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誰が主役なのか、わからなかった、停電のような物語

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暗闇が広がる。何も見えない、何も聞こえない。ほんの少し前まで活気が溢れていたはずのこの空間が、一瞬にして無に等しい存在になった。それが、停電だった。

その夜、豪雨が降りしきる街の一角、駅前のカフェで数人の客がそれぞれの時間を過ごしていた。大学生風の男がパソコンに向かって論文らしきものを打ち込み、年配の夫婦が紅茶を飲みながらどこか遠い記憶を語り合っている。その隅には、スーツ姿の男がスマホの画面をじっと見つめていた。雨音が窓を叩き、薄暗い店内にその音が優しく溶け込むように広がっていた。

「ピシッ!」と一閃、窓の外が突然白く輝いた。雷が鳴り、続いて店内の照明が一瞬にして消えた。停電だ。急な暗闇に包まれ、全員が息を飲む。室内の光源は、大学生のノートパソコンだけになった。

だが、彼らはまだ知らなかった。停電は単なる電気の切れではない。その暗闇の中で、徐々に彼らの時間もまた、何かに飲み込まれていくのだと。

しばらくの間、誰もが何も言えずにいた。誰かが声をかけるべきかと思いながらも、まるで言葉を失ったかのように沈黙が続いた。しかし、静けさはどこか異様で、深くて、重い。何もないはずの暗闇が、見えない何かに満ちている気がした。

「すみません、誰かいらっしゃいますか?」

ようやく声を上げたのは、紅茶を飲んでいた老婦人だった。彼女の声はわずかに震えていたが、同時にその中には確かな安堵も感じられた。すると、大学生がノートパソコンの画面を頼りに「いますよ」と答えた。

その言葉に、次々とほかの人々も声を発した。暗闇の中でそれぞれが自分の存在を確かめ合い、微妙な安心感が生まれる。だが、やがて彼らは気づき始めた。自分の声が、どこか遠く、まるで別の空間にいるかのように響いていることに。

「こんなに暗いのに、不思議と静かすぎるね…」年配の夫がぼそりと呟いた。

だが、それは単なる停電による静寂とは異なっていた。暗闇は彼らの周囲だけでなく、心の奥底まで染み込んでくるようだった。そして、彼らは次第に、自分たちが何かを忘れ始めているのではないかと感じた。

スマホを見つめていたスーツ姿の男は、急に気づいたように呟いた。「おかしい…俺、ここに何しに来たんだっけ?」

その一言に、全員の意識が再び鋭くなった。今の彼の言葉が、あたかも暗闇の奥底に眠っていた不安を引きずり出すかのように響く。他の誰もが、その質問に即答できない自分に気づいた。

そう、誰も自分がなぜここにいるのかを思い出せないのだ。

「待って、私たち…」老婦人が震え声で話し始めた。「今夜ここに来た理由、誰もわからないってこと?」

不安が広がり、暗闇の中で小さなざわめきが生まれる。カフェはいつもなら静かで安心できる場所だ。だが、この夜、この空間はどこか異様に感じられる。彼らはそれぞれ、頭の中を探ってみたが、どこをどう思い返しても答えが見つからない。まるでこのカフェ自体が、記憶の外にあるような錯覚さえ感じた。

「ひょっとして、俺たち…」大学生が、重い沈黙を破った。「ここで何をしていたのか、思い出せないってことは、何かまずいことが起きているんじゃないか?」

彼の問いかけに、誰もが息をのんだ。その時、不意に、どこからか微かな音楽が流れ出した。それは、店内スピーカーから流れるはずの音楽ではなかった。音楽は静かに、しかしどこか不気味に漂っている。遠くで流れる子守唄のようなメロディが、彼らの耳に直接囁きかけているかのようだった。

「この音楽…」スーツの男が呟いた。「聞き覚えがある気がする。どこで聴いたかは思い出せないけど…」

音楽は途切れることなく流れ続け、彼らはその場で微動だにできなかった。まるで、何かに引き寄せられるかのように音に聞き入ってしまう。それはどこからともなくやって来た、彼らの過去の記憶を曖昧に揺らすものだった。

ふと、大学生が小さな声で口にした。「もしかして、このカフェ自体が…幻なんじゃないか?」

その言葉をきっかけに、全員が目を見張った。暗闇の中で互いの顔は見えないが、その場の空気が一変したのを感じた。彼の言う通り、彼らがここにいる理由も、この場所に対する確かな記憶もない。思い出そうとすればするほど、まるで砂のように記憶が指の間から零れていくのだ。

「帰ろう、ここから出るんだ!」年配の夫が叫び、立ち上がろうとした。しかし、彼の声もどこか遠くで響いているように感じられた。そして足が重く、どこにも動けない。出口がどちらにあるのかも定かではない。彼らは自分たちが閉じ込められていることを、ようやく理解した。

その時、不意に店内がぼんやりと明るくなり始めた。電気が戻ったわけではなく、暗闇が少しずつ薄らいでいくような、そんな微かな光だ。その光に照らされて、彼らは互いの姿が見え始めたが、全員がどこか曖昧な輪郭で、現実感がない。まるで、そこにあるべきでない何かが投影されているような、ぼやけた像だった。

気づけば、彼らは再び黙り込んでいた。誰が主役で、誰が観客なのかすらわからないまま、ただそこに立ち尽くしている。光が少しずつ増していくとともに、音楽も遠ざかり、彼らの輪郭も次第にぼやけ、やがて消えていく。

最後の瞬間、大学生がつぶやいた。「ここにいたはずの自分も、きっと何かの影だったんだろう。」

停電が終わったカフェは、再び日常の中に戻った。しかし、その場に誰の姿もなく、カフェの隅には開いたままのノートパソコンがただ一つ、無音の世界の中に置かれていた。
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