たかが子爵家

第一章 シルヴァーベルヒ

Ⅱ 若き皇帝代理

　プレスブルク皇国は広大な領地を占める大国だが、皇帝の目が国内の各地にまで行き届かないという難点がある。
　そのため土地を一定の面積ごとに区切り、各地に統治者を置いて管理させていた。その統治者は公爵と定められているため、公爵領と呼ばれている。
　先日のこと。ヴァルテンベルク公爵が王都から呼び出しを受けた。公爵領の収支報告書に不備があるというのだ。公爵は、豪華な献上品とともに使者を王都に送った。
　使者の男は生まれてから今に至るまで公爵領から出る機会がなく、王都は初めて見る場所だった。
　王都の市街地全体を囲む外壁は、外部からの侵入を嫌うかのように高く厚い。
　王都の南西にある貴族専用の裏門を使ったため、平民が暮らす街の様子は分からなかったが、貴族街への門をくぐると、使者の口からは感嘆の吐息がもれた。
　貴族領はヴァルテンベルク公爵領直轄地に匹敵する広さがあると聞いてはいた。しかし領地内の様子はまるで違うものだった。
　いくつもの貴族屋敷が建ちならび、その中心部から十字方向に貴族向けの商業施設が連なっている。通りを行き交う馬車とそれに乗って揺られる人々は豪奢ごうしゃな装飾に彩られ、街全体から華やかな印象を受けた。
　だが彼の目を何よりも惹きつけたのは、貴族領の最北に超然と佇む皇宮おうきゅうの姿だった。
　公爵領内にも城はある。領内における公爵邸は城と呼ぶにふさわしい豪華な造りで、そこに出入りできる自分が誇らしくもあった。
　しかしそれがどれだけ視野の狭い矜持であるか、思い知らされる景色だった。皇帝が住まう宮殿とは、それほどまでに規模の違う代物だったのだ。
　荷の運搬と護衛を担う従者たちからも、一様に息を呑む気配が伝わってくる。年配の御者だけが、動じる様子もなく坦々と馬車を進めていた。それを見倣って使者の男は呼吸を整える。
　いつまでも圧倒されているわけにはいかない。城門に辿り着くまでに平静をとり戻さなくてはなるまい。
「ヴァルテンベルク公爵の代理で参りました。謁見を許可願いたい」
　城門の前で門番に書状を渡すと、程なくして謁見の間へと通された。
　そこは教会の聖堂とよく似た雰囲気を持っていた。天井の高い広々とした空間に厳おごそかな空気が漂っている。入口からまっすぐ伸びる絨毯カーペットを進むと、その先に数段の段差があり、絢爛けんらんな玉座が据えられている。
　そこには少年が座っていた。
　現在、皇帝であるウィルヘルム・オットー三世が病床にあるため、第一皇位継承者であるアルフレート・ハイムが国政を代行しているとは聞いていた。皇子はまだ十六歳だという。
　あまりにも若すぎる皇帝代理だ――そしてだからこそ、つけ入る隙がある。
　そう、つけ入る必要があるのだ。
　呼び出しの元となった『収支報告書の不備』というのは、ヴァルテンベルク公爵にとって非常に都合の悪いものだった。それを何とかして誤魔化さなければならない。
　それが今回、彼に課された役目だった。
　献上品を運び込んだ従者を下がらせたあと、絨毯カーペットの上に片膝をつくと、右拳を左の肩口に添えて一礼した。この国独特と言われる敬礼である。
「お目通りをお許し頂き、感謝の言葉もございません」
　重々しく挨拶の言葉を口にすると、玉座からくすりと笑う気配がした。
「ヴァルテンベルク領から来た使いの者だな」
「はっ。公爵閣下の代理として参りました」
　顔を上げると、皇子はもう笑っていなかった。面白くもなさそうな表情を張りつけて、どこか虚ろな視線をこちらへと向けている。
　やはりあの虚飾皇后きょしょくこうごうの息子だな――それが皇子アルフレートへの第一印象だった。
　皇后カザリンは家柄と見目の良さだけでその座を手に入れた。そう世間では噂されている。確かにその端麗な容姿は人目を惹く。だが国政にはまるで興味を示さず、毎日着飾って遊んでいるだけ。中身のない后きさき――故ゆえに『虚飾皇后』だと秘かに囁かれているのだ。
　銀に輝く長い髪ときれいな菫すみれ色の瞳。アルフレート皇子が持つその美貌は、明らかに母親から受け継いだものだった。しかしどうやらその内面まで似てしまったようで、憐れなことだ。
　その側に控える近衛騎士の存在も侮蔑を増長させる要因だった。皇帝がお気に入りだったという近衛騎士の息子らしいが、「いつから近衛が世襲になったのか」と囁きかわす貴族たちもいると聞く。
　謁見の間に通されてから今の今まで、件くだんの騎士は表情筋を動かすこともなく佇立ちょりつしている。まるで木偶でく人形のように見えて、いっそ似合いの主従というべきかもしれない。
「此度こたびの要請につきまして、皇子殿下には我が領土にお心を砕いていただきましたこと、恐縮に存じます」
　内心の嘲弄ちょうろうを覆い隠して型通りの謝意を述べる。皇子の様子を窺うと、やはり興味のなさそうな表情を浮かべていた。むしろその視線は、使者の後ろに並べられた献上の品へと向いている。
　本当に皇后とよく似ている。扱いやすくて結構なことだ。
「深謝しんしゃの証に、こちらの品々を持参いたしました」
　手っとり早く気を引くために話題の矛先を変える。献上品の説明を先に始めたほうがよかろう。そう判断した。
　問題の収支報告書に関しては、おおかた宰相辺りに指摘を受けて、仕方なく召喚命令を出したものと推測できる。それに基づいて謁見のタイミングを計ったのは正解だったようだ。
　宰相のディルクハイム侯爵が、この時間に別の公務で席を外すことは知っていた。
　ぼんくら皇子と世襲騎士だけならば懐柔は容易たやすかろう――それがヴァルテンベルク公爵の目論見である。
　品物の詳細を語り始めると案の定、皇子の顔には笑みが刻まれた。その様子を盗み見ながら、献上品ひとつひとつをこと細かに説明していく。
　雲行きが怪しくなってきたのは、品物の半数ほどを紹介し終えたころだった。皇子の顔から笑みが消え、退屈そうな表情を浮かべるに至って、胸中に戸惑いが広がった。
（説明が長すぎて退屈させてしまったか？）
　心に滲ませた焦りを表情の裏に隠して、残りは手短に説明を済ませる。
　しかし手遅れだったのか、皇子の表情は完全に白けたものになっていた。心なしか空気も重く、息苦しいような錯覚に襲われる。
　自分はどこかで間違えただろうか……。胸中を覆う不安が肥大化していくのを感じる。
　簡単にこなせる仕事のはずだった。気楽な心持ちでここまで来た。だが気づけば余裕は吹き飛んでいた。
　男が固唾を呑むなか、若き皇帝代理はゆっくりと口を開いた。
「言い分はわかった。下がって良よい」
　それはあまりにもさらりとした口調だったから、とっさに反応し損ねた。
「聞こえなかったのか？ 下がっていいと言ったんだ」
「はっ……しかし、公爵様にはどのようにご報告を……」
　皇子の真意を測りかねて混乱した頭脳は、本来の働きを放棄してしまったらしい。その口からは間抜けな質問が転がり出ていた。
　皇子はできの悪い生徒を見るような表情を浮かべる。
「ありのままを伝えてやれ。皇帝の名に於おける呼び出しに対して公爵自身が赴くこともなく、穢れた舌と金品によって皇家への礼を失した事実は拭い難い。申し開きがあるなら、公爵自らが足を運び、自身の舌で己を弁護するがいい」
　堂々と言い放つ皇子の姿を前に、自分たちが如何いかに甘い考えだったか、使者の男は今さらながらに悟った。
　現皇帝ウィルヘルム・オットー三世は、人が良いだけで政治的才覚に欠ける、と噂されている。
　だがこの皇子は違う。父母のどちらにも似ていない。
　若年にしてすでに王の威厳を滲ませている。苛烈さを思わせる威圧感が、急にその存在感をアピールし始めたような気がした。
　背筋に冷たいものが伝う。皇子との距離は五メートル以上もあるのに、底知れない恐怖で身体が硬直した。
　沈黙を保ったまま微動だにしない近衛騎士が、主あるじと同種の表情を浮かべているのが目に入る。それが不気味さに一層の拍車をかけていた。
　むしろディルクハイム侯が同席していたほうが若干の擁護が望めたかもしれない。
　何にせよ、自分たちが対処法を完璧に間違えたことだけは確かだった。
「賄賂によって買えるのが別種の関心であることも分かったであろう。それを肝に銘じ、即刻、公爵領へ戻るがいい。数日のうちに公爵自身の弁明がなければ、この件はこちらで処理させてもらうことになる」
　菫色の眼光に射竦められて、反射的に息を呑む。
「イ……イエス・ヤー・ハイネス」
　辛うじてそれだけ吐きだすと、使者の男は慌てて謁見の間から退出した。


「ディルクハイムの留守を狙って謁見を申し出ておきながら、格好の悪いことだ。そう思わないか、ユリウス？」
　宮殿内の自室に向かいながら、アルフレート皇子は後ろを歩く近衛騎士に声をかける。
　ユリウス・フォン・ベルツは、先月父親が病で他界したため、その長男として伯爵家の家督を継いだばかりである。
　まだ十九歳と若い。高身長の青年で、平均的な背丈しか持たないアルフレートは、いちいち見上げないと目が合わせられないほどだ。
　卓越した剣術の持ち主で、士官学校では優秀な成績を収めている。
　アルフレートの首席近衛騎士に抜擢されたことで若年ながらすでに大佐であり、皇子が正式に玉座を継げば将官になるのは確実と言われている。
　それが上級貴族たちの矜持を傷つけるらしい。貴族の中には『世襲騎士』と揶揄する者も少なくない。
「徒いたずらに人心を惑わすのはお控えください。無用な反感を招くのはこれからのためにもなりません」
　皇子を諫いさめるユリウスの言からは、主あるじの意図を正確に理解していたことが窺える。
　使者の男はアルフレートの思う通りに踊ってくれた。中身のない言い訳を聞く時間が無駄に思えたから、興味のないふりをして献上品に目を向けると、公爵代理は皇子の意向を汲みとって即座に品物へと話題を転じた。しかしあまりにも単純な思考回路に思わず笑ってしまったのが失敗だった。気を利かせすぎた使者の説明はくどく、却って時間を浪費するものだから、表情を消して手早く終えるように誘導してやらねばならなかった。
　とはいえ、男の狼狽うろたえぶりは見ていて愉快なものだった。
　そんな皇子の心情を見抜いていたからこそ、ユリウスは苦言を呈したのである。
「政まつりごとというのも、やってみると面白いものだな」
　アルフレートは騎士の諫言かんげんを無視して話題を変えた。
「殿下、国政は遊戯ゲームではありません。その采配の一つ一つが国民の生活に影響するのです」
「分かっている……だからこそ、責任を軽んじる領主を放置するわけにはいかない」
　ことごとく窘たしなめようと口をはさむ臣下に不快感を示すほど狭量ではない。アルフレートは変わらぬ口調のまま言葉を続ける。
「ヴァルテンベルクは来るかな？」
「来ざるを得ないでしょう。おそらく四、五日中には……」
　アルフレートがわざと期限を区切らなかった理由を分かっているのだろう。ユリウスの返答には迷いがない。
　数日、という曖昧な表現は焦りを煽る。できうる限りの迅速さで参上しなければ裁可が下ってしまうことを暗に指摘していたのだ。これによって、公爵は時間稼ぎの機会を奪われた。
　始めから「不正」の旨を伝えれば、ヴァルテンベルク公爵は財産を持って逃げだす恐れがあった。そのため、あくまで「不備」という体裁をとって抜け道があるように思わせたのである。
　アルフレートは始めから公爵を許す気がなかった。
「どう申し開きをするのか楽しみにしておこう」
　嘲笑をまじえた言葉にユリウスは何も言わなかったが、渋い表情を浮かべていることは想像に難くない。だからこそアルフレートはこの騎士を信頼しているのである。
　アルフレートをとり巻く貴族たちは、萎縮するか媚びを売るか、あるいは侮って陰で嘲笑する者ばかりだ。皇子に正面から向きあおうとする者はほとんどいない。
　その点ユリウスは爵位や階級で人を区別しない。相手の人柄に対して取るべき態度を決める。そういう人物だった。
　アルフレートに対してもそれは変わらない。
　上級貴族を相手に媚びることもなく、彼らがこぼす陰口を耳にしたところで、気にする素振りも見せない。気丈に振る舞っているわけではなく、それが彼の自然体だった。
　人柄でも実力でもユリウス以上の騎士はいないと思っている。
　だがその一方で、何があっても淡泊な反応しか見せない姿に、若干の不満も感じていた。
　地位にもアルフレートにも興味がないように見えてしまう。ユリウスの本心が見えない。そんな不安が、皇子の心をざわつかせていた。
「今日はこれでお前の任を解く。もう帰ってもいいぞ」
　自室の前にたどり着いて、自分の騎士に向きあった。内心の懸念を表情から追いだしておくことは忘れない。
「では、代わりの者を寄越しましょう」
　いつも通り、事務的な答えが返ってくる。
　少しばかり底意地の悪い気分になった。
「不要だ。こんな内宮ないぐうの奥で危険に遭あうことのほうが難しかろう」
　揶揄的な口調は、どうせまた素知らぬ応答があるのだろう、という思いの裏返しである。だがアルフレートの予想は外れた。
　すぐには反応がなく、やや間が開いてから「御意」と返ってくる。その顔がどこか不安げに揺らいだように見えた。
　しかし直後には表情を引き締めてユリウスは続ける。
「では、明日の朝またお迎えに参ります」
　一礼すると、困惑気味のアルフレートを置き去りにして、近衛騎士は去っていった。