17 / 71
2巻
2-1
しおりを挟む
第一章
薫春殿に爽やかな新緑の風が吹き込んでいた。
時が経つのは早いもので、私が後宮に来るきっかけとなった宮女試験の頃はずいぶん寒かったが、そろそろ日向にいればうっすら汗ばむ陽気になっていた。
雨了が反乱の気配ありと迦国の属国、馬理国へと親征して、もう半月あまり。馬理は遠く、後宮にはまだ何の連絡もない。
――雨了は無事だろうか。今頃何をしているのだろう。
私は窓から見える眩しい庭に目を細めた。雨了の出立の頃に咲いていた花は落ち、今は違う種類の花が咲き誇っている。薫春殿の庭もすっかり様変わりしていた。
失ってしまった雨了の鱗を探し出さねばならないのに、何の手がかりもないまま日々だけが無為に過ぎていく。龍とその番に絆があるのなら鱗は私の掌中に戻ると、そう壁巍は言った。なのに、私の手に鱗はなく、無力なまま。
ついいつもの癖で胸元に手を当てたが、祖父の形見はそこにはない。今は遠く離れた雨了のもとにある。指に触れるのは、雨了を人の体から解放するための龍の宝刀が変化した、あの細長い巻貝の冷たい硬さだけだった。
「朱妃、献上された品々が届いております。ご確認よろしいでしょうか」
ぼうっとしていた私は急に金苑から話しかけられ、慌てて顔を上げた。
「あ、ああ、うん。目録を見せてくれる?」
「お疲れのご様子ですが、一旦休憩なさいますか?」
「平気よ。お茶の時間までに終わらせたいから」
雨了はいなくとも、いや、むしろいない時を狙っているのだろうか。愛妃である私への献上品は日に日に増えていた。雨了の親戚や高官、県令といった、寵愛を受ける妃とよしみを通じたい人々からの贈り物だった。非常に面倒くさいが、そういった品々を確認し、礼状をしたためるのも妃の仕事の内である。
とはいえ中身は既に宦官たちが検めているので、私は目録と共にチラッと確認する程度だ。献上品はいかにも女性が好みそうな衣服や装飾品が多い。そういうものにさして興味のない私には少しばかり食傷気味だ。
「絹に装飾品……いつも通りね。金苑、そっちの箱を開けてくれる?」
「はい、かしこまりました。――ッ!」
私が指示した桐箱の蓋を開けた金苑の手が、ビクッと弾かれたように離れた。
「どうしたの?」
「なんでもありません。大変失礼いたしました」
しかし金苑はすぐにいつも通りの冷静な態度に戻って、再度蓋を開ける。
中には大ぶりの石が入っていた。楕円の大きな石。その一箇所が割れて口を開け、キラキラした紫水晶が覗いている。そういう調度品のようだ。
特別おかしなものには見えず、首を傾げた。
「なんでもないって風じゃなかったけど。箱に虫でも付いてた?」
今のはどう考えても金苑らしくない態度だった。
この薫春殿には年齢不詳な汪蘭を除き、私と歳の近い若い宮女しかいない。金苑も私より幾つか年上なだけで随分若いが、薫春殿の宮女たちのまとめ役をしてくれている。仕事の采配も完璧な、薫春殿一のしっかり者の宮女だ。常日頃から冷静で、感情をあらわにすることは多くない。
だからこそ、いつもと違う態度が気になった。まさか淀みに憑かれてはいないかとじっと見つめたが、あの黒い靄は彼女のどこにもなかった。
ただの杞憂かもしれないが、念には念を入れておきたい。
「何か変なことでもあったら、些細なことでも、なんでも言ってちょうだい」
「……いえ、本当になんでもありません……」
しかし金苑は言葉を濁して目を伏せる。その視線は手元の箱ではなく、どこか遠くを見ている。その様子はまるで先程の私のようだ。
そろそろお茶の時間だ。献上品の確認も区切りがいい。今日はここまでにしておこうと、私は目録を閉じ、首をぽきりと鳴らした。
「――石は……何だか恐ろしい気がします」
金苑が不意にポツリと呟いた。
その視線は、未だ水晶の調度品が入っていた桐箱に落ちたまま。
「石……?」
私は目をパチクリとして金苑に聞き返した。
夏と呼ぶにはまだ早く、けれど日差しが強まったのを実感する時期だ。薫春殿の外に一歩出れば、この季節の緑は色濃く、朱色に塗られた宮殿をいっそう鮮やかに際立たせている。だからこそ、硬く温度の失せた金苑の言葉が、私の心に、それこそ石ころのように引っかかったのだ。
金苑は思わず零してしまった言葉を呑み込むことも出来ず、不安げな子供のようにうろうろと視線を彷徨わせている。やはり金苑らしくない。
「ねえ、もしかして、それって石林殿のこと?」
ふと思いついたのは、薫春殿と因縁浅からぬ石林殿の胡嬪。その住まいの名前からして『石』である。
彼女は私の腹違いの姉、朱華の主人であり、なんとも風変わりな人物なのだ。胡嬪本人だけでなく、石林殿の宮女もどことなく薄気味悪かったのを思い出す。
それだけならばいざ知らず、朱華は少し前に薫春殿の宮女、恩永玉を脅したのだ。石林殿に良い印象などあるはずもない。
金苑は大切な友人の恩永玉を傷付けられ、普段の冷静さが信じられないくらいの激しさで、それはそれは怒っていた。もしかして石を見て連想してしまったのだろうか。そう思ったのだが、金苑はゆるゆると首を横に振った。
「……それもありますが、私は元々石が少し苦手なのです。なので少し驚いてしまいまして……」
金苑はいつも冷静で、怖いものなどなさそうな有能な宮女だ。そんな彼女の苦手なものが思いもよらぬ石であるとは。
ついつい興味が湧いてしまうのは致し方あるまい。
「その石って、石ころとかの?」
「そうですね……石ころだけでなく玉石の類も、少し苦手です」
金苑は歯切れ悪く答えた。
私は金苑の姿を見る。若い宮女はお仕着せの着物ながら、玉のついた髪飾りや帯玉で小さなお洒落を楽しんでいる。
金苑もそんな他の宮女と同様、艶やかな髪飾りや帯玉を着けている。今も決して派手ではないが、上品で美麗な帯玉が身動きする度揺れていた。
私の視線に気が付いたのか、金苑は帯玉を手で掬うように持ち上げた。
「ああ、これは玉石ではないのです。これは鼈甲に螺鈿を施したものですし、髪飾りにしても玻璃や真珠などが多いですね。玉石の類も全くないわけではありませんが、あまり……」
「へえ、本当に苦手なのね。なんでまた……理由とかあるの? ああ、言いたくないならいいんだけど。ただの好奇心だから」
「いえ、構いませんよ。ただ幼い頃に親族の者から、石が囁きかけてきたら気を付けなさいと言われて……それが子供心にとても恐ろしく感じたものですから。石の範疇に入りそうな宝玉まで含めて少し苦手になってしまって――」
石が囁くときた。
私はちょっと不意を突かれ、目を瞬かせる。
「まあ、その話、私も聞いたことがありますよ。王宮内に古くからある怪談ですよね!」
ちょうどお茶を持ってきた宮女が、目を輝かせて話に乗ってきた。
薫春殿にいるのはどちらかと言えば大人しい宮女ばかりだが、それでも数人寄ればそれなりに姦しい。しかも怖い話というのは女性の興味を煽るものらしい。まあ私とて例外ではないが。
「怪談ねえ。どんな話なの?」
「そんなに怖い話ではないのですが、龍圭殿にある宝物庫には一人で入ってはいけない決まりがあるそうなのです。……石が話しかけてくるから、と。確かそんな話でしたよね?」
宮女は声色を変えておどろおどろしく言い、金苑はどこか浮かない顔のまま頷いた。
「へえ、あの龍圭殿の話なのね」
龍圭殿といえば儀礼用の宮殿で、かつて私がすっ転んで大きなたんこぶをこしらえた場所だった。伝統ある宮殿だから、そんな話の一つや二つあるのだろう。
「……ええ。一人で宝物庫に入ると石が囁きかけてくる。それに返事をしたら死んでしまうというお話です」
「あら、そうでしたかしら。私は願いが叶うと聞いた気がしますけれど」
宮女は首を傾げている。私はつい口を挟んだ。
「まあでも、噂話ってそんなものじゃない? 伝わる内に、いつのまにか少しずつ変わってしまったりするのよね」
金苑はコクンと頷く。
「そうかもしれません。私の大叔母もかつて宮女をしておりました。その大叔母から聞いた話では、囁く石が願いを叶えてやろうと唆すけれど、願いは叶わずに死ぬそうです。だからそんな声を聞いても絶対に返事をしてはならぬと。大叔母の若い頃のことなので随分昔の話なのですが、今でもその決まりは変わらず、二人以上でなければ宝物庫には入ってはならないそうですよ」
「一人では入ってはならない宝物庫……」
豪華な宝物庫で、自分一人しかいないというのにどこからともなく囁きかけてくる声。確かに想像するとうっすらとした怖さがある。幼い金苑はそれを聞いて震え上がったのだろう。
金苑はそんな過去を振り払うように苦笑した。
「いえ、宝物庫ですから、実際のところは、盗難がないように、複数人でないと入れない決まりにでもなっているのでしょう」
「なるほどね」
説得力のあることを言われると途端に納得してしまう。金苑はこれで終わりというように仕事に戻っていった。
もう一人の宮女はまだ話し足りないらしく、私に新しいお茶を注いでから口を開く。
「でも、龍圭殿って、色々耳にしますよね。やはり何かあるかもしれませんよ! そういえば、この春にも死体が見つかったとか――」
言いかけた宮女は私を見てハッと顔色を変え、口をつぐむ。
「な、なんでもございません。……失礼いたしました」
そういえばそうだった。
たんこぶを作ったことばかり覚えているが、あの龍圭殿では肉体の一部だけが動いている世にも悍ましい妖を目撃したことがある。後日、雨了に調べてもらうと龍圭殿の床下から行方不明になっていた衛士の白骨死体が発見された。それが何故か私が幽霊の声を聞いて見つけたという噂になってしまっているのだ。
それに、あの頃の教育係だった宦官の梅応が火輪草の件で捕縛されたこともある。きっと宮女たちも触れてはならないことなのだと感じているのだろう。
「別に気にしてないから」
「そ、そうですね。あ、あの、先日の茉莉花の香の件なのですが――」
ホッとしたように宮女は話を変える。
「ああ、それね。使ってみてどうかしら」
私だってあの話を蒸し返したくはない。やや強引にでも話を変えてくれた宮女に感謝し、香の話や菓子の話でしばしの間、盛り上がる。
――しかし、心に引っかかった石の存在を、忘れることは出来なかった。
花の咲き誇る薫春殿で、このところ生花以外の香りが立ち込めていた。
茉莉花の香である。
壁巍が教えてくれた通り、清らかな花であるという茉莉花の甘やかな香りは淀みを寄せ付けず、香を焚くだけで薫春殿内で淀みを見ることが随分と減っていた。
おかげでろくも狩り続けて減った体力を回復させたようで、室内に入ってきた淀みを今日も元気いっぱいに狩ってくれている。
壁巍の情報は正しかった。淀み避けとして効き目があるとはっきりしたことになる。
「朱妃――あら、こちらの部屋は香を焚いていないのですね」
そう言って入ってきたのは汪蘭だった。
「ええ。猫がいる場所には香を焚きすぎるのは良くないそうだから」
ろくは妖であるために茉莉花の匂いが苦手なのだ。なので私の部屋にだけは香を焚いていない。私には淀みが見えるから不用意に触れてしまうこともないし、ろくも基本的に私の部屋にいる。もし淀みがいても、真っ先に退治してくれる。
しかしふと思い出す。
「そういえば汪蘭も茉莉花を嗅いでくしゃみしてたわよね。大丈夫なの? 体質に合わないなら無理して使わないでね」
いくら淀み避けとはいえ、苦手なものを無理強いさせては意味がない。
「ええ、香りが嫌いなわけではないのですが……どうにも鼻がムズムズしてしまいますね。ですが、最近少し香りが変わった気がします」
「あら、気が付いた? 茉莉花以外にも匂天竺葵を混ぜているの。……その、このところ宮女の心身の不調が多いでしょう。香で心を安らげるのが良いと思って」
対外的にはそう広めている。淀みがどうとは言えるものではない。
さらには改良を続け、元々魔除けとしても使われる匂天竺葵の香をほんの少しだけ足したところ、なんと淀み避けとしての効果が増したのだ。おかげで薫春殿の宮女も今のところ無事だ。かつて淀みに憑かれ、体調を崩した恩永玉もすっかり回復している。
「他の妃嬪がいる各宮殿にもこの香を広めてもらってるの。苦手な汪蘭には申し訳ないんだけど」
「まあ、私のことなど気になさらないでください。朱妃が宮女の健康に良いとお考えなのでしょう。それはとても大事なことです」
「うん。でも汪蘭だって大事よ。どうしてもしんどかったら私の部屋に来ればいいから」
「……はい。その際は、お言葉に甘えさせていただくかもしれません」
汪蘭は柔らかく微笑む。
私の言うことをどれだけの妃嬪が信じて香を使ってくれるか分からない。しかしそれで少しでも淀みに憑かれる宮女を減らせるかもしれないのだ。とにかく試してみるしかない。
とはいえ嗅覚が鋭すぎる雨了は茉莉花をキツく感じるそうなので、どちらにせよこの作戦が出来るのは雨了が帰るまでの時間稼ぎにすぎない。
私が本来やるべきなのは雨了が親征から帰還するまでに鱗をどうにかして見つけ出すこと。雨了に鱗が戻り、後宮における龍の力の循環が滞りなくなれば淀みも減るはずだし、雨了の寿命も長くなるはずなのだが。
しかし鱗は未だ見つからない。どこを探せばいいのか見当も付かないまま。やるべきことの手がかりさえない。今こうしている間にも気ばかりが急いてしまう。
私は胸元に手を当てて重い溜息を吐いた。そこに祖父の形見はないが、つい手で探るのがすっかり癖になってしまっていた。
「朱妃、どうかなさいましたか? 胃の調子が芳しくないのでしょうか」
そんな私を心配して汪蘭が聞いてくる。私は慌てて否定した。
「ううん、大丈夫。なんでもないわ」
「さようでございますか……皇帝陛下が早く戻られると良いですね……」
「……そうね」
私の元気がない原因を、雨了が長く留守にしているせいだと汪蘭は思っているようだ。
勿論それもある。私は雨了に会いたくてたまらなかった。雨了は私の腹の立つこともするけれど、一緒にいる時は何だか心が自由になるような、晴々とした気持ちになるのだ。そばにいたい。温もりを感じたい。けれど今は我慢するしかない。
それより今の私は、雨了が死んでしまうかもしれないことがとにかく気がかりでならない。龍の力を制御出来なければ、そう遠くない内に雨了は死んでしまうのだから。
汪蘭は私に寄り添い、そっと背中を撫でてくれる。心配してくれている汪蘭の気持ちが痛いほど伝わってくる。
ついまた溜息を吐きかけて、汪蘭をこれ以上心配させないようにと、ぐっと呑み込んだ。それから少しわざとらしいかもしれないが、明るい声を出して話を変えることにした。
「ねえ、そういえば汪蘭って、宝物庫に一人で入ってはならないっていう怪談を知ってる? 石が囁くってやつ」
先日、金苑たちとの話で知ったばかりの怪談だ。汪蘭は薫春殿の他の宮女より宮女経験が長いようだから、もしかすると金苑たちよりも怪談の詳しい事情なんかも知っているかもしれない。汪蘭がこの怪談を知っていても知らなくても、きっと話が盛り上がるだろう。
そう思って話を振ったのだが、汪蘭は返事をしない。
会話はふっつりと途切れ、静まり返った部屋の中で汪蘭がひゅっと息を吸う音だけが私の耳に届く。
「えと、汪蘭、どうかした?」
何か変なことを言ってしまっただろうか。
「……それを……誰から聞いたのですか」
しばらくしてようやく返ってきた汪蘭の声はひどく掠れていた。
振り返ると、汪蘭は目を見開き、指も微かに震えている。顔色は紙のように真っ白だった。
「ど、どうしたの汪蘭……?」
軽い気持ちで言ったのに、私は汪蘭の過剰すぎる反応に少なからず驚いた。たかが怪談にそんな反応をするとは思ってもみなかったのだ。
「まさかどなたかが、一人で宝物庫に入ったのですか⁉」
滅多にない汪蘭の剣幕に私はブンブンと首を横に振った。
「い、いえ……金苑の大叔母が昔、宮女をしていたらしくて。た、ただの噂よ」
「そ、そうでしたか……」
汪蘭はそれを聞いてほうっと息を吐いた。ひりついていた空気が緩む。
「ねえ、ただごとではなさそうだけど」
「……あまり良い話ではありません。十年前にも同じ怪談が広まったことがあったのです。願いが叶う石があるからと、願掛けをするために実際に龍圭殿に忍び込んだ衛士や宮女がいたそうで……」
確かにそれは問題だ。いくら願掛けだろうが、宝物庫に侵入しようとすれば騒ぎになるだろう。下手をすれば御物を盗もうとしたとされ、極刑でもおかしくはない。
「分かった。それについては他の子たちにもしっかり釘を刺しておくわ」
「はい、よろしくお願いします」
汪蘭はまだ顔色が優れない。
伏せた瞳は悲しげに揺れていた。何か訳ありな様子なのは一目瞭然だ。
(……変な汪蘭)
更に問うべきか――そう考えた時、部屋の外から私を呼ぶ声が聞こえた。
「朱妃、お手紙が届いております。少しよろしいですか」
「はーい! ねえ汪蘭、ちょっと待ってて」
「……いえ、私のことは、どうか気にならさないでください」
汪蘭は静かに微笑み、部屋から退出していった。
部屋に残った私は石林殿からという手紙を前にうーんと唸る。
飴のように艶やかな材質の文机に置かれた簡素な手紙は、何だか白い石を連想させる。つい先程の囁く石の話を思い出してしまっていた。
「石林殿の胡嬪への返事はどういたしましょう」
汪蘭と入れ替わりでやってきた金苑がそう尋ねてくる。
なかなか開く気にならずにぐずぐずし、ようやく開いた胡嬪からの手紙は石林殿への招待状であったのだ。
私の位は妃で、彼女は嬪である。妃の方が位が上になるので、誘いの手紙といっても強制的に行かなければならないなんてことはない。断るのも自由だ。しかし、少し前の恩永玉の件もある。
「ねえ、使いの宮女って朱華だったの?」
「いえ、違う宮女でした。その朱華のことで胡嬪がお話があるとのことです」
私は少し考え込んだ。罠かもしれない。それを考えれば敵地である石林殿に行くのは危険だ。例えば最初に青妃の青薔宮に行った時のように。青妃は私に悪意を持っていなかったから、ただの悪戯で済んだ。だが、もしも胡嬪に悪意があるのなら、私を閉じ込めるなり、随伴の宮女を人質に取るなり、なんだって出来るだろう。今は雨了が不在だから尚のこと。親しくしているわけでもない胡嬪を信じ切れないのは事実だ。しかも、あの朱華の主人なのだ。だが行かないことで朱華についての話を聞き逃すのも、何だか心配だった。
「……ねえ金苑、薫春殿に招くという形にしても大丈夫かしら」
「ええ、勿論でございます。そうなればもてなしの準備がありますし、あちらとの予定をすり合わせますので、今日中は難しいでしょう。早くて数日後になります」
「しばらくは特に予定はないから、金苑たちに任せるわ」
「かしこまりました」
金苑は常と同じくごく冷静なように見えたが、胡嬪の宮女である朱華に仲の良い恩永玉を虐められた怒りは、今もその瞳の中で静かに燃えていた。
きっと金苑に任せれば、胡嬪の来訪にもなんら問題がないように段取りをしてくれるだろう。
金苑が胡嬪の宮女と予定をすり合わせ、胡嬪の来訪は二日後の午後と決まった。それまでに掃除やもてなしの準備を済ますべく、薫春殿はばたばたと慌ただしくなる。
そんな中、私は恩永玉を呼び出した。
用件は勿論、朱華についてである。恩永玉に科した罰は、もう終わっていた。
「あの、お呼びと伺いましたが……」
恩永玉はおどおどと私の方を窺っている。その様はまるで小動物か何かのようでか弱い愛らしさがある。
けれど、その細腕でも、私が与えた罰の水汲みや草むしりの力仕事もきちんとこなしていたのを知っている。本来とても真面目で良い娘なのだ。
「金苑から聞いたかもしれないけれど、明後日に石林殿の胡嬪が訪れる予定になっているの。あちらも宮女を連れてくるでしょうから、もしかすると朱華と顔を合わせることになってしまうかもしれない。……それで、恩永玉はどうしたい?」
「どう、とは……」
「もし朱華の顔を見るのも嫌なら、当日は裏方の仕事で構わないけれど」
私の言葉に、恩永玉はきゅっと唇を引き結び、真剣な面持ちをして首をプルプルと横に振った。
「いいえ、出来ることなら私も朱妃のお側に置いていただきたいです。私は一度朱華の言葉に屈してしまいました。朱妃はそんな私を許してくれましたが、だからと言ってこのまま逃げて良いはずありません」
「大丈夫なのね?」
「はい。もう朱華の言葉に惑わされません」
「それじゃあ、当日は金苑と共に私の側に付いてもらうわね」
「はい、お任せください!」
恩永玉は両の手をきゅっと握り込んで大きく頷いた。
薫春殿に爽やかな新緑の風が吹き込んでいた。
時が経つのは早いもので、私が後宮に来るきっかけとなった宮女試験の頃はずいぶん寒かったが、そろそろ日向にいればうっすら汗ばむ陽気になっていた。
雨了が反乱の気配ありと迦国の属国、馬理国へと親征して、もう半月あまり。馬理は遠く、後宮にはまだ何の連絡もない。
――雨了は無事だろうか。今頃何をしているのだろう。
私は窓から見える眩しい庭に目を細めた。雨了の出立の頃に咲いていた花は落ち、今は違う種類の花が咲き誇っている。薫春殿の庭もすっかり様変わりしていた。
失ってしまった雨了の鱗を探し出さねばならないのに、何の手がかりもないまま日々だけが無為に過ぎていく。龍とその番に絆があるのなら鱗は私の掌中に戻ると、そう壁巍は言った。なのに、私の手に鱗はなく、無力なまま。
ついいつもの癖で胸元に手を当てたが、祖父の形見はそこにはない。今は遠く離れた雨了のもとにある。指に触れるのは、雨了を人の体から解放するための龍の宝刀が変化した、あの細長い巻貝の冷たい硬さだけだった。
「朱妃、献上された品々が届いております。ご確認よろしいでしょうか」
ぼうっとしていた私は急に金苑から話しかけられ、慌てて顔を上げた。
「あ、ああ、うん。目録を見せてくれる?」
「お疲れのご様子ですが、一旦休憩なさいますか?」
「平気よ。お茶の時間までに終わらせたいから」
雨了はいなくとも、いや、むしろいない時を狙っているのだろうか。愛妃である私への献上品は日に日に増えていた。雨了の親戚や高官、県令といった、寵愛を受ける妃とよしみを通じたい人々からの贈り物だった。非常に面倒くさいが、そういった品々を確認し、礼状をしたためるのも妃の仕事の内である。
とはいえ中身は既に宦官たちが検めているので、私は目録と共にチラッと確認する程度だ。献上品はいかにも女性が好みそうな衣服や装飾品が多い。そういうものにさして興味のない私には少しばかり食傷気味だ。
「絹に装飾品……いつも通りね。金苑、そっちの箱を開けてくれる?」
「はい、かしこまりました。――ッ!」
私が指示した桐箱の蓋を開けた金苑の手が、ビクッと弾かれたように離れた。
「どうしたの?」
「なんでもありません。大変失礼いたしました」
しかし金苑はすぐにいつも通りの冷静な態度に戻って、再度蓋を開ける。
中には大ぶりの石が入っていた。楕円の大きな石。その一箇所が割れて口を開け、キラキラした紫水晶が覗いている。そういう調度品のようだ。
特別おかしなものには見えず、首を傾げた。
「なんでもないって風じゃなかったけど。箱に虫でも付いてた?」
今のはどう考えても金苑らしくない態度だった。
この薫春殿には年齢不詳な汪蘭を除き、私と歳の近い若い宮女しかいない。金苑も私より幾つか年上なだけで随分若いが、薫春殿の宮女たちのまとめ役をしてくれている。仕事の采配も完璧な、薫春殿一のしっかり者の宮女だ。常日頃から冷静で、感情をあらわにすることは多くない。
だからこそ、いつもと違う態度が気になった。まさか淀みに憑かれてはいないかとじっと見つめたが、あの黒い靄は彼女のどこにもなかった。
ただの杞憂かもしれないが、念には念を入れておきたい。
「何か変なことでもあったら、些細なことでも、なんでも言ってちょうだい」
「……いえ、本当になんでもありません……」
しかし金苑は言葉を濁して目を伏せる。その視線は手元の箱ではなく、どこか遠くを見ている。その様子はまるで先程の私のようだ。
そろそろお茶の時間だ。献上品の確認も区切りがいい。今日はここまでにしておこうと、私は目録を閉じ、首をぽきりと鳴らした。
「――石は……何だか恐ろしい気がします」
金苑が不意にポツリと呟いた。
その視線は、未だ水晶の調度品が入っていた桐箱に落ちたまま。
「石……?」
私は目をパチクリとして金苑に聞き返した。
夏と呼ぶにはまだ早く、けれど日差しが強まったのを実感する時期だ。薫春殿の外に一歩出れば、この季節の緑は色濃く、朱色に塗られた宮殿をいっそう鮮やかに際立たせている。だからこそ、硬く温度の失せた金苑の言葉が、私の心に、それこそ石ころのように引っかかったのだ。
金苑は思わず零してしまった言葉を呑み込むことも出来ず、不安げな子供のようにうろうろと視線を彷徨わせている。やはり金苑らしくない。
「ねえ、もしかして、それって石林殿のこと?」
ふと思いついたのは、薫春殿と因縁浅からぬ石林殿の胡嬪。その住まいの名前からして『石』である。
彼女は私の腹違いの姉、朱華の主人であり、なんとも風変わりな人物なのだ。胡嬪本人だけでなく、石林殿の宮女もどことなく薄気味悪かったのを思い出す。
それだけならばいざ知らず、朱華は少し前に薫春殿の宮女、恩永玉を脅したのだ。石林殿に良い印象などあるはずもない。
金苑は大切な友人の恩永玉を傷付けられ、普段の冷静さが信じられないくらいの激しさで、それはそれは怒っていた。もしかして石を見て連想してしまったのだろうか。そう思ったのだが、金苑はゆるゆると首を横に振った。
「……それもありますが、私は元々石が少し苦手なのです。なので少し驚いてしまいまして……」
金苑はいつも冷静で、怖いものなどなさそうな有能な宮女だ。そんな彼女の苦手なものが思いもよらぬ石であるとは。
ついつい興味が湧いてしまうのは致し方あるまい。
「その石って、石ころとかの?」
「そうですね……石ころだけでなく玉石の類も、少し苦手です」
金苑は歯切れ悪く答えた。
私は金苑の姿を見る。若い宮女はお仕着せの着物ながら、玉のついた髪飾りや帯玉で小さなお洒落を楽しんでいる。
金苑もそんな他の宮女と同様、艶やかな髪飾りや帯玉を着けている。今も決して派手ではないが、上品で美麗な帯玉が身動きする度揺れていた。
私の視線に気が付いたのか、金苑は帯玉を手で掬うように持ち上げた。
「ああ、これは玉石ではないのです。これは鼈甲に螺鈿を施したものですし、髪飾りにしても玻璃や真珠などが多いですね。玉石の類も全くないわけではありませんが、あまり……」
「へえ、本当に苦手なのね。なんでまた……理由とかあるの? ああ、言いたくないならいいんだけど。ただの好奇心だから」
「いえ、構いませんよ。ただ幼い頃に親族の者から、石が囁きかけてきたら気を付けなさいと言われて……それが子供心にとても恐ろしく感じたものですから。石の範疇に入りそうな宝玉まで含めて少し苦手になってしまって――」
石が囁くときた。
私はちょっと不意を突かれ、目を瞬かせる。
「まあ、その話、私も聞いたことがありますよ。王宮内に古くからある怪談ですよね!」
ちょうどお茶を持ってきた宮女が、目を輝かせて話に乗ってきた。
薫春殿にいるのはどちらかと言えば大人しい宮女ばかりだが、それでも数人寄ればそれなりに姦しい。しかも怖い話というのは女性の興味を煽るものらしい。まあ私とて例外ではないが。
「怪談ねえ。どんな話なの?」
「そんなに怖い話ではないのですが、龍圭殿にある宝物庫には一人で入ってはいけない決まりがあるそうなのです。……石が話しかけてくるから、と。確かそんな話でしたよね?」
宮女は声色を変えておどろおどろしく言い、金苑はどこか浮かない顔のまま頷いた。
「へえ、あの龍圭殿の話なのね」
龍圭殿といえば儀礼用の宮殿で、かつて私がすっ転んで大きなたんこぶをこしらえた場所だった。伝統ある宮殿だから、そんな話の一つや二つあるのだろう。
「……ええ。一人で宝物庫に入ると石が囁きかけてくる。それに返事をしたら死んでしまうというお話です」
「あら、そうでしたかしら。私は願いが叶うと聞いた気がしますけれど」
宮女は首を傾げている。私はつい口を挟んだ。
「まあでも、噂話ってそんなものじゃない? 伝わる内に、いつのまにか少しずつ変わってしまったりするのよね」
金苑はコクンと頷く。
「そうかもしれません。私の大叔母もかつて宮女をしておりました。その大叔母から聞いた話では、囁く石が願いを叶えてやろうと唆すけれど、願いは叶わずに死ぬそうです。だからそんな声を聞いても絶対に返事をしてはならぬと。大叔母の若い頃のことなので随分昔の話なのですが、今でもその決まりは変わらず、二人以上でなければ宝物庫には入ってはならないそうですよ」
「一人では入ってはならない宝物庫……」
豪華な宝物庫で、自分一人しかいないというのにどこからともなく囁きかけてくる声。確かに想像するとうっすらとした怖さがある。幼い金苑はそれを聞いて震え上がったのだろう。
金苑はそんな過去を振り払うように苦笑した。
「いえ、宝物庫ですから、実際のところは、盗難がないように、複数人でないと入れない決まりにでもなっているのでしょう」
「なるほどね」
説得力のあることを言われると途端に納得してしまう。金苑はこれで終わりというように仕事に戻っていった。
もう一人の宮女はまだ話し足りないらしく、私に新しいお茶を注いでから口を開く。
「でも、龍圭殿って、色々耳にしますよね。やはり何かあるかもしれませんよ! そういえば、この春にも死体が見つかったとか――」
言いかけた宮女は私を見てハッと顔色を変え、口をつぐむ。
「な、なんでもございません。……失礼いたしました」
そういえばそうだった。
たんこぶを作ったことばかり覚えているが、あの龍圭殿では肉体の一部だけが動いている世にも悍ましい妖を目撃したことがある。後日、雨了に調べてもらうと龍圭殿の床下から行方不明になっていた衛士の白骨死体が発見された。それが何故か私が幽霊の声を聞いて見つけたという噂になってしまっているのだ。
それに、あの頃の教育係だった宦官の梅応が火輪草の件で捕縛されたこともある。きっと宮女たちも触れてはならないことなのだと感じているのだろう。
「別に気にしてないから」
「そ、そうですね。あ、あの、先日の茉莉花の香の件なのですが――」
ホッとしたように宮女は話を変える。
「ああ、それね。使ってみてどうかしら」
私だってあの話を蒸し返したくはない。やや強引にでも話を変えてくれた宮女に感謝し、香の話や菓子の話でしばしの間、盛り上がる。
――しかし、心に引っかかった石の存在を、忘れることは出来なかった。
花の咲き誇る薫春殿で、このところ生花以外の香りが立ち込めていた。
茉莉花の香である。
壁巍が教えてくれた通り、清らかな花であるという茉莉花の甘やかな香りは淀みを寄せ付けず、香を焚くだけで薫春殿内で淀みを見ることが随分と減っていた。
おかげでろくも狩り続けて減った体力を回復させたようで、室内に入ってきた淀みを今日も元気いっぱいに狩ってくれている。
壁巍の情報は正しかった。淀み避けとして効き目があるとはっきりしたことになる。
「朱妃――あら、こちらの部屋は香を焚いていないのですね」
そう言って入ってきたのは汪蘭だった。
「ええ。猫がいる場所には香を焚きすぎるのは良くないそうだから」
ろくは妖であるために茉莉花の匂いが苦手なのだ。なので私の部屋にだけは香を焚いていない。私には淀みが見えるから不用意に触れてしまうこともないし、ろくも基本的に私の部屋にいる。もし淀みがいても、真っ先に退治してくれる。
しかしふと思い出す。
「そういえば汪蘭も茉莉花を嗅いでくしゃみしてたわよね。大丈夫なの? 体質に合わないなら無理して使わないでね」
いくら淀み避けとはいえ、苦手なものを無理強いさせては意味がない。
「ええ、香りが嫌いなわけではないのですが……どうにも鼻がムズムズしてしまいますね。ですが、最近少し香りが変わった気がします」
「あら、気が付いた? 茉莉花以外にも匂天竺葵を混ぜているの。……その、このところ宮女の心身の不調が多いでしょう。香で心を安らげるのが良いと思って」
対外的にはそう広めている。淀みがどうとは言えるものではない。
さらには改良を続け、元々魔除けとしても使われる匂天竺葵の香をほんの少しだけ足したところ、なんと淀み避けとしての効果が増したのだ。おかげで薫春殿の宮女も今のところ無事だ。かつて淀みに憑かれ、体調を崩した恩永玉もすっかり回復している。
「他の妃嬪がいる各宮殿にもこの香を広めてもらってるの。苦手な汪蘭には申し訳ないんだけど」
「まあ、私のことなど気になさらないでください。朱妃が宮女の健康に良いとお考えなのでしょう。それはとても大事なことです」
「うん。でも汪蘭だって大事よ。どうしてもしんどかったら私の部屋に来ればいいから」
「……はい。その際は、お言葉に甘えさせていただくかもしれません」
汪蘭は柔らかく微笑む。
私の言うことをどれだけの妃嬪が信じて香を使ってくれるか分からない。しかしそれで少しでも淀みに憑かれる宮女を減らせるかもしれないのだ。とにかく試してみるしかない。
とはいえ嗅覚が鋭すぎる雨了は茉莉花をキツく感じるそうなので、どちらにせよこの作戦が出来るのは雨了が帰るまでの時間稼ぎにすぎない。
私が本来やるべきなのは雨了が親征から帰還するまでに鱗をどうにかして見つけ出すこと。雨了に鱗が戻り、後宮における龍の力の循環が滞りなくなれば淀みも減るはずだし、雨了の寿命も長くなるはずなのだが。
しかし鱗は未だ見つからない。どこを探せばいいのか見当も付かないまま。やるべきことの手がかりさえない。今こうしている間にも気ばかりが急いてしまう。
私は胸元に手を当てて重い溜息を吐いた。そこに祖父の形見はないが、つい手で探るのがすっかり癖になってしまっていた。
「朱妃、どうかなさいましたか? 胃の調子が芳しくないのでしょうか」
そんな私を心配して汪蘭が聞いてくる。私は慌てて否定した。
「ううん、大丈夫。なんでもないわ」
「さようでございますか……皇帝陛下が早く戻られると良いですね……」
「……そうね」
私の元気がない原因を、雨了が長く留守にしているせいだと汪蘭は思っているようだ。
勿論それもある。私は雨了に会いたくてたまらなかった。雨了は私の腹の立つこともするけれど、一緒にいる時は何だか心が自由になるような、晴々とした気持ちになるのだ。そばにいたい。温もりを感じたい。けれど今は我慢するしかない。
それより今の私は、雨了が死んでしまうかもしれないことがとにかく気がかりでならない。龍の力を制御出来なければ、そう遠くない内に雨了は死んでしまうのだから。
汪蘭は私に寄り添い、そっと背中を撫でてくれる。心配してくれている汪蘭の気持ちが痛いほど伝わってくる。
ついまた溜息を吐きかけて、汪蘭をこれ以上心配させないようにと、ぐっと呑み込んだ。それから少しわざとらしいかもしれないが、明るい声を出して話を変えることにした。
「ねえ、そういえば汪蘭って、宝物庫に一人で入ってはならないっていう怪談を知ってる? 石が囁くってやつ」
先日、金苑たちとの話で知ったばかりの怪談だ。汪蘭は薫春殿の他の宮女より宮女経験が長いようだから、もしかすると金苑たちよりも怪談の詳しい事情なんかも知っているかもしれない。汪蘭がこの怪談を知っていても知らなくても、きっと話が盛り上がるだろう。
そう思って話を振ったのだが、汪蘭は返事をしない。
会話はふっつりと途切れ、静まり返った部屋の中で汪蘭がひゅっと息を吸う音だけが私の耳に届く。
「えと、汪蘭、どうかした?」
何か変なことを言ってしまっただろうか。
「……それを……誰から聞いたのですか」
しばらくしてようやく返ってきた汪蘭の声はひどく掠れていた。
振り返ると、汪蘭は目を見開き、指も微かに震えている。顔色は紙のように真っ白だった。
「ど、どうしたの汪蘭……?」
軽い気持ちで言ったのに、私は汪蘭の過剰すぎる反応に少なからず驚いた。たかが怪談にそんな反応をするとは思ってもみなかったのだ。
「まさかどなたかが、一人で宝物庫に入ったのですか⁉」
滅多にない汪蘭の剣幕に私はブンブンと首を横に振った。
「い、いえ……金苑の大叔母が昔、宮女をしていたらしくて。た、ただの噂よ」
「そ、そうでしたか……」
汪蘭はそれを聞いてほうっと息を吐いた。ひりついていた空気が緩む。
「ねえ、ただごとではなさそうだけど」
「……あまり良い話ではありません。十年前にも同じ怪談が広まったことがあったのです。願いが叶う石があるからと、願掛けをするために実際に龍圭殿に忍び込んだ衛士や宮女がいたそうで……」
確かにそれは問題だ。いくら願掛けだろうが、宝物庫に侵入しようとすれば騒ぎになるだろう。下手をすれば御物を盗もうとしたとされ、極刑でもおかしくはない。
「分かった。それについては他の子たちにもしっかり釘を刺しておくわ」
「はい、よろしくお願いします」
汪蘭はまだ顔色が優れない。
伏せた瞳は悲しげに揺れていた。何か訳ありな様子なのは一目瞭然だ。
(……変な汪蘭)
更に問うべきか――そう考えた時、部屋の外から私を呼ぶ声が聞こえた。
「朱妃、お手紙が届いております。少しよろしいですか」
「はーい! ねえ汪蘭、ちょっと待ってて」
「……いえ、私のことは、どうか気にならさないでください」
汪蘭は静かに微笑み、部屋から退出していった。
部屋に残った私は石林殿からという手紙を前にうーんと唸る。
飴のように艶やかな材質の文机に置かれた簡素な手紙は、何だか白い石を連想させる。つい先程の囁く石の話を思い出してしまっていた。
「石林殿の胡嬪への返事はどういたしましょう」
汪蘭と入れ替わりでやってきた金苑がそう尋ねてくる。
なかなか開く気にならずにぐずぐずし、ようやく開いた胡嬪からの手紙は石林殿への招待状であったのだ。
私の位は妃で、彼女は嬪である。妃の方が位が上になるので、誘いの手紙といっても強制的に行かなければならないなんてことはない。断るのも自由だ。しかし、少し前の恩永玉の件もある。
「ねえ、使いの宮女って朱華だったの?」
「いえ、違う宮女でした。その朱華のことで胡嬪がお話があるとのことです」
私は少し考え込んだ。罠かもしれない。それを考えれば敵地である石林殿に行くのは危険だ。例えば最初に青妃の青薔宮に行った時のように。青妃は私に悪意を持っていなかったから、ただの悪戯で済んだ。だが、もしも胡嬪に悪意があるのなら、私を閉じ込めるなり、随伴の宮女を人質に取るなり、なんだって出来るだろう。今は雨了が不在だから尚のこと。親しくしているわけでもない胡嬪を信じ切れないのは事実だ。しかも、あの朱華の主人なのだ。だが行かないことで朱華についての話を聞き逃すのも、何だか心配だった。
「……ねえ金苑、薫春殿に招くという形にしても大丈夫かしら」
「ええ、勿論でございます。そうなればもてなしの準備がありますし、あちらとの予定をすり合わせますので、今日中は難しいでしょう。早くて数日後になります」
「しばらくは特に予定はないから、金苑たちに任せるわ」
「かしこまりました」
金苑は常と同じくごく冷静なように見えたが、胡嬪の宮女である朱華に仲の良い恩永玉を虐められた怒りは、今もその瞳の中で静かに燃えていた。
きっと金苑に任せれば、胡嬪の来訪にもなんら問題がないように段取りをしてくれるだろう。
金苑が胡嬪の宮女と予定をすり合わせ、胡嬪の来訪は二日後の午後と決まった。それまでに掃除やもてなしの準備を済ますべく、薫春殿はばたばたと慌ただしくなる。
そんな中、私は恩永玉を呼び出した。
用件は勿論、朱華についてである。恩永玉に科した罰は、もう終わっていた。
「あの、お呼びと伺いましたが……」
恩永玉はおどおどと私の方を窺っている。その様はまるで小動物か何かのようでか弱い愛らしさがある。
けれど、その細腕でも、私が与えた罰の水汲みや草むしりの力仕事もきちんとこなしていたのを知っている。本来とても真面目で良い娘なのだ。
「金苑から聞いたかもしれないけれど、明後日に石林殿の胡嬪が訪れる予定になっているの。あちらも宮女を連れてくるでしょうから、もしかすると朱華と顔を合わせることになってしまうかもしれない。……それで、恩永玉はどうしたい?」
「どう、とは……」
「もし朱華の顔を見るのも嫌なら、当日は裏方の仕事で構わないけれど」
私の言葉に、恩永玉はきゅっと唇を引き結び、真剣な面持ちをして首をプルプルと横に振った。
「いいえ、出来ることなら私も朱妃のお側に置いていただきたいです。私は一度朱華の言葉に屈してしまいました。朱妃はそんな私を許してくれましたが、だからと言ってこのまま逃げて良いはずありません」
「大丈夫なのね?」
「はい。もう朱華の言葉に惑わされません」
「それじゃあ、当日は金苑と共に私の側に付いてもらうわね」
「はい、お任せください!」
恩永玉は両の手をきゅっと握り込んで大きく頷いた。
15
お気に入りに追加
3,767
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
雇われ側妃は邪魔者のいなくなった後宮で高らかに笑う
ちゃっぷ
キャラ文芸
多少嫁ぎ遅れてはいるものの、宰相をしている父親のもとで平和に暮らしていた女性。
煌(ファン)国の皇帝は大変な女好きで、政治は宰相と皇弟に丸投げして後宮に入り浸り、お気に入りの側妃/上級妃たちに囲まれて過ごしていたが……彼女には関係ないこと。
そう思っていたのに父親から「皇帝に上級妃を排除したいと相談された。お前に後宮に入って邪魔者を排除してもらいたい」と頼まれる。
彼女は『上級妃を排除した後の後宮を自分にくれること』を条件に、雇われ側妃として後宮に入る。
そして、皇帝から自分を楽しませる女/遊姫(ヨウチェン)という名を与えられる。
しかし突然上級妃として後宮に入る遊姫のことを上級妃たちが良く思うはずもなく、彼女に幼稚な嫌がらせをしてきた。
自分を害する人間が大嫌いで、やられたらやり返す主義の遊姫は……必ず邪魔者を惨めに、後宮から追放することを決意する。
結婚して5年、冷たい夫に離縁を申し立てたらみんなに止められています。
真田どんぐり
恋愛
ー5年前、ストレイ伯爵家の美しい令嬢、アルヴィラ・ストレイはアレンベル侯爵家の侯爵、ダリウス・アレンベルと結婚してアルヴィラ・アレンベルへとなった。
親同士に決められた政略結婚だったが、アルヴィラは旦那様とちゃんと愛し合ってやっていこうと決意していたのに……。
そんな決意を打ち砕くかのように旦那様の態度はずっと冷たかった。
(しかも私にだけ!!)
社交界に行っても、使用人の前でもどんな時でも冷たい態度を取られた私は周りの噂の恰好の的。
最初こそ我慢していたが、ある日、偶然旦那様とその幼馴染の不倫疑惑を耳にする。
(((こんな仕打ち、あんまりよーー!!)))
旦那様の態度にとうとう耐えられなくなった私は、ついに離縁を決意したーーーー。
婚約者が実は私を嫌っていたので、全て忘れる事にしました
Kouei
恋愛
私セイシェル・メルハーフェンは、
あこがれていたルパート・プレトリア伯爵令息と婚約できて幸せだった。
ルパート様も私に歩み寄ろうとして下さっている。
けれど私は聞いてしまった。ルパート様の本音を。
『我慢するしかない』
『彼女といると疲れる』
私はルパート様に嫌われていたの?
本当は厭わしく思っていたの?
だから私は決めました。
あなたを忘れようと…
※この作品は、他投稿サイトにも公開しています。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。