たかが子爵家

鈴原みこと

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第五章 きっかけをくれたもの

Ⅰ 忠誠の在り方

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 皇宮に味方はいない。
 幼少のアルフレートは常にその現実を突きつけられ、孤独な子供だった。同腹の兄弟はおらず、母親は自分のことしか考えていない。父親は皇帝であり、一人の子を贔屓はできない。しかも最近は、何を考えているのか分からないことも多い。
 生まれた時から、アルフレートに味方と呼べる存在はいなかった。
 敵ならいくらでもいた。
 母親であるカザリンは皇后でありながら、おおよそ徳と呼べるものを備えていなかった。責任を知らず義務をないがしろにしながら、自己の権利は声高に叫ぶ。そういう人物であったため、政敵ならずも彼女を嫌う者は多かった。
 彼女に不当に虐げられ憎しみを肥大化させた者たちの怨嗟の余波は大きく、子であるアルフレートにも降りかかったのである。
 皇后の無能と無責任を嘲る声は、本人の能力や人柄を無視してアルフレート自身にも向けられた。理不尽な刺ある声は、容赦なく幼い皇子の心を貫いたのであった。
 そんな環境で育ったアルフレートは、物心がつく頃には他者との間に一線を引くようになっていた。
 悪意に満ちた貴族社会のなかで、誰ひとり信じてはいなかった彼が今、たった一人だけ信じられる人物――それがユリウス・フォン・ベルツである。
 だからこそ、レオンハルトがユリウスの忠誠心に対して疑心の種を蒔こうと話を振ったとき、漠然と抱えていた不安を言い当てられた気がして、アルフレートの心は暗くひずんだ。それが孤独な皇子にとって唯一の拠り所であることを、兄を嫌う第二皇子は勘という名の嗅覚で敏感に感じとっているのだ。
 その悪意を、アルフレートも察知した。
 そのため、売り言葉に買い言葉で、『誓いを返上したいなら言え』などと、心にもない発言をしてしまったのである。後悔してもすでに遅く、弱味を見せないためにも、アルフレートは虚勢を張り続けるしかなかった。
「元より私は、第一皇子に忠誠を誓った覚えはございません」
 ユリウスの返答は辛辣を極め、アルフレートの心を瞬間的に凍らせた。
(いや、違う……)
 だが、アルフレートは反射的に理解した。
 発言の際、ユリウスの視線はレオンハルトへと固定されていた。つまり「思い違いをしておられる」という言葉も含めて、すべてはレオンハルトに向けたものだった。
 それを踏まえた上で言葉の端に目を配れば、自ずと意図が読みとれる。
 アルフレートは動揺を見せることなく、落ち着きをとり戻していた。
 真相に気づかないレオンハルトが、勝ち誇ったようにせせら笑う。
「唯一の味方と信じた者にまで、こうも冷たく突き放されるとは、憐れなことです兄上」
「まったくもって、憐れだ……」
 異母弟おとうとの言葉を反復させて、アルフレートは同情めいた視線を送る。
「言葉の表面のみを捉え、その真を見抜けぬ狭窄な視野が自分の価値を貶めていると、なぜ気づかない?」
 レオンハルトが鼻で笑う。アルフレートの発言を負け惜しみと決めつけていた。
「反論できぬからと、迂遠な物言いでとり繕おうなどと、なんと底の浅い――」
「底が浅いのどちらだ?」
 声を被せられて不快げに眉をひそめる異母弟おとうとに、アルフレートは追い打ちをかける。
「考え違いをしているぞ」
 と、今度はユリウスの言葉を反復した。
 兄皇子が何を言いたいのか理解できず、レオンハルトは苛立った。
 わざと冗長な言葉で怒りを煽り、短気を起こさせてこの場を誤魔化そうというのか。そう訝りもしたが、アルフレートの目に焦りの色はなく、同時に冷嘲の気配も感じない。だから余計に困惑が増し、動揺する自分に焦慮が募る。
 一方で、蚊帳の外に置かれた皇女ツェツィーリエは、兄同様に首を捻って考えを巡らせているが、こちらは積極的に言葉のパズルを吟味している様子だった。
「身分に基づいて忠誠を誓ったわけではない、とユリウスは言ったんだ」
 弟妹たちを試すように少し遠回りな解説を入れると、ツェツィーリエがぱっと顔をあげてアルフレートを仰ぎ見た。何かに気づいたらしい。だがレオンハルトは未だにピンとこない様子で不機嫌顔を浮かべている。
 異母弟おとうとの愚鈍さに、嘲笑よりも憐れみを覚えた。
「分かり易くヒントを与えてやったというのに、そなたの思考は鈍重だなレオンハルト。そんなことでは妹にも負けるぞ」
「さっきから、いったい何を言いたいのですか?」
 歯噛みするレオンハルトの瞳には明確な敵意が見てとれた。敵視するあまり、その思考は兄皇子を否定する方向にしか働かない。それがツェツィーリエとの差を生んでいる。だからアルフレートは異母弟おとうとを憐れむのだ。同時に惜しいとも思う。アルフレートの見立てでは、レオンハルトの思考能力は妹に劣っていないはずだ。
 アルフレートは視線を妹へと移す。異母妹いもうとが正しくパズルを組み上げられたか、答え合わせを要求してのものだ。その意図を察して、ツェツィーリエはうなずいた。
「ベルツ伯爵は先程『第一皇子』と言った。そこに敬称を付けなかったのは『第一皇子』という肩書きを示したものだから――つまり、第一皇子という忠誠を誓ったわけではないと言いたかったのだ」
 その回答にレオンハルトもはっとしたように目を見開いた。
「そうなのであろう、伯爵?」
 皇女が確認するように問うと、ユリウスはそちらに微苦笑で応じてから、あるじの元へと歩み寄り、片膝をついて頭を下げた。
「ご承知の通り、我が忠誠は肩書きに依らずアルフレート様ご自身に捧げたもの。ですが、貴方にご理解いただいていることに甘え、周囲にらぬ誤解を招いたのは我が不徳の致すところ。どうかお許しください」
 ああ……そうか、とアルフレートは完全に理解した。ユリウスが見せた怒りの表情が何に対するものなのかを悟ったのである。その正体が判明した瞬間、アルフレートの胸中を占めたのは、安堵と喜び――そして、ほんの少しの罪悪感だった。
「私にも責任の一端はある。謝罪は不要だ」
 それは温情ではなく、後ろめたさが吐きださせた言葉であったが、場にいる者たちの耳には寛大さを伴って響いた。それ故に、立ち上がったユリウスの表情は未だ渋い。思わず苦笑がもれそうになる。それが顔に出ないようにするには、いくらかの努力が必要だった。
 一方のレオンハルトは、敗北感に満ちた紺碧こんぺきの瞳を、恥辱を味わわされた憎悪の色へと変換させて、ユリウスにその照準を定めていた。
「国家ではなく個人に忠誠を誓うなど、危険な思想ではないか」
 悔し紛れで吐きだされた糾弾の言葉はしかし、必ずしも間違った言い分ともいえない。
 個人に対する忠誠心などというものが、ともすれば英雄崇拝へと直結し、権威主義を生みかねない危険性を孕んでいるのは事実だ。権威主義的な思考に囚われれば、自己の責任感は希薄になり、視野は極限まで狭められ、倫理観や道徳心を無視した行為すらも正当化されて、自身の行動に疑問を持たなくなる。
 ただ、レオンハルトの言う『国家』が皇帝そのものを指すのであれば、同様の危険性は当然ながら存在する。
 だから、この問題提起を突き詰めるためには、『国家への忠誠とは何か』という別の議論が必要になってくるわけだ。
 それらを踏まえた上で答えを明確に示せるのが、ユリウスという人物だった。
「国家とは国民である、と私は捉えております。国民なくして国家は存在し得ず、平民階級の働きなくして我ら貴族の生活は成り立ちません。故に、真に目指すべきは我ら貴族の安寧ではなく、それを支えている民の生活を守ることにあります」
「道理ではあるが、兄上にそれができる、とでも言いたいのか?」
「国を健全化するためには、国民に対して公正であることが求められます。だからこそ、万人に対し公正たるを旨としておられるアルフレート殿下を補佐し奉ることが、結果として国家への忠節を果たすことになると考えております」
「公正?」
 レオンハルトの口から嘲笑うような吐息がもれる。
昨日さくじつの不公正な裁可に荷担しておいて、よくそのような戯言ざれごとを口にできたものだな。このあるじにしてこの部下ありということらしい」
 挑発的なレオンハルトの言葉にも、ユリウスの表情は変わらない。
「貴方はヴァルテンベルク公爵領の現状をご存知ですか?」
「なんだと……?」
 不意を突かれた第二皇子は、ただ困惑の色を瞳に浮かべるだけだった。
 レオンハルトはとかく机上で空論を描く癖がある。理論のみでものを考え、人の感情がどう絡むかまでは計算に入れない。だから破綻をきたすのも早いが、原因が分からないまま解釈を進めようとするから、思考は徐々に歪曲していく。
 思考の歪みにつけこまれて、反アルフレート派の貴族に担ぎ上げられているのが、現状の結果として表れているが、本人はそれに気づいていない。
 自分の味方だと認識しているヴァルテンベルク公爵の言動に疑いを持たないから、公爵領がまともに統治されていると無条件で信じている節がある。思い込みによって凝り固まった認識を打破してやらなければ、レオンハルトの思考が前へ進むことはないだろう。
 だからユリウスは惜しまず、詳細を説明しようとしているのだ。
「ヴァルテンベルク公爵領の民は、その多くが貧困によって粗末な暮らしを強いられています」
 ボロボロになった服を着替えることもできないほど困窮した生活。それでも食いつなげている者はまだましなほうといえる。その日食べる物にも事欠き、食べ物を盗んで飢えを凌ぐ子供たちも珍しくない。
 領民がそんな生活に追い込まれている最大の要因は、重すぎる税の取立てにあった。
 国が定めた税は収入や収穫の一割ほどだが、領地によって実情は異なる。
 街の整備やら警備費やら、と様々な理由をつけて領主は税を取り立てる。それが正当なものであるか、その裁量は各領主に任されているのが現状で、国も把握しきれているとは言い難い。
 調べてみると、ヴァルテンベルク公爵領では四割から五割もの税が取り立てられていた。国に納められているのはそのうちの二割ほど――つまり定め通りの税収分だけであったため気づくことができなかった、というのが財務官府の言い分である。
 問題とすべきは、残りの税収が正しく使われているかという部分なのだが、高い税を取っている割には、ヴァルテンベルク公爵領の直轄地は治安が悪く、街も寂れた印象が強い。きちんと整備されてるようには見えない有り様だった。
 その事実とヒュッテンシュタット公爵が証拠として提出した裏帳簿の数字とを照らし合わせれば、ヴァルテンベルク公爵が税収の一部を着服していたことは疑いようがない。
「公爵領の特に直轄地ともなれば、肥沃な大地と温暖な気候に恵まれております。まともな統治下であれば、領民があれほど困窮することはあり得ません」
 ユリウスがそこまでの説明を終えると、レオンハルトが鼻を鳴らして反論する。
「ヒュッテンシュタットの報告にそうあっただけだろう。それをさも見てきたかのように――」
「見てきたからな」
 異母弟おとうとの言葉に口を挟んだのはアルフレートだった。
「実際にヴァルテンベルク公爵領まで足を運んで、この目で確認してきた」
「なっ? どうして……わざわざ……」
 意表を突かれたレオンハルトは自らの主張を翻すがごとくの反応を示して、少なくとも妹からの呆れを買ったが、それには気づかず、罵倒するでも嘲笑するでもない無感動な菫の視線に、強い不安感を刺激されていた。
「ユリウスの親戚筋から上がってきた話だからこそ、鵜呑みにするわけにはいかなかった。判断を誤れば、ユリウスの立場すら危うくなるからな」
 そのため徹底的な調査を行い、確信に至ってからヴァルテンベルク公爵を呼びだしたのだ。万全を喫するには、自分の目で領地の状態を見ておくことがどうしても必要だった。
「どれほどの権力を振りかざしているのか、自覚はしているつもりだ。それ故、自らの責任を軽んじるつもりもない」
「分かります」
 そう口を挟んだのは皇女だった。
「一位殿下がご自分の責任に真摯に向き合おうとされていることは、その行いを見ていれば十分に察することができます。ベルツ伯爵が貴方に信頼を寄せる理由はそこにもあるのでしょう……私も、見倣いたいものです」
 感想めいたツェツィーリエの呟きに反論できず、レオンハルトは下を向いた。
 その様子をやはり無感動に見つめて、アルフレートは淡々と異母弟おとうとに語りかける。
「そなたも肩書きに頼ることなく、自己の行いによって信頼を得られるよう努めることだ。自身の徳によって他者の心をつかめる存在になったなら、その時にまた話を聞いてやる」
 だから今のお前に興味はない――言外の真意を察して、レオンハルトは心理的敗北感に打ちのめされる。自身の思慮の浅さ、あるいは思考の矮小たるを見透かされた気がしたからだ。
 何も言い返せないまま、レオンハルトは両の拳を握りしめて、爆発しそうになる苛立ちを抑えつける。握りこんだ爪が深く皮膚に食い込む感触を自覚しながら、兄皇子に背を向けた。
 怒りの形相で乱暴に床を蹴りつけて去っていく第二皇子に、付き人たちが慌ててついていく。
「兄の無礼をどうかご容赦くださいませ」
 皇女がアルフレートに頭を下げる。彼女は姿勢正しくきれいな所作を見せた。素朴なワンピースを着ているはずなのに、豪華なドレス姿かと錯覚しそうな気品をまとっている。普段のお転婆はナリを潜め、淑女の顔を覗かせていた。
 彼女は顔を上げたあと、毅然とアルフレートの瞳を見つめて、もうひとつ謝罪を重ねた。
「わたくしの身勝手な振る舞いによって殿下のお手を煩わせ、多大な迷惑をおかけしたこと、慚愧ざんきに堪えません。後日改めて謝罪に伺いたいと存じますが、お許しいただけますでしょうか」
 皇族としての品位を保ち形式を守る姿から、公私を正しく隔てる分別が窺える。アルフレートがこの皇女を高く評価する所以ゆえんだ。
「許す。いつでも訪ねてくるといい」
 本来、政敵にあたる間柄にありながらも、二人には何ともいえない親愛が生まれつつある。そこに奇妙な感情を覚えながらも、ツェツィーリエは再び礼をして、その場を辞したのである。
 皇女の後ろ姿を見送ったあと、ユリウスはあるじに向き直った。
「今から少し、お時間を頂いてよろしいでしょうか? お話ししたいことがございます」
「私も、お前と話をしたいと思っていた」
 アルフレートが成人したのをきっかけにユリウスが近衛騎士となって以降、互いに距離を測りかね、それを解消する機会がないまま、あと少しで三年が経とうとしている。
 これまでは大きな問題に直面することもなかったため、二人とも関係の是正を先延ばしにして、向き合うことを避けていた節がある。だが、今回のように、二人の信頼にひびを入れようとする者が今後も現れる可能性は十分にあった。
 その度に揃って感情を揺さぶられるわけにはいかない。互いの意思を明確に認識しておく必要がある。これは良い機会なのだろう、とする二人の決意がそこにはあった。


 アルフレートの自室。扉を隔てた奥に、賓客を迎えるための一室がある。現状、本来の役目をほとんど果たしていないその部屋にユリウスを伴って入り、ソファに座るなりアルフレートが嘆息する。
「どうにも俺たちは不器用だな」
 あるじのぼやきを聞きながら、ユリウスは複雑な表情を浮かべて返答に迷う。そんな騎士に自分の正面にある席を勧めつつ、アルフレートはにやりとした笑いを顔に張りつけた。
「お前にしては意地の悪い言い方だったな。あれではレオンハルトひとりが馬鹿に見えてしまう」
 自分が状況を助長させたことは棚に上げて、自らの騎士をからかうように話を振る。
「すみません。あまりにも腹が立ったもので、八つ当たりしてしまいました」
 自戒の表情を浮かべるユリウスに再度座るよう促してから、アルフレートはふっと息を吐きだした。
「たまにはいいさ。立場に驕ってお前からの反撃はないと高を括っていたあいつ自身にも非はある。失敗しなければ気づけないことも多いからな」
 むしろユリウスがあれを「八つ当たり」だと自覚していることに感心する。
 あの時ユリウスが見せた怒りは、自分自身に対するものだ。

 ――誓いを返上したいのなら遠慮せずに言うがいい。

 心にもないことをあるじに言わせてしまったのは、これまでの自分の態度にも原因があると思ったからである。
 ユリウス自身にとってアルフレートへの忠誠は当たり前のものであり、揺らぎようがないことも分かっている。だから周囲にどんな陰口を叩かれても気にならなかった。それで問題があるとも思っていなかったから、特に訂正も弁解もしてこなかった。
 それが周囲には曖昧な態度に映ったかもしれず、そんな他者の心理をユリウスは洞察し損ねた。先日ステファンから受けた忠告を、まさかこんな形で痛感させられることになるとは夢にも思っていなかったのである。
 そんな自分の不甲斐なさに憤りが抑えられず、何より、アルフレートを積極的に傷つけようとするレオンハルトに格好の口実を与えてしまったことが悔やまれてならない。
 だからその怒りをレオンハルトにもぶつけてしまった、というのが事の真相だ。
 その意味では、ユリウスの本心を確かめようとあんなことを口走ったアルフレートにも、確かに非があった。
 それだけではなく、ユリウスを自戒に追い込んでおきながら、彼の返答に満足して内心で喜んでいたのだから、アルフレート自身が罪の意識から逃れられないのは当然のことだろう。
 反省要素は多々あれど、互いに自虐し合うことに意味はない。アルフレートはさっさと本題に入ることにして、話を切り替える。
「ちょうど今時期だったな、お前と会ったのは。覚えているか?」
「あなたと出会ってからの一ヶ月間は刺激に満ちていて、忘れようがありません」
 対面のソファに座ったユリウスは、穏やかな琥珀こはくの瞳をあるじへと向ける。
 自然――二人の記憶は、五年前の思い出へと飛んでいた。

  ◇◆◇◆◇

 八月中旬のある日のこと。
 アルフレートは宮殿を一人で歩き回っていた。まだ十一歳という成人前の皇子にはともが欠かせないはずだが、アルフレートは一人だった。人目を盗んで後宮を抜けだす常習犯にとっては珍しいことでもない。慣れたもので、迷うことなく目的の場所へと向かっていた。
 宮殿の敷地の中央に偉容を構える本殿。その東側に併設された武官育成の拠点となる東棟ひがしとうはこの日、落ち着きのない空気でざわめいていた。ここで士官学校の入学試験が行われる。それを知っていたから、十一歳の皇子はこうして見学にきたのだ。
 東棟の南にある前庭のような場所にたくさんの人が集まっている。午後からそこで入学試験の実技テストが予定されていた。
 アルフレートは目立たぬ場所にちょこんと座って、試験の開始を待つことにした。辺りに見学者はたくさんいるが、召使いフットマンの制服を着ているから、誰も皇子とは気づかないだろう。
「今年は最年少受験者がいるらしいな」
 見物人と思われる男たちの囁きが耳に入る。
 騎士隊の制服を着ているから、現役の騎士なのだろう。二人で内緒話でもしているような雰囲気だ。
 士官学校の受験資格には年齢制限がある。十四歳以上の男子――つまり成人済みの男性でなければ試験を受けることはできない。最年少というからには、十四歳の受験者がいるということだ。
「魔術学校を首席で卒業したばかりの変わり種もいると聞いたが」
「ああ、男爵家の三男坊のことだな。庶子という話だから、家を追いだされる前に実績をつくっておきたいんだろう。魔術学校と士官学校の双方で好成績を修めれば、かなりの箔がつくからな」
「アウエルンハイマー公爵のご子息もいるという話だし、今年の受験者には注目株が多いようだな」
「注目株ねえ……変わり種はともかく、他の二人はコネで通るんじゃないかとの噂もある」
「コネ合格するとしたら最年少のほうだろう。父親が今回の試験統括官なんだろう?」
「らしいな。みえみえのデキレースなんて事態にならないことを祈るよ。騎士隊の権威が失墜しかねん」
 迷惑そうな声音を響かせて、男のひとりが舌打ちする。
 この手の噂話は聞き慣れている。アルフレートは噂される立場にあったから、話の渦中に登場した受験者たちに同情めいた感想がよぎった。
 そうして他愛もない雑談を拾っているうちに、試験会場の賑わいが増してきた。いよいよ実技テストが開始されるのだ。
 実技試験の内容は前半と後半に分かれている。前半戦は受験者同士の一対一による立ち合いだった。
 注目の最年少受験者は三組目に登場した。
 十四歳にしては長身だが、顔立ちは誰より若く、体つきもまだ華奢に見える。暗緑色の地味な髪色の奥で光る琥珀の瞳がやけに印象に残った。
 対するのは、二十歳そこそこと思われるやたらと体格のいい男。服の上からでも隆々とした筋肉が見えるようだった。
 やるまでもなく結果が見えたと思える対戦。運のない少年だ、と感想が囁かれる。少なくとも、二人の騎士が噂しあっていたようなコネの力が働いているようには見えない。
 いざ始まってみると、試合の内容は誰もが目を疑うものとなった。
 筋肉質で大柄な青年剣士の切っ先は、一度として少年の体を掠めなかった。すべてかわされ受け流されて、焦りで体勢を崩した瞬間に足元を掬われて、青年剣士は派手に転倒する。その首筋に剣を突きつけられて、勝敗は驚くほどあっさりと決した。
 最年少受験者はこの日最大の注目株となった。
 実技テストの後半は、皇軍の騎士が試験官として受験者たちの対戦相手を務める。
 対戦者として出てきたのは赤銅しゃくどう色の髪が人目を引く壮年の男だった。その名をステファン・フォン・シルヴァーベルヒという。実戦経験が豊富な騎士で、対戦相手を涼しい顔でいなしていく姿には風格があった。受験者のほとんどは、彼を最初の立ち位置から動かすこともできずに惨敗していく。
 受験者の半数と対戦を済ませた赤毛の騎士は、いまだに剣を鞘に納めたままだった。彼に剣を抜かせる受験者はいるのか――そこにも注目が集まりつつあるなか、最注目の少年に出番が回ってくる。
 この年唯一の十四歳受験者ユリウス・フォン・ベルツが、琥珀の瞳に闘志を漲らせて歩みでる。その瞬間、周囲がざわめきを発した。赤毛の騎士が剣を抜き放ったからである。
「手加減はしてくれないんですか?」
 きょとんとした表情でユリウスは尋ねた。
「してほしかったのかい?」
 碧い瞳に笑みを乗せたステファンが、からかうような口調を響かせる。
「他の受験者に対しては一定の力で相手をされていたようなので、一応確認してみただけです」
 十四歳らしからぬ生意気さで揶揄的に返答したユリウスは、その態度とは裏腹な喜びに胸を躍らせていた。
 これまでの試合を見て、赤毛の騎士が本気を出していないことは分かっていた。六、七割ほどといったところか――一定の力を保って戦うことで、受験者たちの力量を測りやすくしているのだ。それがユリウスに対してだけ、始めから本気でいこうとする姿勢を見せている。ある種の『特別待遇』というべき対応が、ユリウスの剣士としてのプライドを心地よく刺激していた。
 言葉の通り、ユリウスは念のため確認したに過ぎず、その回答もすでに得ている。ステファンは「してほしいのか」ではなく「してほしかったのか」と過去形で聞いた。その言葉は、本気でいくのは確定事項であって何を言われても手加減するつもりはない、という明確な返答だったのだ。
 だからユリウスもこう答える。
「こちらも、遠慮なく全力でいかせていただきます」
 剣を抜いて構えると、両者の間に殺気がほとばしる。
 ピリリとした緊迫感が会場全体を支配した。
 開始の合図が上がると同時に、赤毛の騎士が地を蹴った。常に受け身で構えていた男が、この時ばかりは先手をとったのである。
 身体の中心を狙って突きだされる剣先。ユリウスは左に体を捻ってかわしざま、手にした剣を振り下ろして、相手の剣を下方へと逸らす。
 剣先を押し下げられたステファンが動きを止める。しかしそれはほんの一瞬だった。右回りで素早く体を回転させたかと思うと、剣を振り上げて斜め下から逆袈裟で斬りかかる。
 相手の剣が離れた反動で前のめりに体勢を崩したユリウスの右側背そくはいを狙って騎士の斬撃が襲う。ユリウスが前方に体を転がして難を逃れ、両者の間合いが離れた。
 しかし二人とも動きを止めない。
 立ち上がり際に地を蹴って、今度はユリウスが突き攻撃を繰りだした。切っ先は相手の首もとを狙っている。
 ステファンは剣の刀身同士を擦らせて攻撃の軌道を逸らす。
 執着を見せずにユリウスは一旦離れて体勢を立て直すと、再び斬りかかった。
 ステファンが正面から攻撃を受けとめ、弾き返す。
 次の瞬間、会場にどよめきが起こった。
 赤毛の騎士が、少年の腹部を蹴りあげたからである。誰もが予想できなかったその攻撃をまともに食らったかのように、ユリウスは後方へと派手に吹き飛ばされた。
 騎士の思わぬ奇襲攻撃で勝敗が決したかに見えた。
 だが、少年の体が地面に墜落することはなかった。片手を地面に突き立てて体を縦回転させ、無事に着地して見せたのである。ステファンから蹴りがくると分かった瞬間、ユリウスは咄嗟に地を蹴って自分から後ろに跳んでいた。それ故、空中で体勢を立て直すことができたのである。
 大きく距離のできた両者は互いに睨みあう。
 ふっとステファンが口角を持ちあげて笑みを見せた。ユリウスもつられたように笑う。
 同時に地を蹴り、二人の間合いが一息のうちに詰まる。
 そこからの二人の動きは、これまでと比べて格段に速さが増していた。様子見は終わりだと言わんばかりに両者の目には烈気が走る。
 ユリウスが剣を横に一閃。ステファンがそれを受け止めるが、膠着するのを嫌うように、互いに相手の剣を弾き返した。その反動で両者はともに一歩後退する。
 すぐさまユリウスは一歩踏み込んで、剣を袈裟懸けに振り下ろす。主導権を奪い、相手を受け身に回らせ、自由な立ち回りを封じる。そうしなければ奇襲戦法で思わぬ反撃を被りかねない相手だと知っている。
 だから休む間もなく右に左に剣を奔らせ、ステファンを揺さぶろうと試みた。
 ステファンは相手の攻撃を受け流しながら、一歩、二歩、と少しずつ後退していく。ユリウスの動きには付け入る隙がないことを認めざるを得ない。だが、ない隙は作ってやればいいのだと、長年の経験で知っていた。
 ユリウスはじりじりと前進しつつも、ステファンを崩しきれないことにれ始めていた。それが相手の狙いだと分かっているから、集中力をもう一段階引き上げて、己の焦りを抑制せねばならなかった。
 連続で攻撃を繰りだし続けるユリウスの七撃目を弾いた直後、ステファンはほんの一瞬、視線を泳がせる。見物人が集まる広場の一角。とある一点へと、その意識を集中するように。
 相手の動きを予測するため、ステファンの表情、呼吸、視線の動きを注視していたユリウスの目線は、反射的に同じ方向へと動いた。
 直後にユリウスは目を見張る。その視界には、小さな少年の姿が映っていた。煌めくような銀色の頭髪に気をとられた一瞬あと、澄んだ菫の瞳と目が合う。きれいな菫色の瞳が、ユリウスのそれと同様に大きく見開かれたように思った。
 直後のことである。

 キィンッ!

 甲高い音が響いて、一本の剣が宙を舞う。
 わずかに生まれた隙を狙いすまして、赤毛の騎士がユリウスの手から剣を弾き飛ばしていた。
 回転しながら弧を描いた剣が地面に突き刺さる。
「そこまで!」
 判定を告げる声が上がり、今度こそ勝敗は決した。
 ユリウスは軽く息を吐きだして、からになった右手を見下ろした。剣を弾かれた感触が、じんじんとした痺れとして残っている。
 してやられた……。
 苦い感情が敗北感となって胸中に広がっていく。
「戦いの最中によそ見はいけないな」
 落胆する少年の肩をぽんと叩いて、ステファンが囁きかける。意地の悪い笑みを浮かべた騎士を、ユリウスは憮然と見返した。
 自分で状況を誘発しておいて、この言い草である。結局、この騎士の余裕を奪いきれなかったのが全ての敗因なのだろう。
 純粋な剣術の腕で劣っていたとは思わない。しかし、それだけで戦いに勝てるというものではないことをユリウスも承知していた。あれを卑劣だと罵って相手を貶めるのは簡単だが、それは自分の愚かさを露呈する行為だ。ユリウスとしては自分の完敗を認めざるを得なかった。
「今はあなたの足元にも及びませんが、いつか必ず勝ってみせます」
 半分は負け惜しみと自覚しながらも、半ば本気の決意を口にすると、ステファンはおどけるように肩を竦める。
「怖いねぇ。君を敵に回さずに済むよう、気をつけるとしよう」
 からかうような口調とは裏腹に、彼の目は笑っていなかった。
 近い将来、追い抜かれることを確信している。そう言いたげな視線には、警戒心が薄い膜となって張りついているようにも見えた。この子爵に畏怖を抱かずにいられないのはこういうときだ。
 自身をとり巻く物事が自分とその周囲に及ぼす影響力――情勢や他者の持ちうる感情がどう作用し、どんな未来を決定づけるのか。それらを、自分の個人的な感情にも囚われることなく、自分自身を含めて客観的に評価する力に長け、あらゆる可能性を考慮して未来を的確に予測する。ステファンとはそれを過不足なくやってのける人だとユリウスは思っている。
 そんな人物に、ほんのわずかとはいえ警戒心を抱かれるのは心地よいものではない。
 敵に回したくないのはこちらのほうだ――判然としない危機感に鳥肌がたつのを感じながら、ユリウスは赤毛の騎士を見つめるのだった。
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10歳になると、誰もがもらえるスキル。 キネーシス公爵家の長男、エルクがもらったスキルは『念動力』……ちょっとした物を引き寄せるだけの、はずれスキルだった。 弟のロシュオは『剣聖』、妹のサリッサは『魔聖』とレアなスキルをもらい、エルクの居場所は失われてしまう。そんなある日、後継者を決めるため、ロシュオと決闘をすることになったエルク。だが……その決闘は、エルクを除いた公爵家が仕組んだ『処刑』だった。 偶然の『事故』により、エルクは生死の境をさまよう。死にかけたエルクの魂が向かったのは『生と死の狭間』という不思議な空間で、そこにいた『神様』の気まぐれにより、エルクは自分を鍛えなおすことに。 二千年という長い時間、エルクは『念動力』を鍛えまくる。 現世に戻ったエルクは、十六歳になって目を覚ました。 はずれスキル『念動力』……ただしレベルMAXの力で無双する!!

魔拳のデイドリーマー

osho
ファンタジー
剣と魔法の異世界に転生した少年・ミナト。ちょっと物騒な大自然の中で、優しくて美人でエキセントリックなお母さんに育てられた彼が、我流の魔法と鍛えた肉体を武器に、常識とか色々ぶっちぎりつつもあくまで気ままに過ごしていくお話。 主人公最強系の転生ファンタジーになります。未熟者の書いた、自己満足が執筆方針の拙い文ですが、お暇な方、よろしければどうぞ見ていってください。感想などいただけると嬉しいです。

騎士志望のご令息は暗躍がお得意

月野槐樹
ファンタジー
王弟で辺境伯である父を保つマーカスは、辺境の田舎育ちのマイペースな次男坊。 剣の腕は、かつて「魔王」とまで言われた父や父似の兄に比べれば平凡と自認していて、剣より魔法が大好き。戦う時は武力より、どちらというと裏工作? だけど、ちょっとした気まぐれで騎士を目指してみました。 典型的な「騎士」とは違うかもしれないけど、護る時は全力です。 従者のジョセフィンと駆け抜ける青春学園騎士物語。

髪の色は愛の証 〜白髪少年愛される〜

あめ
ファンタジー
髪の色がとてもカラフルな世界。 そんな世界に唯一現れた白髪の少年。 その少年とは神様に転生させられた日本人だった。 その少年が“髪の色=愛の証”とされる世界で愛を知らぬ者として、可愛がられ愛される話。 ⚠第1章の主人公は、2歳なのでめっちゃ拙い発音です。滑舌死んでます。 ⚠愛されるだけではなく、ちょっと可哀想なお話もあります。

転生して貴族になったけど、与えられたのは瑕疵物件で有名な領地だった件

桜月雪兎
ファンタジー
神様のドジによって人生を終幕してしまった七瀬結希。 神様からお詫びとしていくつかのスキルを貰い、転生したのはなんと貴族の三男坊ユキルディス・フォン・アルフレッドだった。 しかし、家族とはあまり折り合いが良くなく、成人したらさっさと追い出された。 ユキルディスが唯一信頼している従者アルフォンス・グレイルのみを連れて、追い出された先は国内で有名な瑕疵物件であるユンゲート領だった。 ユキルディスはユキルディス・フォン・ユンゲートとして開拓から始まる物語だ。

魔境へ追放された公爵令息のチート領地開拓 〜動く屋敷でもふもふ達とスローライフ!〜

西園寺わかば🌱
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公爵家に生まれたエリクは転生者である。 4歳の頃、前世の記憶が戻って以降、知識無双していた彼は気づいたら不自由極まりない生活を送るようになっていた。 そんな彼はある日、追放される。 「よっし。やっと追放だ。」 自由を手に入れたぶっ飛んび少年エリクが、ドラゴンやフェンリルたちと気ままに旅先を決めるという物語。 - この話はフィクションです。 - カクヨム様でも連載しています。

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