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第三章 未成熟者たちの葛藤
Ⅱ 既視感
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夕方近くなって、ユリウスは錬金術師の家へと向かっていた。
皇子との約束を守り書類の仕分けを手伝ったことで、予定より早く任務を終えることができたのだ。屋敷に帰ると、ちょうどジークベルトが本を読みに来ていたから、久しぶりにゆっくり話でもしようかと思った矢先にカタリーナに捕まった。
「早く帰ってきたのなら、ウーリを迎えに行きなさい」
迎えに行けというのは、ウリカを自分のところに連れて来い、という意味だ。
面倒くさくはあったが、あの母親に逆らうのは容易ではない。それに、ウリカを連れていくことはユリウスなりにメリットもある。だから多少は気持ちを前へ向けることができた。
目的地に到着して呼び鈴を鳴らすと、先日と同じように砂色の髪の錬金術師が姿を見せた。こちらを見るなり、心得た様子でウリカを呼びにいってくれる察しの良さはありがたい。
しかし玄関までやってきた従妹の開口一番は実に不快なものだった。
「ユリウスって、ひょっとしてヒマなの?」
「せっかくできた余剰時間を潰される程度には忙しい」
反射的に嫌味で返してしまうくらいは許してほしいものだ。こちらは家に帰るなり、休む暇もなくここまで来たのだから。
横でウィリアムが笑っている。なんだかとても疲れた気分で、思わずため息がもれた。
「母上のためだから仕方ない」
「カタリーナ様の?」
「ああ。一昨日ウーリに会って、少しは気が紛れたみたいだったからな」
「そう……」
ぽかんとした表情で気のない声を吐きだしてから、ウリカはふわりと微笑んだ。
「そっか……良かった」
彼女なりにカタリーナを心配してくれていたらしい。安堵とともに自分が役立てたことを喜んでいるようで、それはユリウスとしても素直に嬉しかった。
夫エーリッヒを亡くしてから、カタリーナは目に見えて調子を崩していた。気丈に振る舞ってはいるが、いつもの力強さが感じられない。息子のユリウスには虚勢を張って弱さを見せようとしないものだから、対応に苦慮していた。
しかし先日ウリカと久しぶりに会ったあと、母の表情には本来の明るさが幾分か戻っていたのである。従妹の無邪気さが羨ましいと同時に、とてもありがたかった。
だからこうして迎えに来るのは、面倒ではあっても嫌とは思えないのだ。
「それなら、時間があるときになるべく会いに行くようにするわ」
「ああ。そうしてくれると助かる」
それはそれとして、気のなることがひとつある。
「ところで、さっきから後ろに誰を隠してるんだ?」
「へ?」
実はウリカが来たときからずっと気になっていたのだが、彼女の背後にぴったりとくっつく人の気配があった。体格から子供だろうとは思うのだが、後ろに隠れたまま顔すら出さないのが、なんとも奇妙だった。
当のウリカはどうやら気づいていなかったらしく、間抜けな声を上げて、後ろを振り向いた。いまだユリウスからは、隠れた人物の姿が見えない。
「いつの間に?」
「ずっとお前の後ろにいたぞ。注意力散漫じゃないのか」
呆れた口調で忠告を飛ばすと、従妹の少女はむっとして顔をしかめた。
「ユリウスが日頃から無駄に気を張り詰めすぎなのよ」
「悪いが、いとこゲンカは帰ってからにしてもらえるか」
睨みあいが始まろうとしたところに待ったをかけたのは、迷惑そうな表情を浮かべた錬金術師の一言だった。
このウィリアムという男は、面白いくらい真っ直ぐに言葉や態度をぶつけてくる。貴族に対して、これほど裏表なくものを言う人間は珍しい。それが果たして無関心ゆえのものなのかが気になるところだ。
「騒がせて申し訳ない。今日はこのまま従妹を引きとってもいいだろうか?」
「俺はそれで構わないが……」
錬金術師が視線を移動させた先には、ウリカと、その後ろに隠れた誰かがいる。
「私もそれでいいけど、この子はどうすればいいかしら……」
ウリカは少し困ったように眉根を寄せて、後ろに隠れていた人物を力任せにずずいと押しだした。見た目に反して馬鹿力なのは相変わらずだ。服の下に隠れた彼女の腕には、剣術によって鍛えられた筋肉がしっかりとついている。
不意を突かれたように前面へと立たされたのは、十歳前後と思われる女の子だった。きれいな瑠璃色の瞳と一瞬だけ目が合う。少女が慌てたように顔を伏せると、浅紫の髪の毛がさらりと揺れて、その顔に影を落とした。
ユリウスは既視感を覚える。
「どこかで、会ったことがないか?」
気づいたときには、そんな言葉が口をついていた。
「えっ?」と反応したのは、従妹の少女のほうだった。彼女は一瞬呆気にとられてから、口元にそっと手を当てると、大げさに目を見開く。
「ユリウスってば、こんな所でナンパ?」
ぱしんっ。
「痛っ!」
馬鹿なことを言うものだから、反射的に従妹の頭を平手打ちしてしまった。
「紳士と名高いベルツ伯爵ともあろう人が、なんて乱暴なっ!」
なおもからかい半分に抗議をするので、今度は少女の頭に片手を乗せて、ワシャワシャと掻きまわしてやる。
「ちょっ、何するのっ! 痛い痛い!」
ウリカは両手をバタバタと動かしながら叫んだ。
これでもちゃんと手加減はしている。大げさに痛がる従妹から手を離して、半眼のまま睨みつける。
「お前がくだらない冗談を言うからだろう。あと、俺は紳士を気どった覚えはない」
不服そうに頬をふくらませながらも言葉を返せず押し黙る従妹の姿に満足したユリウスは、あらためて小さな少女を見下ろした。
「それで……この子は誰なんだ? 見たところ平民の子供ではないようだが」
「それが……分からなくて……」
「分からない?」
「今朝、街の倉庫街で会った子なんだけど、家名を言いたがらないのよ」
そう言って、ウリカは首をかしげる。
「名前は聞いたのか?」
「ジルケって名乗っているけど、それも本名かは知らないわ。追求しても、答えてもらえそうになかったから」
ウリカが追求を諦めたということは、それだけ少女の態度が頑なだったのだろう。そうまでして家名を伏せるのには、なにかしらの事情があるとみて間違いない。
いわゆる訳ありということなのだろうが、厄介事のにおいが漂ってきて、正直イヤな予感しかしない。
ユリウスは深いため息をついた。
「好奇心旺盛なのは知っていたが、ここまでトラブル好きだとは思っていなかった……」
肩を落とすユリウスに、ウリカからの反論はない。ただ憮然とした表情だけがそこにはあった。その反応が少し想定外で、思わず首をかしげる。すでにウィリアムから似たような発言を受けていたことなど、ユリウスは知る由もない。
「ああ、思いだした」
唐突にそんな声が響いて、場にいた全員の視線が声の主へと集まる。注目を浴びた錬金術師は、特に感情を見せるでもなく言葉を続けた。
「初めて伯爵に会ったとき、どこかで会ったことがあるような気がしたんだが……」
「えっ? ウィリアムさんまでナンパですか?」
ぺしんっ。
「痛っ!」
ウィリアムから平手が飛んだ。懲りない令嬢である。
平手を放った当人は、何事もなかったように話を続行した。
「昔、先代のベルツ伯爵に会ったことがあるのを思いだしたんだ」
「父に……?」
街外れに住む錬金術師と、父エーリッヒがどこで会う機会を得たのかと不思議に思って、首をひねる。
「ウィリアムさんのスポンサーがお父様なのよ。その伝手で会う機会があったんじゃないかな」
後頭部をさすりながら、ウリカが教えてくれた。
「ああ、なるほど……そうか」
妙に得心がいった。ユリウスの容姿的特徴は父譲りだ。髪や瞳の色が全く同じで、顔立ちもどうやら似ているらしい。周囲から父親に似ていると何度言われたか分からない。だからウィリアムの記憶が混同したのだとしても不思議ではない。ならば少女に対して抱いた既視感も、それと類似のものかもしれない。
「何にせよ、彼女をここに置いていくわけにはいかないだろうから、一緒に送っていこう」
「そうしてもらえると助かる」
ウィリアムは心底ほっとした様子で吐息する。厄介事のにおいを彼も感じとっているのだろう。
「そういうことだから、どこに送ればいいか教えてもらえる?」
ウリカが上体をかがめ、少女と視線を合わせながら尋ねた。警戒心を和らげるように、気軽な口調を意識しているのが分かる。
他人に心を開かせる会話はウリカのほうが得意だ。ここは従妹に任せて、状況を見守ることにした。
「……西門広場まで送ってくれれば、それで良い」
ウリカの態度が功を奏したのか、少し緊張を和らげた様子で、口を閉ざしていた少女が言葉を返した。
貴族領と市井の間を隔てる壁には、正門、西門、東門という三つの出入り口がある。西門広場は、貴族領内の西門近くにある馬車停留場を指す。主に商業用の馬車が骨休めをするために使われる場所だ。
「そう……もう夕刻も近いし、できればお家まで送ってあげたいのだけれど、家の場所は分からない?」
「西門広場まで送ってもらえれば、そこからは一人で帰れるから大丈夫だ」
ウリカは少し困ったように眉根を寄せる。
「あなたを一人で返して、もし万が一のことがあれば、私たちはきっと後悔してしまうと思うの。だからきちんと家まで送らせてほしいのだけれど、駄目かしら?」
優しく諭すウリカに、少女は少しだけひるむ様子を見せた。しかし首を縦に振ることはなく、その態度はどこまでも頑なだった。
「西門広場に迎えが来ることになっているから、大丈夫だ」
ウリカは上体を起こすと、ユリウスに向かって肩を竦めた。これ以上は無理、という無言の意思表示だろう。
ユリウスは小さく吐息する。
「仕方がない。それなら、とりあえずは西門広場まで送っていこう」
まずはそこまで行ってみて、迎えの姿が見当たらなければ、その時また考える。今はそうするしかないだろう。
ウリカが小さくうなずいたあと、はっとしたように声を上げた。
「私、今日は馬で来ちゃったんだけど……」
馬車で帰るとしても、自分の馬をここに置いていくわけにはいかない。それを懸念しているのだろう。
「そう聞いたから、今日は俺も馬で来たんだ」
ちょうど屋敷に来ていたジークベルトが教えてくれて助かった。でなければ、せっかく迎えに来たのに、ウリカだけ馬で移動するというちぐはぐな事態になっていただろう。
「そっか。じゃあ、ジルケはどちらかの馬に乗せて行けばいいわね。ジルケはどっちがいい?」
「……ウーリがいい」
この少女は何故かユリウスのことを猛警戒しているようだ。今もウリカの影に隠れながら、ぽそりと答えている。
だが逆にいえば、ウリカのことは信頼しているということだ。
「ずい分と仲良くなったんだな」
「そんなことはないと思うけど……」
無自覚に人を惹きつけるのは、ウリカが持つ長所のひとつだろう。こういうところは、母親のクリスティーネによく似ている。
ともあれ、話がまとまったところで、ユリウスたちは錬金術師の家を出て、西門広場へと向かった。
夕刻が近づいていることもあって、本来なら馬を飛ばして急ぎたいところではあったが、ジルケを乗せている関係上、あまり無茶はできない。少し抑え目に馬を走らせて、それでもなんとか日暮れ前には西門広場に辿り着くことができた。
広場には複数の馬車が停留しており、遠目からでもその光景が確認できる。
西門広場が見えてきたところで足を緩めると、ジルケが馬から飛び降りて、馬車のほうへと駆けだした。
「あっ! ちょっと!」
ウリカが慌てて呼びかけるが、少女の足は止まらない。
速度を落としたあととはいえ、馬上から飛び降りるなんて無茶ぶりもいいところだ。少女がそこまでするのは、やはりよほどの事情を抱えているからとしか思えなかった。
ジルケは広場の入口近くにいる馬車に駆け寄ると、御者台に座る男と何やら会話を交わして、そのまま馬車の中へと乗り込んでいく。御者台の男と親しげな様子ではあった。
「とりあえず、大丈夫そうね」
ウリカが安心した様子で微笑む。
だがユリウスは、複雑な心境で馬車の紋章を睨んでいた。
貴族領には、その中心部から十時方向に連なる商業通りがある。これは交通や流通の便を考えてのものだと言われている。そうした作りの関係上、貴族たちの居住区は、東北地区、東南地区、西北地区、西南地区の四区画に分かれている。
ベルツ伯爵の屋敷は、東北地区の一角にあった。
屋敷の内装は、派手さを抑えつつも貧相な見目にならないよう最大限に気を遣われている。壁紙は白地にセピアのボタニカル柄のものがメインで使われており、柄の派手さがセピア色によって引き締められている印象だ。その分、絵画や彫刻などの調度品で程よく色味が加えられており、その配置の妙によって優雅さを演出されていた。そしてそれは、女主人であるカタリーナの手腕によるものだった。
そんなベルツ邸で最も地味といえるのが書斎かもしれない。
書斎は主に本を所蔵しておく役割を持ち、全壁面に本棚が設置されている。壁紙は無地の若草色。調度品は最小限に抑えられている。落ち着いた雰囲気が特徴の部屋で、家族や親しい者とのくつろぎの場として使われることが多い。
その書斎の中で、ジークベルトは本を物色していた。
先日ユリウスに許可をもらったので、さっそくベルツ邸まで本を読みに来たのだ。あのときの言葉通り、執事のハインリヒに話を通してくれたらしい。訪ねてすぐに書斎へと案内してもらえた。
そしてユリウスの言を証明するように、シルヴァーベルヒ邸にはない書物が溢れている。中でも戦略・戦術論といった軍事に関する本が多いのは、ベルツ家が軍人の家系だからだろうか。
ジークベルトは父や姉と違い、剣術に長けているわけでもないため、軍事関連の読み物にはあまり興味がなかった。それでもいざ読み始めてみると、政治や経済と密接に結びついていることが分かって面白かった。
そうして読み耽っているうちに、気づくと夕刻近くになっており、ハインリヒの勧めもあって、数冊借りていくことにしたのである。
気になったものを三冊ほど選んでから書斎を出る。螺旋状の階段を下りて玄関ホールに向かうと、ハインリヒに声をかけられた。
「馬車の準備が整っております」
「ありがとうございます」
用意周到な執事の仕事ぶりに感心しているところに、ユリウスたちが帰ってきた。
「お帰りなさいませ旦那様」
「ごきげんようハインリヒ」
上機嫌で挨拶するウリカに、ハインリヒは頭を下げる。
「ようこそお越しくださいましたウリカ様。ジークベルト様を馬車までお見送りして参りますので、申し訳ありませんが、少々お待ちいただけますでしょうか」
「いや、ジークは俺が送っていくから、ハインツはウーリの案内を頼む」
「承知いたしました。では、ウリカ様。こちらへ」
ジークベルトが口をさし挟む間もなく、二人の会話はとんとんと進んでしまい、ハインリヒはウリカを伴って行ってしまった。
「じゃあ、行こうか」
さらりとそう促され、ジークベルトは慌てて従兄に声をかける。
「いえ、ユリウス兄さんはお疲れでしょう? 僕は一人で大丈夫ですから」
ただでさえ帰ってくるなりウリカの迎えに行かされて、碌に休めていないはずだ。気にかけてもらえるのはもちろん嬉しいが、負担になりたいわけではない。ここは丁重にお断りしなければと首を振る。
しかしユリウスは素知らぬ顔でジークベルトの手元を覗き込んできた。
「『戦史経済学概論』か……戦いの流れが経済学の視点から解説されていて、勉強になるんだよな」
そう言って、従弟が両手に抱えている本のひとつをひょいと持ち上げる。
ジークベルトは条件反射のように瞳を輝かせた。
「戦略や戦術も、意外と経済や政治と切り離せない部分が多くて面白いですよね」
尊敬する従兄の口から自分の考えと類似した感想が飛びだし、つい嬉しくなって興奮気味に応じてしまった。その間にもユリウスは他の本をジークベルトの腕から拾い上げ、そのタイトルを確認していく。
「目の付け所がさすがだな、ジーク」
「いえ、そんなこと……」
どうもこの従兄はジークベルトを甘やかす嫌いがある。つけ上がってしまいそうになるから、手放しで褒めるのはやめてもらいたいものだ。思わずにやけそうになる頬を手で押さえたところで、ふと自分の手が空になっていることに気づいた。
よく見れば、先ほどまで腕に抱えていたはずの本をすべてユリウスに取られてしまっている。
「行くぞ、ジーク」
にやりと誠実さに欠ける笑みを浮かべて歩きだす従兄の姿に、失態を悟ったジークベルトは力なく天井を仰ぐのだった。
シルヴァーベルヒ邸までの道を馬車に揺られながら進んでいく。外は少しずつ暗くなり始めていた。
「ユリウス兄さんって、ときどき強引ですよね」
ジークベルトは対面に座るユリウスに複雑な眼差しを向ける。
敬愛する従兄と一緒に馬車に揺られる心地よさと、忙しいなかで時間を割いてもらう申し訳なさと、いいように振り回されてしまった悔しさが同居した末の表情だった。
「ジークは気を遣いすぎだ。そう頑なに遠慮されると、信頼されていないのかと心配になる」
「その言い方は、ずるいです……」
反論を効果的に封じられて、負け惜しみのように唇を尖らせると、ユリウスは声を上げて笑った。親しい者にしか見せない砕けた表情だ。ジークベルトも釣られて笑顔になる。
「でも本当に、もうちょっと年相応に甘えてもいいんじゃないか?」
「そうは言っても、来年は僕も成人ですし、いつまでも子供のままではいられません」
執拗に甘やかそうとしてくる従兄に、ジークベルトは反論する。
この国では十四歳になれば立派な大人だ。ジークベルトの場合は来年の社交シーズン中に十四歳を迎えるから、そうしたらそのままお披露目となるだろう。
「魔術学校には通わないのか?」
魔術学校は皇宮内にある皇立の魔術師育成施設だ。士官学校に並ぶ人材育成機関であり、魔術に関連した研究所も備えている。研究所内の人事は魔術学校の卒業生が優遇されるため、研究に携わりたい者にとっては無視できない存在でもあるわけだ。
ジークベルトが研究の類いを好みそうだと思っての質問なのだろう。
「そうですね。魔術自体は独学でも十分使えるようにはなるから、あえて学校で学ぶ必要はないし、研究施設に惹かれるものがあるのは確かだけど、皇立だとどうしても研究の内容や費用に制限がかかるから……それなら民間の研究施設を自分で立ち上げるほうがいいかな、と思います」
「自分で、か……大胆な発想をする」
感心しながらも、どこか苦笑するような口調でユリウスは応じた。
「立ち上げ資金と先行投資分さえ用意できれば、あとの費用はどうとでも捻出できると思うんです。それに皇立の研究施設よりも自由な発想で研究を進めることができるから、新しい発見も多いんじゃないかと予想しています。そうした新しいものの情報は、うまく使えれば大きな儲けにも繋がりますから……あと、最近は財務官府が費用を出し渋っていて、あちらは大変らしいですし」
最後は冗談めかして肩を竦める。
「そんな宮中の内情まで、よく知っているな」
「使用人たちの噂話は、貴族たちがする噂よりもよっぽど精度が高いんですよ」
貴族たちは互いに牽制しあい、自分に都合のいい話だけをしたがる。その分、噂話もより歪曲しやすい。
だが、自分の屋敷ではつい気を抜いてしまうものだ。使用人を便利な駒程度にしか思っていない貴族なら尚のことである。使用人が聞き耳を立てていることに気づかず、本音を吐露してしまうのだ。
そして使用人たちには、意外と幅広いネットワークがある。彼らの口から口へと伝って、はるか遠い屋敷にまで情報が届いてしまったりもする。幅広く多人数で情報を共有する分、齟齬も少ない。
だからジークベルトは、彼らに隙を見せず、かつ彼らの隙をついて情報を引きだすのだ。
「そうか……意外なところに情報が転がってるものなんだな」
思案顔でユリウスは呟く。
ジークベルトがこの従兄を尊敬するのは、誠実な人柄というのが第一の理由ではあるが、一方でこうした思慮深さを持ちあわせているのも大きな要因といえる。
同じ話をしても、大抵の貴族は呆れて笑うか、馬鹿にしたように鼻を鳴らすかのどちらかだ。そうやって嘲笑する者のほとんどが分かっていない。
「どんな時、どんな場面でも、情報は最大の武器ですからね」
それがジークベルトの持論であり、父の背中から学んだことだ。ステファンはとにかく情報を重視し、かつその鮮度すらも気にかける。その姿を見続けて、ジークベルトだけでなく、ウリカも自然とその重要性を学んでいったのだ。
シルヴァーベルヒ家の子供たちが強制されなくても積極的に学問にとり組むのには、そうした背景がある。
「時々、思うことがある……」
ユリウスは少し困ったような顔で、こちらを見る。
「皇宮で働いているとき、側にジークがいてくれれば、とね……情けない話ではあるが」
自嘲気味に肩を竦めるユリウスに、ジークベルトは無邪気な笑顔を浮かべた。
「ユリウス兄さんの側で働けるなら、皇宮仕えも悪くないかもしれませんね」
この軽口が、後に自分の行く末を大きく変えていくことになるとは、夢にも思わないジークベルトであった。
皇子との約束を守り書類の仕分けを手伝ったことで、予定より早く任務を終えることができたのだ。屋敷に帰ると、ちょうどジークベルトが本を読みに来ていたから、久しぶりにゆっくり話でもしようかと思った矢先にカタリーナに捕まった。
「早く帰ってきたのなら、ウーリを迎えに行きなさい」
迎えに行けというのは、ウリカを自分のところに連れて来い、という意味だ。
面倒くさくはあったが、あの母親に逆らうのは容易ではない。それに、ウリカを連れていくことはユリウスなりにメリットもある。だから多少は気持ちを前へ向けることができた。
目的地に到着して呼び鈴を鳴らすと、先日と同じように砂色の髪の錬金術師が姿を見せた。こちらを見るなり、心得た様子でウリカを呼びにいってくれる察しの良さはありがたい。
しかし玄関までやってきた従妹の開口一番は実に不快なものだった。
「ユリウスって、ひょっとしてヒマなの?」
「せっかくできた余剰時間を潰される程度には忙しい」
反射的に嫌味で返してしまうくらいは許してほしいものだ。こちらは家に帰るなり、休む暇もなくここまで来たのだから。
横でウィリアムが笑っている。なんだかとても疲れた気分で、思わずため息がもれた。
「母上のためだから仕方ない」
「カタリーナ様の?」
「ああ。一昨日ウーリに会って、少しは気が紛れたみたいだったからな」
「そう……」
ぽかんとした表情で気のない声を吐きだしてから、ウリカはふわりと微笑んだ。
「そっか……良かった」
彼女なりにカタリーナを心配してくれていたらしい。安堵とともに自分が役立てたことを喜んでいるようで、それはユリウスとしても素直に嬉しかった。
夫エーリッヒを亡くしてから、カタリーナは目に見えて調子を崩していた。気丈に振る舞ってはいるが、いつもの力強さが感じられない。息子のユリウスには虚勢を張って弱さを見せようとしないものだから、対応に苦慮していた。
しかし先日ウリカと久しぶりに会ったあと、母の表情には本来の明るさが幾分か戻っていたのである。従妹の無邪気さが羨ましいと同時に、とてもありがたかった。
だからこうして迎えに来るのは、面倒ではあっても嫌とは思えないのだ。
「それなら、時間があるときになるべく会いに行くようにするわ」
「ああ。そうしてくれると助かる」
それはそれとして、気のなることがひとつある。
「ところで、さっきから後ろに誰を隠してるんだ?」
「へ?」
実はウリカが来たときからずっと気になっていたのだが、彼女の背後にぴったりとくっつく人の気配があった。体格から子供だろうとは思うのだが、後ろに隠れたまま顔すら出さないのが、なんとも奇妙だった。
当のウリカはどうやら気づいていなかったらしく、間抜けな声を上げて、後ろを振り向いた。いまだユリウスからは、隠れた人物の姿が見えない。
「いつの間に?」
「ずっとお前の後ろにいたぞ。注意力散漫じゃないのか」
呆れた口調で忠告を飛ばすと、従妹の少女はむっとして顔をしかめた。
「ユリウスが日頃から無駄に気を張り詰めすぎなのよ」
「悪いが、いとこゲンカは帰ってからにしてもらえるか」
睨みあいが始まろうとしたところに待ったをかけたのは、迷惑そうな表情を浮かべた錬金術師の一言だった。
このウィリアムという男は、面白いくらい真っ直ぐに言葉や態度をぶつけてくる。貴族に対して、これほど裏表なくものを言う人間は珍しい。それが果たして無関心ゆえのものなのかが気になるところだ。
「騒がせて申し訳ない。今日はこのまま従妹を引きとってもいいだろうか?」
「俺はそれで構わないが……」
錬金術師が視線を移動させた先には、ウリカと、その後ろに隠れた誰かがいる。
「私もそれでいいけど、この子はどうすればいいかしら……」
ウリカは少し困ったように眉根を寄せて、後ろに隠れていた人物を力任せにずずいと押しだした。見た目に反して馬鹿力なのは相変わらずだ。服の下に隠れた彼女の腕には、剣術によって鍛えられた筋肉がしっかりとついている。
不意を突かれたように前面へと立たされたのは、十歳前後と思われる女の子だった。きれいな瑠璃色の瞳と一瞬だけ目が合う。少女が慌てたように顔を伏せると、浅紫の髪の毛がさらりと揺れて、その顔に影を落とした。
ユリウスは既視感を覚える。
「どこかで、会ったことがないか?」
気づいたときには、そんな言葉が口をついていた。
「えっ?」と反応したのは、従妹の少女のほうだった。彼女は一瞬呆気にとられてから、口元にそっと手を当てると、大げさに目を見開く。
「ユリウスってば、こんな所でナンパ?」
ぱしんっ。
「痛っ!」
馬鹿なことを言うものだから、反射的に従妹の頭を平手打ちしてしまった。
「紳士と名高いベルツ伯爵ともあろう人が、なんて乱暴なっ!」
なおもからかい半分に抗議をするので、今度は少女の頭に片手を乗せて、ワシャワシャと掻きまわしてやる。
「ちょっ、何するのっ! 痛い痛い!」
ウリカは両手をバタバタと動かしながら叫んだ。
これでもちゃんと手加減はしている。大げさに痛がる従妹から手を離して、半眼のまま睨みつける。
「お前がくだらない冗談を言うからだろう。あと、俺は紳士を気どった覚えはない」
不服そうに頬をふくらませながらも言葉を返せず押し黙る従妹の姿に満足したユリウスは、あらためて小さな少女を見下ろした。
「それで……この子は誰なんだ? 見たところ平民の子供ではないようだが」
「それが……分からなくて……」
「分からない?」
「今朝、街の倉庫街で会った子なんだけど、家名を言いたがらないのよ」
そう言って、ウリカは首をかしげる。
「名前は聞いたのか?」
「ジルケって名乗っているけど、それも本名かは知らないわ。追求しても、答えてもらえそうになかったから」
ウリカが追求を諦めたということは、それだけ少女の態度が頑なだったのだろう。そうまでして家名を伏せるのには、なにかしらの事情があるとみて間違いない。
いわゆる訳ありということなのだろうが、厄介事のにおいが漂ってきて、正直イヤな予感しかしない。
ユリウスは深いため息をついた。
「好奇心旺盛なのは知っていたが、ここまでトラブル好きだとは思っていなかった……」
肩を落とすユリウスに、ウリカからの反論はない。ただ憮然とした表情だけがそこにはあった。その反応が少し想定外で、思わず首をかしげる。すでにウィリアムから似たような発言を受けていたことなど、ユリウスは知る由もない。
「ああ、思いだした」
唐突にそんな声が響いて、場にいた全員の視線が声の主へと集まる。注目を浴びた錬金術師は、特に感情を見せるでもなく言葉を続けた。
「初めて伯爵に会ったとき、どこかで会ったことがあるような気がしたんだが……」
「えっ? ウィリアムさんまでナンパですか?」
ぺしんっ。
「痛っ!」
ウィリアムから平手が飛んだ。懲りない令嬢である。
平手を放った当人は、何事もなかったように話を続行した。
「昔、先代のベルツ伯爵に会ったことがあるのを思いだしたんだ」
「父に……?」
街外れに住む錬金術師と、父エーリッヒがどこで会う機会を得たのかと不思議に思って、首をひねる。
「ウィリアムさんのスポンサーがお父様なのよ。その伝手で会う機会があったんじゃないかな」
後頭部をさすりながら、ウリカが教えてくれた。
「ああ、なるほど……そうか」
妙に得心がいった。ユリウスの容姿的特徴は父譲りだ。髪や瞳の色が全く同じで、顔立ちもどうやら似ているらしい。周囲から父親に似ていると何度言われたか分からない。だからウィリアムの記憶が混同したのだとしても不思議ではない。ならば少女に対して抱いた既視感も、それと類似のものかもしれない。
「何にせよ、彼女をここに置いていくわけにはいかないだろうから、一緒に送っていこう」
「そうしてもらえると助かる」
ウィリアムは心底ほっとした様子で吐息する。厄介事のにおいを彼も感じとっているのだろう。
「そういうことだから、どこに送ればいいか教えてもらえる?」
ウリカが上体をかがめ、少女と視線を合わせながら尋ねた。警戒心を和らげるように、気軽な口調を意識しているのが分かる。
他人に心を開かせる会話はウリカのほうが得意だ。ここは従妹に任せて、状況を見守ることにした。
「……西門広場まで送ってくれれば、それで良い」
ウリカの態度が功を奏したのか、少し緊張を和らげた様子で、口を閉ざしていた少女が言葉を返した。
貴族領と市井の間を隔てる壁には、正門、西門、東門という三つの出入り口がある。西門広場は、貴族領内の西門近くにある馬車停留場を指す。主に商業用の馬車が骨休めをするために使われる場所だ。
「そう……もう夕刻も近いし、できればお家まで送ってあげたいのだけれど、家の場所は分からない?」
「西門広場まで送ってもらえれば、そこからは一人で帰れるから大丈夫だ」
ウリカは少し困ったように眉根を寄せる。
「あなたを一人で返して、もし万が一のことがあれば、私たちはきっと後悔してしまうと思うの。だからきちんと家まで送らせてほしいのだけれど、駄目かしら?」
優しく諭すウリカに、少女は少しだけひるむ様子を見せた。しかし首を縦に振ることはなく、その態度はどこまでも頑なだった。
「西門広場に迎えが来ることになっているから、大丈夫だ」
ウリカは上体を起こすと、ユリウスに向かって肩を竦めた。これ以上は無理、という無言の意思表示だろう。
ユリウスは小さく吐息する。
「仕方がない。それなら、とりあえずは西門広場まで送っていこう」
まずはそこまで行ってみて、迎えの姿が見当たらなければ、その時また考える。今はそうするしかないだろう。
ウリカが小さくうなずいたあと、はっとしたように声を上げた。
「私、今日は馬で来ちゃったんだけど……」
馬車で帰るとしても、自分の馬をここに置いていくわけにはいかない。それを懸念しているのだろう。
「そう聞いたから、今日は俺も馬で来たんだ」
ちょうど屋敷に来ていたジークベルトが教えてくれて助かった。でなければ、せっかく迎えに来たのに、ウリカだけ馬で移動するというちぐはぐな事態になっていただろう。
「そっか。じゃあ、ジルケはどちらかの馬に乗せて行けばいいわね。ジルケはどっちがいい?」
「……ウーリがいい」
この少女は何故かユリウスのことを猛警戒しているようだ。今もウリカの影に隠れながら、ぽそりと答えている。
だが逆にいえば、ウリカのことは信頼しているということだ。
「ずい分と仲良くなったんだな」
「そんなことはないと思うけど……」
無自覚に人を惹きつけるのは、ウリカが持つ長所のひとつだろう。こういうところは、母親のクリスティーネによく似ている。
ともあれ、話がまとまったところで、ユリウスたちは錬金術師の家を出て、西門広場へと向かった。
夕刻が近づいていることもあって、本来なら馬を飛ばして急ぎたいところではあったが、ジルケを乗せている関係上、あまり無茶はできない。少し抑え目に馬を走らせて、それでもなんとか日暮れ前には西門広場に辿り着くことができた。
広場には複数の馬車が停留しており、遠目からでもその光景が確認できる。
西門広場が見えてきたところで足を緩めると、ジルケが馬から飛び降りて、馬車のほうへと駆けだした。
「あっ! ちょっと!」
ウリカが慌てて呼びかけるが、少女の足は止まらない。
速度を落としたあととはいえ、馬上から飛び降りるなんて無茶ぶりもいいところだ。少女がそこまでするのは、やはりよほどの事情を抱えているからとしか思えなかった。
ジルケは広場の入口近くにいる馬車に駆け寄ると、御者台に座る男と何やら会話を交わして、そのまま馬車の中へと乗り込んでいく。御者台の男と親しげな様子ではあった。
「とりあえず、大丈夫そうね」
ウリカが安心した様子で微笑む。
だがユリウスは、複雑な心境で馬車の紋章を睨んでいた。
貴族領には、その中心部から十時方向に連なる商業通りがある。これは交通や流通の便を考えてのものだと言われている。そうした作りの関係上、貴族たちの居住区は、東北地区、東南地区、西北地区、西南地区の四区画に分かれている。
ベルツ伯爵の屋敷は、東北地区の一角にあった。
屋敷の内装は、派手さを抑えつつも貧相な見目にならないよう最大限に気を遣われている。壁紙は白地にセピアのボタニカル柄のものがメインで使われており、柄の派手さがセピア色によって引き締められている印象だ。その分、絵画や彫刻などの調度品で程よく色味が加えられており、その配置の妙によって優雅さを演出されていた。そしてそれは、女主人であるカタリーナの手腕によるものだった。
そんなベルツ邸で最も地味といえるのが書斎かもしれない。
書斎は主に本を所蔵しておく役割を持ち、全壁面に本棚が設置されている。壁紙は無地の若草色。調度品は最小限に抑えられている。落ち着いた雰囲気が特徴の部屋で、家族や親しい者とのくつろぎの場として使われることが多い。
その書斎の中で、ジークベルトは本を物色していた。
先日ユリウスに許可をもらったので、さっそくベルツ邸まで本を読みに来たのだ。あのときの言葉通り、執事のハインリヒに話を通してくれたらしい。訪ねてすぐに書斎へと案内してもらえた。
そしてユリウスの言を証明するように、シルヴァーベルヒ邸にはない書物が溢れている。中でも戦略・戦術論といった軍事に関する本が多いのは、ベルツ家が軍人の家系だからだろうか。
ジークベルトは父や姉と違い、剣術に長けているわけでもないため、軍事関連の読み物にはあまり興味がなかった。それでもいざ読み始めてみると、政治や経済と密接に結びついていることが分かって面白かった。
そうして読み耽っているうちに、気づくと夕刻近くになっており、ハインリヒの勧めもあって、数冊借りていくことにしたのである。
気になったものを三冊ほど選んでから書斎を出る。螺旋状の階段を下りて玄関ホールに向かうと、ハインリヒに声をかけられた。
「馬車の準備が整っております」
「ありがとうございます」
用意周到な執事の仕事ぶりに感心しているところに、ユリウスたちが帰ってきた。
「お帰りなさいませ旦那様」
「ごきげんようハインリヒ」
上機嫌で挨拶するウリカに、ハインリヒは頭を下げる。
「ようこそお越しくださいましたウリカ様。ジークベルト様を馬車までお見送りして参りますので、申し訳ありませんが、少々お待ちいただけますでしょうか」
「いや、ジークは俺が送っていくから、ハインツはウーリの案内を頼む」
「承知いたしました。では、ウリカ様。こちらへ」
ジークベルトが口をさし挟む間もなく、二人の会話はとんとんと進んでしまい、ハインリヒはウリカを伴って行ってしまった。
「じゃあ、行こうか」
さらりとそう促され、ジークベルトは慌てて従兄に声をかける。
「いえ、ユリウス兄さんはお疲れでしょう? 僕は一人で大丈夫ですから」
ただでさえ帰ってくるなりウリカの迎えに行かされて、碌に休めていないはずだ。気にかけてもらえるのはもちろん嬉しいが、負担になりたいわけではない。ここは丁重にお断りしなければと首を振る。
しかしユリウスは素知らぬ顔でジークベルトの手元を覗き込んできた。
「『戦史経済学概論』か……戦いの流れが経済学の視点から解説されていて、勉強になるんだよな」
そう言って、従弟が両手に抱えている本のひとつをひょいと持ち上げる。
ジークベルトは条件反射のように瞳を輝かせた。
「戦略や戦術も、意外と経済や政治と切り離せない部分が多くて面白いですよね」
尊敬する従兄の口から自分の考えと類似した感想が飛びだし、つい嬉しくなって興奮気味に応じてしまった。その間にもユリウスは他の本をジークベルトの腕から拾い上げ、そのタイトルを確認していく。
「目の付け所がさすがだな、ジーク」
「いえ、そんなこと……」
どうもこの従兄はジークベルトを甘やかす嫌いがある。つけ上がってしまいそうになるから、手放しで褒めるのはやめてもらいたいものだ。思わずにやけそうになる頬を手で押さえたところで、ふと自分の手が空になっていることに気づいた。
よく見れば、先ほどまで腕に抱えていたはずの本をすべてユリウスに取られてしまっている。
「行くぞ、ジーク」
にやりと誠実さに欠ける笑みを浮かべて歩きだす従兄の姿に、失態を悟ったジークベルトは力なく天井を仰ぐのだった。
シルヴァーベルヒ邸までの道を馬車に揺られながら進んでいく。外は少しずつ暗くなり始めていた。
「ユリウス兄さんって、ときどき強引ですよね」
ジークベルトは対面に座るユリウスに複雑な眼差しを向ける。
敬愛する従兄と一緒に馬車に揺られる心地よさと、忙しいなかで時間を割いてもらう申し訳なさと、いいように振り回されてしまった悔しさが同居した末の表情だった。
「ジークは気を遣いすぎだ。そう頑なに遠慮されると、信頼されていないのかと心配になる」
「その言い方は、ずるいです……」
反論を効果的に封じられて、負け惜しみのように唇を尖らせると、ユリウスは声を上げて笑った。親しい者にしか見せない砕けた表情だ。ジークベルトも釣られて笑顔になる。
「でも本当に、もうちょっと年相応に甘えてもいいんじゃないか?」
「そうは言っても、来年は僕も成人ですし、いつまでも子供のままではいられません」
執拗に甘やかそうとしてくる従兄に、ジークベルトは反論する。
この国では十四歳になれば立派な大人だ。ジークベルトの場合は来年の社交シーズン中に十四歳を迎えるから、そうしたらそのままお披露目となるだろう。
「魔術学校には通わないのか?」
魔術学校は皇宮内にある皇立の魔術師育成施設だ。士官学校に並ぶ人材育成機関であり、魔術に関連した研究所も備えている。研究所内の人事は魔術学校の卒業生が優遇されるため、研究に携わりたい者にとっては無視できない存在でもあるわけだ。
ジークベルトが研究の類いを好みそうだと思っての質問なのだろう。
「そうですね。魔術自体は独学でも十分使えるようにはなるから、あえて学校で学ぶ必要はないし、研究施設に惹かれるものがあるのは確かだけど、皇立だとどうしても研究の内容や費用に制限がかかるから……それなら民間の研究施設を自分で立ち上げるほうがいいかな、と思います」
「自分で、か……大胆な発想をする」
感心しながらも、どこか苦笑するような口調でユリウスは応じた。
「立ち上げ資金と先行投資分さえ用意できれば、あとの費用はどうとでも捻出できると思うんです。それに皇立の研究施設よりも自由な発想で研究を進めることができるから、新しい発見も多いんじゃないかと予想しています。そうした新しいものの情報は、うまく使えれば大きな儲けにも繋がりますから……あと、最近は財務官府が費用を出し渋っていて、あちらは大変らしいですし」
最後は冗談めかして肩を竦める。
「そんな宮中の内情まで、よく知っているな」
「使用人たちの噂話は、貴族たちがする噂よりもよっぽど精度が高いんですよ」
貴族たちは互いに牽制しあい、自分に都合のいい話だけをしたがる。その分、噂話もより歪曲しやすい。
だが、自分の屋敷ではつい気を抜いてしまうものだ。使用人を便利な駒程度にしか思っていない貴族なら尚のことである。使用人が聞き耳を立てていることに気づかず、本音を吐露してしまうのだ。
そして使用人たちには、意外と幅広いネットワークがある。彼らの口から口へと伝って、はるか遠い屋敷にまで情報が届いてしまったりもする。幅広く多人数で情報を共有する分、齟齬も少ない。
だからジークベルトは、彼らに隙を見せず、かつ彼らの隙をついて情報を引きだすのだ。
「そうか……意外なところに情報が転がってるものなんだな」
思案顔でユリウスは呟く。
ジークベルトがこの従兄を尊敬するのは、誠実な人柄というのが第一の理由ではあるが、一方でこうした思慮深さを持ちあわせているのも大きな要因といえる。
同じ話をしても、大抵の貴族は呆れて笑うか、馬鹿にしたように鼻を鳴らすかのどちらかだ。そうやって嘲笑する者のほとんどが分かっていない。
「どんな時、どんな場面でも、情報は最大の武器ですからね」
それがジークベルトの持論であり、父の背中から学んだことだ。ステファンはとにかく情報を重視し、かつその鮮度すらも気にかける。その姿を見続けて、ジークベルトだけでなく、ウリカも自然とその重要性を学んでいったのだ。
シルヴァーベルヒ家の子供たちが強制されなくても積極的に学問にとり組むのには、そうした背景がある。
「時々、思うことがある……」
ユリウスは少し困ったような顔で、こちらを見る。
「皇宮で働いているとき、側にジークがいてくれれば、とね……情けない話ではあるが」
自嘲気味に肩を竦めるユリウスに、ジークベルトは無邪気な笑顔を浮かべた。
「ユリウス兄さんの側で働けるなら、皇宮仕えも悪くないかもしれませんね」
この軽口が、後に自分の行く末を大きく変えていくことになるとは、夢にも思わないジークベルトであった。
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