明け方に愛される月

行原荒野

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【本編】明け方に愛される月

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 芳崎との濃密過ぎる時間を思い出し、その余韻からうまく抜け出せずにいた、その週の金曜日のことだった。
 佳人が仕事を上がり、駐輪場でバイクのチェーンロックを外していると、ふいに名前を呼ばれた。驚いて振り返ると、思いがけず廣瀬がそこに立っていた。
「今、あがり?」
「……はい」
 警戒心も露わに答えると、廣瀬は楽しそうに笑いながら近づいてきた。佳人も慌てて立ち上がる。
「お疲れさま。今夜は接待があってね、ここを使わせて貰ったんだ。評判通りの店だね。得意先の人達も大満足って顔してたよ」
「あ、ありがとうございます」
 芳崎よりは少し低いが、すらりとした長身の、洗練されたスーツが似合うお洒落な男だ。
 営業職らしく、抜け目のない笑顔と人当たりの良さが際立つ。
「蓮見くん、だったよね。今度、俺とお茶しない?」
「いや、俺、は」
 突然の申し出に、佳人は身体を退いた。
「駄目?」
「……忙しい、ので」 
「つれないなあ。芳崎とはよく会ってるんでしょ」
「そんなに、しょっちゅうでは、ないですけど」
「そういえばこの間、芳崎が可愛い男の子と一緒にいるとこ見たよ」
「え…、」
 とっさのことに表情を取り繕うこともできず、廣瀬の顔を見つめてしまう。
「ははあ、そういうカオしちゃうんだ。あいつも罪な男だね」
 廣瀬は端正な顔を近づけてニコッと笑う。
「あの、」
「ああ、俺ね、ゲイなの。あいつは大学の同期だったんだけど、二年くらい前にその手の店で偶然再会してさ。あ、でもいかがわしい店じゃないよ。上品におとなしく飲むだけの店だから心配しないで」
 佳人は小さく俯いて廣瀬から目を逸らした。何に動揺しているのか自分でも見極められなかったけれど、ただひとつはっきり分かったのは、芳崎にも佳人の知らない面がたくさんある、ということだ。大人の男としての。
「気になる? 相手の子のこと」
「別に」
「君より少し年下かな。細身で顔が小さくて優しそうな顔立ちの子だったよ。二人ともなんだか深刻そうな様子だったから声かけなかったんだけど」
 ありふれた特徴なのに、芳崎と一緒にいたという少年の顔に、誠のそれを重ねてしまう。
「そうですか。でも、…俺には関係ないことなので」
 力なく言い捨てて背を向ける。
「じゃさ、」
 廣瀬が後ろ手を掴んで佳人を振り向かせた。
「俺とつきあわない? 男はダメ?」
 ぐっと腰を引き寄せられてカッとなる。
「ふ、ざけないでください」
「ふざけてない。真剣だよ。そういう目をする子って放っておけない」
「やめ、」
 廣瀬の腕の中でもがく佳人の両手首を掴んで廣瀬は耳元で告げた。
「愛されたいんだろ、誰よりも。俺なら君だけを見るよ。他に目はやらない」
 ハッとして廣瀬を間近に見つめる。意外にもそこにはからかいや意地の悪さの色は見えず、佳人は小さく息を呑む。
「返事は今すぐじゃなくていい。俺は案外気が長いよ。でも君をいたずらに迷わせたりはしない。君は奪われるくらいの方がいいんだ、考えるよりも」
 そうだろ? と目で告げ、廣瀬はそっと佳人を解放した。
 何も言えずに唇を震わせる佳人に軽く片目を瞑ってみせると、廣瀬はまた会いに来るよ、と手を振って背を向けた。
 佳人は激しく脈打つ心臓を持て余しながら、廣瀬の背中を見送った。
 君は奪われるくらいの方がいい。その言葉がいやに耳に残ったのは、それが正鵠を射ていたからかもしれない。
 佳人は欲しくても欲しいとは言えない。考える時間は不安と恐怖だけを生む。何も考えられないくらいに奪われたい。
 そう願ってしまう自分はとても狡くて、どうしようもなく臆病な人間なのだと、判ってはいるけれど――。


 その翌日。午後八時を過ぎた頃、誠が例のクッキーを届けるためにアパートを訪れた。いつになく顔色が悪く、心なしか元気がないように見えて佳人は眉を顰めた。
「元気ないな、体調悪いのか」
「ううん、大丈夫。……ここのところ、ちょっと眠れなくて」
 誠はうっすらと隈のおりた目許を押さえながら力なく微笑む。こんな表情を見るのは珍しく、佳人は中へ招くべきかどうか迷ったが、いち早くそれを察した誠はすぐに帰るから、と告げた。
「寒くなってきたから、早く帰ってすぐ休めよ」
「うん、ありがと」
 柔らかく微笑んで誠は玄関のドアに手をかけたが、少し躊躇ったあと佳人を振り返った。
「どうした」
「うん……、あのさ、兄さん」
「ん?」
 誠は何かひどく緊張した様子で目を揺らし、それから思い切ったように口を開いた。
「俺、好きなひとが出来た」
「え」
「進路のこととか、たまたま相談に乗ってもらう機会があって、それで色々話を聞いてもらってるうちに、……好きになってた」
「……そう、か」
 何故急に誠がそんな話をし始めたのかが判らなくて、佳人は探るように誠を見つめる。
「でも、その人は、……男のひとで、……俺、そういうの初めてで、どうしたらいいのか判らなくなって」
 なにか嫌な感じが胃の底からせり上がるのを感じて佳人は息を呑んだ。
「男、なのか」
 硬い佳人の声に、誠は俯いて頷く。
「……兄さんも、よく知ってるひとだよ」
 衝撃が全身を駆け抜け、みぞおちの辺りがぎゅっと引き絞られる。まさか、……でも、自分と誠の共通の知り合いなんて、芳崎くらいしかいない。
 佳人が言葉を継げずにいるのを、誠の好きな相手が男性であることへの戸惑いのせいだと考えたらしく、誠は泣きそうに歪んだ顔で佳人を見た。
「気持ち悪い、よね、こんなの」
「……相手は、知ってるのか」
 誠はゆるゆると首を横に振る。
「まだ、言ってない。……兄さんが困るの判ってたけど、こんなの相談できるの兄さんだけなんだ」
 未だに衝撃から醒められずにいる佳人は必死に言葉を探す。と、その重い雰囲気を破るかのように佳人の携帯が鳴る音が響いた。
「ごめん、」
 佳人は救われたような心地でキッチンへと入り、テーブルの上に置かれていたそれを取り上げて目を見開いた。芳崎からのメールの通知だった。
「あ――」
 佳人が思わず誠を見ると、誠はすがるような目を向けた。佳人は無意識に携帯をジーンズの尻ポケットへとしまう。
「兄さ、」
「ごめん、俺は、」
 思わず遮るように告げる。
「――俺には、判らない。……ごめん」
 誠はハッと顔を強張らせ、それから遣る瀬無く床に目を落とした。
「そう…だよね、こんなこと、急に聞かされても困るよね」
 ごめん、と痛々しく告げて、背を向けた。
 佳人は言うべき言葉を、本当に何ひとつ見つけることが出来ず、細い後ろ姿がドアの向こうに消えていくのを、ただ黙って見送るしかなかった。
 


「疲れてるのか」
 ふいに低い声に問いかけられて、佳人はハッと顔をあげた。かすかに眉を寄せた芳崎が探るように佳人を見つめている。
「あ、ごめん、なさい」
 握っていたフォークと皿がカチリとぶつかって、佳人の動揺を知らせる。昨夜のメールに返信した際、芳崎に誘われて、久しぶりにいつか来たレストランで食事をしていた。
 だが前回とは違って少しも味が判らない。誠の言葉を思い出すと顔が強張って、まともに芳崎の目を見ることも出来なかった。
「別に謝ることないだろ。無理に誘ったのは俺なんだし」
 小さく溜め息をついて芳崎が苦笑する様子が伝わった。
 優しい芳崎。思えば人見知りの激しい佳人が彼といて窮屈な思いをすることは一度もなかった。甘苦しい痺れに心を震わせることはあったとしても。
 それは全てさりげない芳崎のフォローのおかげだった。こんなにめんどくさい自分に呆れるほど根気よくつきあい、温かい笑顔さえ向けてくれる。きっとこの先こんなひとに出逢うことはないだろう。
 佳人にとって芳崎は唯一のひとだけれど、芳崎にとっては多分そうじゃない。芳崎は誰とでもきっとうまくやれる。芳崎と誠は両想いになれるのだ。誠が芳崎に想いを伝えさえすれば。
 そう思うだけで辛くて、悲しくて、冷たくなった指先を無意識に握り込む。
「芳崎さん」
 ひどく声が掠れた。誠と会っているのかと訊こうとして、けれどどうしても言葉が出てこなくて、結局そのまま俯いてしまう。
 芳崎は辛抱強く待ってくれたが、いつまでも顔をあげない佳人にしびれを切らしたらしく、また軽い溜め息をついて、出よう、と言った。
(呆れられた――)
 ぎゅっと目を瞑る佳人の肩をそっと促して芳崎は出口へと向かう。
 会計をしようとする芳崎に、佳人は慌てて自分が払うと告げた。
「俺が誘ったんだ。気にするな」
 そこで言い合いをするのも芳崎に悪いと思い、一度は財布を引っ込めたが、外に出てから佳人は札を数枚取り出して少し強引に芳崎に押し付けた。いつにない佳人の頑なさに芳崎がまた顔を曇らせる。
「いいって、年長者を立てろよ。また別の機会に返してくれたらいい」
 芳崎はおどけるように言ってくれたが佳人は首を振った。
「返せなくなると、困るから」
「――どういう意味だ」
「別に、……ただ、そう思っただけ」
 明らかに気まずい雰囲気になって、佳人はいたたまれずに先に歩き出した。
 今夜何度目かの溜め息が芳崎の口から洩れるのを聞き、佳人はたまらなくなって足を速めた。

 遠慮する佳人に耳を貸さず、芳崎はアパートまで送ってくれた。さすがにそのまま帰すのも失礼かと思い、おずおずと中へ招き入れる。
 暗いキッチンは冷え冷えとしていて、佳人は思わず小さく身震いした。昨日誠が置いて行ったクッキーがそのままテーブルに置かれている。この家にあるのが珍しい可愛らしい袋を見て芳崎が訝るのが判った。
「それ、叔母から定期的に届けられるクッキーなんです」
「へえ」
「叔母の趣味で。子供の頃に一度、多分叔母の気を惹きたくて、美味しいと言ったんだ。本当はこの味、苦手だった。だけどそれで叔母の気が済むならと思って。……あの人は俺を追い出したって思ってるみたいだから」
 抑揚のない声で言う佳人に、芳崎は今度こそはっきりと溜め息をついた。
「それはお前の独り善がりだ。嫌なら嫌と言えよ。それが誠意ってもんだろ」
 思いがけない言葉に佳人はハッと顔をあげ、そこにはっきりと咎める気配を感じ取ると、カッと頭に血が昇った。それから急に全身が冷たくなって小さく震える。
「お前が、自分を迷惑な存在だと思い込む気持ちは判らないでもない。義理の家族の中で肩身の狭い思いをしてきたことも、少しは想像出来る。でももし本当にお前のことを大事に思ってる人間がいるとしたら? お前に何かしてやりたくても、お前が頑なに拒否してたら相手も取りつく島がないだろ。だから相手は考える。どうすればお前に負担をかけずに気持ちを伝えられるか。お前のことを忘れずにいるのだと伝えられるか。その結果がコレなんじゃないのか」
 佳人は思わず小さく息を呑んだ。
「お前が好きだと言ったことを覚えていて、それにすがるように、ささやかなコレを渡すくらいしかできずにいるんだろ」
 頭を殴られたような気分だった。
「お前は何も受け取ろうとしない。頭から相手の想いを疑って、少しも受けとめようとはしない。いつだって頑なに拒絶ばかりしてる」
 確かにそうだ。けれどそれは心を置き去りにした正論だ。いっそ冷静すぎるくらいの。
「与えられたら、受け取らなきゃいけないんですか?」
 押し潰したような声で佳人が言うと、不意を衝かれたように芳崎が言葉を失う。
「あんたに、ナニが判る」
 顔色を失くした芳崎をこれ以上見ているのが耐えられなくなって、佳人は芳崎の脇をすり抜け、玄関のドアを開いた。
 芳崎はしばらく苦しげに佳人を見ていたが、やがて諦めたように黙ってそのドアをくぐり、長いコートを翻して出て行った。
 パタン、とドアを閉めると佳人はずるずるとその場にしゃがみ込んで膝に顔を埋めた。悔しくて涙が出る。
『お前は何も受取ろうとしない。頑なに拒絶ばかりしてる』
 だってそうでもしなければ、自分を保てなかった。必要ないと突き放すことでしか、自分が傷つかない方法を見つけられなかったのだ。
 本当は叔母が作ったカレー味の肉じゃがが好きだった。だけどおかわりは一度もできなかった。そうしたいと言えば良かったのだろうか。
 萎える足でテーブルに近づき、ラッピングをほどいて素朴なクッキーを一口齧ってみる。やたらと甘くてぼそぼそするそれは、やっぱり美味しいとは思えなかった。けれど何故だか心に沁みて、どうしようもなく泣けてきた。


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