の力を操り、結界のように張り巡らせることも容易たやすいでしょう」
「とはいえな、雨了はどうにも回復が遅い。この暑さのせいやもしれん。わしもだが、龍は元々、暑さに弱いのだ。今年は格別暑いのもあってな、平常時であれば問題なくとも、体力が落ちた今はこの酷暑がこたえているであろうよ」

 私はぎゅっと眉を寄せた。

「そうかもしれません。このところずっと寝ていて、目を覚ますのもほんのわずかな時間だけで……」
「ええ、ですがまだまだしばらく暑い日が続くでしょう。ですからいっそ、雨了を涼しいところでしばらく静養させようかと思っているのです」
「……涼しいところ、ですか?」

 私は首をかしげる。
 上皇は頷き、小さな地図を広げ、山の方を指し示した。

知州ちしゅうの端に避暑用の離宮があるのです。山の上にあるから涼しいですよ。昔から王族の療養に使われていたところです。青妃も以前、そこで長く療養していました」
「そうさな、あの山付近は龍脈の流れからしても良い位置にある。静養にはもってこいだろう」
「つまり、その離宮に雨了が行くってことなんですね?」
「そういうことです。暑い期間と考えれば大体二月ふたつきくらいかしら。その間は今と同じくわたくしが代理として政務を行いますから」
「そ、そうですか……」

 二月ふたつきとは随分長い。しかし知州であれば馬車を使っても片道だけで数日かかる。それくらいは仕方がないかもしれない。
 ただ、雨了が馬理国ばりこくに向かった時と同じか、それより長いのだ。また長い期間離ればなれになってしまうと考えるだけで胸の奥が切なくなる。

「あら朱妃、そなたも行くのですよ?」

 上皇が私の考えを読んだようにそう言う。

「えっ、私も……? 本当ですか⁉」

 私は思いがけない言葉に目をまたたかせた。

「もちろん。そなたは雨了の愛妃なのですから、なるべくあの子のそばにいて欲しいのです。その方が雨了も落ち着くはず。移動や野営は少し大変かもしれませんが、雨了のそばで回復を見守ってくれますか?」
「は、はい! 私、一緒に行きます!」

 私は前のめりになりながら、強く頷いた。
 雨了と離れずに済む。それが嬉しくて、暗い心にさあっと日が差し込んだかのようだ。
 上皇はそんな私に優しく微笑む。

「そう……本当に朱妃は可愛らしいこと。どうか、雨了を頼みますね」

 上皇は私を強く抱き締めるのではなく、そっと撫でてくれた。
 その手に何故かとても懐かしい気分になる。
 胸の奥がきゅうっと切なくなり、なのに温かい。
 私の産みの母は私が赤ん坊の時に死んでしまった。だからはっきりとした記憶はない。けれどこんな風に優しく撫でてもらったこともあったのかもしれない、なんて思ってしまうのだった。


 お茶を飲み干した壁巍は上皇が用意した茶葉の包みを大荷物のように背負う。

「ではわしは帰る。楊益はもうしばらく借りておくぞ」

 そう言うや否や、壁巍は皿になみなみ注がれた水にトポンと飛び込んだ。平たい皿の底が抜けたようにもう壁巍の姿はない。以前、井戸に飛び込んで消えたのと同じだった。

「まったく、祖はせっかちなのですから。朱妃はもう少しゆっくりしてお行きなさいね」
「は、はあ……」

 私としては壁巍の消え方に驚いてしまったが、上皇は見慣れているのか、平気な顔をしている。

「あの、壁巍は頻繁に来るのでしょうか」
「そうでもありませんよ。年に数度あれば多い方でしょうか。大体は先触れがありますね。飲んでいる茶や酒の水面に祖の影が浮かぶのです」
「……お茶に」

 私はついつい手にしていたお茶をのぞき込む。ゆらりと揺れる水面には私しか映っていない。

「朱妃に用事があれば同じように連絡をしてくることでしょう」
「そうですか……」

 これからお茶が少し飲みにくくなりそうだ。そう思わずにはいられなかった。
 それからはまったりとしたお茶の時間になっていた。

「朱妃、知州に向かうのに何人か供を付けましょうね。身の回りの世話は誰に任せようかしら。陸寧で構わない?」

 もちろんだ。陸寧は優しいし、仕事も完璧な宮女だ。きっと道中も力になってくれるだろう。

「陸寧なら私も心強いです」
「ふうん、そう?」

 上皇は小首をかしげ、私をじっと見つめる。なんだか含みがある気がする。私の頬を引っ張る直前の雨了と同じ表情な気がした。

「あの、何かありますか?」
「いいえ、なんでも。あ、そうそう! 護衛も必要になるでしょう。雨了の近衛このえも同行しますが、男性だとそなたにはあまり近付けないもの。ほら、龍は嫉妬深いものだから」

 上皇はクスクスと笑う。

「龍にはたった一人の伴侶がいればいい。だから後宮など必要ないようでいて、ああいう異性のいない閉じられた場所に伴侶を置いておかないと不安で仕方なくなってしまうのよね。特に雨了はそれが顕著に出る子だから、近衛このえとはあまり仲良くしてはいけませんよ。ヤキモチを焼いてしまうから」

 私は頷く。

「祖もお帰りになったことだし、このままそなたの護衛の者を紹介することにしましょうか」

 上皇は卓に置いてあった鈴を手に取り、チリンと鳴らした。
 すぐにやってきた宮女に指示を出す。しばらくして背の高い女性がキビキビとやってきて、サッとひざまずいた。彼女は宮女よりも簡素ですそ回りが動きやすそうな衣装を着ている。スッキリ結い上げた髪にも飾りはない。健康的に日焼けした肌に意志の強そうな目が印象的な女性だ。
 上皇が小さく頷いて合図すると、彼女は口を開いた。

「お初にお目にかかります。安麗俐あんれいりと申します」

 話し方も見た目通りハキハキしている。言い方は悪いが、しつけられた猟犬のような雰囲気を感じた。それはきっと、人を使うのに慣れている上皇との無言のやりとりのせいもあるのだろう。

「朱妃、そなたの護衛にこの者を付けましょう。彼女は少し前まで女だてらに武官をしていたのです。今はこの月影宮の護衛女官をしてもらっていますが、実力は折り紙付きですよ。ね、安麗俐」
「もったいないお言葉にございます。誠心誠意尽くし、朱妃の御身をこの身に代えてでもお守りすると誓います」
「上皇陛下、何から何まで、ありがとうございます」
「知州は遠いから、気を付けていってらっしゃいね。それから……なんと呼ぶのだったかしら?」
「あっ……ありがとうございます、お義母かあ様」

 私が照れながらそう言うと、上皇は満足げにニッコリ笑う。
 安麗俐は一切表情を変えず、私のことをじいっと見つめてくる。その鋭い目付きのせいでなんだかにらんでいるようにも見える。普通に挨拶をしただけのつもりだが、何か彼女の気に食わないことでも言ってしまっただろうか。

「え、ええと……よろしくね」

 私は困惑しながらそう言った。安麗俐は無言で頭を下げた。

「あ、あの、安麗俐は女性なのに武官をしていたのよね。すごいわ」
「いえ、それしか取り柄がないだけです」

 彼女はキッパリとそう言った後は押し黙ってしまった。
 寡黙な人なのだろうか。宮女はどちらかと言えば明るい娘が多いし、口調も柔らかだ。しかし安麗俐は武官という経験のせいか、同性でも雰囲気からしてまったく異なる。どう声をかけたらいいか分からず、私はそわそわとしてしまう。

「うふふ、頑張ってね!」

 上皇はそうささやくけれど、私は頷くことしか出来なかった。


 その後、また少しだけ目覚めた雨了に私は報告する。

「ねえ雨了、私も一緒に知州の離宮に行けるんですって!」
「……うむ。俺がそなたを連れて行かぬはずないだろう」

 雨了は青い顔色ながらも薄く微笑み、私の頭をポンポンと叩いた。

「俺は道中も眠ってばかりだと思うが、よろしく頼む。凛勢の言うことはちゃんと聞くのだぞ」
「もう、子供じゃないんだから大丈夫よ」
「そうか? あまり張り切り過ぎないようにな」

 頭を撫でていた雨了の手が少しずつ下がり、頬を撫でる。そんな些細なことで胸がドキンとしてしまう。

「平気よ。あ、それから旅に出る前に薫春殿に――」
「失礼いたします。入室して構いませんか」

 私の言葉はやはり部屋の外で待機している凛勢にさえぎられた。

「すまんが時間だ、莉珠」
「う、うん……じゃあ、また後で」
「ああ」

 ほんのわずかの触れ合いはあっという間に終わってしまった。しかし、雨了と共に旅に出ると思うと、ワクワクが止まらないのだった。



   第二章


 数日後、私は久しぶりの後宮に足を踏み入れていた。
 知州にあるという離宮に向かう前に、薫春殿とろくの様子を見ておきたかったのだ。
 雨了は今日もほとんど寝てばかりなので、代わりに上皇と宦官かんがんの凛勢から立ち入りの許可を得ている。
 かたわらの安麗俐をそっと見上げた。
 こうして再び後宮に立ち入ることが出来るようになったのも、彼女という護衛が出来たおかげなのかもしれない。
 しかしながら無言で付き従う安麗俐と二人きりなのは少しばかり居心地が悪い。これが威圧感というものなのだろうか。彼女は基本的にこちらが話しかけなければ口を開くことは滅多になく、話しかけても返答はわずかでそっけない。話が盛り上がらないので、二人きりだとなんとなく気まずいのだ。
 自然と早歩きになってしまうが、私よりずっと身長の高い安麗俐はその分足も長いらしく、楽々ついてくる。一方の私は、すその長い着物も相まってちょこまかとしか歩けない。安麗俐のようにスラッと背が高ければ、颯爽と歩くだけで絵になるだろうに。そう思いながらチラッと安麗俐の方を振り返った私の視線は、安麗俐の真っぐな視線とぶつかった。

「な、何? ちょっと速かった?」
「いえ、速度に問題はございません」

 護衛についてもらってからというもの、ふとした瞬間に何度も彼女からの視線を感じるのだ。しかし不思議に思って聞いてみても何もないと言われるばかり。その視線が優しかったり、逆に侮蔑だったりすれば意図が分かるのだが、安麗俐のじっと見てくるだけの視線では何を考えているかさっぱりだ。

「そう、じゃあ行きましょう」
「はい」

 まず向かったのは青薔宮せいしょうきゅうだ。青妃には私が不在の間に色々とお願いしているからである。
 私たちは以前青薔宮にお邪魔した時と同じ部屋に通された。しかし安麗俐は、自分はいない者として扱うようにと言い残し、スッと壁際に下がった。今は置物のようにピクリともせずに立っている。椅子すら固辞していた。お供ではなく、あくまで護衛であると彼女は無言で語っていた。

「朱妃、ようこそ青薔宮へ」

 そう言う青妃は今日も顔色が青白い。それでもほぼ寝たきりの雨了よりは幾分かマシだろうか。

「青妃、少し顔色が悪いですね。すみません、そんな時に」
「ああ、気にしないで。暑いのはどうにも苦手なのよ。夏バテは毎年のことだけれど、なんだか夢見も悪いし、暑さであまり食欲もないものだから……」

 確かに少しせたかもしれない。愛らしい白桃の頬がげっそりとやつれている。

「分かります。夜中でも暑くて寝苦しいですよね」
「ええ、本当に……早く涼しくなって欲しいわ」

 青妃は頷いて、ふう、と苦しげに息を吐いた。
 彼女は十年前に大怪我をして以来、体が弱いのだ。そんな体で、この暑さは相当にこたえるのだろう。

「あ、そうだ。上皇陛下から、これをお渡しするようにと」

 私は上皇から預かっていた薄荷葉はっかようの茶葉を彼女に渡した。

「まあ、ありがとう。このお茶、大好きなのよ。朱妃は飲んだかしら?」

 青妃は淡く微笑む。

「ええ、飲みました。すっきりしていていいですよね。いただいていた時たまたま壁巍が来ていたのですが、暑いのが苦手だって、青妃と同じようなことを言っていました。それに雨了もこの暑さで体力の回復が遅いみたいで」
「まあ、祖のお方に会ったのね。羨ましいわ。わたくしも久しぶりにお会いしたかったのに。それから、雨了のことも聞いています。知州の離宮に向かうのよね。以前、わたくしも怪我をした後しばらく療養していたことがあるのよ。静かなところだし、夏でもとても涼しいから、きっと雨了もすぐ良くなるわ」

 私を安心させるように微笑む青妃に私は頷いてみせた。

「そうだと嬉しいです」
「それからね、離宮には温泉が湧いているのよ。白いお湯でとても気持ち良かったわ。温泉の効能に病後の回復もあったはずだから、雨了にも良いんじゃないかしら」
「温泉ですか! それは楽しみです。私、温泉って入ったことなくて」
「楽しみにしていてね。ただ、少し遠いのよね。わたくし、道中で馬車に酔ってしまって……何度も休憩を挟んだものだから到着までに余計に日数がかかってしまったの。でも侍医じいが共に行くのよね? 気分が悪くなったらお薬をもらえばいいわ」
「ええ、そうします」

 実は遠出は初めてだ。後宮に来る際に数時間馬車に乗っただけで、胃の辺りがムカムカしたのを思い出す。そう考えると少し不安になってきた。あの時は馬車の中でろくを見つけ、あまりの可愛さに夢中になったものだが、今回はろくを連れて行けないのだから。

「それで、青妃……もうしばらく、ろくの餌と古井戸の供物くもつをお願いしたくて」
「ええ、構わなくてよ。本当なら餌だけでなく青薔宮で面倒を見てあげたかったのだけれど、宮女が連れて来る途中で薫春殿に逃げ戻ってしまったのですって。わたくしが龍の血を引くから嫌だったのかもしれないわ」

 青妃は物憂ものうげに息を吐いた。

「いえ、ろくの餌をお願い出来るだけでありがたいです。後で私も薫春殿に様子を見に行ってきます」
「そうして頂戴。餌はちゃんと食べていると報告は受けているけれど、貴方も心配でしょう?」
「それでも室内はまだ立ち入り禁止なのでしょうが……」
「そうね、まだ難しいでしょうね」

 酒に鴆毒ちんどくを入れられたり、睡眠の香をかれたりしたのだ。他に危険なものがないか、取調べや検査でしばらく立ち入り禁止になっている。
 薫春殿の宮女の中でも、恩永玉は睡眠の香にあらがおうと自分を切りつけて傷を負った。他に怪我をしたのは睡眠の香で倒れた時に打ち身を作った宮女と、驚いて転倒し、足首を捻挫ねんざした宦官かんがんが一名ずつ。他の者は眠っていただけで無事だったし、睡眠の香が体に影響することもないらしい。それでも薫春殿の安全が確認されるまで、もうしばらくかかるだろう。

「きっと離宮から戻ってくる頃には、薫春殿も使えるようになっていると思うわ」

 そうなぐさめるように言う青妃に私は頷く。

「それでは、そろそろ薫春殿を見に行ってきます。離宮から戻ってきたら、またお話しさせてくださいね」
「ええ。何か楽しいことがあったら是非聞かせて頂戴ね」

 青妃は体が弱いのだから、あまり長話も良くないと適度なところで切り上げた。
 私と安麗俐は青薔宮を出て、日差しにジリジリ焼かれながら薫春殿へ向かう。薫春殿の周囲は木々が生い茂り、他より少しは涼しいかもしれない。しかしいつも整えられていた草木が乱雑に伸びている。たかが一月ひとつきでも庭師が入らないとすぐに荒れてしまうようだ。


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