16 / 22
第三章 未成熟者たちの葛藤
Ⅴ 引きこもり公爵 VS 元公爵
しおりを挟む
プレスブルク皇国の貴族制度は独特だと言われている。
基本となる爵位が、侯爵、伯爵、子爵、男爵、と四段階あり、軍の階級と同じように功績や失策によって昇格ないし降格する。これらの爵位は家名に対して与えられ、無条件での世襲が可能となっており、『継承爵位』と総称されている。
また、こうした爵位を持つ者は『建国王』と謳われた初代皇帝の血筋にあたる証でもあるため、滅多なことでは剥奪されない。
これに対して、公爵位は性質が異なり、継承爵位とは別に付与される特殊な爵位となっている。つまり継承爵位と重複して持つことができるのだ。
皇国において、公爵位は十二と定められており、爵位名と役職がセットになっている。
公爵領を統治する領主六公爵。国軍を預かる軍部三公爵。執政を担当する文部三公爵。合わせて十二公爵である。
政務官府を預かる者にはシュテルンベルク公爵の称号を、白元帥となる者にはアウエルンハイマー公爵の称号を、ヴァルテンベルク領を統治する者にはヴァルテンベルク公爵の称号を付与される、という仕組みだ。そのため、統治者が変わったとしても、公爵領の名称が変わることはない。
公爵位は伯爵以上の貴族に与えられるものとされているが、実質的には侯爵家で占められるのが通例だった。
ヴァルテンベルク公ザムエルは、公爵であると同時にヒルデスハイマー侯爵家の当主でもある。つまり二つの爵位を持つ身だ。
アルフレート皇子が宣言した「全ての爵位を剥奪」とはすなわち、ヴァルテンベルク公爵の称号と、家名に対して与えられている候爵位、双方を剥奪するということになる。
その上でさらに資産まで没収するというのだから、稀に見るどころか、史上類を見ない重い処分だった。
告発した当事者であるヒュッテンシュタット公カルステンも、これには驚きを隠せなかった。
ザムエル本人に関しては自業自得だ。同情はしないし、当然の報いだとすら思う。しかしこの裁可では、ヒルデスハイマー家の者全員が路頭に迷うことになりかねない。連帯責任とするにはあまりに酷だ。
ディルクハイム侯爵も同様の感想を持っていた。そして立場上、意見しないわけにはいかなかった。
「お待ちください、殿下。爵位を剥奪された上に資産まで失っては、これからの暮らしに差し障りがございましょう。せめてこの度のことは、伯爵なり子爵なりへの降格処分に留め置くことが最良かと存じます」
彼らしい堅実な意見ではあるが、こちらは少々、処分内容が生温い。それだけに、皇子の意見と平行線になる懸念があった。
「自らの無責任が招いたことだ。再考の必要を感じない」
案の定、皇子は宰相の提言を突っぱねた。
ディルクハイム侯マリウスが白髪の混じる深緑の頭を小さく左右に振ると、肩に落ちた長い髪が虚しく揺れる。暗緑色の瞳には諦観の色が顕著に浮かんでいた。
気苦労が絶えなさそうな姿に、白髪が増えないかと、カルステンは余計な心配をしてしまう。
一方で、義理の甥にあたる近衛騎士に視線を移すと、彼は少し目を伏せるような状態で難しい表情を浮かべていた。あの仕草には見覚えがある。考え事をするときに、ああいう顔をすることが多い。
立場上、この場で口を差し挟むことはできない。だからこのあとどうすべきか、それを思案しているのかもしれない。
とはいえ、カルステンがここで口を挟むのは論外だ。出過ぎた真似と取られかねない。第一、彼には彼で他にやらなければならないことがある。
さてどう話を展開するべきか、と思考を巡らせたところで、変化が起きた。
「こんな……こんな馬鹿なこと、あるはずが……」
呻くような声が二メートル前方から聞こえた。
苛烈な裁きを言い渡された公爵殿は、現実を受け止められずにいるらしい。落ち着きなくキョロキョロと視線を動かし、やがてそれがある一点で止まった。
「あ、あいつだ! あいつがやったんだ! 私ではない!」
灰色の髪を振り乱しながら、濁った眼で睨みつけるその先には、カルステンたちと共に入室してきた男の姿があった。
彼は未だ片膝をついて頭を下げた姿勢のまま、しかしザムエルの声にびくりと肩を震わせていた。
「こやつがカルステンの小僧と組んで私を陥れようとしているのだ!」
ザムエルの吐きだした言葉に、カルステンはカチンときた。
十以上の年齢差があるとはいえ、この男は友人でも上官でもない。呼び捨てだの小僧呼ばわりだのされる謂れはないはずだ。
思わず前のめりになるカルステンの肩に妻ディアーナの手が添えらた。引きこもり公爵は、そのまま彼女に動きを牽制される。妻はその顔に、思わず見惚れるほどの美しい笑顔を浮かべていた。
夫を呆けさせたディアーナは、そのまま何も言わずにザムエルに向きあって、静かに口を開く。
「如何に年長といえども、公爵位にある者に対して言葉が過ぎるのではありませんか? 公爵……いえ、元公爵殿」
言い直すときに含み笑いが聞こえた気がした。それ以上に『元』をやたらと強調していたのが印象的である。明らかな挑発だった。
爵位を剥奪され今やただのザムエルとなった男は、ひくひくと頬を痙攣させたあと、茹でダコのように顔を赤くした。人間とはこんなに一瞬で茹で上がれるものなのだとカルステンは感心する。
「な、なに…きさ……きさま…っ……」
なるほど、冷静さを失うと人は言葉を忘れるものらしい。面白いものが見られた。
元公爵の醜態を目にしたおかげで、カルステンは逆に冷静さをとり戻し、血の上りかけた頭がクリアになっていくのを感じていた。それと同時に苦笑がもれる。
(八歳も下の妻にフォローされるとは、俺もまだまだ未熟だな……)
胸中で独りごちるカルステンを背に、ディアーナが言葉を続けた。
「正式な手続きを踏んで奏上したものに異論を唱えるということは、よほどの自信がおありなのでしょう。ならば存分に主張なさいませ。その意見を参考に、我らの正当性を証明してご覧に入れます」
ディアーナの挑戦的な言葉に反応したのは、ザムエルではなくアルフレート皇子だった。
「確かに。証拠が揃っているとはいえ、一方の主張だけを聞くのでは不平等に過ぎよう。意見することを許す。主張があるなら言ってみるがいい、ザムエル・ヒルデスハイマー」
「……っ!」
ザムエルが目を剥いて言葉を失う。
あえて『フォン』の称号を省いて名を呼んだ皇子も、なかなかに意地が悪い。「お前はすでに貴族ではない」と、言ったようなものだ。
とはいえ、性格の悪さで負けるつもりはないカルステンである。
「殿下は寛大な方でいらっしゃる。お言葉に甘えてはどうだ、ザムエル・ヒルデスハイマー」
礼儀正しい妻とは違い、あくまで尊大に振る舞うと、悪意を向けられた元公爵は歯を剥きだして敵意を返してきた。
これでいい。怒りがディアーナや皇子に向かうのでは意味がない。この男の相手は自分がしなければならないのだから。
「先ほど、私たちが手を組んでいるとか、ずい分と荒唐無稽なことを言っていたようだが」
「何が荒唐無稽か! 今ここに連れ立ってきたことがその証拠ではないか!」
吐き捨てたあと、ザムエルがきっ、と黒ベストの男を睨みつける。
「オットマール! 雇い入れてやった恩も忘れて、とんでもないことをしてくれたな!」
名を呼ばれた男はびくりと反応したあと、ガタガタと震え始めた。依然として顔は上げないまま、というより上げられないのだろう。彼は恐怖しているのだ。権力という名の暴力に……。
見かねたディアーナが傍らに片膝をついて、怯えるオットマールの背をさすってやる。
彼女を連れてきたのは正解だったらしい。ここでオットマールにパニックを起こされるのは困る。
優秀な緩衝材の役目を果たしてくれる妻のおかげで、カルステンは自分がやるべきことに集中できるというものだ。
「此度の告発はオットマールから相談を受けたことに端を発している。そのためこの場にも共に来てもらった」
カルステンは事のあらましを大まかに説明する。
オットマールは六年ほど前にヴァルテンベルク領の領地管理人として働き始めた人物だ。
公爵領の直轄地は他の領地に比べればさほど広くはない。だが人口密度が高いが故の難しさがある上、直轄地以外の領地についても、上がってくる報告書を確認しなければならない。
その管理を任されるというのは、責任重大であり大変な苦労もある。だが同時に、領地管理人にとっては名誉なことだ。
オットマールも当初は喜び勇んで雇い入れの打診を受け入れた。しかし彼を待ち受けていたのは、貪欲な公爵からの不当な命令だったのである。
半ば脅されるような形で不正の片棒を担がされたオットマールだったが、勤勉実直な性格の彼にはやがて限界がきた。横領に手を貸していることに耐えられなくなり、旧知の仲であったヒュッテンシュタット公の領地管理人に泣きついたのである。
話を聞いたカルステンだったが、相手が公爵ということもあり、事実確認が済むまでは慎重に動かざるを得ない。
そのために妻を伴ってヴァルテンベルクの領館を訪ねたわけだが、そこで黙認の買収を持ちかけられたのだ。
それを断った帰り道で、ヒュッテンシュタット夫妻は十数人のならず者に襲われた。
「以上の経緯により、告発の必要性を感じた私は、訴状を提出するに至った次第だ。何か反論はあるか、ザムエル・ヒルデスハイマー?」
侮蔑の視線を向けながら、執拗にその名を呼び捨てる。
「出任せだ! 己が罪から逃れるためのデタラメを言っているのだ!」
ザムエルは顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「あくまで私がオットマールと手を組んで、ヴァルテンベルクの公金を横領したと言いたいのか?」
「その通りだ! そうに決まっている!」
「何のために? ただ上納金を横領するだけなら、他家の管理人を唆すより、自分の領地でやったほうがよほど手っとり早いと思うが」
ヒステリックな反論に、あくまでも冷静に論理で返すと、元公爵は勢いを三割がた削がれるように息を詰まらせた。
「そ、それは……バレたときに、私に罪を着せられるからだ!」
「そうであるなら自ら告発などするわけがない。メリットがないと思うが」
「それ…は……」
ザムエルは目を泳がせたあと、はっと顔を上げる。「思いついた!」と叫びそうな風情だった。
「そうだっ、私を貶めるつもりで――」
「何のために?」
しかしすぐにカルステンに返され、びくりと身じろぎして歯を食いしばる。
「貴公を追い落としたところで、同じ公爵位にある私自身の地位が上がるわけでもなかろう。わざわざ領地管理人を利用するなどという回りくどいことをしてまで、貶めようとするメリットはどこにある?」
カルステンは殊更メリットを強調する。
今この場では証明することではなく、合理性を唱えることのほうが重要だからだ。
二人の論点が「自分はやっていない」ことに終始する限り、水掛け論になるのは明白だ。その場合、どちらの主張がより説得力に富んでいるか――合理性があるかが争点になってくる。
ザムエルが嘘をついている以上、よほどの理論武装でもしていない限り、合理的整合性を見いだせないのはあちらのほうだ。カルステンとしては相手の矛盾点を突いてやればいいだけなのだから、何も難しくはない。
一方のザムエル・ヒルデスハイマーは言葉を重ねるほどにメッキが剥がれ落ちていくわけだが、今は冷静さを失って判断力が低下している状態にあった。
そしてそれはカルステン側の狙い通りでもある。
それでも形勢が不利なことくらいは理解しているのだろう。しばし間を置いてから、元公爵は方針を転換してきた。
「ならばオットマールが単独でやったのであろう。悪事がバレて私に罪を擦りつけようとしているのだ。そんな嘘に簡単に惑わされるとは、恥を知れ!」
ザムエルはカルステン犯人説を諦めて、オットマールの単独犯行の路線に切り替えたのである。賢明といえるだろう。その前に無駄な足掻きをしていなければ、の話ではあるが……。
それでもカルステンに何らかの汚点は負わせたいらしく、最後に余計な一言がついていた。
「オットマールについては最初に調査を済ませている。ヴァルテンベルク領以前の働き先についても調べ、雇用主や他の使用人たち、さらに彼の故郷でも複数人からの証言を集めた。それら五十人以上の証言をまとめた書類は、刑務官府に提出してある。彼が自らの意思で不正を働くような人物ではないと判断した上で、私はヴァルテンベルク領に赴いたのだ」
余計な言説ごと一蹴するように、カルステンは説明した。そして鋭い視線でザムエルを睨む。
「その上で聞きたいのだが、私が貴公に事情を尋ねた際、詳細も告げぬまま買収を持ちかけたのは何故だ? 自分が関与していないと言い張るのなら、そう説明して私に協力を仰げば良かっただろう」
「し、知らん! 買収などした覚えはない!」
当然これは否定するだろう。買収とは罪を認めるのと同じこと。肯定すればそこで全てが終わる。
「確かに、買収に関しては私と妻の証言しかなく、証拠能力としては弱い。だが、ならば何故ヴァルテンベルク領からの帰り道で、私たちは襲われねばならなかったのか?」
「そんなこと、私が知るはずもなかろう! 金品目当ての野盗にでも襲われたのではないのか!?」
「それはおかしいな。襲撃者を五人ほど捕らえて事情を聞いたら、口を揃えて言っていたぞ。ヴァルテンベルク公爵に命じられてやった、と」
元公爵の顔色がさっ、と変わる。
「その襲撃者たちもすでに刑務官府に引き渡してある」
「馬鹿な! そんなはずはない!」
「何故だ?」
「失敗したときは自害するように命じたはずだ!」
叫んでから、ザムエルがはっと我に返る。
(その失言を待っていた……)
カルステンは表情を変えないまま、内心でほくそ笑んだ。
たったひとつでいい。ザムエルの嘘を証明する失言がひとつでも出れば、他のすべての言動に信憑性がなくなる。
元々ザムエルは合理性を追及する問答で惨敗し、その形勢は不利だった。
嘘に嘘を重ねることで整合性が失われ、信憑性が薄れていくなかで、自ら嘘を認めるような発言をすればどうなるか――その答えが今、目の前にある。
二人の言いあいを聞いていた官たちは、一様に白い眼をザムエルへと向けていた。
――そのひとつが嘘なら、他の言葉もすべて嘘なのではないか?
場にいる者たちは、そう思ったことだろう。
人というのは他者への評価を印象で決めてしまいがちだ。この人物は嘘をつく、と強く印象に残れば、以降の評価もその影響を受けやすい。
今、場にいる者のほとんどがザムエルに「嘘つき」のレッテルを貼ったはずだ。
しかもザムエルは自身の嘘の証明のみならず罪の告白までしてしまった。それはカルステンによる印象操作との相乗効果も高く、わずかに残っていた抜け道をも完全に失う形になったのである。
「いや、これは……違う……」
青ざめた顔を引きつらせながら、元公爵は消え入りそうな声をだす。
先ほどの言葉をどうにかして取り消せないものかと、必死に思考を巡らせているのだろう。
しかしこの謁見の間で一度吐きだした言葉を揉み消すのは不可能だ。ここでの会話の内容は、数人の書記官がすべて記録しているからだ。
それは公式の記録として厳重に保管され続けることになる。
ザムエルに言い逃れる術はすでにない。
一連のザムエルの言動はカルステンの想定を越えなかった。
問答の主導権は常にカルステンが握り、話の方向性をコントロールし続けた。おかげで効果的に相手を追い込むことができたのである。
この結果に一役買ったのが、ディアーナの「元公爵」呼びだった。ザムエルの矜持を傷つけ、怒らせることで冷静さを失わせる。
これにアルフレート皇子が乗ってくれたおかげで、ザムエルは平静をとり戻す機会を失った。
冷静さを欠いたザムエルを質問攻めで追い込み、嘘を上積みさせて焦りを煽る。そして最後に、あちらの知らない情報を暴露して混乱へと突き落とした。その末に出たのが、あの失言――。
ザムエルの最大の失態は、情報が不確かなまま軽率に動きすぎたことだ。
あの日ヴァルテンベルク領に赴いたのは、わずか三人だった。カルステン自身と妻のディアーナ、そして御者――そのたった三人、という数字を無邪気に信じて軽はずみな暗殺を企てた。その三人が、ヒュッテンシュタット領で五本の指に数えられる精鋭だったとも知らずに……。
カルステンは狩猟を趣味としており、一通りの武術は身に付けている。狩猟慣れしている分、野戦にも強かった。
ディアーナはヒュッテンシュタット領の地方軍を統括する軍人でもあり、剣術はもちろんのこと、優秀な魔術の使い手でもある。
そして御者を務めていた男は、ディアーナとともに地方軍を率いる将軍の一人だったのだ。
昔から黒い噂の絶えないヴァルテンベルク公爵の本拠地に乗り込むのだ。それくらいの用心はして当然だろう。
襲撃者たちの半数をものの数分で死体に変えてやると、彼らはあっさりと降伏した。
暗殺に失敗したとき、自分との繋がりを証明されることがないように、行きずりの傭兵たちを雇ったのだろう。
しかし所詮は金で雇った連中だ。金銭に目が眩んだだけの人間が、命を捨ててまで依頼主の秘密を守るなどと、本気で信じていたのだろうか。だとしたら、憐れなほどに愚かな男だ……。
誰も戻ってこなかったことで襲撃の失敗は悟っていただろうに、なんの疑いも持たず、襲撃者たちが全滅したと思ったらしい。
カルステン側がその後、沈黙していたことで、秘密は守られていると思い込み、彼らを放置してしまった。
ザムエルにとって襲撃者たちが捕らえられたという情報は、寝耳に水だったに違いない。
この襲撃がなければ、ザムエルを徹底的に叩き潰してやろうとまでは考えなかったかもしれない。
本来、面倒くさいことは極力避けようとする性分のカルステンである。命を狙われたことで、防衛せざるを得なくなった、というのが本音だ。
結果的にザムエルは自ら墓穴を掘ったのである。
「ち、違う……私は……こやつらに……そう、こやつらに脅されたから……身を守るために、仕方なく――」
「もう良い!」
性懲りもなく苦しい言い逃れを続けようとするザムエルをアルフレート皇子が一喝した。
怒鳴り声とともに皇子が立ち上がると、ザムエルは身体をびくつかせ、小さな悲鳴とともに情けなく尻もちをついた。無理もない。怒りを滾らせてザムエルを睨む皇子の姿には、カルステンでさえ後込みしそうになるほどの凄みがあった。
「今の証言だけでも、貴公の罪は明白である! この場にいる者すべてがその証人だ。素直に自らの非を認めるのならばともかく、他者や臣下にその責任を転嫁させようなどとは愚劣の極み! 公爵の権限を傘に着て如何なる無理を通そうとも、そう簡単に道理が引っ込むとは思わぬことだ」
第一皇子殿下は母親である虚飾皇后によく似たお飾り皇子だ、と噂する者もいるらしいが、見誤るにも程がある。
あの皇子は不正を嫌悪し、ヴァルテンベルク公の無責任な態度には憎悪すら抱いているように見える。
「ザムエル・ヴァルテンベルク・フォン・ヒルデスハイマー。正式な裁可が下るまで、貴公には謹慎を命じる。王都の屋敷にも領館にもすでに騎士隊を差し向けてある。逃げられるなどと思うなよ」
手回しが早い。常に先回りして動いているからだろう。この皇子を無能と評する連中は、何をどう見てそう判断したものか、疑問に思うカルステンだった。
憔悴しきって肩を落とすザムエルから視線を外して、皇子はカルステンを見据える。
「ヒュッテンシュタット公。此度の告発がなければ、国は重大な犯罪を見逃し続けることになっていただろう。貴公の働きは称賛に値する。功績に見合った報奨を、と考えているが、何か望みはあるか?」
驚いたことに、カルステンに声をかけたときには、皇子の表情は平静さをとり戻していた。
空気すらも引き裂きそうだった怒りの気配が今は微塵もない。普通なら余韻くらいは残しそうなものだが、それさえなく、ただ静かにこちらを見ている。
カルステンへと視線を移すときの瞬きひとつ――たったそれだけで、感情を切り替えたとでもいうのだろうか。
この皇子はもしかしたら将来、とてつもない名君か、とんでもない暴君か、そのどちらかになるかもしれない。
カルステンは漠然とそう思った。
「過大なる評価をいただき恐悦に存じます。ひとつだけ、お願いを申し上げてよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「こちらのオットマールの言い分を聴いていただきたいのです」
自分の意思ではなかったとはいえ、六年もの歳月、不正に手を貸していた事実がある。それ故に良い感情はもらえないだろうと覚悟していたが、意外にもアルフレート皇子は穏やかな視線をオットマールに向けた。
「いいだろう。口上を許す。主張があるなら言ってみろ」
どこまでも無感情な声音だった。
内容を聞いてから感情を決める。そんな腹づもりなのかもしれない。
おかげでオットマールの震えは収まったようなので、ありがたくはある。
「わ、私は……脅されたこととはいえ、決してやってはいけない罪を、犯してしまいました……」
おそるおそるといった様子で、オットマールが懺悔を始める。
「どんな事態になるか分かっていながら、我が身かわいさで公爵様に従い続け、結果として今、ヴァルテンベルク公爵領の領民は貧困に喘いでおります」
泣きだしそうな声で言葉を続け、ついにはその場に平伏した。
「どのような罰でも受ける覚悟はできております。ですが、どうか……何も知らぬまま、要らぬ苦労を強いられているヴァルテンベルクの領民をお救いいただきたいのです!」
オットマールはずっとその罪悪感に苛まれてきた。今回のことでヴァルテンベルク公爵が処罰されたのだとしても、領民の十年は戻ってこない。この贖罪を清算できなければ、オットマールは先に進めない。
後悔を前面に出して懇願する領地管理人を前に、アルフレート皇子の表情は変わらなかった。
「領民のことはそなたが気にかけることではない。元より、民の安寧は国が保証するもの。その意味では、人材配置を誤った国のほうにも非はある。心配せずとも、新しい領主の選定には慎重を喫することになろう」
皇子は淡々と続ける。
「どのような事情があろうと公金の横領は重大な罪だ。しかし、そなたの告白がなければ此度の告発に結びつかなかったこともまた事実。さらに、そなたは自身の罪を自覚し、反省も後悔もしていることが分かった。すでに十分に苦しんだ者にこれ以上の追い打ちをかけるのは本意ではない。とはいえ、けじめは必要だろう。そこで、オットマールの領地管理人としての資格を一時剥奪し、最大で一年間、見習いとして一からやり直すことを命じる。ヒュッテンシュタット公爵はオットマールが正しい勤めに立ち直れるよう監督せよ」
「イエス・ヤー・ハイネス」
カルステンは片膝をついて礼をする。その心中では、思った以上に寛大な処分内容に、安堵しつつも驚いていた。
「貴公の望みはないのか?」
皇子は再度、その問いを投げかけてきた。
カルステンが願いでたのはあくまでオットマールの望みであってカルステン自身のものではないだろう、と言いたいらしい。
「ヴァルテンベルク公爵は裁かれ、オットマールには恩情をいただき、私は満足しております」
「そうか……卿は無欲だな」
一瞬ぴりりと空気が緊張した気がした。
目線を上げると、皇子が値踏みするような視線をカルステンに投じている。しかしそれも数秒のことで、すぐに視線は外された。
「今日はもう疲れた。残りの謁見は明日以降に変更する」
「では、そのように時間を調整しておきます」
宰相と短い遣りとりを済ませたアルフレート皇子は、ヴァルテンベルク公爵のことを見ようともせず、謁見の間の奥へと立ち去ってしまった。その背中には、怒りの残滓が見えた気がした。
近衛を務めるユリウスが物問いたげな視線でちらりとこちらを見てから、皇子のあとを追っていく。
結局、最後まで『最大の矛盾』に言及する者はいなかった。
少なくとも皇子はそこに気がついていたはずだが、指摘することはなく、沈黙を貫いていた。
ザムエルは気がついていたかもしれないが、都合が悪いと思い込んで話題に上げることはしなかったろう。
一方は公正さのために事実を無視し、もう一方は保身のために知らぬふりを決め込んだ。
(結局は、あの男の予想通りになったわけか……)
これが政の世界なのだと理解はしている。だからこそ、自分には似つかわしくないとカルステンは思うのだ。
「疲れた……」
引きこもり公爵が忌憚なく感想をもらして嘆息する。面倒くさがりなカルステンとしては、一年分の気力を使い果たした気分だった。
しかも最後にアルフレート皇子から妙な警戒心を抱かれた気もして、余計に面倒だった。ただの誤解なのだから、買い被りはやめてもらいたいところである。
「こんな面倒なことを日常的にやっているとは……気違いか、あの子爵……」
そんな言葉をぼそりと残して、カルステンは謁見の間をあとにするのだった。
皇族専用の裏口から謁見の間を出て自室へと歩くアルフレートの表情は、怒りに満ちていた。
竜胆の花を模したボタニカル柄の壁が機械的に横移動していくのを視界の端に捉えながら、乱暴な足どりで床を弾いていく。
「お待ちください、殿下」
後ろからユリウスが追いかけてきた。普通に歩いているくせに、早足の自分にいとも簡単に追いついてくるのが嫌味くさい。
何を言おうとしているのか想像がつくだけに、追いつかれるのは余計に気にくわなかった。
「ヴァルテンベルク公爵の処罰に関して、聞いていただきたいことがございます」
騎士の言葉に、アルフレートの足がピタリと止まる。
「お前も、私が下した処断が不服か?」
振り返らぬまま静かに問う。
「不平不満の問題ではなく、もっと根本的なことです」
「何が言いたい?」
「殿下のお怒りは分かります。ですが、個人的な感情にヒルデスハイマー家の者を巻き込んではいけません」
「個人的……?」
握りしめた拳に力が入る。向けられた言葉がひどく不快で、抑えようとしていた怒りが再び爆発するのを感じた。
「私が八つ当たりしているとでも言いたいのか!?」
弾かれたように振り向いて、騎士の顔を睨みつける。
怒鳴りつけられたユリウスの表情は、主の感情と反比例するように落ち着いていた。
「殿下は何に対して怒っておられるのですか?」
それは思ってもみない問いかけだった。同時に、何を当たり前のことを、と憤りも覚える。だがアルフレートが返答するより早く、ユリウスが言葉を続けた。
「公爵の不正ですか? 彼の態度ですか? この国の体制そのものですか? ……それとも、ご自分の境遇ですか?」
アルフレートの肩が震える。
とてつもなく意地の悪い質問だった。
この騎士は回答を知った上で、あえて聞いているのだ。それが本当に正当な怒りなのか、と……。
個人的な感情だと言われて激昂したのは、図星を刺されたからに他ならない。ユリウスはアルフレート自身が自覚していることに釘を刺そうとしているのだ。
ユリウスの言い分が正しいことは分かっている。だがそれでも、簡単に納得はできなかった。
「……あの公爵は、血によって家督を継いだだけの盆暗だ。ただ公爵家の長男に生まれただけの――」
「そうですね。殿下や私と同じように、ただ長男として生まれてきただけです」
「なっ……!」
「間違っておりますか?」
アルフレートは押し黙る。
「それが今現在の……この国の在り方です」
確かに間違ってはいない。有能無能に関わらず、家督は長男が継ぐ。それがここでの基本ルールだ。
「それでも、俺は納得がいかない。あんな無能で愚劣な男が公爵で、一地方を治める領主であったなどと……確かに公爵家に生まれたのは奴自身の責任ではない。だが贅沢を貪って生きてきた以上、果たすべき責任があるはずだろう!」
責任を自覚することもなく、権利ばかりを主張する。その姿勢が身近なある人物の姿と重なって、どうしても許せなかった。
「自身の立場と責任に十分な自覚をお持ちだからこそ、殿下は誰よりも厳しくご自分を律していらっしゃいます。だからこそ、こんなところで私怨に駆られては、これまで培ってきた努力を自ら否定することになってしまいます」
ユリウスの言葉が、交わす度に自分の思考に浸透していくのが分かる。押しつけの主張ではなく、あくまで冷静に、しかし論理ではなく感情に訴えるような声音が、アルフレートの心を少しずつ脱力させていくのだ。
「……分かっている。これは私個人の怒りで、公正なものではない」
アルフレートは深く大きな呼吸で息を吐きだした。
「感情的になって悪かった。お前の言う通り、私情を挟んで処断すれば、それはただの私刑になってしまう。危うく私自身が大きな罪を犯すところだった。礼を言う」
ユリウスは黙って頭を下げるが、その表情はどこか安堵しているように見えた。
「とはいえ、ザムエルに対する処罰を変える気はないぞ」
「公爵閣下ご自身への処罰はあれでよろしいかと思われます。ただ、ヒルデスハイマー家への裁可はご再考いただきたいと存じます」
「そうだな。あとでディルクハイムにも意見を聴いておこう」
「それがよろしいかと」
諫言はしても深くまでは踏み込まない。
相変わらずとも思うが、ユリウスの頑なな線引きは、アルフレートが自分を律しようとするのと、もしかしたら同じようなものなのかもしれない。
基本となる爵位が、侯爵、伯爵、子爵、男爵、と四段階あり、軍の階級と同じように功績や失策によって昇格ないし降格する。これらの爵位は家名に対して与えられ、無条件での世襲が可能となっており、『継承爵位』と総称されている。
また、こうした爵位を持つ者は『建国王』と謳われた初代皇帝の血筋にあたる証でもあるため、滅多なことでは剥奪されない。
これに対して、公爵位は性質が異なり、継承爵位とは別に付与される特殊な爵位となっている。つまり継承爵位と重複して持つことができるのだ。
皇国において、公爵位は十二と定められており、爵位名と役職がセットになっている。
公爵領を統治する領主六公爵。国軍を預かる軍部三公爵。執政を担当する文部三公爵。合わせて十二公爵である。
政務官府を預かる者にはシュテルンベルク公爵の称号を、白元帥となる者にはアウエルンハイマー公爵の称号を、ヴァルテンベルク領を統治する者にはヴァルテンベルク公爵の称号を付与される、という仕組みだ。そのため、統治者が変わったとしても、公爵領の名称が変わることはない。
公爵位は伯爵以上の貴族に与えられるものとされているが、実質的には侯爵家で占められるのが通例だった。
ヴァルテンベルク公ザムエルは、公爵であると同時にヒルデスハイマー侯爵家の当主でもある。つまり二つの爵位を持つ身だ。
アルフレート皇子が宣言した「全ての爵位を剥奪」とはすなわち、ヴァルテンベルク公爵の称号と、家名に対して与えられている候爵位、双方を剥奪するということになる。
その上でさらに資産まで没収するというのだから、稀に見るどころか、史上類を見ない重い処分だった。
告発した当事者であるヒュッテンシュタット公カルステンも、これには驚きを隠せなかった。
ザムエル本人に関しては自業自得だ。同情はしないし、当然の報いだとすら思う。しかしこの裁可では、ヒルデスハイマー家の者全員が路頭に迷うことになりかねない。連帯責任とするにはあまりに酷だ。
ディルクハイム侯爵も同様の感想を持っていた。そして立場上、意見しないわけにはいかなかった。
「お待ちください、殿下。爵位を剥奪された上に資産まで失っては、これからの暮らしに差し障りがございましょう。せめてこの度のことは、伯爵なり子爵なりへの降格処分に留め置くことが最良かと存じます」
彼らしい堅実な意見ではあるが、こちらは少々、処分内容が生温い。それだけに、皇子の意見と平行線になる懸念があった。
「自らの無責任が招いたことだ。再考の必要を感じない」
案の定、皇子は宰相の提言を突っぱねた。
ディルクハイム侯マリウスが白髪の混じる深緑の頭を小さく左右に振ると、肩に落ちた長い髪が虚しく揺れる。暗緑色の瞳には諦観の色が顕著に浮かんでいた。
気苦労が絶えなさそうな姿に、白髪が増えないかと、カルステンは余計な心配をしてしまう。
一方で、義理の甥にあたる近衛騎士に視線を移すと、彼は少し目を伏せるような状態で難しい表情を浮かべていた。あの仕草には見覚えがある。考え事をするときに、ああいう顔をすることが多い。
立場上、この場で口を差し挟むことはできない。だからこのあとどうすべきか、それを思案しているのかもしれない。
とはいえ、カルステンがここで口を挟むのは論外だ。出過ぎた真似と取られかねない。第一、彼には彼で他にやらなければならないことがある。
さてどう話を展開するべきか、と思考を巡らせたところで、変化が起きた。
「こんな……こんな馬鹿なこと、あるはずが……」
呻くような声が二メートル前方から聞こえた。
苛烈な裁きを言い渡された公爵殿は、現実を受け止められずにいるらしい。落ち着きなくキョロキョロと視線を動かし、やがてそれがある一点で止まった。
「あ、あいつだ! あいつがやったんだ! 私ではない!」
灰色の髪を振り乱しながら、濁った眼で睨みつけるその先には、カルステンたちと共に入室してきた男の姿があった。
彼は未だ片膝をついて頭を下げた姿勢のまま、しかしザムエルの声にびくりと肩を震わせていた。
「こやつがカルステンの小僧と組んで私を陥れようとしているのだ!」
ザムエルの吐きだした言葉に、カルステンはカチンときた。
十以上の年齢差があるとはいえ、この男は友人でも上官でもない。呼び捨てだの小僧呼ばわりだのされる謂れはないはずだ。
思わず前のめりになるカルステンの肩に妻ディアーナの手が添えらた。引きこもり公爵は、そのまま彼女に動きを牽制される。妻はその顔に、思わず見惚れるほどの美しい笑顔を浮かべていた。
夫を呆けさせたディアーナは、そのまま何も言わずにザムエルに向きあって、静かに口を開く。
「如何に年長といえども、公爵位にある者に対して言葉が過ぎるのではありませんか? 公爵……いえ、元公爵殿」
言い直すときに含み笑いが聞こえた気がした。それ以上に『元』をやたらと強調していたのが印象的である。明らかな挑発だった。
爵位を剥奪され今やただのザムエルとなった男は、ひくひくと頬を痙攣させたあと、茹でダコのように顔を赤くした。人間とはこんなに一瞬で茹で上がれるものなのだとカルステンは感心する。
「な、なに…きさ……きさま…っ……」
なるほど、冷静さを失うと人は言葉を忘れるものらしい。面白いものが見られた。
元公爵の醜態を目にしたおかげで、カルステンは逆に冷静さをとり戻し、血の上りかけた頭がクリアになっていくのを感じていた。それと同時に苦笑がもれる。
(八歳も下の妻にフォローされるとは、俺もまだまだ未熟だな……)
胸中で独りごちるカルステンを背に、ディアーナが言葉を続けた。
「正式な手続きを踏んで奏上したものに異論を唱えるということは、よほどの自信がおありなのでしょう。ならば存分に主張なさいませ。その意見を参考に、我らの正当性を証明してご覧に入れます」
ディアーナの挑戦的な言葉に反応したのは、ザムエルではなくアルフレート皇子だった。
「確かに。証拠が揃っているとはいえ、一方の主張だけを聞くのでは不平等に過ぎよう。意見することを許す。主張があるなら言ってみるがいい、ザムエル・ヒルデスハイマー」
「……っ!」
ザムエルが目を剥いて言葉を失う。
あえて『フォン』の称号を省いて名を呼んだ皇子も、なかなかに意地が悪い。「お前はすでに貴族ではない」と、言ったようなものだ。
とはいえ、性格の悪さで負けるつもりはないカルステンである。
「殿下は寛大な方でいらっしゃる。お言葉に甘えてはどうだ、ザムエル・ヒルデスハイマー」
礼儀正しい妻とは違い、あくまで尊大に振る舞うと、悪意を向けられた元公爵は歯を剥きだして敵意を返してきた。
これでいい。怒りがディアーナや皇子に向かうのでは意味がない。この男の相手は自分がしなければならないのだから。
「先ほど、私たちが手を組んでいるとか、ずい分と荒唐無稽なことを言っていたようだが」
「何が荒唐無稽か! 今ここに連れ立ってきたことがその証拠ではないか!」
吐き捨てたあと、ザムエルがきっ、と黒ベストの男を睨みつける。
「オットマール! 雇い入れてやった恩も忘れて、とんでもないことをしてくれたな!」
名を呼ばれた男はびくりと反応したあと、ガタガタと震え始めた。依然として顔は上げないまま、というより上げられないのだろう。彼は恐怖しているのだ。権力という名の暴力に……。
見かねたディアーナが傍らに片膝をついて、怯えるオットマールの背をさすってやる。
彼女を連れてきたのは正解だったらしい。ここでオットマールにパニックを起こされるのは困る。
優秀な緩衝材の役目を果たしてくれる妻のおかげで、カルステンは自分がやるべきことに集中できるというものだ。
「此度の告発はオットマールから相談を受けたことに端を発している。そのためこの場にも共に来てもらった」
カルステンは事のあらましを大まかに説明する。
オットマールは六年ほど前にヴァルテンベルク領の領地管理人として働き始めた人物だ。
公爵領の直轄地は他の領地に比べればさほど広くはない。だが人口密度が高いが故の難しさがある上、直轄地以外の領地についても、上がってくる報告書を確認しなければならない。
その管理を任されるというのは、責任重大であり大変な苦労もある。だが同時に、領地管理人にとっては名誉なことだ。
オットマールも当初は喜び勇んで雇い入れの打診を受け入れた。しかし彼を待ち受けていたのは、貪欲な公爵からの不当な命令だったのである。
半ば脅されるような形で不正の片棒を担がされたオットマールだったが、勤勉実直な性格の彼にはやがて限界がきた。横領に手を貸していることに耐えられなくなり、旧知の仲であったヒュッテンシュタット公の領地管理人に泣きついたのである。
話を聞いたカルステンだったが、相手が公爵ということもあり、事実確認が済むまでは慎重に動かざるを得ない。
そのために妻を伴ってヴァルテンベルクの領館を訪ねたわけだが、そこで黙認の買収を持ちかけられたのだ。
それを断った帰り道で、ヒュッテンシュタット夫妻は十数人のならず者に襲われた。
「以上の経緯により、告発の必要性を感じた私は、訴状を提出するに至った次第だ。何か反論はあるか、ザムエル・ヒルデスハイマー?」
侮蔑の視線を向けながら、執拗にその名を呼び捨てる。
「出任せだ! 己が罪から逃れるためのデタラメを言っているのだ!」
ザムエルは顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「あくまで私がオットマールと手を組んで、ヴァルテンベルクの公金を横領したと言いたいのか?」
「その通りだ! そうに決まっている!」
「何のために? ただ上納金を横領するだけなら、他家の管理人を唆すより、自分の領地でやったほうがよほど手っとり早いと思うが」
ヒステリックな反論に、あくまでも冷静に論理で返すと、元公爵は勢いを三割がた削がれるように息を詰まらせた。
「そ、それは……バレたときに、私に罪を着せられるからだ!」
「そうであるなら自ら告発などするわけがない。メリットがないと思うが」
「それ…は……」
ザムエルは目を泳がせたあと、はっと顔を上げる。「思いついた!」と叫びそうな風情だった。
「そうだっ、私を貶めるつもりで――」
「何のために?」
しかしすぐにカルステンに返され、びくりと身じろぎして歯を食いしばる。
「貴公を追い落としたところで、同じ公爵位にある私自身の地位が上がるわけでもなかろう。わざわざ領地管理人を利用するなどという回りくどいことをしてまで、貶めようとするメリットはどこにある?」
カルステンは殊更メリットを強調する。
今この場では証明することではなく、合理性を唱えることのほうが重要だからだ。
二人の論点が「自分はやっていない」ことに終始する限り、水掛け論になるのは明白だ。その場合、どちらの主張がより説得力に富んでいるか――合理性があるかが争点になってくる。
ザムエルが嘘をついている以上、よほどの理論武装でもしていない限り、合理的整合性を見いだせないのはあちらのほうだ。カルステンとしては相手の矛盾点を突いてやればいいだけなのだから、何も難しくはない。
一方のザムエル・ヒルデスハイマーは言葉を重ねるほどにメッキが剥がれ落ちていくわけだが、今は冷静さを失って判断力が低下している状態にあった。
そしてそれはカルステン側の狙い通りでもある。
それでも形勢が不利なことくらいは理解しているのだろう。しばし間を置いてから、元公爵は方針を転換してきた。
「ならばオットマールが単独でやったのであろう。悪事がバレて私に罪を擦りつけようとしているのだ。そんな嘘に簡単に惑わされるとは、恥を知れ!」
ザムエルはカルステン犯人説を諦めて、オットマールの単独犯行の路線に切り替えたのである。賢明といえるだろう。その前に無駄な足掻きをしていなければ、の話ではあるが……。
それでもカルステンに何らかの汚点は負わせたいらしく、最後に余計な一言がついていた。
「オットマールについては最初に調査を済ませている。ヴァルテンベルク領以前の働き先についても調べ、雇用主や他の使用人たち、さらに彼の故郷でも複数人からの証言を集めた。それら五十人以上の証言をまとめた書類は、刑務官府に提出してある。彼が自らの意思で不正を働くような人物ではないと判断した上で、私はヴァルテンベルク領に赴いたのだ」
余計な言説ごと一蹴するように、カルステンは説明した。そして鋭い視線でザムエルを睨む。
「その上で聞きたいのだが、私が貴公に事情を尋ねた際、詳細も告げぬまま買収を持ちかけたのは何故だ? 自分が関与していないと言い張るのなら、そう説明して私に協力を仰げば良かっただろう」
「し、知らん! 買収などした覚えはない!」
当然これは否定するだろう。買収とは罪を認めるのと同じこと。肯定すればそこで全てが終わる。
「確かに、買収に関しては私と妻の証言しかなく、証拠能力としては弱い。だが、ならば何故ヴァルテンベルク領からの帰り道で、私たちは襲われねばならなかったのか?」
「そんなこと、私が知るはずもなかろう! 金品目当ての野盗にでも襲われたのではないのか!?」
「それはおかしいな。襲撃者を五人ほど捕らえて事情を聞いたら、口を揃えて言っていたぞ。ヴァルテンベルク公爵に命じられてやった、と」
元公爵の顔色がさっ、と変わる。
「その襲撃者たちもすでに刑務官府に引き渡してある」
「馬鹿な! そんなはずはない!」
「何故だ?」
「失敗したときは自害するように命じたはずだ!」
叫んでから、ザムエルがはっと我に返る。
(その失言を待っていた……)
カルステンは表情を変えないまま、内心でほくそ笑んだ。
たったひとつでいい。ザムエルの嘘を証明する失言がひとつでも出れば、他のすべての言動に信憑性がなくなる。
元々ザムエルは合理性を追及する問答で惨敗し、その形勢は不利だった。
嘘に嘘を重ねることで整合性が失われ、信憑性が薄れていくなかで、自ら嘘を認めるような発言をすればどうなるか――その答えが今、目の前にある。
二人の言いあいを聞いていた官たちは、一様に白い眼をザムエルへと向けていた。
――そのひとつが嘘なら、他の言葉もすべて嘘なのではないか?
場にいる者たちは、そう思ったことだろう。
人というのは他者への評価を印象で決めてしまいがちだ。この人物は嘘をつく、と強く印象に残れば、以降の評価もその影響を受けやすい。
今、場にいる者のほとんどがザムエルに「嘘つき」のレッテルを貼ったはずだ。
しかもザムエルは自身の嘘の証明のみならず罪の告白までしてしまった。それはカルステンによる印象操作との相乗効果も高く、わずかに残っていた抜け道をも完全に失う形になったのである。
「いや、これは……違う……」
青ざめた顔を引きつらせながら、元公爵は消え入りそうな声をだす。
先ほどの言葉をどうにかして取り消せないものかと、必死に思考を巡らせているのだろう。
しかしこの謁見の間で一度吐きだした言葉を揉み消すのは不可能だ。ここでの会話の内容は、数人の書記官がすべて記録しているからだ。
それは公式の記録として厳重に保管され続けることになる。
ザムエルに言い逃れる術はすでにない。
一連のザムエルの言動はカルステンの想定を越えなかった。
問答の主導権は常にカルステンが握り、話の方向性をコントロールし続けた。おかげで効果的に相手を追い込むことができたのである。
この結果に一役買ったのが、ディアーナの「元公爵」呼びだった。ザムエルの矜持を傷つけ、怒らせることで冷静さを失わせる。
これにアルフレート皇子が乗ってくれたおかげで、ザムエルは平静をとり戻す機会を失った。
冷静さを欠いたザムエルを質問攻めで追い込み、嘘を上積みさせて焦りを煽る。そして最後に、あちらの知らない情報を暴露して混乱へと突き落とした。その末に出たのが、あの失言――。
ザムエルの最大の失態は、情報が不確かなまま軽率に動きすぎたことだ。
あの日ヴァルテンベルク領に赴いたのは、わずか三人だった。カルステン自身と妻のディアーナ、そして御者――そのたった三人、という数字を無邪気に信じて軽はずみな暗殺を企てた。その三人が、ヒュッテンシュタット領で五本の指に数えられる精鋭だったとも知らずに……。
カルステンは狩猟を趣味としており、一通りの武術は身に付けている。狩猟慣れしている分、野戦にも強かった。
ディアーナはヒュッテンシュタット領の地方軍を統括する軍人でもあり、剣術はもちろんのこと、優秀な魔術の使い手でもある。
そして御者を務めていた男は、ディアーナとともに地方軍を率いる将軍の一人だったのだ。
昔から黒い噂の絶えないヴァルテンベルク公爵の本拠地に乗り込むのだ。それくらいの用心はして当然だろう。
襲撃者たちの半数をものの数分で死体に変えてやると、彼らはあっさりと降伏した。
暗殺に失敗したとき、自分との繋がりを証明されることがないように、行きずりの傭兵たちを雇ったのだろう。
しかし所詮は金で雇った連中だ。金銭に目が眩んだだけの人間が、命を捨ててまで依頼主の秘密を守るなどと、本気で信じていたのだろうか。だとしたら、憐れなほどに愚かな男だ……。
誰も戻ってこなかったことで襲撃の失敗は悟っていただろうに、なんの疑いも持たず、襲撃者たちが全滅したと思ったらしい。
カルステン側がその後、沈黙していたことで、秘密は守られていると思い込み、彼らを放置してしまった。
ザムエルにとって襲撃者たちが捕らえられたという情報は、寝耳に水だったに違いない。
この襲撃がなければ、ザムエルを徹底的に叩き潰してやろうとまでは考えなかったかもしれない。
本来、面倒くさいことは極力避けようとする性分のカルステンである。命を狙われたことで、防衛せざるを得なくなった、というのが本音だ。
結果的にザムエルは自ら墓穴を掘ったのである。
「ち、違う……私は……こやつらに……そう、こやつらに脅されたから……身を守るために、仕方なく――」
「もう良い!」
性懲りもなく苦しい言い逃れを続けようとするザムエルをアルフレート皇子が一喝した。
怒鳴り声とともに皇子が立ち上がると、ザムエルは身体をびくつかせ、小さな悲鳴とともに情けなく尻もちをついた。無理もない。怒りを滾らせてザムエルを睨む皇子の姿には、カルステンでさえ後込みしそうになるほどの凄みがあった。
「今の証言だけでも、貴公の罪は明白である! この場にいる者すべてがその証人だ。素直に自らの非を認めるのならばともかく、他者や臣下にその責任を転嫁させようなどとは愚劣の極み! 公爵の権限を傘に着て如何なる無理を通そうとも、そう簡単に道理が引っ込むとは思わぬことだ」
第一皇子殿下は母親である虚飾皇后によく似たお飾り皇子だ、と噂する者もいるらしいが、見誤るにも程がある。
あの皇子は不正を嫌悪し、ヴァルテンベルク公の無責任な態度には憎悪すら抱いているように見える。
「ザムエル・ヴァルテンベルク・フォン・ヒルデスハイマー。正式な裁可が下るまで、貴公には謹慎を命じる。王都の屋敷にも領館にもすでに騎士隊を差し向けてある。逃げられるなどと思うなよ」
手回しが早い。常に先回りして動いているからだろう。この皇子を無能と評する連中は、何をどう見てそう判断したものか、疑問に思うカルステンだった。
憔悴しきって肩を落とすザムエルから視線を外して、皇子はカルステンを見据える。
「ヒュッテンシュタット公。此度の告発がなければ、国は重大な犯罪を見逃し続けることになっていただろう。貴公の働きは称賛に値する。功績に見合った報奨を、と考えているが、何か望みはあるか?」
驚いたことに、カルステンに声をかけたときには、皇子の表情は平静さをとり戻していた。
空気すらも引き裂きそうだった怒りの気配が今は微塵もない。普通なら余韻くらいは残しそうなものだが、それさえなく、ただ静かにこちらを見ている。
カルステンへと視線を移すときの瞬きひとつ――たったそれだけで、感情を切り替えたとでもいうのだろうか。
この皇子はもしかしたら将来、とてつもない名君か、とんでもない暴君か、そのどちらかになるかもしれない。
カルステンは漠然とそう思った。
「過大なる評価をいただき恐悦に存じます。ひとつだけ、お願いを申し上げてよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「こちらのオットマールの言い分を聴いていただきたいのです」
自分の意思ではなかったとはいえ、六年もの歳月、不正に手を貸していた事実がある。それ故に良い感情はもらえないだろうと覚悟していたが、意外にもアルフレート皇子は穏やかな視線をオットマールに向けた。
「いいだろう。口上を許す。主張があるなら言ってみろ」
どこまでも無感情な声音だった。
内容を聞いてから感情を決める。そんな腹づもりなのかもしれない。
おかげでオットマールの震えは収まったようなので、ありがたくはある。
「わ、私は……脅されたこととはいえ、決してやってはいけない罪を、犯してしまいました……」
おそるおそるといった様子で、オットマールが懺悔を始める。
「どんな事態になるか分かっていながら、我が身かわいさで公爵様に従い続け、結果として今、ヴァルテンベルク公爵領の領民は貧困に喘いでおります」
泣きだしそうな声で言葉を続け、ついにはその場に平伏した。
「どのような罰でも受ける覚悟はできております。ですが、どうか……何も知らぬまま、要らぬ苦労を強いられているヴァルテンベルクの領民をお救いいただきたいのです!」
オットマールはずっとその罪悪感に苛まれてきた。今回のことでヴァルテンベルク公爵が処罰されたのだとしても、領民の十年は戻ってこない。この贖罪を清算できなければ、オットマールは先に進めない。
後悔を前面に出して懇願する領地管理人を前に、アルフレート皇子の表情は変わらなかった。
「領民のことはそなたが気にかけることではない。元より、民の安寧は国が保証するもの。その意味では、人材配置を誤った国のほうにも非はある。心配せずとも、新しい領主の選定には慎重を喫することになろう」
皇子は淡々と続ける。
「どのような事情があろうと公金の横領は重大な罪だ。しかし、そなたの告白がなければ此度の告発に結びつかなかったこともまた事実。さらに、そなたは自身の罪を自覚し、反省も後悔もしていることが分かった。すでに十分に苦しんだ者にこれ以上の追い打ちをかけるのは本意ではない。とはいえ、けじめは必要だろう。そこで、オットマールの領地管理人としての資格を一時剥奪し、最大で一年間、見習いとして一からやり直すことを命じる。ヒュッテンシュタット公爵はオットマールが正しい勤めに立ち直れるよう監督せよ」
「イエス・ヤー・ハイネス」
カルステンは片膝をついて礼をする。その心中では、思った以上に寛大な処分内容に、安堵しつつも驚いていた。
「貴公の望みはないのか?」
皇子は再度、その問いを投げかけてきた。
カルステンが願いでたのはあくまでオットマールの望みであってカルステン自身のものではないだろう、と言いたいらしい。
「ヴァルテンベルク公爵は裁かれ、オットマールには恩情をいただき、私は満足しております」
「そうか……卿は無欲だな」
一瞬ぴりりと空気が緊張した気がした。
目線を上げると、皇子が値踏みするような視線をカルステンに投じている。しかしそれも数秒のことで、すぐに視線は外された。
「今日はもう疲れた。残りの謁見は明日以降に変更する」
「では、そのように時間を調整しておきます」
宰相と短い遣りとりを済ませたアルフレート皇子は、ヴァルテンベルク公爵のことを見ようともせず、謁見の間の奥へと立ち去ってしまった。その背中には、怒りの残滓が見えた気がした。
近衛を務めるユリウスが物問いたげな視線でちらりとこちらを見てから、皇子のあとを追っていく。
結局、最後まで『最大の矛盾』に言及する者はいなかった。
少なくとも皇子はそこに気がついていたはずだが、指摘することはなく、沈黙を貫いていた。
ザムエルは気がついていたかもしれないが、都合が悪いと思い込んで話題に上げることはしなかったろう。
一方は公正さのために事実を無視し、もう一方は保身のために知らぬふりを決め込んだ。
(結局は、あの男の予想通りになったわけか……)
これが政の世界なのだと理解はしている。だからこそ、自分には似つかわしくないとカルステンは思うのだ。
「疲れた……」
引きこもり公爵が忌憚なく感想をもらして嘆息する。面倒くさがりなカルステンとしては、一年分の気力を使い果たした気分だった。
しかも最後にアルフレート皇子から妙な警戒心を抱かれた気もして、余計に面倒だった。ただの誤解なのだから、買い被りはやめてもらいたいところである。
「こんな面倒なことを日常的にやっているとは……気違いか、あの子爵……」
そんな言葉をぼそりと残して、カルステンは謁見の間をあとにするのだった。
皇族専用の裏口から謁見の間を出て自室へと歩くアルフレートの表情は、怒りに満ちていた。
竜胆の花を模したボタニカル柄の壁が機械的に横移動していくのを視界の端に捉えながら、乱暴な足どりで床を弾いていく。
「お待ちください、殿下」
後ろからユリウスが追いかけてきた。普通に歩いているくせに、早足の自分にいとも簡単に追いついてくるのが嫌味くさい。
何を言おうとしているのか想像がつくだけに、追いつかれるのは余計に気にくわなかった。
「ヴァルテンベルク公爵の処罰に関して、聞いていただきたいことがございます」
騎士の言葉に、アルフレートの足がピタリと止まる。
「お前も、私が下した処断が不服か?」
振り返らぬまま静かに問う。
「不平不満の問題ではなく、もっと根本的なことです」
「何が言いたい?」
「殿下のお怒りは分かります。ですが、個人的な感情にヒルデスハイマー家の者を巻き込んではいけません」
「個人的……?」
握りしめた拳に力が入る。向けられた言葉がひどく不快で、抑えようとしていた怒りが再び爆発するのを感じた。
「私が八つ当たりしているとでも言いたいのか!?」
弾かれたように振り向いて、騎士の顔を睨みつける。
怒鳴りつけられたユリウスの表情は、主の感情と反比例するように落ち着いていた。
「殿下は何に対して怒っておられるのですか?」
それは思ってもみない問いかけだった。同時に、何を当たり前のことを、と憤りも覚える。だがアルフレートが返答するより早く、ユリウスが言葉を続けた。
「公爵の不正ですか? 彼の態度ですか? この国の体制そのものですか? ……それとも、ご自分の境遇ですか?」
アルフレートの肩が震える。
とてつもなく意地の悪い質問だった。
この騎士は回答を知った上で、あえて聞いているのだ。それが本当に正当な怒りなのか、と……。
個人的な感情だと言われて激昂したのは、図星を刺されたからに他ならない。ユリウスはアルフレート自身が自覚していることに釘を刺そうとしているのだ。
ユリウスの言い分が正しいことは分かっている。だがそれでも、簡単に納得はできなかった。
「……あの公爵は、血によって家督を継いだだけの盆暗だ。ただ公爵家の長男に生まれただけの――」
「そうですね。殿下や私と同じように、ただ長男として生まれてきただけです」
「なっ……!」
「間違っておりますか?」
アルフレートは押し黙る。
「それが今現在の……この国の在り方です」
確かに間違ってはいない。有能無能に関わらず、家督は長男が継ぐ。それがここでの基本ルールだ。
「それでも、俺は納得がいかない。あんな無能で愚劣な男が公爵で、一地方を治める領主であったなどと……確かに公爵家に生まれたのは奴自身の責任ではない。だが贅沢を貪って生きてきた以上、果たすべき責任があるはずだろう!」
責任を自覚することもなく、権利ばかりを主張する。その姿勢が身近なある人物の姿と重なって、どうしても許せなかった。
「自身の立場と責任に十分な自覚をお持ちだからこそ、殿下は誰よりも厳しくご自分を律していらっしゃいます。だからこそ、こんなところで私怨に駆られては、これまで培ってきた努力を自ら否定することになってしまいます」
ユリウスの言葉が、交わす度に自分の思考に浸透していくのが分かる。押しつけの主張ではなく、あくまで冷静に、しかし論理ではなく感情に訴えるような声音が、アルフレートの心を少しずつ脱力させていくのだ。
「……分かっている。これは私個人の怒りで、公正なものではない」
アルフレートは深く大きな呼吸で息を吐きだした。
「感情的になって悪かった。お前の言う通り、私情を挟んで処断すれば、それはただの私刑になってしまう。危うく私自身が大きな罪を犯すところだった。礼を言う」
ユリウスは黙って頭を下げるが、その表情はどこか安堵しているように見えた。
「とはいえ、ザムエルに対する処罰を変える気はないぞ」
「公爵閣下ご自身への処罰はあれでよろしいかと思われます。ただ、ヒルデスハイマー家への裁可はご再考いただきたいと存じます」
「そうだな。あとでディルクハイムにも意見を聴いておこう」
「それがよろしいかと」
諫言はしても深くまでは踏み込まない。
相変わらずとも思うが、ユリウスの頑なな線引きは、アルフレートが自分を律しようとするのと、もしかしたら同じようなものなのかもしれない。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
公爵家長男はゴミスキルだったので廃嫡後冒険者になる(美味しいモノが狩れるなら文句はない)
音爽(ネソウ)
ファンタジー
記憶持ち転生者は元定食屋の息子。
魔法ありファンタジー異世界に転生した。彼は将軍を父に持つエリートの公爵家の嫡男に生まれかわる。
だが授かった職業スキルが「パンツもぐもぐ」という謎ゴミスキルだった。そんな彼に聖騎士の弟以外家族は冷たい。
見習い騎士にさえなれそうもない長男レオニードは廃嫡後は冒険者として生き抜く決意をする。
「ゴミスキルでも美味しい物を狩れれば満足だ」そんな彼は前世の料理で敵味方の胃袋を掴んで魅了しまくるグルメギャグ。
魔拳のデイドリーマー
osho
ファンタジー
剣と魔法の異世界に転生した少年・ミナト。ちょっと物騒な大自然の中で、優しくて美人でエキセントリックなお母さんに育てられた彼が、我流の魔法と鍛えた肉体を武器に、常識とか色々ぶっちぎりつつもあくまで気ままに過ごしていくお話。
主人公最強系の転生ファンタジーになります。未熟者の書いた、自己満足が執筆方針の拙い文ですが、お暇な方、よろしければどうぞ見ていってください。感想などいただけると嬉しいです。

騎士志望のご令息は暗躍がお得意
月野槐樹
ファンタジー
王弟で辺境伯である父を保つマーカスは、辺境の田舎育ちのマイペースな次男坊。
剣の腕は、かつて「魔王」とまで言われた父や父似の兄に比べれば平凡と自認していて、剣より魔法が大好き。戦う時は武力より、どちらというと裏工作?
だけど、ちょっとした気まぐれで騎士を目指してみました。
典型的な「騎士」とは違うかもしれないけど、護る時は全力です。
従者のジョセフィンと駆け抜ける青春学園騎士物語。
髪の色は愛の証 〜白髪少年愛される〜
あめ
ファンタジー
髪の色がとてもカラフルな世界。
そんな世界に唯一現れた白髪の少年。
その少年とは神様に転生させられた日本人だった。
その少年が“髪の色=愛の証”とされる世界で愛を知らぬ者として、可愛がられ愛される話。
⚠第1章の主人公は、2歳なのでめっちゃ拙い発音です。滑舌死んでます。
⚠愛されるだけではなく、ちょっと可哀想なお話もあります。
転生して貴族になったけど、与えられたのは瑕疵物件で有名な領地だった件
桜月雪兎
ファンタジー
神様のドジによって人生を終幕してしまった七瀬結希。
神様からお詫びとしていくつかのスキルを貰い、転生したのはなんと貴族の三男坊ユキルディス・フォン・アルフレッドだった。
しかし、家族とはあまり折り合いが良くなく、成人したらさっさと追い出された。
ユキルディスが唯一信頼している従者アルフォンス・グレイルのみを連れて、追い出された先は国内で有名な瑕疵物件であるユンゲート領だった。
ユキルディスはユキルディス・フォン・ユンゲートとして開拓から始まる物語だ。
魔境へ追放された公爵令息のチート領地開拓 〜動く屋敷でもふもふ達とスローライフ!〜
西園寺わかば🌱
ファンタジー
公爵家に生まれたエリクは転生者である。
4歳の頃、前世の記憶が戻って以降、知識無双していた彼は気づいたら不自由極まりない生活を送るようになっていた。
そんな彼はある日、追放される。
「よっし。やっと追放だ。」
自由を手に入れたぶっ飛んび少年エリクが、ドラゴンやフェンリルたちと気ままに旅先を決めるという物語。
- この話はフィクションです。
- カクヨム様でも連載しています。

転生したら貴族の息子の友人A(庶民)になりました。
襲
ファンタジー
〈あらすじ〉
信号無視で突っ込んできたトラックに轢かれそうになった子どもを助けて代わりに轢かれた俺。
目が覚めると、そこは異世界!?
あぁ、よくあるやつか。
食堂兼居酒屋を営む両親の元に転生した俺は、庶民なのに、領主の息子、つまりは貴族の坊ちゃんと関わることに……
面倒ごとは御免なんだが。
魔力量“だけ”チートな主人公が、店を手伝いながら、学校で学びながら、冒険もしながら、領主の息子をからかいつつ(オイ)、のんびり(できたらいいな)ライフを満喫するお話。
誤字脱字の訂正、感想、などなど、お待ちしております。
やんわり決まってるけど、大体行き当たりばったりです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる