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【7】元に戻っただけ

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 それから数日の間、温人が夜勤のバイトに入ったので、勇士郎は緊張から解き放たれはしたが、夜に温人がいないことが、思っていた以上に寂しくて胸が塞いだ。
 ベランダから取り込んだままだった洗濯物を畳む。温人がよく部屋着として着ているTシャツを畳もうとして手を止め、勇士郎はそれを着てみた。温人が着るとぴったりなのに、勇士郎が着たら肩が落ちて袖が肘をすっぽりと覆ってしまう。裾も勇士郎の太ももが隠れてしまうくらいに大きくて、改めて温人との体格の違いを感じた。
 それを着ていると、温人に抱き締められたときのことを思い出して、きゅっと胸が痛くなる。それと同時に切ない疼きが身体に沸き上がり、勇士郎は慌ててTシャツを脱いだ。
 けれど身体の疼きはいつまでたっても治まってくれず、勇士郎は久しぶりに風呂場で自慰をした。何度も温人の名を呼びながら、彼の大きな手に触れられることを想像して絶頂を迎える。
 けれどその行為はひどく虚しく、勇士郎に罪悪感と悲しみをもたらしただけだった。
 
 
 翌日バイトから帰ってきた温人はひどい顔色をしていた。多分昼間に帰って来ていたときもよく眠れなかったのだろう。
「温人、おかえり。朝ご飯食べるか?」
「いえ、ちょっと疲れたので横になります」
 温人は簡単にシャワーを浴びたのち、すぐに「栗原屯所」に入って戸を閉めた。十月に入って朝晩は大分涼しくなったので、戸を開け放しておく必要がなくなったのだろう。
 温人の姿が見えなくなると、勇士郎はまた寂しくなって、独りでポソリと朝食を食べた。
 夕食は温人が作ってくれた野菜炒めとなめこの味噌汁を一緒に食べた。火を使うときは相変わらず傍に立って見守ったが、温人はもうかなり恐怖を克服出来たのか、勇士郎がついていなくても問題ないように見える。
 それは喜ばしいことなのに、いつか温人が自分を必要としなくなることを寂しく思い、勇士郎はそんな自分を心の中で責めた。
 食事中も、あまり話は弾まず、明日香が来たあの日から、自分も温人も何かが変わってしまったみたいな気がした。
 温人は時々、何か物言いたげに勇士郎を見ていることがあったが、勇士郎が首を傾げると、なんでもないです、と言って口をつぐんでしまう。
 食事後にリビングのソファで一緒にくつろぐこともなくなり、まるでこの部屋から音が無くなってしまったみたいだった。
 明日はバイトがないと言っていたのに、温人は早々に「栗原屯所」に引き上げてしまい、勇士郎も仕事をキリのいい所で終えて、風呂に入り、早めに布団に入った。
 温人が、ここを出て行くことを考えているように思えて、胸が苦しくなる。けれどそれが温人にとって一番いいことなのかもしれない。埼玉の祖父母の所へいったん戻り、諸々立て直してから再出発を図るほうが、良い方向に進めるのではないか。
 そんなことをつらつらと考えていると眠れなくて、午前二時を過ぎた頃、勇士郎は水を飲むために部屋を出た。ミネラルウォーターをコップ一杯飲んでから、無意識に元栓を確認する。温人はこの頃、独りでの確認でも我慢出来るようになったみたいだった。いつかのように、夜中に元栓を見つめて立っていることも無くなった。
 勇士郎はふっと寂しい笑みを浮かべると、自室へ戻ろうとした。だがその時、「栗原屯所」からかすかなうめき声が聞こえてきて、勇士郎はハッと足を止めた。
 そっと戸の前に立って耳をそばだて、中の様子を窺うと、やはり温人がうなされている声が聞こえる。
 勇士郎はしばしためらったあと、思い切って戸を静かに開けた。
「温人……」
 静かに呼びかけてみる。だが彼が目を醒ます様子はなく、シャツの胸の辺りを掴みながら苦しげな息を吐いていた。
 勇士郎はたまらなくなって、布団の脇に膝を折り、驚かさないように温人の肩にそっと触れた。
「温人、温人……」
 不安にどきどきしながら軽く揺さぶると、ハッと温人が目を醒ました。
「温人、大丈夫か」
「――ユウさん……」
「ごめんな、勝手に入って、温人がまたうなされとるのが聞こえてん」
 温人はしばらくぼんやりと勇士郎を見ていたが、それから気まずそうに目を逸らしてしまった。
「……すみません」
「なんも、謝ることないよ」
 勇士郎は汗で張り付いた温人の前髪を優しく払ってやると、布団をめくり、黙って温人の腕の中に収まった。
「ユウさん――」
「眠らな、またおかしなってまうよ」
 自ら抱き枕となった勇士郎に、温人はクッと切なげな吐息を洩らした。それからたまらないといった様子でしっかりと勇士郎を全身で抱き締める。熱い身体に包まれて、勇士郎はこみあげる涙を懸命に堪えた。
 それからしばらく互いの鼓動を感じながら、黙って夜の音を聞く。外は雨が降り出したようだ。パツパツと雨粒が窓を叩く音が聞こえる。そして時折前の道路を走り過ぎる車の音や、飲んだ帰りらしい若者たちの喋り声、遠くの夜間工事の音。
 温人が落ち着きを取り戻したことを感じ取った勇士郎は、もぞりと布団から腕を出すと、枕元に置いてあるレコードプレーヤーに手を伸ばした。
 電源を入れて、ボリュームを絞り、置かれたままのレコード盤にそっと針を落とすと、『愛の讃歌』が静かに流れ出した。
 アナログの音に慣れていない耳には、最初はまるでタイムスリップしたかのような不思議な感覚を覚えたのに、今では何故かその音に、温かみや安らぎを覚えて癒される。
「コレ聴いとったおばあさんも、誰かを忘れられへんかったんかな……」
 勇士郎がポツリと言うと、勇士郎を抱き締める温人の腕に力がこもった気がした。
「――ユウさんも、まだ辻野さんのこと、忘れられないんですか」
 思いがけず耳元で囁かれて、ゾクリと身体に震えが走った。その声はどこか嫉妬めいていて、勇士郎は思わず潤んだ目で温人を見上げてしまう。その目を見た温人が、かすかに喉を鳴らした。
 辻野のことは今も忘れてはいない。これからもきっと、忘れることはないだろう。彼とのことは、勇士郎にとって、青春そのものだからだ。
 けれど今、勇士郎の心を大きく占めているのは温人だ。
「ユウさん、」
 温人が尚も、焦れたような、かすれた声で問う。
 嘘は言いたくない。けれど、本当のことも言えない。色んなことが頭の中を渦巻いて、どうすればいいのか、なんと答えればいいのか、何ひとつ判らなくなってしまう。
「あの日からユウさんはおかしくなった。明日香に何か言われたんですか」
 勇士郎は激しく首を横に振った。
「じゃあどうして、そんなに元気がないの。俺のせいですか、俺が何かあなたを傷つけたのなら」
「違う」
「ユウさん」
 切ない呼びかけが苦しくて、悲しくて、また涙が滲む。
「ねえ、何考えてるんですか。ユウさん」
 強く抱き締められて、勇士郎は堪らず広い胸に顔を埋めた。
「――おまえのこと以外や……」
 消え入りそうな声で告げると、温人の腕がちいさく震えた。
「ユウさん、」
 身体を離されて、涙に濡れた顔を覗き込まれる。慌てて両手で顔を覆うが、すぐに両手首を掴まれて剥がされてしまう。
「いやや…っ」
 顔を背けようとした瞬間、熱い唇に言葉を奪われた。
「ん……っ……」
 驚きに目を瞠る勇士郎に、温人が覆い被さって、勇士郎の震える細い肩を両手で押さえながら、強引に口づけを深くした。
「……っ……ぅん……、ふっ……ぅ…んぅ」
 がっしりとした重い身体に全身でのしかかられ、勇士郎は身動きひとつ出来ずに、ひたすら甘い蹂躙に耐える。
 熱くぬめった肉厚の舌が勇士郎の薄い唇を割り、柔らかく潤った口内を隈なく犯してゆく。怯え、逃げ惑う勇士郎の舌を甘く吸い、裏を舐め、とろりとした唾液と一緒に激しく絡ませる。
 こんな濃厚なキスは初めてで、まるでキスだけで全身を暴かれるような怖さを感じ、勇士郎は朦朧とした意識のなか、温人の太い腕に必死になって縋った。
「は…るっ……んんっ…ふ…っ……ゃ」
 勇士郎がたまらず嗚咽を洩らし始めると、温人はようやく口づけを解いてくれた。
 けれどその目は薄暗い部屋の中でもハッキリとわかるほど欲情していて、その目に見られていると判った瞬間、勇士郎のなかでも烈しい熱が沸き起こった。
 けれど同時に、不安と恐怖に身がすくんでしまう。
 温人は自分のシャツを乱暴に脱ぎすて、それから勇士郎のパジャマのボタンにも手をかけた。
「や、温人…、やだ…」
「ダメですか」
 そう尋ねながらも、温人の指は迷う様子も見せずに勇士郎の肌を暴いてゆく。すべてのボタンを外されると、前を開かれて、白い肌が温人の前に露わにされた。
「ぁ……」
 勇士郎は慌ててそれを胸の前でかき合せる。温人と下半身を触り合ったことはあるが、あの時はお互いに夢中だったし、服もほとんど脱いでいなかったから、恥ずかしかったけれどそこまで気にはならなかった。
 けれど明日香と会ったあとでは違う。彼女の女性らしい豊かな胸と丸みを帯びた柔らかな身体を知っている温人に、自分の身体を晒すなんてすごく怖い。こんな痩せっぽっちの平たい身体を見たら、きっと温人は引いてしまうに違いない。
 けれどそんな勇士郎の不安を知る由もない温人は、相変わらず全身に興奮を漲らせながら、勇士郎の衣服をどんどん奪っていってしまう。
「あ、温人、だめや…って…、温人」
 全てを脱がされて勇士郎は居たたまれず手と腕で身体を庇うようにしながら温人に背を向けた。
「ユウさん、すごく綺麗」
「……うそや」
「嘘じゃない、ほんとに綺麗です」
 勇士郎が背を向けたままフルフルと首を振ると、後ろから長い腕を回されてぴったりと抱き寄せられた。
「ユウさんは綺麗だ。なにもかも」
 もう一度、諭すように言われて、勇士郎はおずおずと振り返り、伏せていた長い睫をそっとあげて温人を見た。
 そこにあったのは、まるで愛しい恋人を見つめるような熱っぽい眼差しで、その整った男らしい顔に、勇士郎はぎゅっと胸を鷲掴みにされてしまう。
(やっぱ、…カッコええな、温人)
 向かい合うと、温人が勇士郎の肩先に優しくキスをした。それから首筋に、頬に、眦に、丁寧なキスが落とされてゆく。そのたびに勇士郎の心臓は壊れそうなくらいに高鳴って、身体がどんどん甘く蕩けていってしまう。
 すでに充分に立ち上がり、淫らな露をとろとろと零していたそれを優しく握られた瞬間、甘美な痺れが身体の奥深くにまで広がった。
「あっ…ん……」
 零れ落ちた嬌声は恥ずかしいほどに潤んでいて、勇士郎は真っ赤になって俯く。
「可愛い…、ユウさん」
 低い声で耳元に囁かれて腰がくだけそうになる。温人は自分も下を脱ぐと、勇士郎の手を取って、自分の昂りに導いた。それはもうはち切れそうに硬く張り詰めていて、ひどく熱く、濡れている。
 あまりの卑猥さに勇士郎はちいさく喉を鳴らし、ゆっくりとそれを扱き始めた。すると、温人が低くうめきながら、再び勇士郎のものを握り、同じように動かし始める。
 空いている方の手で勇士郎をぐっと引き寄せながら、温人はまた勇士郎の唇を塞いだ。
 上と下が同時にぬめる快感が、狂おしいほどの熱を生み、二人は急速に駆け上がってゆく。
「ああっ、ああっ、やぁ…あ、あ…――ッ」
 勇士郎は自分の腰を抱く温人の右腕を掴み、イく瞬間に爪を立てた。
 ドクドクと勇士郎が吐き出した白いものが、温人の指を濡らすのを恍惚とした表情で見つめる。だが温人のものはまだ漲ったままだ。
 温人、と呼ぼうとしたとき、彼の指が勇士郎のあらぬ場所へと伸ばされたことに気付き、ハッと身体を強張らせる。
「あ、はるっ、や、いや」
 思わず握っていた温人のものから手を離し、身体を引こうとするが、逞しい腕に捕えられた腰はびくともしない。
「あっ、ゃ、だめっ」
 長くしなやかな指がその場所の周りを撫で、擦るたびに、勇士郎の腰がびくんびくんっと跳ねる。勇士郎のもので濡れた指はそのまま慎ましく閉じた蕾の中心にぐうっと突き立てられた。
「ああッ」
 勇士郎は背筋を駆け抜けた快感に思わず甘い悲鳴をあげる。 
 すると温人がふと手を止め、眉を顰めた。
「どうして、こんなに柔らかいんですか」
 それが勇士郎の秘められた穴のことだと判り、勇士郎は瞬時にカアッと赤くなった。独りで自分を慰めるときに、勇士郎はソコを使う。自分の指で穴を拡げ、奥まで突き込んでかきまわさないと快感を得られないのだ。
 けれどそんな恥ずかしいことを温人に言えるわけもなく、勇士郎はぎゅっと唇を噛んだまま俯いてしまう。
「……くそ」
 温人がうめくように言うのを聞いて、勇士郎は潤んだ目を瞠った。そんな粗野な言葉を吐く温人など見たことがなくて、彼を怒らせてしまったのだと勇士郎は心から怯えた。
「ご…ごめん、温人……」
 ちいさな声で告げると、温人は余計に苛立ったみたいに、少し乱暴に勇士郎を布団に押し倒した。それから指を増やし抜き差ししながら、ねっとりとまとわりつくまで丹念にほぐしてゆく。終わりのない快感に勇士郎は甘い悲鳴をあげ続けた。
 そして十分にそこが開かれると、あろうことか、温人は勇士郎の両膝の裏に手をかけて、大きく脚を開かせてしまう。
「ああっ、うそっ…、や、いやっ…温人!」
 勇士郎は懸命に脚をばたつかせたが、大きな手は太ももへと移動して、より大きく脚を広げさせられてしまう。あられもない恰好を温人の目に晒して、恥ずかしさのあまり、勇士郎はぼろぼろと涙を零した。 
 濡れそぼって充溢した温人のものが散々拡げられて物欲しげに蠢くそこへピタリと当てられる。
「いやや、温人、いや…やめ…!」
 抱かれてしまったら、忘れられなくなる――。
 悲痛な思いが胸を貫く。けれど本当は、温人が欲しくて欲しくてたまらない。
 裏腹な思いに引き裂かれそうになりながら、濡れた目で温人をすがるように見つめた。
「ユウさん」
「……ぅ……」
「どうしても、ダメですか……」
 荒い息を吐きながら、苦しげに温人が尋ねる。限界まで育った欲望を、必死に抑えつけ、肩で息をしながら。
 こんなにまで自分を欲しがってくれているのだと、勇士郎の胸は切なさでいっぱいになった。けれどその激しい欲望を、最後の最後で、勇士郎のために殺そうとしてくれている。
 そんな温人が愛しくて愛しくて、勇士郎もついに心を偽れなくなる。
「……ええよ、オレも、温人の…、欲し……」
 ぎゅっと目を瞑ると、涙がぽろぽろこめかみの方へ流れ落ちた。
「泣かないで」
 温人が困ったように眉を寄せ、優しく唇で滴を吸い取ってくれる。
「入れて…、温人の、……ほしい」
 たまらず愛しい胸に抱きつくと、温人は強く勇士郎を抱き返しながら、その熱いぬかるみへと深く腰を進めた。

 翌朝、温人の腕の中で目を醒ました勇士郎は、ズキンとあらぬ場所が痛む身体に眉を顰めながら、そっと温人の腕から抜け出した。
 熱いシャワーに打たれながら、強く目を閉じる。白い肌には温人につけられた痕が、あちらこちらに散らばっている。
 夢のような時間だった。温人は最初少し強引だったものの、この身に彼を受け容れてからは、本当に優しく、情熱的に抱いてくれた。それはまるで、愛し合う恋人同士の交わりのようですらあった。
 けれど、やっぱりあれは間違いだったと勇士郎は思う。
 温人はきっとどうかしていたのだ。悪夢を見たあとの不安と恐怖を忘れるために、すぐ近くにあった人肌を求めただけのことなのだ。
 あるいは、優しい温人のことだ、勇士郎の気持ちを悟って、慈悲の心で抱いてくれたのかもしれない。
 それなのに、こんなに好きになってしまって――。
 勇士郎は腫れぼったい目蓋を、濡れた両手で押さえながら、またこみあげてくる悲しみに身体を震わせる。
 もし、温人が本当に好意から勇士郎を抱いたのだとしても、この先うまく行くなんて思えなかった。
 温人は異性愛者だ。しかも勇士郎より七歳も若い。考えるだけで怖かった。
 辻野の時は温人のおかげで立ち直れたけれど、もし今後、温人に見放されたら、もう二度と立ち直れない。そんなのは耐えられない。
 温人にとっても、こんな関係が良いはずはなかった。
 彼は、女性と幸せになれる男なのだ。
 シャワーを浴び終って、風呂場から出ると、温人がダイニングテーブルの椅子に座っていた。
「あ……お、はよ」
「おはようございます。……あの、ユウさん」
「よ、よう眠れた?」
 目を合わせることも出来ずに、勇士郎が早口に言うと、温人は立ち上がって勇士郎の手首を掴んだ。
「あ…っ」
 ビクンと怯えたように身体を震わせると、温人は苦しげな目をして、そっと手を離した。
「……すみません、俺」
 ズキリと胸が痛んだ。そのあとに続く言葉が怖くて耳を塞ぎたくなる。
 やはり、後悔しているのだろうか。
 間違えたと、言うつもりなのだろうか。
 さっき自分から間違いだったと考えたにも拘らず、温人の口からそれを聞くのはやっぱり怖くて、勇士郎は先に口を開いた。
「温人はもう、埼玉に帰ったほうがええよ」
「え」
「温人は、女の人とつきあった方がええ。オレとのことは…、事故みたいなもんや」
「ど…して、そんなこと、……怒ってるんですか、ゆうべのこと」
「怒って、ないよ。怒るわけない」
「じゃあどうして、急に、そんな」
「急にと違う。ずっと考えとったんや。……温人とおるんは楽しかった。ほんまや。せやけど、このままやったら、二人ともあかんようになる。この生活は仮の生活や。温人も色々良うなってきたけど、やっぱりちゃんと基盤のあるところで、しっかり前を見据えなあかんのとちがう? 睡眠障害のことも専門家にちゃんと相談したほうがええ。温人は充分に能力のある男や。いつまでもここにおったらあかん」 
「俺は、迷惑ですか」
「……」
「――ユウさんは、大丈夫ですか?」
 静かに問われて、勇士郎はハッと顔をあげた。勇士郎を見つめる澄んだ目に、最初に逢った日のことを思い出す。
『あなたは、大丈夫でしたか?』
 そう訊いてくれた時のことを。
 思えばあの時からもう、惹かれていたのかもしれない。ちょっと優柔不断だけど、本当に優しい心を持ったこの男に。
 けれど、明日香に言われたことが頭から離れない。本当に温人のことを想うなら、ここで彼の手を離すべきなのだ。
 そして温人のためを思うのと同時に、勇士郎は自分の保身を考えている。
 かつて温人が明日香のような、魅力的な女性とつきあっていたということ。結婚式で見た、辻野と紀子の睦まじい様子。
 男と女が寄り添う姿は、勇士郎にはあまりにも眩しすぎて――。
(だって怖いんや…、オレ。もうあんな風に傷つくんもイヤやし、いつかおまえがいなくなるかもしれんて思ったら、怖くて怖くてたまらんよ――)
 勇士郎は熱くなる目頭をさりげなく押さえてから、まっすぐに温人を見た。
「オレがもし、大丈夫やなくても、温人は自分のことを考えなあかん。温人はいつも相手に合わせてばっかりや。でもそれはほんまの優しさとは違うで」
 温人がハッと目を見開く。
「何にも流されたらあかん、誰かのために生きたらあかん。温人には、ほんまに自分が大切なもののために生きて欲しいんや」
「ユウさん、俺は、」
「は、温人はきっと…、ええ父親になる。おまえなら、奥さんも子供も、すごく大事にするやろ。だから、もう、…ここには居たらあかん」
 勇士郎が潤む目を必死に堪え、温人をまっすぐ見つめたまま微笑むと、温人は勇士郎を辛そうに見つめ返し、それから俯いて、分かりました、とひとことだけ告げた。
 そのときの顔があまりに寂しそうで、勇士郎は言葉を取り消したくなったが、きつく拳を握りその衝動を堪えた。

 温人はその日のうちに、この部屋を去って行った。お世話になりました、という短い言葉だけを残して。
 あまりにも呆気ない最後だった。
 温人がいなくなった空間は死んだように虚ろで、寒々としていて、勇士郎の心もがらんどうのようになった。
(元に戻っただけ……。元に戻っただけや……)
 ソファにうずくまり、何度も何度も自分に言い聞かせる。
 けれど勇士郎の頭に次々と浮かぶのは、このソファで遅くまで温人と語り合ったことや、一緒に映画を観たこと、腕相撲をしたこと、その腕で眠ってしまったこと、そんな他愛もない、けれど愛おしい思い出ばかりだ。
 たった三ヶ月前までは存在も知らなかった男なのに、今では勇士郎の心の、一番大きな場所を占めてしまった。
 けれどもう二度と、会うこともないだろう。
 宵闇が降り始め、室内が薄暗くなってから、勇士郎は「栗原屯所」の戸をそっと開けた。
 薄暗がりのなか、壁に何かが立てかけてあるのが見えた。そっと近づいてみると、それはあのレコードだった。
 それを見た瞬間、ぼろぼろッと涙が零れ落ち、勇士郎は震える手でそれを掴むと、胸に抱いてちいさくうずくまった。
(温人……、はると――)
 声にならない声で、何度も愛しい名前を呼びながら、勇士郎は暗い部屋でいつまでも泣き続けていた。

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