迦国あやかし後宮譚

シアノ

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2巻

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   第一章


 薫春殿くんしゅんでんに爽やかな新緑の風が吹き込んでいた。
 時が経つのは早いもので、私が後宮に来るきっかけとなった宮女きゅうじょ試験の頃はずいぶん寒かったが、そろそろ日向ひなたにいればうっすら汗ばむ陽気になっていた。
 雨了うりょうが反乱の気配ありと迦国かのくにの属国、馬理国ばりこくへと親征しんせいして、もう半月あまり。馬理は遠く、後宮にはまだ何の連絡もない。
 ――雨了は無事だろうか。今頃何をしているのだろう。
 私は窓から見えるまぶしい庭に目を細めた。雨了の出立しゅったつの頃に咲いていた花は落ち、今は違う種類の花が咲き誇っている。薫春殿の庭もすっかり様変わりしていた。
 失ってしまった雨了のうろこを探し出さねばならないのに、何の手がかりもないまま日々だけが無為に過ぎていく。龍とそのつがいきずながあるのならうろこは私の掌中しょうちゅうに戻ると、そう壁巍へきぎは言った。なのに、私の手にうろこはなく、無力なまま。
 ついいつもの癖で胸元に手を当てたが、祖父の形見はそこにはない。今は遠く離れた雨了のもとにある。指に触れるのは、雨了を人の体から解放するための龍の宝刀が変化した、あの細長い巻貝の冷たい硬さだけだった。

朱妃しゅひ、献上された品々が届いております。ご確認よろしいでしょうか」

 ぼうっとしていた私は急に金苑きんえんから話しかけられ、慌てて顔を上げた。

「あ、ああ、うん。目録を見せてくれる?」
「お疲れのご様子ですが、一旦休憩なさいますか?」
「平気よ。お茶の時間までに終わらせたいから」

 雨了はいなくとも、いや、むしろいない時を狙っているのだろうか。愛妃である私への献上品は日に日に増えていた。雨了の親戚や高官、県令けんれいといった、寵愛ちょうあいを受けるきさきとよしみを通じたい人々からの贈り物だった。非常に面倒くさいが、そういった品々を確認し、礼状をしたためるのもきさきの仕事の内である。
 とはいえ中身は既に宦官かんがんたちがあらためているので、私は目録と共にチラッと確認する程度だ。献上品はいかにも女性が好みそうな衣服や装飾品が多い。そういうものにさして興味のない私には少しばかり食傷気味だ。

「絹に装飾品……いつも通りね。金苑、そっちの箱を開けてくれる?」
「はい、かしこまりました。――ッ!」

 私が指示した桐箱のふたを開けた金苑の手が、ビクッとはじかれたように離れた。

「どうしたの?」
「なんでもありません。大変失礼いたしました」

 しかし金苑はすぐにいつも通りの冷静な態度に戻って、再度ふたを開ける。
 中には大ぶりの石が入っていた。楕円だえんの大きな石。その一箇所が割れて口を開け、キラキラした紫水晶がのぞいている。そういう調度品のようだ。
 特別おかしなものには見えず、首をかしげた。

「なんでもないって風じゃなかったけど。箱に虫でも付いてた?」

 今のはどう考えても金苑らしくない態度だった。
 この薫春殿には年齢不詳な汪蘭おうらんを除き、私と歳の近い若い宮女きゅうじょしかいない。金苑も私よりいくつか年上なだけで随分若いが、薫春殿の宮女きゅうじょたちのまとめ役をしてくれている。仕事の采配さいはいも完璧な、薫春殿一のしっかり者の宮女きゅうじょだ。常日頃から冷静で、感情をあらわにすることは多くない。
 だからこそ、いつもと違う態度が気になった。まさかよどみに憑かれてはいないかとじっと見つめたが、あの黒いもやは彼女のどこにもなかった。
 ただの杞憂きゆうかもしれないが、念には念を入れておきたい。

「何か変なことでもあったら、些細なことでも、なんでも言ってちょうだい」
「……いえ、本当になんでもありません……」

 しかし金苑は言葉をにごして目を伏せる。その視線は手元の箱ではなく、どこか遠くを見ている。その様子はまるで先程の私のようだ。
 そろそろお茶の時間だ。献上品の確認も区切りがいい。今日はここまでにしておこうと、私は目録を閉じ、首をぽきりと鳴らした。

「――石は……何だか恐ろしい気がします」

 金苑が不意にポツリと呟いた。
 その視線は、いまだ水晶の調度品が入っていた桐箱に落ちたまま。

「石……?」

 私は目をパチクリとして金苑に聞き返した。
 夏と呼ぶにはまだ早く、けれど日差しが強まったのを実感する時期だ。薫春殿の外に一歩出れば、この季節の緑は色濃く、朱色に塗られた宮殿をいっそう鮮やかに際立たせている。だからこそ、硬く温度の失せた金苑の言葉が、私の心に、それこそ石ころのように引っかかったのだ。
 金苑は思わずこぼしてしまった言葉をみ込むことも出来ず、不安げな子供のようにうろうろと視線を彷徨さまよわせている。やはり金苑らしくない。

「ねえ、もしかして、それって石林殿せきりんでんのこと?」

 ふと思いついたのは、薫春殿と因縁浅からぬ石林殿の胡嬪こひん。その住まいの名前からして『石』である。
 彼女は私の腹違いの姉、朱華しゅかの主人であり、なんとも風変わりな人物なのだ。胡嬪本人だけでなく、石林殿の宮女きゅうじょもどことなく薄気味悪かったのを思い出す。
 それだけならばいざ知らず、朱華は少し前に薫春殿の宮女きゅうじょ恩永玉おんえいぎょくおどしたのだ。石林殿に良い印象などあるはずもない。
 金苑は大切な友人の恩永玉を傷付けられ、普段の冷静さが信じられないくらいの激しさで、それはそれは怒っていた。もしかして石を見て連想してしまったのだろうか。そう思ったのだが、金苑はゆるゆると首を横に振った。

「……それもありますが、私は元々石が少し苦手なのです。なので少し驚いてしまいまして……」

 金苑はいつも冷静で、怖いものなどなさそうな有能な宮女きゅうじょだ。そんな彼女の苦手なものが思いもよらぬ石であるとは。
 ついつい興味が湧いてしまうのは致し方あるまい。

「その石って、石ころとかの?」
「そうですね……石ころだけでなく玉石のたぐいも、少し苦手です」

 金苑は歯切れ悪く答えた。
 私は金苑の姿を見る。若い宮女きゅうじょはお仕着せの着物ながら、玉のついた髪飾りや帯玉おびだまで小さなお洒落しゃれを楽しんでいる。
 金苑もそんな他の宮女きゅうじょと同様、あでやかな髪飾りや帯玉おびだまを着けている。今も決して派手ではないが、上品で美麗な帯玉おびだま身動みじろきするたび揺れていた。
 私の視線に気が付いたのか、金苑は帯玉おびだまを手ですくうように持ち上げた。

「ああ、これは玉石ではないのです。これは鼈甲べっこう螺鈿らでんほどこしたものですし、髪飾りにしても玻璃はりや真珠などが多いですね。玉石のたぐいも全くないわけではありませんが、あまり……」
「へえ、本当に苦手なのね。なんでまた……理由とかあるの? ああ、言いたくないならいいんだけど。ただの好奇心だから」
「いえ、構いませんよ。ただ幼い頃に親族の者から、石がささやきかけてきたら気を付けなさいと言われて……それが子供心にとても恐ろしく感じたものですから。石の範疇はんちゅうに入りそうな宝玉まで含めて少し苦手になってしまって――」

 石がささやくときた。
 私はちょっと不意を突かれ、目をまたたかせる。

「まあ、その話、私も聞いたことがありますよ。王宮内に古くからある怪談ですよね!」

 ちょうどお茶を持ってきた宮女きゅうじょが、目を輝かせて話に乗ってきた。
 薫春殿にいるのはどちらかと言えば大人しい宮女きゅうじょばかりだが、それでも数人寄ればそれなりにかしましい。しかも怖い話というのは女性の興味をあおるものらしい。まあ私とて例外ではないが。

「怪談ねえ。どんな話なの?」
「そんなに怖い話ではないのですが、龍圭殿りゅうけいでんにある宝物庫には一人で入ってはいけない決まりがあるそうなのです。……石が話しかけてくるから、と。確かそんな話でしたよね?」

 宮女きゅうじょは声色を変えておどろおどろしく言い、金苑はどこか浮かない顔のままうなずいた。

「へえ、あの龍圭殿の話なのね」

 龍圭殿といえば儀礼用の宮殿で、かつて私がすっ転んで大きなたんこぶをこしらえた場所だった。伝統ある宮殿だから、そんな話の一つや二つあるのだろう。

「……ええ。一人で宝物庫に入ると石がささやきかけてくる。それに返事をしたら死んでしまうというお話です」
「あら、そうでしたかしら。私は願いが叶うと聞いた気がしますけれど」

 宮女きゅうじょは首をかしげている。私はつい口を挟んだ。

「まあでも、噂話ってそんなものじゃない? 伝わる内に、いつのまにか少しずつ変わってしまったりするのよね」

 金苑はコクンとうなずく。

「そうかもしれません。私の大叔母もかつて宮女きゅうじょをしておりました。その大叔母から聞いた話では、ささやく石が願いを叶えてやろうとそそのかすけれど、願いは叶わずに死ぬそうです。だからそんな声を聞いても絶対に返事をしてはならぬと。大叔母の若い頃のことなので随分昔の話なのですが、今でもその決まりは変わらず、二人以上でなければ宝物庫には入ってはならないそうですよ」
「一人では入ってはならない宝物庫……」

 豪華な宝物庫で、自分一人しかいないというのにどこからともなくささやきかけてくる声。確かに想像するとうっすらとした怖さがある。幼い金苑はそれを聞いて震え上がったのだろう。
 金苑はそんな過去を振り払うように苦笑した。

「いえ、宝物庫ですから、実際のところは、盗難がないように、複数人でないと入れない決まりにでもなっているのでしょう」
「なるほどね」

 説得力のあることを言われると途端に納得してしまう。金苑はこれで終わりというように仕事に戻っていった。
 もう一人の宮女きゅうじょはまだ話し足りないらしく、私に新しいお茶を注いでから口を開く。

「でも、龍圭殿って、色々耳にしますよね。やはり何かあるかもしれませんよ! そういえば、この春にも死体が見つかったとか――」

 言いかけた宮女きゅうじょは私を見てハッと顔色を変え、口をつぐむ。

「な、なんでもございません。……失礼いたしました」

 そういえばそうだった。
 たんこぶを作ったことばかり覚えているが、あの龍圭殿では肉体の一部だけが動いている世にもおぞましいあやかしを目撃したことがある。後日、雨了に調べてもらうと龍圭殿の床下から行方不明になっていた衛士えじの白骨死体が発見された。それが何故か私が幽霊の声を聞いて見つけたという噂になってしまっているのだ。
 それに、あの頃の教育係だった宦官かんがん梅応ばいおう火輪草かりんそうの件で捕縛されたこともある。きっと宮女きゅうじょたちも触れてはならないことなのだと感じているのだろう。

「別に気にしてないから」
「そ、そうですね。あ、あの、先日の茉莉花まつりかの香の件なのですが――」

 ホッとしたように宮女きゅうじょは話を変える。

「ああ、それね。使ってみてどうかしら」

 私だってあの話を蒸し返したくはない。やや強引にでも話を変えてくれた宮女きゅうじょに感謝し、香の話や菓子の話でしばしの間、盛り上がる。
 ――しかし、心に引っかかった石の存在を、忘れることは出来なかった。


 花の咲き誇る薫春殿で、このところ生花以外の香りが立ち込めていた。
 茉莉花まつりかの香である。
 壁巍が教えてくれた通り、清らかな花であるという茉莉花まつりかの甘やかな香りはよどみを寄せ付けず、香をくだけで薫春殿内でよどみを見ることが随分と減っていた。
 おかげでろくも狩り続けて減った体力を回復させたようで、室内に入ってきたよどみを今日も元気いっぱいに狩ってくれている。
 壁巍の情報は正しかった。よどけとして効き目があるとはっきりしたことになる。

「朱妃――あら、こちらの部屋は香をいていないのですね」

 そう言って入ってきたのは汪蘭だった。

「ええ。猫がいる場所には香をきすぎるのは良くないそうだから」

 ろくはあやかしであるために茉莉花まつりかの匂いが苦手なのだ。なので私の部屋にだけは香をいていない。私にはよどみが見えるから不用意に触れてしまうこともないし、ろくも基本的に私の部屋にいる。もしよどみがいても、真っ先に退治してくれる。
 しかしふと思い出す。

「そういえば汪蘭も茉莉花まつりかいでくしゃみしてたわよね。大丈夫なの? 体質に合わないなら無理して使わないでね」

 いくらよどけとはいえ、苦手なものを無理いさせては意味がない。

「ええ、香りが嫌いなわけではないのですが……どうにも鼻がムズムズしてしまいますね。ですが、最近少し香りが変わった気がします」
「あら、気が付いた? 茉莉花まつりか以外にも匂天竺葵においてんじくあおいを混ぜているの。……その、このところ宮女きゅうじょの心身の不調が多いでしょう。香で心を安らげるのが良いと思って」

 対外的にはそう広めている。よどみがどうとは言えるものではない。
 さらには改良を続け、元々魔除けとしても使われる匂天竺葵においてんじくあおいの香をほんの少しだけ足したところ、なんとよどけとしての効果が増したのだ。おかげで薫春殿の宮女きゅうじょも今のところ無事だ。かつてよどみにかれ、体調を崩した恩永玉もすっかり回復している。

「他の妃嬪ひひんがいる各宮殿にもこの香を広めてもらってるの。苦手な汪蘭には申し訳ないんだけど」
「まあ、私のことなど気になさらないでください。朱妃が宮女きゅうじょの健康に良いとお考えなのでしょう。それはとても大事なことです」
「うん。でも汪蘭だって大事よ。どうしてもしんどかったら私の部屋に来ればいいから」
「……はい。その際は、お言葉に甘えさせていただくかもしれません」

 汪蘭は柔らかく微笑む。
 私の言うことをどれだけの妃嬪ひひんが信じて香を使ってくれるか分からない。しかしそれで少しでもよどみにかれる宮女きゅうじょを減らせるかもしれないのだ。とにかく試してみるしかない。
 とはいえ嗅覚が鋭すぎる雨了は茉莉花まつりかをキツく感じるそうなので、どちらにせよこの作戦が出来るのは雨了が帰るまでの時間稼ぎにすぎない。
 私が本来やるべきなのは雨了が親征しんせいから帰還するまでにうろこをどうにかして見つけ出すこと。雨了にうろこが戻り、後宮における龍の力の循環がとどこおりなくなればよどみも減るはずだし、雨了の寿命も長くなるはずなのだが。
 しかしうろこいまだ見つからない。どこを探せばいいのか見当も付かないまま。やるべきことの手がかりさえない。今こうしている間にも気ばかりがいてしまう。
 私は胸元に手を当てて重い溜息を吐いた。そこに祖父の形見はないが、つい手でさぐるのがすっかり癖になってしまっていた。

「朱妃、どうかなさいましたか? 胃の調子がかんばしくないのでしょうか」

 そんな私を心配して汪蘭が聞いてくる。私は慌てて否定した。

「ううん、大丈夫。なんでもないわ」
「さようでございますか……皇帝陛下が早く戻られると良いですね……」
「……そうね」

 私の元気がない原因を、雨了が長く留守にしているせいだと汪蘭は思っているようだ。
 勿論もちろんそれもある。私は雨了に会いたくてたまらなかった。雨了は私の腹の立つこともするけれど、一緒にいる時は何だか心が自由になるような、晴々はればれとした気持ちになるのだ。そばにいたい。温もりを感じたい。けれど今は我慢するしかない。
 それより今の私は、雨了が死んでしまうかもしれないことがとにかく気がかりでならない。龍の力を制御出来なければ、そう遠くない内に雨了は死んでしまうのだから。
 汪蘭は私に寄り添い、そっと背中を撫でてくれる。心配してくれている汪蘭の気持ちが痛いほど伝わってくる。
 ついまた溜息を吐きかけて、汪蘭をこれ以上心配させないようにと、ぐっとみ込んだ。それから少しわざとらしいかもしれないが、明るい声を出して話を変えることにした。

「ねえ、そういえば汪蘭って、宝物庫に一人で入ってはならないっていう怪談を知ってる? 石がささやくってやつ」

 先日、金苑たちとの話で知ったばかりの怪談だ。汪蘭は薫春殿の他の宮女きゅうじょより宮女きゅうじょ経験が長いようだから、もしかすると金苑たちよりも怪談の詳しい事情なんかも知っているかもしれない。汪蘭がこの怪談を知っていても知らなくても、きっと話が盛り上がるだろう。
 そう思って話を振ったのだが、汪蘭は返事をしない。
 会話はふっつりと途切れ、静まり返った部屋の中で汪蘭がひゅっと息を吸う音だけが私の耳に届く。

「えと、汪蘭、どうかした?」

 何か変なことを言ってしまっただろうか。

「……それを……誰から聞いたのですか」

 しばらくしてようやく返ってきた汪蘭の声はひどくかすれていた。
 振り返ると、汪蘭は目を見開き、指もかすかに震えている。顔色は紙のように真っ白だった。

「ど、どうしたの汪蘭……?」

 軽い気持ちで言ったのに、私は汪蘭の過剰すぎる反応に少なからず驚いた。たかが怪談にそんな反応をするとは思ってもみなかったのだ。

「まさかどなたかが、一人で宝物庫に入ったのですか⁉」

 滅多にない汪蘭の剣幕に私はブンブンと首を横に振った。

「い、いえ……金苑の大叔母が昔、宮女きゅうじょをしていたらしくて。た、ただの噂よ」
「そ、そうでしたか……」

 汪蘭はそれを聞いてほうっと息を吐いた。ひりついていた空気が緩む。

「ねえ、ただごとではなさそうだけど」
「……あまり良い話ではありません。十年前にも同じ怪談が広まったことがあったのです。願いが叶う石があるからと、願掛けをするために実際に龍圭殿に忍び込んだ衛士えじ宮女きゅうじょがいたそうで……」

 確かにそれは問題だ。いくら願掛けだろうが、宝物庫に侵入しようとすれば騒ぎになるだろう。下手をすれば御物ぎょぶつを盗もうとしたとされ、極刑でもおかしくはない。

「分かった。それについては他の子たちにもしっかり釘を刺しておくわ」
「はい、よろしくお願いします」

 汪蘭はまだ顔色がすぐれない。
 伏せた瞳は悲しげに揺れていた。何か訳ありな様子なのは一目瞭然だ。

(……変な汪蘭)

 更に問うべきか――そう考えた時、部屋の外から私を呼ぶ声が聞こえた。

「朱妃、お手紙が届いております。少しよろしいですか」
「はーい! ねえ汪蘭、ちょっと待ってて」
「……いえ、私のことは、どうか気にならさないでください」

 汪蘭は静かに微笑み、部屋から退出していった。


 部屋に残った私は石林殿からという手紙を前にうーんとうなる。
 あめのようにつややかな材質の文机ふづくえに置かれた簡素な手紙は、何だか白い石を連想させる。つい先程のささやく石の話を思い出してしまっていた。

「石林殿の胡嬪への返事はどういたしましょう」

 汪蘭と入れ替わりでやってきた金苑がそう尋ねてくる。
 なかなか開く気にならずにぐずぐずし、ようやく開いた胡嬪からの手紙は石林殿への招待状であったのだ。
 私の位はきさきで、彼女はひんである。きさきの方が位が上になるので、誘いの手紙といっても強制的に行かなければならないなんてことはない。断るのも自由だ。しかし、少し前の恩永玉の件もある。

「ねえ、使いの宮女きゅうじょって朱華だったの?」
「いえ、違う宮女きゅうじょでした。その朱華のことで胡嬪がお話があるとのことです」

 私は少し考え込んだ。罠かもしれない。それを考えれば敵地である石林殿に行くのは危険だ。例えば最初に青妃せいひ青薔宮せいしょうきゅうに行った時のように。青妃は私に悪意を持っていなかったから、ただの悪戯いたずらで済んだ。だが、もしも胡嬪に悪意があるのなら、私を閉じ込めるなり、随伴の宮女きゅうじょを人質に取るなり、なんだって出来るだろう。今は雨了が不在だから尚のこと。親しくしているわけでもない胡嬪を信じ切れないのは事実だ。しかも、あの朱華の主人なのだ。だが行かないことで朱華についての話を聞きのがすのも、何だか心配だった。

「……ねえ金苑、薫春殿に招くという形にしても大丈夫かしら」
「ええ、勿論もちろんでございます。そうなればもてなしの準備がありますし、あちらとの予定をすり合わせますので、今日中は難しいでしょう。早くて数日後になります」
「しばらくは特に予定はないから、金苑たちに任せるわ」
「かしこまりました」

 金苑は常と同じくごく冷静なように見えたが、胡嬪の宮女きゅうじょである朱華に仲の良い恩永玉をいじめられた怒りは、今もその瞳の中で静かに燃えていた。
 きっと金苑に任せれば、胡嬪の来訪にもなんら問題がないように段取りをしてくれるだろう。


 金苑が胡嬪の宮女きゅうじょと予定をすり合わせ、胡嬪の来訪は二日後の午後と決まった。それまでに掃除やもてなしの準備を済ますべく、薫春殿はばたばたと慌ただしくなる。
 そんな中、私は恩永玉を呼び出した。
 用件は勿論もちろん、朱華についてである。恩永玉に科したばつは、もう終わっていた。

「あの、お呼びとうかがいましたが……」

 恩永玉はおどおどと私の方をうかがっている。その様はまるで小動物か何かのようでか弱い愛らしさがある。
 けれど、その細腕でも、私が与えたばつの水みや草むしりの力仕事もきちんとこなしていたのを知っている。本来とても真面目で良い娘なのだ。

「金苑から聞いたかもしれないけれど、明後日あさってに石林殿の胡嬪が訪れる予定になっているの。あちらも宮女きゅうじょを連れてくるでしょうから、もしかすると朱華と顔を合わせることになってしまうかもしれない。……それで、恩永玉はどうしたい?」
「どう、とは……」
「もし朱華の顔を見るのも嫌なら、当日は裏方の仕事で構わないけれど」

 私の言葉に、恩永玉はきゅっと唇を引き結び、真剣な面持おももちをして首をプルプルと横に振った。

「いいえ、出来ることなら私も朱妃のお側に置いていただきたいです。私は一度朱華の言葉に屈してしまいました。朱妃はそんな私を許してくれましたが、だからと言ってこのまま逃げて良いはずありません」
「大丈夫なのね?」
「はい。もう朱華の言葉にまどわされません」
「それじゃあ、当日は金苑と共に私の側に付いてもらうわね」
「はい、お任せください!」

 恩永玉は両の手をきゅっと握り込んで大きくうなずいた。


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