たかが子爵家

鈴原みこと

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第四章 消せない疑心

Ⅴ 偽りの血統

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 パタリ、と膝の上で握りしめた拳に涙が落ちる。
 重大な失態を犯してしまった己の軽率さに、指摘されるまで気づけなかったのが悔しい。
 何より、自分に協力したせいで不当に罰せられるかもしれない侍女や商人への罪悪感と恐怖心が、年若い皇女の瞳を濡らしていた。
 寄り添うように体を引き寄せてくれた子爵令嬢の温もりがなければ、ジルケの心はくずおれていたかもしれない。
 自分に泣く資格などない。どんな形にせよ責任はとらねばならない。皇族としての意地を総動員して気丈に顔をあげ、涙をぬぐっていると、子爵令嬢が優しく頭を撫でてくれた。
「ジルケはどうして市井を見てみたいと思ったの? ただの興味本意だけで、お城を抜けだすなんて無茶をしたわけじゃないんでしょう?」
 その問いは囁くような声音せいおんで頭上から降ってきた。責めるでも問いただすでもない。純粋な疑問をぶつけるような優しい問いかけがジルケを安心させる。
「後宮を抜けだして城内を探検していたとき、商業用の馬車が出入りする倉庫を見つけたんだ。そこで知り合った商人とよく会話を交わすようになったんだが……」
 少し心がほぐれて気負いなく自分のやんちゃな行動を告白すると、前方からくすりと吐息が聞こえた。そちらに目を向けると、ベルツ伯爵がどこか複雑そうな微苦笑を浮かべている。
 ちょっとだけ首をかしげつつも、ジルケは話を続けた。
「ある日ふと童話の話題になったんだ。同じような内容ばかりだから童話は読んでいてもつまらない、と私が言ったら、地方には多種多様な童話があって面白いのだ、と商人が教えてくれた。それ以降、面白そうな本を見つけては持ってきてくれるようになった」
 強く興味を引かれたジルケは商人が本を持ってくる度に買い取って、地方で流行っているという童話を読み漁った。そうするうちに疑問が浮かんだのである。
「商人から買い取った童話の本には、皇族を悪者のように書いているものが多かったんだ。思い返してみると、私がそれまで読んできた話は皇族の目線から書かれたものが大半で、皇族の存在こそが正義だとほのめかす内容ばかりだったと気づいて、正直ぞっとした……童話に書かれたありようを鵜呑みにしていた自分自身に、私は心底ぞっとしたんだ」
「それでも、自分でそのことに気づいたのは凄いんじゃないかしら」
 感心する子爵令嬢の言葉にジルケは首を振る。
「自分で気づいたわけではない。気づかせてくれた人がいたんだ」
 皇宮の中と外――あるいは王都の中と外といえるのかもしれないが、童話における皇族への評価が百八十度違うのは何故だろう、と単純に疑問を持ったジルケは、周囲の者たちに尋ねることにした。
 しかし、宮中にいる官は困ったように言葉を濁し、母であるフィリーネ皇妃は複雑そうに眉根を寄せるだけで、明確な答えはくれなかった。兄のレオンハルトに至っては「皇族を貶める下劣な本だ」と激昂し、「下らないものを読むのはやめろ」と叱りつける有り様。
 そうして途方に暮れているところに声をかけてきたのは、誰あろうアルフレート皇子だったのである。
「珍しいものを持っているな」
 彼はジルケが抱えている童話の本を指してそう言った。
「どこで手に入れたんだ?」
 詰問する感じではなく、ただ純粋に聞いただけ。そんな雰囲気だったが、ジルケは答えなかった。兄の政敵である皇子。気安く口を利ける相手ではないと思ったからだ。しかしアルフレート皇子は特に気にする風でもなく、言葉を重ねた。
「地方で流布しているものは平民の目線で書かれたものも多い。視点が変われば見え方も変わるものだ。多角的に物事を捉えるには適した教材といえる。大事にするといい」
 さらりとそれだけ言って、皇子は何事もなかったように去っていった。
 しばらくポカンとその場にとり残されたジルケだったが、アルフレート皇子の言葉はどこか腑に落ちるものがあった。
 納得のいく説明がもらえた気がして、それと同時に自分の視野の狭さに気づかされて憮然ともした。
 それからだ。物事を鵜呑みにしないようにと心がけるようになったのは。
「それ以来、平民の目線がどういうものか気になって、商業用の馬車がくる度に商人たちを捕まえて話を聞かせてもらった」
 結果、自分がどれ程ものを知らないか――それを思い知らされたのだ。
「市井の民がどのような暮らしを送っているか、私は知らなければならないと思った。少なくとも、知らぬまま自分たち皇族の正当性を主張するのは愚かなことだと思えた。だから市井を見てみたかったのだ」
 そう告白を終えると、ウリカがまた優しく頭を撫でてくれた。
 ジルケは頭を彼女の胸元へと押しつけて、しばしその温もりを堪能する。
「いずれにせよ全ての責任は私にある。巻き込んでしまった商人や侍女に刑罰が及ばぬよう、母上に許しを乞わねばならない。私は後宮内ですら自由を失うことになるだろうが、自分が招いてしまったことだ。仕方がない」
 言いながらも、やはりちょっとだけ未練が残る。
「もう少し、ウーリと一緒に錬金術を学んでみたかったがな……」
 せめて愚痴のひとつくらいは良かろうと発した呟きに、だから返事があるとは思いもしなかった。
「そのことに関してですが、一度アルフレート殿下にご相談してみようかと思います」
 ベルツ伯爵の言葉にほんの一瞬、希望がちらついた。だがジルケはすぐに首を振る。
「いくらなんでもそれは無理だろう。一位殿下にとって私は、政敵である第二皇子の妹だ。どれだけ広い心をお持ちでも、私を手助けしてくれるとは考えがたい。臣下の目もあるのだから尚更だ」
 悲観的なジルケの意見に、今度はユリウスが首を振る番だった。
「あの方は良くも悪くも周囲の目を気にはなさいません」
 ため息混じりの主張は、批判めいた響きを多少なりと含んでいるようだった。臣下としての複雑な心境の表れなのかもしれない。
「その者自身の人格と素養に重きを置かれる方ですから、貴女ご自身と二位殿下のご関係は切り離してお考えになるでしょう」
「だからといって、私に好意的とは限らないではないか」
 ジルケは頑なに否定的な態度をとる。無意識のうちに期待してしまうのが怖かったからだ。
 ユリウスが小さく笑う。
「アルフレート殿下はおそらく、貴女に親近感を抱いておられるものと思われます」
 予想だにしない言葉に、ジルケが目を丸くする。
「商人から買い取ったという童話の本。一目見ただけでアルフレート殿下が内容を把握できたのは何故だと思われますか?」
 ジルケはちょっと首を傾けて考える。
 言われてみれば、あのとき皇子は表紙しか見ていなかったはずなのに、ジルケが持っていた本を「珍しい」と言い、さらに「平民の目線で書かれたもの」だと断言していた。信じ難いことだが、考えうる理由はひとつしか浮かばない。
「一位殿下も同じものを読んだことがある……?」
 放心したように回答すると、ユリウスはうなずいた。
「アルフレート殿下もご幼少の頃は、よく後宮を抜けだして宮殿内を歩き回っていらっしゃいました。おそらく貴女と同じような経緯で、そうした本を手に入れたのではないかと」
 どこか呆れたような口調ではあったが、そう語る顔には優しげな笑みが浮かんでいる。
「ですから貴女の探究心には好感を持ちこそすれ、忌避されるようなことはないでしょう。相談してみる価値はあるかと存じます」
「そうか……そうであれば嬉しいな」
 ぽつりとそう漏らしながら「ああ、もう手遅れだな」とジルケは感じていた。もう、溢れる期待感を抑えられそうにない。それと同時に、政敵であるはずの第一皇子に対して、尊敬の念が強くなるのを自覚していた。
 だからだろう。次の瞬間には、本音が口をついていた。
「第一皇子殿下はとても聡明でご立派な方だ……兄上とは全然違う……」
 ジルケが言う「兄上」とは第二皇子レオンハルトのことだ。腹違いとはいえ同じ父を持つはずのアルフレートを「兄」と呼んだことはない。ある種の近寄りがたさに加えて、レオンハルトがいい顔をしないだろうという漠然とした思いがあるからだ。
「第二皇子殿下も読書家で知的だという噂は聞くけれど……」
 子爵令嬢が首をかしげて言う。しかし言葉とは裏腹に浮かべる表情は半信半疑な様子だった。
「レオンハルト兄上は知識自慢なんだ」
 皮肉をこめて言うと、ウリカとユリウスはともに眉根を寄せる。二人とも反応に困っているという風情だ。ジルケの言いたいことを察したからだろう。
「知識はあくまで判断材料に過ぎない。知識や情報を元にどう判断をくだすかが肝心なのだ」
「そうね」とウリカが小さくうなずいた。
「兄上は知識を得ること自体を重んじ、思考そのものを放棄して、ただ称賛の声に溺れている――結果、周囲の者たちの口車に乗せられてしまっている。私にはそう見える」
 実の兄に対して辛辣な言い様だが、身内だからこそ贔屓目で視界を曇らせるようなことがあってはならない、と考えるジルケである。
「一位殿下はご自分の主張をしっかりと持っておられる。そこには一貫性があり、ブレも感じない。それでいて周囲の意見に耳を傾ける柔軟性もお持ちだ。ヴァルテンベルク公爵への最終的な裁可を見れば、それは明らかだろう」
 伯爵と子爵令嬢は揃って驚いた表情を見せた。
「公爵の件を知っているの?」
 ヴァルテンベルク公爵が裁きを受けたのはつい昨日のことで、まだ噂が広がっておらず、一部の貴族しか知らないことだ。皇族とはいえ、継承権を持たないジルケが把握しているとは思っていなかったのだろう。
 二人が驚くのは当然だが、同時に感心するような空気も漂っている。それが少しくすぐったい。
「私には政治の話は分からない。だが、今回の件で一位殿下が公正であろうと努力されていたことは、理解しているつもりだ」
 それに、とジルケは続ける。
「一位殿下が誰よりも努力家であることを私は知っている。高潔であろうとする姿勢を崩すことなく毅然と胸を張れるのは、努力に裏打ちされたものなのだと思う。だからこそ、公爵の不正を許せなかったのだろう。あの方はただ、言い訳を嫌っておられるから誤解されやすいだけなのだ」
「なぜ……」
 それは呟きのようにぽつりと響いた。
 ジルケが視線を上げると、やや呆然とした表情のユリウスと目が合う。どこか戸惑っているような雰囲気があった。
「なぜアルフレート殿下のことをそれほどまでに理解しておられるのですか? 殿下に近しい者でも、あの方の内心を推し量れる人間はごく少数です」
 戸惑いのなかに、ほんの少し混ざった反感情。それが警戒心なのだとジルケは悟った。アルフレート皇子に声をかけられたときの自分とよく似ていると思えたからだ。
 自分は政敵レオンハルトの妹なのだ。内通者の存在ありと疑われても不思議ではない。それでも戸惑いの色のほうが強いのは、ジルケがアルフレート皇子に対して好意的な態度を見せているからだろう。
 まだ半信半疑。曖昧なまま素知らぬ顔をできないのは、近衛騎士としての使命感からなのか、それとも個人的な感情に起因するものか……ジルケには分からない。
 どちらにしろ、どう答えるべきかは決まっている。
「兄上にとって政敵になり得る方だから、最初はあら探しをするつもりで、一位殿下を観察していた」
 尊敬している相手だからこそ、うしろめたさとは無縁でいたい。適当な嘘で誤魔化したくはなかった。
「ボロを出すとしたら人目のない場所にいる時だろうと思って、物陰から様子を見ていたんだ。でもあの方は、人目のない場所でこそ勤勉で手を抜かず、勉強や訓練に打ち込んでおられた」
 皇帝代理を務める前から、アルフレート皇子は忙しい日々を送っていた。歴史、経済、帝王学を学ぶ傍ら、語学や魔術学にも励み、日に一時間以上の剣術稽古も欠かさない。自室に帰るのは就寝の直前という日も少なくなかった。
 行動を追い続けていたジルケのほうが先に挫けてしまいそうなほど多忙な日々。一月ひとつきほど行動を追いかけても、付け入る隙はどこにも見つけられなかった。
「一位殿下を見ているうちに、私は自分の行いが恥ずかしくなった」
 皇族なればこそ、他者を貶めることなく毅然と胸を張れる自分であれ――そう言われている気がしたのだ。
「あら探しなどする前に、まず自分を磨くべきだと思ったのだ。一位殿下は私に学びの重要性ときっかけをくれたと言っても過言ではない。だから私は、あの方を誰より尊敬している」
 それがウソ偽りのない自分の気持ちであると胸を張る自信がある。だからしっかりと顔をあげて言いきってみせると、ジルケの目を正面から捉えたユリウスが肩の力を抜いた。その顔には柔らかな微笑みが浮かんでいる。
「だからこそアルフレート殿下は、貴女を高く評価しているのでしょう」
 優しく、それ以上に誇らしげな声だった。この騎士は心の底からあるじを信じているのだと伝わってくる。だから訊かずにいられなかったのは、そのせいなのだろう。
「ひとつ訊いて良いか?」
「なんでしょうか?」
「どうして一位殿下に相談しようなどと考えたのだ? 私の処遇など、伯爵にも一位殿下にも関わりのないことだろう」
 第三皇女を助けたところで彼らに益があるわけでもない。大切なあるじの手を煩わせてまでジルケに気を遣う理由があるのか……そこが不思議に思えてならないのだ。しかもユリウスがそれを提案したのは、彼女がアルフレート皇子を尊敬していると告白する前だった。だから余計に意図が分からない。分からないまま言葉に乗るのは余計な警戒心が疼いて嫌なのだ。
 探るような視線を送るジルケへの返答は、ごくシンプルなものだった。
「学びの芽を摘みとるのは、愚かで悪辣なことだと思うからです」


 建国王の名を冠する皇宮――クリストフォルス宮殿は、千ヘクタール以上の敷地を城壁に囲まれる形で存在している。
 通常、出入りするには正面の城門を通るしかないのだが、特別に許可を得た貴族や商人向けに、馬車専用の入城門が東と西にある。貴族は東、商人は西と決められている。
 第一皇子の近衛騎士を務めるベルツ伯爵家の馬車は、当然のことながら東城門の出入りを許されており、ユリウスが連れだと言えばジルケの存在が見咎められることもない。
 そうして特に波乱なく宮殿内に入れたジルケは、そのままユリウスに連れられて後宮のアルフレート皇子のもとへと向かった。
 後宮東側へと続く廊下を進み、アルフレート皇子の自室に迫ったところで、二人はその場面に出くわした。
「昨日の公爵への為されようは、独善的と言わざるを得ません」
 険を帯びた声が廊下に響く。
 アルフレート皇子の自室。その扉の前に数人の人影が見えた。
 自室の扉を背に、鬱陶しそうな表情を浮かべる第一皇子アルフレート。それに詰め寄るような態勢で怒りをあらわにする第二皇子レオンハルト。その後ろではレオンハルトに付き従う若い男女数名が、あるじと同種の表情で眉をつり上げている。
 状況を推察するのは難しくなかった。ジルケの兄であるレオンハルトが、ヴァルテンベルク公爵に下された裁可に対して不満をぶつけているのだろう。
 アルフレートは皇女と騎士の存在に気づいた様子だがそれを顔には出さず、レオンハルトに対して無感動な視線を向けるだけだった。
 薄い反応が気に入らないのか、レオンハルトは眉間の皺をさらに深くして批難めいた声を上げる。
「皇帝の権力を振りかざし、公爵の地位にある者を軽々しく処断するなど、代理という身でありながら思い上がりも甚だしい、あまりにも横暴な対応だったのではありませんか?」
 糾弾のごとく吐き捨てられる詰問。アルフレートはただ黙ってそれを聞く。その眼差しは呆れと憐れみが半々で混じりあっていた。
 だがレオンハルトはそれに気づかぬ様子でなおも言い募る。
「お気持ちは分かりますよ。兄上にとってヴァルテンベルク公は邪魔な存在だったのでしょう」
 反論がないのを言い返せないからだと判断したのか、薄笑いを浮かべた第二皇子は嵩にかかって攻勢にでた。
「ザムエル卿は私と懇意にしている上、広い人脈も持っておられる方だ。適当な理由をつけてでも排除したかったのでしょうね。私情に駆られて強権を振るうなど、あまりにも短気で狭量な行いではありませんか」
「おやめください兄上!」
 気づけばジルケはそう叫んでいた。
 あまりに一方的であまりに視野の狭い物言いに腹が立ったのだ。それ以上に、情けなさで涙が出そうになる。胸の奥でモヤモヤとした気分の悪さが膨れ上がるのを感じた。憤りで苛立ちが抑えられず、思わず兄を睨みつけていた。
 ジルケたちの存在に初めて気づいたという表情で驚きを見せるレオンハルト。しかしすぐに訝しげな眼差しで妹を睨み返す。その眼光は烈気に満ちて鋭かった。
 しかしそれに怯むほど、ジルケは可愛いげのある皇女ひめではない。
「昨日の謁見記録は私も確認しましたが、ザムエル卿の非は明らかでした。処罰は公正なものだったと思います」
 第三皇女の主張に、アルフレート皇子が初めて表情を崩した。驚きに眉を跳ね上げてこちらを見る瞳には、興味深げな色彩が濃く浮かんでいる。
 対照的にレオンハルトは怒りの形相で妹を一喝した。
「何を馬鹿なことを言っている!」
 ヒステリックな叫び声は、駄々っ子が起こす癇癪のようでもあった。
 周りにいる貴族たちの中には、レオンハルトが年齢不相応に大人びていると褒める者もいるが、ジルケの目には年相応の子供にしか見えない。錬金術師の家で目にしたウリカの弟のほうが年上と思えるほどだ。
 しかもレオンハルトは次の瞬間、耳を疑いたくなる発言をしたのである。
「証拠の有無も不確かなまま一方的な裁可を下したと聞いたぞ! これを皇帝権力の私物化と言わず、なんだと言うのだ!」
「聞いた……?」
 半ば愕然とした面持ちでジルケは呟いた。
「聞いた、と仰いましたか?」
 確認するように訊ねると、レオンハルトが不快げに眉根を寄せる。だが不快なのはお互いさまだ。
「兄上は謁見記録に目を通していないのですか?」
「複数の貴族たちから詳細は聞いた。それで十分だろう」
 ふん、と鼻を鳴らす兄の姿に、先ほどモヤモヤと胸中に渦巻いた苛立ちがなんだったのか――その正体を悟った。
「つまり兄上は、懇意にしている者たちからの伝聞に過ぎない情報を軽々に信じ、謁見記録の記述すら確認しないまま一位殿下を貶めようというわけですね」
 の正体は罪悪感だ。
 ごく親しい者の言葉のみを信じてアルフレート皇子を敵視していたかつての自分を思いだすのだ。だから兄の言動が堪らなく恥ずかしい。自分の愚かさが恥ずかしい。
「なんだと……?」
 怒りに顔を染めて鈍感に問い返す兄の子供じみた態度が腹立たしい。鏡を見せられている気分になる。
 ジルケはそのまま怒りを反射させて叫んだ。
「身内贔屓で話を鵜呑みにし、事実確認もせぬまま一位殿下を糾弾するれ者だと申しているのです!」
「痴れ者だと? 兄に向かって……気でも触れたかツェツィーリエ!」
 かっとなって怒鳴り散らした兄の返答こそが、事実確認を怠っているという何よりの証拠だった。
 謁見記録はただの記録ではない。その場で交わされた会話がすべて正確に書き記されたものだ。そのために謁見の間には複数人の書記官を配置するのである。多数の官に同時に書きとらせることによって、内容の齟齬そごを可能な限り減らす。同時に改竄をし辛くする措置でもある。
 書記官の人数は皇帝の一存によって増減できるため、人数を減らして改竄の余地を残す皇帝も中にはいるだろうが、アルフレート皇子は違う。常に十人以上の書記官を配置して透明性を保とうと努めている。だからここ最近の謁見記録は信頼性が高い。
 ジルケが謁見記録を確認した理由はそこにある。そこには確かな事実が連ねてあると分かっているからだ。
 そんな最低限の確認努力もしないまま、自分にすり寄ってくる貴族たちの言葉を鵜呑みにした兄の迂闊さに、ジルケは怒りを感じてしまう。
 謁見記録に書かれていたアルフレート皇子の言葉を引用したのは、怠慢な兄への当てこすりだ。しかしそれは同時に、自身で自覚している八つ当たりの感情を誤魔化そうとするものでもあった。
 かつて同じあやまちを犯していた自分への、今さっき自覚させられた失態への、自分自身に対する羞恥と怒り。行きどころのない八つ当たり的感情を兄にぶつけているに過ぎない。
 だからレオンハルトが咄嗟に吐きだした言葉に、深く心を抉られてしまうことになるのだった。
「だいたいにして、宮殿を抜けだして周囲にらぬ苦労を強いているお前に言えた義理か!」
 半ば苦し紛れで放ったレオンハルトの指摘は妹の主張に言い返せなかった証左ではあったが、その内容自体は事実に違いなく、痛烈にジルケの罪悪感を貫いた。
 反論できずに妹が怯んだ様子を見せると、優位性アドバンテージを得たレオンハルトが落ち着きをとり戻して追い打ちをかける。
「お前の軽率で身勝手な行動によって、どれだけの者たちが迷惑を被ったと思っている。考えの足りぬお前の発言に説得力があると言えるのか?」
 歯噛みして俯くジルケに、意外なところから援護が飛んだ。
「皇女は経験が足りていないだけだろう」
 ジルケが顔をあげて声の主を確認すると、これまで興味もなさそうに黙殺を続けていた第一皇子が、すみれ色の瞳で彼女を見下ろしていた。すぐに視線を異母弟おとうとへと移して言葉を続ける。
「若年ながらも、その聡明さと探究心には目を見張るものがある。貴公よりもよほど優秀だと思うが」
 アルフレート皇子の口調はあくまで淡々としている。それが却って本心のように聞こえるから不思議なものだ。
 レオンハルトが大袈裟に眉を跳ね上げる。
「なるほど……ツェツィーリエを懐柔して、我ら兄妹を仲違いさせようとのお考えか。兄上は下劣な品性をお持ちのようだ」
 アルフレートが初めて口角を上げた。意地悪く嘲笑するような笑い。だが瞳はめたままで、今なお感情が読みとれない。
「下劣……か? 反論できないからと、話のすり替えで妹を黙らせようとした貴公ほどではないさ」
 レオンハルトが言葉に詰まる。
 図星を指されて視線を逸らした異母弟おとうとを冷たく見つめて、アルフレートは続ける。
「そもそも違えさせる必要があるほど仲の良い兄妹には見えないがな。私は妹を冷たく見下している貴公の姿しか見た覚えがない」
 これにはジルケも驚いた。アルフレート皇子は自分たちに一切関心がないと思っていたから、こんな指摘が飛びだすと思っていなかったのだ。同時に、この人を『兄』と呼べれば、との思いが頭をもたげてしまう。
 黙りこむレオンハルトに、彼は容赦なく言い募る。
「性格も聡明さも、随分と兄妹で乖離しているようだな。血の繋がりを疑いたくなるというものだ」
「殿下、それ以上は……」
 ジルケに気を遣ってだろうか。ユリウスが咄嗟に口を挟んであるじたしなめた。
 それを見て、レオンハルトが気をとり直したように笑う。
「血筋というなら、ご自分の心配をされたほうが良いのではありませんか?」
 含みを帯びたその言葉に、アルフレートの表情が変わる――いや、変わったというよりはというべきかもしれない。それまで無関心だった異母弟おとうとに対して、微かな怒りの色を滲ませているように見えた。
「何が言いたい?」
「皇后陛下の不貞を疑う声が十数年間、絶えることなく囁かれていることは兄上もご存じでしょう?」
 ジルケはひやりと心臓が凍りつくような錯覚に襲われた。一体兄は何を言いだしたのか、と自分の耳を疑いたくなる。むしろ聞き間違いであって欲しいとさえ思った。
 レオンハルトが持ちだした話題は、誰もがタブー視して口を噤んできたことだからだ。
 すなわち――アルフレート皇子は本当に皇帝の子なのか?
 あまりに致命的で恐ろしく、それ故に口にできる命知らずはこれまでいなかった。レオンハルトの後ろに控える付き人たちも、これには顔色を失くしておののいている。
「もし噂が真実なら、皇后陛下とあなたの立場は危ういことになるでしょうね」
 兄の口を一刻も早く塞がねばと思いつつ、ジルケは足が竦んで動けなかった。レオンハルトの大それた発言は、妹を震え上がらせるのに十分な威力を持っていた。
 勢いづいた第二皇子の口は止まらない。
「父上もそうお思いだから、未だ皇太子擁立を渋っておられるのではないですか?」
 意地の悪い視線をユリウスへと移して、レオンハルトがさらに続ける。
「ベルツ卿も身の置き場を考え直したほうがいいのでは? このまま兄上に従い続けて身を滅ぼす結果を招いては、とり返しがつかなくなってしまいますよ」
 その瞬間、空気が凍りついた気がした。明らかにアルフレートをとりまく空気が変わったのだ。兄がアルフレート皇子を怒らせたのだとジルケは思った。
 恐る恐るアルフレートを見ると、彼は底冷えのする視線を自分の騎士へと向けていた。
「だそうだ、ユリウス。私の出生は誰に言われずとも、私自身が疑い続けていることでもある。噂は本当かもしれないぞ」
 アルフレートは笑いながらそんなことを言う。ジルケはその姿が恐ろしいと思った。アルフレートは怒り以外の、強い感情を孕んでいる――そう感じたからだ。どんな感情なのかは分からない。ただそれを隠して笑えてしまうアルフレートの胆力が恐ろしかった。
 ほの暗い笑いを浮かべたまま、皇子は自分の騎士を見据える。
「誓いを返上したいのなら遠慮せずに言うがいい。それでお前を責めるつもりはない」
 はるか頭上で深い吐息が聞こえた。
 見上げると、ジルケのすぐ後ろに立つベルツ伯爵が、見たこともない厳しい表情を浮かべている。錬金術師の家で駄々をこねるジルケをいさめた時とは明らかに違う、強い怒りを秘めた眼差しだった。
「殿下は考え違いをしておられる」
 ユリウスは抑揚のない声で静かに、しかしはっきりと告げたのである。
「元より私は、第一皇子に忠誠を誓った覚えはございません」
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