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【本編】明け方に愛される月
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十二月も半ばになって寒波が押しよせる日々が続いた。灰色の空は寒々しく、乾いた道路を枯葉がカラカラと転がってゆく。
夕方からの予約に備えて準備を終えると少し長めの休憩になる。佳人は仕事着の上にダウンジャケットを羽織って店を出た。
商店街の本屋で料理の本を物色してから、行きつけの定食屋へと向かって俯きがちに歩く。
芳崎とはあれから会っていなかった。何度かメールをくれたけれど返信はしなかった。ほんの少し前にはあんなに熱い抱擁に包まれていたのに、今は寒くて仕方がない。
仕事をしていても、家に独りでいても、芳崎のことばかり考えてしまう。そして会いたい気持ちが胸を掻き毟り、そのたびに佳人は強く自分の身体を抱いた。
ひとこと素直に謝り、会いたいと言えば、芳崎は多分会いに来てくれるだろう。けれど誠の気持ちを知ってからは、まるで地に足が縫い留められたみたいに立ち竦んでしまう。
もしも二人が今も会っていたら、もしも誠が芳崎に気持ちを告げたら――、そう考えるだけで泣きたくなった。
「佳人」
ふいに声をかけられて佳人は振り向いた。
「……叔父さん」
呟いた自分の声が微かに震える。そこにあったのは記憶よりも少し老けた叔父の姿だった。
カチャリとガラスのテーブルに紅茶が二つ置かれ、店員が離れてゆく。カフェというより喫茶店と呼ぶ方がふさわしい静かな店に入り、佳人は四年ぶりに叔父と向き合っていた。
かつては豊かだった黒髪にも白いものが混じり、額や頬には少し目立つ皴も刻まれている。
だが穏やかで実直な印象はそのままだった。口数の多い人ではなかったが、頑なな佳人にも根気よくつきあってくれたと思う。
佳人はこの人が嫌いではなかった。むしろ独占したいと願ったこともある。それはもしかしたら、女が男に抱くような感情に近かったかもしれない。けれど佳人のその慕情は、ある日を境に打ち砕かれた。それが佳人が家を出た、もう一つの大きな理由だった。
「なんだか、すっかり洗練されたな」
叔父は紅茶に形ばかり口をつけ、どこか眩しげな目で佳人を見た。
「そうですか。自分じゃ判らないけど」
「立派な社会人になった。顔つきが違うよ」
褒める言葉とは裏腹に、その表情はどこか屈託の色を滲ませており、佳人は気が重くなって俯いた。
「仕事はどうだ。もう慣れたか」
「はい、良くしてもらってます」
「そうか、それはよかった。佳人は昔から器用だったからな、きっといい料理人になるだろう」
どこか上滑りした会話が虚しい。佳人は苦痛になって、早く切り上げたいと思った。
「叔父さんは、仕事中じゃないんですか」
「ああ、得意先回りの途中だけどね、先方の都合で時間がズレたんでどうしようかと思ってたところだったんだ」
「そうですか、俺はもうそろそろ戻らないと」
「そうか、昼は食べたのか」
「はい」
嘘だったが、この場から逃れられるなら何でもよかった。叔父は目を合わせようとしない佳人に小さく落胆の溜め息をつき、苦く笑った。
「正月は、帰って来れないのか」
「すみません、年末が忙しいのでゆっくりしたいんです」
「そうか。咲江も毎年楽しみにしてるんだが」
残念そうな口調に、明確な苛立ちを覚える。
「叔父さん、俺はもうあの家を出た身です。そんなに気を遣わないでください。叔父さんだって、もう解放されたいでしょう」
「……どういう意味だ」
「判らないとは言わせませんよ。あの日俺が家を出て一番ホッとしたのはあなたの筈だ」
叔父の顔が一瞬にして強張る。それは叔父も「あのこと」を決して忘れてはいないということを如実に表していた。
あの夜祭の日を境に、佳人は叔父達との間に明確な一線を引いた。それは佳人が決めたことだから、それに伴う孤独や困難な日々を佳人は受け止めなければならなかった。
だが成長するにつれて心と身体のバランスが崩れ、佳人は変わってゆく自分への戸惑いからひどく不安定になっていった。
それでも堅い殻の中に自分を閉じ込めていた佳人は、初めて精通のあった日も誰にも相談することができず、目覚め行く性への不安と闇を抱え、独りきりで泣いた。
その恐怖から逃れるため、自慰をするときは特定の誰かではなく、顔の見えない大きな存在に背後から包まれ、緩やかな絶頂へと導いてくれる優しい手を想像して自分を慰めていた。
そうやって自分の中の不安と折り合いをつけながら、なんとか日々を遣り過ごしていたのだと思う。
そうして少しずつ心の均衡を取り戻しつつあった頃。あれは中二の秋、冷たい雨が降る日のことだった。
雨に濡れて無人の家に帰宅した佳人は急いでシャワーを浴びた。その頃叔母が体調を崩して入院しており、その日は誠が学校帰りに叔母を見舞うことになっていた。その晩はそのまま病院近くの親戚の家に泊まることになると聞いていた。
誰もいないと思って腰にタオルを巻いただけの状態で風呂を出ると、思いがけず叔父が帰宅しており、半裸状態の佳人を見て小さく息を呑んだのが判った。
叔父はぎこちなく目を逸らし、訊かれもしないのに取引先から直帰したのだと佳人に告げた。
佳人はあいまいに頷くとそのまま自室へと戻った。微かに動揺していたのは叔父の目がいつもと違っていたからだ。
いや…、思い返せば叔父のそういう目には、それまでにも何度か遭遇したことがあったようにも思う。
その晩も二人きりの夕食が息苦しくて佳人は早々に自室へと引き上げた。
雨音が窓を打つのを聞きながら眠れない夜を過ごしていると、部屋のドアが小さくノックされた。心臓が跳ねて、佳人は身を縮めたままじっとドアの外を窺った。
佳人、と呼ぶ声が聞こえて、佳人はそろそろとドアに向かい、躊躇ったのちにドアを開けた。
そこに立っていた叔父の表情は背後からの照明のせいでよく判らなかった。そのとき叔父が何と言って部屋に入ってきたのかもよく憶えていない。おそらくめったにない機会だから少し話をしようといった内容だったのだと思う。
そして気が付けば佳人はベッドの上で、叔父の腕に抱かれたまま、優しく導かれるようにして欲望を吐き出していた。
それは男親が息子に施す性の手ほどきなどといったものからは逸脱して、もっと後ろ暗く淫靡で、背徳の香りすら漂っていた。
それでも佳人は初めて知った他人の手の温もりに、深い安らぎを感じていた。
叔父が自分に触れ、自分だけを見ている。そのことに抗いがたい喜びを覚え、大人の男の腕に包まれて眠ることが、こんなにも安心することなのだと初めて知ったのだ。
だが翌朝目が覚めたときには、叔父の姿はすでになかった。それから叔父は、佳人の目を避けるように朝早く出勤するようになり、仕事から帰るのもひどく遅くなった。
そして叔母が退院して戻ってからは、完全に何ごともなかったかのように振る舞った。
ああ、逃げたんだな…と佳人は奇妙に冷静な気持ちで思った。きっと後悔しているのだろう。あれは叔父の出来心だったのだ。
そして傍目にはそれまでと変わらない日常が戻った。佳人が家を出るまで、叔父があのことに触れることは一度もなかった。
佳人はもう、何にも期待したりしないと誓った。
「口では親身なフリをして帰って来いなんて言うけど、ほんとはもう、俺の顔なんて見たくないんでしょう。だってあれはあなたの思い出したくもない、汚い思い出なんだ」
「違う、佳人、そうじゃない。……あれはきみがあの頃あまりに心細そうで、寂しそうで、……とても愛おしく思えて、私は……、」
「どんな理由があろうと、あなたは逃げた。それが答えです」
「……」
「あのとき、俺が本当の息子だったら、あんなふうに触れましたか」
「それは……」
「出来なかったでしょうね。あの時あなたの本心が表れたんだ。俺なら関係が崩れても構わないって」
「違う」
「違わない!」
佳人が鋭く遮り、何ごとかと他の客がこちらを窺う。互いに息をつめて見つめ合った。
「あなたには打算があった。いざとなれば、俺を切れるって」
叔父は苦渋の表情で佳人を見た。それから膝に手をついて頭を垂れる。
「――済まない」
塞がり切ったはずの傷からまた血が噴き出すのを感じ、佳人はたまらず席を立った。
「言いませんよ…、誰にも。育ててもらった恩は、忘れてないつもりです」
財布から札を一枚引き抜いてテーブルに置くと、そのまま踵を返す。
情けなくて涙が出そうだった。
でも泣かない。絶対に。
(こんなことのために、俺は絶対に泣いたりしない)
店を出たとたん、冷たい風が頬に切りつけた。凍える胸を庇うように、ジャケットの前をかき合せる。
(芳崎さん……)
不安をかき消すように愛しい男の名前を呼び、温かくて大きな手を思い起こす。
あの思春期の頃から何も変わっていない自分の弱さに、佳人はうつむいて悲しく笑った。
それから数日後、誠から電話があった。
この間は変なこと言ってゴメン。開口一番、誠はそう言い、それからすぐ話を逸らすように、叔母の母親が亡くなったことを告げた。
――ほんとに愛想のない。可愛げのない子だよ!
条件反射のように、憎々しげな声が蘇る。
その歳の女性にしては背が高く、整った顔立ちの人だったが、当たりが強く、キツい性格で、佳人はその人がひどく苦手だった。娘の家庭に入り込んだ厄介者として、佳人はいつも目の敵にされていた。
「そうか。お悔み伝えてくれ」
佳人は抑揚のない声で短く告げた。
『うん。……俺、あのおばあちゃんすごく好きだったな。優しくて』
淡々と流すつもりだった話題も、誠のそんなひと言で平穏には遣り過ごせなくなる。このところの不安や苛立ちから怒りの沸点が低くなっていることは自覚していた。
「俺は苦手だったよ。あの人は俺を嫌ってたから」
『どうして、そんなことないよ』
「お前は知らないだけだよ。俺は陰で相当嫌味を言われた」
『え』
「まず、俺はあの人に目を合わせて貰ったことがない。一度もだ」
『……うそ』
「ああ、一度だけあるか。小学生のとき、正月に挨拶に行っただろ。お前は着くなりあの人の部屋に呼ばれて遊んでた。俺は入るのを許されてなかったから外から見るだけだったけど。お前は新しい晴着を貰ってそれを着て楽しそうだった。それからしばらくして部屋が静かになったから覗いてみたら誰もいなくてさ、お前が着てた着物の帯が、火鉢の端にかかってたんだ」
『え、それって』
「多分、お前が脱いだままにしてたんだろ。でも俺は入ることが許されてなかったからどうしようかと思って、そしたらいきなり背中から怒鳴られた」
――何やってんだい、泥棒みたいに勝手に人の部屋覗くんじゃないよ!
「あげく俺が妬んでお前の着物を燃やそうとしたんだって誤解された。蛇みたいな目で睨まれたよ」
『そんな……。知らなかった』
誠の声が悲痛な色を帯びる。それがどこか心地よく感じるのは自分の心が歪んでいるからだろうか。
「お前の知らないことはたくさんあるよ。お年玉もお前の分しかなくて、いつも叔父さんたちがこっそり袋を入れ替えて俺たちに渡してくれてた。同じ袋だけど、俺の中身は叔父さん達が入れてくれたお金だった」
いまや打ちのめされたような気配が、電話の向こうから伝わってくる。
『……ごめん、兄さん』
「別に。お前が謝ることじゃないよ」
『でも俺、なんにも知らなくて、おばあちゃんがそんな人だったなんて気づきもしないで能天気に甘えてた。兄さんが俺のせいで嫌な思いしてたのも知らないで。……ほんと、恥ずかしいよ』
素直な反省が誠らしい。だが苛立ちが収まらないのは何故だろう。
どこまでも綺麗で、素直で、謙虚で思いやりがあって。
だが誠は判っているのだろうか。その優しさと正しさが、時には相手の逃げ道を奪うということを。
『兄さんは強いね。ほんとに頑張ってる。俺は苦労知らずで、何不自由なくて。兄さんの方がよっぽど頭よかったのに、俺だけ大学行かせてもらうのも、ほんとはすごく悪い気がして……、父さんたちもすごく残念がってた。もっと甘えてくれればって、いつも言ってたんだよ』
胃の底がムカムカした。強いんじゃない。独りで立たざるを得なかっただけだ。
大事に大事に守られて、汚いことも知らずに育ったいい子が、これ以上綺麗ごとを並べるのが我慢ならなかった。
「お前は優しいな。でも残酷だ。俺はお前のそういう無神経な優しさが大っ嫌いだったよ」
ふと音が途切れて、ショックで蒼ざめた誠の顔が見えるようだった。
判っている。これは八つ当たりだ。これ以上言うべきではない。そう思うのに、限界まで昂ってしまった激情は、もはや止める手立てがなかった。
「俺はいつも疎まれて、お前と比較されて、最後には捨てられる。俺が慕っていた人たちにもお前はニコニコ近づいていって、結局は俺から奪っていく。そんなことの繰り返しだったよ。だから俺はお前から離れたかったんだ」
『――そんな、……』
誠の悲痛な声が、耳を打つ
「あのクッキーだって、俺には重荷でしかないんだ。俺のせいでお前の家族がぎくしゃくするのに耐えられなくなってあそこを出たのに、いつまでこんなこと続けなきゃなんないんだよ。俺はもう、気を遣うのも遣われるのもうんざりなんだ! だから放っておいてくれないか。俺のことなんか忘れて、もう自由にやってくれよ。ほんとに、頼むから!!」
一気に吐き出して佳人は電話を切った。それから電源も切ってテーブルに放り出すと、暗い寝室のベッドにうつ伏せに転がった。
心臓がドキドキ、ドキドキ…とうるさいくらいに鳴っている。言ってしまった、と何度も頭の中で繰り返した。あの優しい誠に、何の罪もない誠に、これ以上の暴言はないというほど酷いことを言ってしまった。
けれど一方で奇妙な解放感もあった。これで誠ともきっと縁が切れる。そうすれば誠が芳崎と会おうと、何をしようと見なくて済む。
なんてみっともない心根だろう。
けれどそれが佳人の正直な気持ちであり、その時に感じていたことのすべてだった。
翌日の土曜日、寝不足のまま出勤した佳人は、年の瀬の忙しさに余計なことを考える暇もなく懸命に身体を動かした。そのおかげで少し気持ちがすっきりとし、仕事をあがると昨夜から電源を切ったままだった携帯を思い切って再起動した。
メールが一件。誠からだった。
『今までごめん。俺、きっと気付かないまま兄さんの嫌なことばっかりしてたんだね。無神経だって言われた意味が解った気がする。兄さんがどんな気持ちで家を出たのかも知らないで、つきまとって、兄さんの優しさに甘えてた。本当にごめん。自分勝手でごめん』
誠らしいメールだった。けれどもう、昨夜のような苛立ちは感じなかった。むき出しの言葉を投げつけたことで何かがプツリと切れてしまったような気分だった。
見上げれば冬の夜空に冴え冴えとした下弦の月が浮かんでいる。夜風がキンと首筋に突き刺さり、佳人はジャケットの前をしっかりと閉めると、店の裏の駐輪場へ向かった。エンジンを少し温めてから暗い夜道を走り出す。
芳崎からのメールがなかったことに、自分勝手な落胆を覚えていた。
もう、終わりなのだろうか。このまま佳人が逃げ続けていたら、きっと芳崎は諦めて去っていくだろう。
それは胸が凍えるような想像だった。
信号待ちでぼんやりとしていると、パァン、と後ろからクラクションを鳴らされ、佳人は慌ててバイクを発進させた。
寂しくて、寂しくて、今すぐにでも芳崎に会いたかった。あの温かい腕で、強く強く抱き締めて欲しいと思う。
そんな切ない願いが通じたのか、アパートに帰って階段を上ると、思いがけず芳崎が佳人の部屋の前に立っていた。
いつから待っていたのか、白い息を吐き、腕を組んで、立ち尽くす佳人を見つけるとふっと小さく笑った。
「遅かったな」
「……どうして」
「メールは無視しても、ここには帰ってくるだろ」
幻じゃないだろうかと思うほど、会えたことが嬉しくて、待たせてしまったことが申し訳なくて、ふらふらと歩み出す。
「芳崎さ、」
「話がある」
芳崎のいつになく真剣な声に顔が強張った。
「入ってもいいか」
佳人は嫌な感じに鳴り始めた鼓動を必死に抑えつけ、微かに頷くと芳崎を部屋に招き入れた。
コトリ、と熱いコーヒーのカップを置くと、芳崎が短く礼を言った。
リビングのいつものソファに座り、ネクタイをくつろげた芳崎は、隣ではなく向かいに座った佳人をじっと見つめた。何を言われるのかと怖くて、佳人は顔をあげることも出来ない。
「ちゃんと食ってるのか。少し痩せたな」
「食べてる。……芳崎さんは」
「俺は、毎日味気ない弁当を食ってるよ。佳人のメシが食えないからな」
弾かれたように顔をあげると、芳崎はちょっと怒ったような、苦いような、複雑な表情で佳人を見ていた。
それが今でも求められているからなのか、みっともなく逃げ回る佳人への皮肉なのかも見極められず、何を言えばいいのか判らない。
本当に、自分は芳崎の前では何も判らなくなってしまう。
不用意なことを言えば、そこから全てが崩れていってしまいそうで、怖くて怖くて仕方がなかった。自分がここまで臆病な人間だとは知らなかった。
だが続けられた芳崎の言葉は、佳人の混乱をいっそう酷くした。
「誠君と、何かあったのか」
「どう…して」
何故、芳崎がそれを知っているのだろう。嫌な想像があっというまに現実味を帯びる。
「偶然会ったんだ。元気がなかったからワケを訊いたら、お前を怒らせてしまったと言っていた」
驚愕に目を瞠る佳人を見て、芳崎は珍しく目を逸らした。
「……へえ、よく偶然会うんだね」
あ、嫌な言い方をした、と自覚したが、言葉は取り戻せない。
案の定、芳崎が顔をしかめた。それに佳人は怯えたが、一方で芳崎を責める気持ちも沸き上がる。
二人が会っていたという事実もショックだったが、それ以上に誤魔化されたことに傷ついたのだ。昨日の今日だ。偶然にしてはあまりにタイミングが良すぎる。
廣瀬が言っていた、芳崎と一緒にいた少年というのはほぼ間違いなく、誠だろう。
二人が会っていたのは一度だけじゃないはずだ。そして佳人とのデリケートな問題まで漏らすほど、誠は芳崎を信頼している。
『進路のこととか、たまたま相談に乗ってもらう機会があって、それで色々話を聞いてもらってるうちに、……好きになってた』
(そういうことか……)
疑う余地はないと思った。誠が想う相手は芳崎なのだろう。
佳人は疲れた笑いを洩らした。これはもう、多分運命なのだ。
「全部、聞いてるんじゃないの。それとも俺の口から謝罪が聞きたいってこと? 誠を傷つけてごめんなさいって?」
「――なんの話だ」
芳崎は露骨に眉を顰めて佳人を見る。その非難じみた目が辛くて、痛くて、余計に攻撃的な言葉を放ってしまう。
「別に隠さなくたっていいのに。良かったじゃん。誠と仲良くなったんでしょ。俺はお役ご免てことだよね」
「どういう意味だ」
「そのままだよ。誠がいるのに俺に構ってるヒマないでしょ。俺たちは、…別につきあってるってワケじゃないんだし、カラダだけの関係なんだから」
ピシッと音を立ててその場の空気が凍りついた気がした。芳崎が持っていたカップを、静かにテーブルに置く。
「――ああ、そうだったな。忘れてたよ。お前は誠君の代わりに、俺の相手をしてくれてたんだったよな」
聞いたこともないような冷たい声音に心臓が凍りつく。眇められた目が、静かに佳人を捕えていた。
芳崎の整った顔は、表情を消すとこんなにも怖いのだと初めて知る。芳崎はいつも優しく笑っていたから。
どれほど佳人に対して温かい眼差しを向けてくれていたのかに、今更ながらに気付く。
けれどそれは佳人の身に余るものだった。自分の心根はこんなにも黒く、汚れている。例え偽ってそばにいても、いつか芳崎は佳人の本質に気付き、失望するだろう。
混じり気のない優しさをもった誠とは違う。自分でも持て余すほどの卑屈さは、いつも周りを傷つけて、嫌な思いをさせて、彼らの好意を踏みにじってしまうのだ。
もうそんなことを繰り返すのは嫌だった。こんな醜い感情に振り回されるくらいなら、独りでいた方がいい。
自分はただ、つかの間、優しい夢を見ただけだ。
「誠にさ、言ってみれば。多分、悪いようにはならないよ」
芳崎がすっと立ち上がる気配がした。思わずすがるように見上げると、芳崎は静かに笑って佳人の腕を掴んだ。
「そうだな。じゃあ、これが抱き収めだ」
耳元で冷たく告げられ、佳人は驚愕に目を見開く。
「い、…イヤだ!」
掴まれた腕を振り払おうとするが、痛いほどに食い込んだ指がそれを許さない。ザッと全身の血が引くような恐怖が襲う。
「やっ、やだ、やめて、芳崎さ、」
床に押し倒されて、荒々しい手で肌を暴かれる。嫌なのに、誠の代わりにされるなんて悲しくて、痛くて、胸が張り裂けそうなのに、芳崎の手に触れられれば、身体は勝手に熱くなる。
乱暴な手にまさぐられて、無理やり快感を引きずり出されて、佳人は呆気なく爆ぜる。惨めで、みっともなくて涙が零れた。汚れた肌を晒したまま、佳人は顔を覆って泣いた。
「――クソッッ、……どうすりゃいいんだ」
暴れ狂う鼓動の向こうで、苦りきった芳崎の声がやるせなく吐き棄てるのが聞こえた。
その翌日、芳崎から一言『悪かった』とメールがあり、それを境に彼からの連絡は完全に途絶えた。
それがあの夜の無体に対しての謝罪なのか、うまく行かなかった二人の関係を終わらせるための最後の言葉なのか、短すぎるメッセージからは真意を読み取ることが出来ず、かと言って問い質す勇気もなくて、佳人の心はまた千々に乱れた。
仕事でもミスばかりを繰り返し、善三に怒鳴られてはいっそう落ち込む日々が続いた。
アパートに帰り、一人きりの味気ない食事を済ませると、佳人はリビングの出窓から空を見上げた。
澄んだ夜空に糸のように細い月がかかっている。もうあと僅かであの月は消えてしまうだろう。かつてあの夜祭の夜に、独りきりの部屋から見上げた月を思い出し、その心細さまでを追体験して、佳人は小さく身を震わせた。
ソファに移動し、芳崎がいつも座っていた左側に深く身を沈めると、目を閉じ、会いたいひとの姿をそっと思い浮かべる。
長い脚をゆったりと組み、右に座る佳人の身体を守るように背もたれに腕を乗せて、佳人をからかったり、笑わせたり、不意打ちのような甘い口づけで黙らせたりした。
佳人が部屋着にしているニットカーディガンは芳崎がくれた物だ。気に入っていたが洗ったら縮んでしまったと言ってある日持ってきた。それでも佳人にはまだ大きいくらいで、袖口から指先だけが覗くのが可愛いと笑って、よくその冷たい指先を温めてくれた。
ポケットから小さなハンドクリームの缶を取り出して蓋を開ける。甘くて爽やかなカモミールの香りがするそれを、水仕事で荒れてしまった佳人の手に丁寧に塗り、いい香りがすると言って、その甲に、指先に、優しくキスを落としてくれたこともあった。
それら全てが優しい記憶で、追想するだけで胸が震える。温かい手で触れられて、大きな胸に抱き寄せられると、幸せが洪水のように沸きあがり、佳人は自然に笑っていた。
愛されたいと、強く願った。このひとのものになれたらどんなにいいだろう。それが叶うなら他には何も要らない。本気でそう思った。
なのに何故、あんなことを言ってしまったのだろう。佳人からは何一つ奪わず、たくさんの温かい気持ちをくれたひとに。あんなに優しく包んでくれたのに、どうして身体だけだなんて酷いことを言ったのだろう。
自分のことばかりで、芳崎の心を顧みることもせずに逃げてばかりいた。
『お前が受け取らなきゃ、棄てるしかない』
俺の気持ちを。
彼は、そう言っていたのだろうか。
『――クソッッ、……どうすりゃいいんだ』
最後に聞いたあの言葉は、佳人の頑な過ぎる態度を前に、途方に暮れているように聞こえた。佳人に心を残していなければ、あんな風に悩む必要もないのではないか。
もし自分と同じように、芳崎も自分のことを想ってくれているのだとしたら。そうなのだとしたら、このまま手を離していいのだろうか。
(芳崎さん――)
佳人はたまらなくなって、ハンドクリームをカーディガンのポケットにしまうと、ジャケットに着替え、バイクのキーを掴んで玄関を飛び出した。
凄く怖い。だけど確かめたい。
その一心で、勇気を振り絞って四駅分の距離を飛ばし、芳崎のマンションまで来た。
駐車場の隅にバイクを停め、白い息を吐きながらエントランスへと向かう。
ここへは一度だけ来たことがあった。初めて芳崎に最後まで身体を許した日、うまく立てなくなった佳人を、芳崎は車でこのマンションに連れ帰った。心配だから少しでも長くそばについていたい、そう言って。
そして恥ずかしがる佳人の身体を丁寧に洗い、清潔なシャツでくるみ、壊れ物を扱うみたいに、大切に大切に腕の中に包んでくれた。
火照る頬を逞しい胸に預けて、優しく髪を撫でられていると、この世の幸せの全てを手に入れたみたいな気がした。
会いたい。会って、謝りたい。そして叶うなら許して欲しい。狡くて、臆病過ぎる自分を。その一心でここまで来たのだ。
だが見上げた芳崎の部屋の窓に、灯りはついていなかった。
どうしようかと白い息を吐きながらマンションの敷地に隣接する小さな公園に目を向けると、ベンチに並んで座る二つの人影が見えた。常夜灯にぼんやりと浮かび上がる姿に目を凝らし、ギクリと身体を強張らせる。
(え……)
大きな背中と細い背中が、人一人分を空けて座り、何かひどく深刻そうな様子で話しているのが聞こえた。
(どうして――)
何故、芳崎と誠がここにいるのだろう。
鼓動が嫌な感じに乱れ、腋の下を冷たい汗が伝う。
やめておけ、と自分の中の何かが止めるのも聞かず、佳人は彼らから少し離れた植え込みの陰に身を潜めるようにして座り込んだ。
誠の涙まじりの声が聞こえきて、心臓が痛いほどに音を立てる。手の先が痺れて、こめかみがズキズキと疼き出す。
「俺はいつも兄さんを傷つける。今度だって、先に好きになったのは兄さんだったのに、結局俺が奪うみたいになって、兄さんはまたきっと嫌な思いをする。だから諦めなきゃいけないって頭では判ってるのに、でも苦しくて……、」
誠が涙に顔を伏せるのが判った。
「好きなんです。どうしても――」
悲痛な告白が、夜の闇を震わせる。重苦しい沈黙のあと、芳崎が宥めるように言った。
「……それはもう、終わったことだ。そうだろう。佳人は大丈夫だ。きっと解ってくれる。ちゃんと話せば大丈夫だから」
衝撃だった。聞いてすぐには、彼らが何を言っているのか判らないほどに。
けれどそれらの会話を反芻するうちに、身体が激しく震え出した。
なぜ誠が佳人の想いを知っているのだろう。芳崎が話したのだろうか。まだ佳人の口から伝えてもいないことを?
なぜ芳崎は佳人の大切な恋心を、そんな、「物」か何かみたいに軽々しく扱うのだろう。こんな風に佳人のいない所で、ただ彼ら自身の新しい恋を語るためだけに――。
握った拳がぶるぶると震え出す。音もなく立ち上がると、両手に顔を伏せる誠が、芳崎の腕にすがるようにして泣いているのが見えた。
とにかく送っていくから、という芳崎の声が聞こえた瞬間、心が粉々に砕けた。
どうやって家に辿り着いたのかも判らなかった。
灯りをつけたままだった部屋に入り、キッチンのテーブルの上にキーを置くと、流しに積まれた皿を脇によけて水を出した。
「明日、何時に起きるんだっけ……」
呟きながら、手をごしごしと洗う。何度も何度も洗う。
濡れて凍える手を見つめていると、ボトボトと涙が落ちた。ラックにささっていた果物ナイフを取り上げ、ほとんど衝動的に手の甲を切りつけた。彼が好きだと言ったこの手を。
鮮血が噴き出し、シンクが真っ赤に染まる。痛みは感じなかった。それが不思議で、許せなくて、反対の手も切りつける。
白い皮膚が裂かれた瞬間、石火のように真紅の線が走るのを見て、ハッと我に返る。
取り返しのつかないことをしたという強烈な悲しみが襲った。
カタンッとナイフを床に落とし、血まみれの両手で顔を覆って泣いた。
冷たい頬を伝う熱い涙と鮮血だけが、佳人の無惨な恋を悼むように、静かに流れ続けた。
夕方からの予約に備えて準備を終えると少し長めの休憩になる。佳人は仕事着の上にダウンジャケットを羽織って店を出た。
商店街の本屋で料理の本を物色してから、行きつけの定食屋へと向かって俯きがちに歩く。
芳崎とはあれから会っていなかった。何度かメールをくれたけれど返信はしなかった。ほんの少し前にはあんなに熱い抱擁に包まれていたのに、今は寒くて仕方がない。
仕事をしていても、家に独りでいても、芳崎のことばかり考えてしまう。そして会いたい気持ちが胸を掻き毟り、そのたびに佳人は強く自分の身体を抱いた。
ひとこと素直に謝り、会いたいと言えば、芳崎は多分会いに来てくれるだろう。けれど誠の気持ちを知ってからは、まるで地に足が縫い留められたみたいに立ち竦んでしまう。
もしも二人が今も会っていたら、もしも誠が芳崎に気持ちを告げたら――、そう考えるだけで泣きたくなった。
「佳人」
ふいに声をかけられて佳人は振り向いた。
「……叔父さん」
呟いた自分の声が微かに震える。そこにあったのは記憶よりも少し老けた叔父の姿だった。
カチャリとガラスのテーブルに紅茶が二つ置かれ、店員が離れてゆく。カフェというより喫茶店と呼ぶ方がふさわしい静かな店に入り、佳人は四年ぶりに叔父と向き合っていた。
かつては豊かだった黒髪にも白いものが混じり、額や頬には少し目立つ皴も刻まれている。
だが穏やかで実直な印象はそのままだった。口数の多い人ではなかったが、頑なな佳人にも根気よくつきあってくれたと思う。
佳人はこの人が嫌いではなかった。むしろ独占したいと願ったこともある。それはもしかしたら、女が男に抱くような感情に近かったかもしれない。けれど佳人のその慕情は、ある日を境に打ち砕かれた。それが佳人が家を出た、もう一つの大きな理由だった。
「なんだか、すっかり洗練されたな」
叔父は紅茶に形ばかり口をつけ、どこか眩しげな目で佳人を見た。
「そうですか。自分じゃ判らないけど」
「立派な社会人になった。顔つきが違うよ」
褒める言葉とは裏腹に、その表情はどこか屈託の色を滲ませており、佳人は気が重くなって俯いた。
「仕事はどうだ。もう慣れたか」
「はい、良くしてもらってます」
「そうか、それはよかった。佳人は昔から器用だったからな、きっといい料理人になるだろう」
どこか上滑りした会話が虚しい。佳人は苦痛になって、早く切り上げたいと思った。
「叔父さんは、仕事中じゃないんですか」
「ああ、得意先回りの途中だけどね、先方の都合で時間がズレたんでどうしようかと思ってたところだったんだ」
「そうですか、俺はもうそろそろ戻らないと」
「そうか、昼は食べたのか」
「はい」
嘘だったが、この場から逃れられるなら何でもよかった。叔父は目を合わせようとしない佳人に小さく落胆の溜め息をつき、苦く笑った。
「正月は、帰って来れないのか」
「すみません、年末が忙しいのでゆっくりしたいんです」
「そうか。咲江も毎年楽しみにしてるんだが」
残念そうな口調に、明確な苛立ちを覚える。
「叔父さん、俺はもうあの家を出た身です。そんなに気を遣わないでください。叔父さんだって、もう解放されたいでしょう」
「……どういう意味だ」
「判らないとは言わせませんよ。あの日俺が家を出て一番ホッとしたのはあなたの筈だ」
叔父の顔が一瞬にして強張る。それは叔父も「あのこと」を決して忘れてはいないということを如実に表していた。
あの夜祭の日を境に、佳人は叔父達との間に明確な一線を引いた。それは佳人が決めたことだから、それに伴う孤独や困難な日々を佳人は受け止めなければならなかった。
だが成長するにつれて心と身体のバランスが崩れ、佳人は変わってゆく自分への戸惑いからひどく不安定になっていった。
それでも堅い殻の中に自分を閉じ込めていた佳人は、初めて精通のあった日も誰にも相談することができず、目覚め行く性への不安と闇を抱え、独りきりで泣いた。
その恐怖から逃れるため、自慰をするときは特定の誰かではなく、顔の見えない大きな存在に背後から包まれ、緩やかな絶頂へと導いてくれる優しい手を想像して自分を慰めていた。
そうやって自分の中の不安と折り合いをつけながら、なんとか日々を遣り過ごしていたのだと思う。
そうして少しずつ心の均衡を取り戻しつつあった頃。あれは中二の秋、冷たい雨が降る日のことだった。
雨に濡れて無人の家に帰宅した佳人は急いでシャワーを浴びた。その頃叔母が体調を崩して入院しており、その日は誠が学校帰りに叔母を見舞うことになっていた。その晩はそのまま病院近くの親戚の家に泊まることになると聞いていた。
誰もいないと思って腰にタオルを巻いただけの状態で風呂を出ると、思いがけず叔父が帰宅しており、半裸状態の佳人を見て小さく息を呑んだのが判った。
叔父はぎこちなく目を逸らし、訊かれもしないのに取引先から直帰したのだと佳人に告げた。
佳人はあいまいに頷くとそのまま自室へと戻った。微かに動揺していたのは叔父の目がいつもと違っていたからだ。
いや…、思い返せば叔父のそういう目には、それまでにも何度か遭遇したことがあったようにも思う。
その晩も二人きりの夕食が息苦しくて佳人は早々に自室へと引き上げた。
雨音が窓を打つのを聞きながら眠れない夜を過ごしていると、部屋のドアが小さくノックされた。心臓が跳ねて、佳人は身を縮めたままじっとドアの外を窺った。
佳人、と呼ぶ声が聞こえて、佳人はそろそろとドアに向かい、躊躇ったのちにドアを開けた。
そこに立っていた叔父の表情は背後からの照明のせいでよく判らなかった。そのとき叔父が何と言って部屋に入ってきたのかもよく憶えていない。おそらくめったにない機会だから少し話をしようといった内容だったのだと思う。
そして気が付けば佳人はベッドの上で、叔父の腕に抱かれたまま、優しく導かれるようにして欲望を吐き出していた。
それは男親が息子に施す性の手ほどきなどといったものからは逸脱して、もっと後ろ暗く淫靡で、背徳の香りすら漂っていた。
それでも佳人は初めて知った他人の手の温もりに、深い安らぎを感じていた。
叔父が自分に触れ、自分だけを見ている。そのことに抗いがたい喜びを覚え、大人の男の腕に包まれて眠ることが、こんなにも安心することなのだと初めて知ったのだ。
だが翌朝目が覚めたときには、叔父の姿はすでになかった。それから叔父は、佳人の目を避けるように朝早く出勤するようになり、仕事から帰るのもひどく遅くなった。
そして叔母が退院して戻ってからは、完全に何ごともなかったかのように振る舞った。
ああ、逃げたんだな…と佳人は奇妙に冷静な気持ちで思った。きっと後悔しているのだろう。あれは叔父の出来心だったのだ。
そして傍目にはそれまでと変わらない日常が戻った。佳人が家を出るまで、叔父があのことに触れることは一度もなかった。
佳人はもう、何にも期待したりしないと誓った。
「口では親身なフリをして帰って来いなんて言うけど、ほんとはもう、俺の顔なんて見たくないんでしょう。だってあれはあなたの思い出したくもない、汚い思い出なんだ」
「違う、佳人、そうじゃない。……あれはきみがあの頃あまりに心細そうで、寂しそうで、……とても愛おしく思えて、私は……、」
「どんな理由があろうと、あなたは逃げた。それが答えです」
「……」
「あのとき、俺が本当の息子だったら、あんなふうに触れましたか」
「それは……」
「出来なかったでしょうね。あの時あなたの本心が表れたんだ。俺なら関係が崩れても構わないって」
「違う」
「違わない!」
佳人が鋭く遮り、何ごとかと他の客がこちらを窺う。互いに息をつめて見つめ合った。
「あなたには打算があった。いざとなれば、俺を切れるって」
叔父は苦渋の表情で佳人を見た。それから膝に手をついて頭を垂れる。
「――済まない」
塞がり切ったはずの傷からまた血が噴き出すのを感じ、佳人はたまらず席を立った。
「言いませんよ…、誰にも。育ててもらった恩は、忘れてないつもりです」
財布から札を一枚引き抜いてテーブルに置くと、そのまま踵を返す。
情けなくて涙が出そうだった。
でも泣かない。絶対に。
(こんなことのために、俺は絶対に泣いたりしない)
店を出たとたん、冷たい風が頬に切りつけた。凍える胸を庇うように、ジャケットの前をかき合せる。
(芳崎さん……)
不安をかき消すように愛しい男の名前を呼び、温かくて大きな手を思い起こす。
あの思春期の頃から何も変わっていない自分の弱さに、佳人はうつむいて悲しく笑った。
それから数日後、誠から電話があった。
この間は変なこと言ってゴメン。開口一番、誠はそう言い、それからすぐ話を逸らすように、叔母の母親が亡くなったことを告げた。
――ほんとに愛想のない。可愛げのない子だよ!
条件反射のように、憎々しげな声が蘇る。
その歳の女性にしては背が高く、整った顔立ちの人だったが、当たりが強く、キツい性格で、佳人はその人がひどく苦手だった。娘の家庭に入り込んだ厄介者として、佳人はいつも目の敵にされていた。
「そうか。お悔み伝えてくれ」
佳人は抑揚のない声で短く告げた。
『うん。……俺、あのおばあちゃんすごく好きだったな。優しくて』
淡々と流すつもりだった話題も、誠のそんなひと言で平穏には遣り過ごせなくなる。このところの不安や苛立ちから怒りの沸点が低くなっていることは自覚していた。
「俺は苦手だったよ。あの人は俺を嫌ってたから」
『どうして、そんなことないよ』
「お前は知らないだけだよ。俺は陰で相当嫌味を言われた」
『え』
「まず、俺はあの人に目を合わせて貰ったことがない。一度もだ」
『……うそ』
「ああ、一度だけあるか。小学生のとき、正月に挨拶に行っただろ。お前は着くなりあの人の部屋に呼ばれて遊んでた。俺は入るのを許されてなかったから外から見るだけだったけど。お前は新しい晴着を貰ってそれを着て楽しそうだった。それからしばらくして部屋が静かになったから覗いてみたら誰もいなくてさ、お前が着てた着物の帯が、火鉢の端にかかってたんだ」
『え、それって』
「多分、お前が脱いだままにしてたんだろ。でも俺は入ることが許されてなかったからどうしようかと思って、そしたらいきなり背中から怒鳴られた」
――何やってんだい、泥棒みたいに勝手に人の部屋覗くんじゃないよ!
「あげく俺が妬んでお前の着物を燃やそうとしたんだって誤解された。蛇みたいな目で睨まれたよ」
『そんな……。知らなかった』
誠の声が悲痛な色を帯びる。それがどこか心地よく感じるのは自分の心が歪んでいるからだろうか。
「お前の知らないことはたくさんあるよ。お年玉もお前の分しかなくて、いつも叔父さんたちがこっそり袋を入れ替えて俺たちに渡してくれてた。同じ袋だけど、俺の中身は叔父さん達が入れてくれたお金だった」
いまや打ちのめされたような気配が、電話の向こうから伝わってくる。
『……ごめん、兄さん』
「別に。お前が謝ることじゃないよ」
『でも俺、なんにも知らなくて、おばあちゃんがそんな人だったなんて気づきもしないで能天気に甘えてた。兄さんが俺のせいで嫌な思いしてたのも知らないで。……ほんと、恥ずかしいよ』
素直な反省が誠らしい。だが苛立ちが収まらないのは何故だろう。
どこまでも綺麗で、素直で、謙虚で思いやりがあって。
だが誠は判っているのだろうか。その優しさと正しさが、時には相手の逃げ道を奪うということを。
『兄さんは強いね。ほんとに頑張ってる。俺は苦労知らずで、何不自由なくて。兄さんの方がよっぽど頭よかったのに、俺だけ大学行かせてもらうのも、ほんとはすごく悪い気がして……、父さんたちもすごく残念がってた。もっと甘えてくれればって、いつも言ってたんだよ』
胃の底がムカムカした。強いんじゃない。独りで立たざるを得なかっただけだ。
大事に大事に守られて、汚いことも知らずに育ったいい子が、これ以上綺麗ごとを並べるのが我慢ならなかった。
「お前は優しいな。でも残酷だ。俺はお前のそういう無神経な優しさが大っ嫌いだったよ」
ふと音が途切れて、ショックで蒼ざめた誠の顔が見えるようだった。
判っている。これは八つ当たりだ。これ以上言うべきではない。そう思うのに、限界まで昂ってしまった激情は、もはや止める手立てがなかった。
「俺はいつも疎まれて、お前と比較されて、最後には捨てられる。俺が慕っていた人たちにもお前はニコニコ近づいていって、結局は俺から奪っていく。そんなことの繰り返しだったよ。だから俺はお前から離れたかったんだ」
『――そんな、……』
誠の悲痛な声が、耳を打つ
「あのクッキーだって、俺には重荷でしかないんだ。俺のせいでお前の家族がぎくしゃくするのに耐えられなくなってあそこを出たのに、いつまでこんなこと続けなきゃなんないんだよ。俺はもう、気を遣うのも遣われるのもうんざりなんだ! だから放っておいてくれないか。俺のことなんか忘れて、もう自由にやってくれよ。ほんとに、頼むから!!」
一気に吐き出して佳人は電話を切った。それから電源も切ってテーブルに放り出すと、暗い寝室のベッドにうつ伏せに転がった。
心臓がドキドキ、ドキドキ…とうるさいくらいに鳴っている。言ってしまった、と何度も頭の中で繰り返した。あの優しい誠に、何の罪もない誠に、これ以上の暴言はないというほど酷いことを言ってしまった。
けれど一方で奇妙な解放感もあった。これで誠ともきっと縁が切れる。そうすれば誠が芳崎と会おうと、何をしようと見なくて済む。
なんてみっともない心根だろう。
けれどそれが佳人の正直な気持ちであり、その時に感じていたことのすべてだった。
翌日の土曜日、寝不足のまま出勤した佳人は、年の瀬の忙しさに余計なことを考える暇もなく懸命に身体を動かした。そのおかげで少し気持ちがすっきりとし、仕事をあがると昨夜から電源を切ったままだった携帯を思い切って再起動した。
メールが一件。誠からだった。
『今までごめん。俺、きっと気付かないまま兄さんの嫌なことばっかりしてたんだね。無神経だって言われた意味が解った気がする。兄さんがどんな気持ちで家を出たのかも知らないで、つきまとって、兄さんの優しさに甘えてた。本当にごめん。自分勝手でごめん』
誠らしいメールだった。けれどもう、昨夜のような苛立ちは感じなかった。むき出しの言葉を投げつけたことで何かがプツリと切れてしまったような気分だった。
見上げれば冬の夜空に冴え冴えとした下弦の月が浮かんでいる。夜風がキンと首筋に突き刺さり、佳人はジャケットの前をしっかりと閉めると、店の裏の駐輪場へ向かった。エンジンを少し温めてから暗い夜道を走り出す。
芳崎からのメールがなかったことに、自分勝手な落胆を覚えていた。
もう、終わりなのだろうか。このまま佳人が逃げ続けていたら、きっと芳崎は諦めて去っていくだろう。
それは胸が凍えるような想像だった。
信号待ちでぼんやりとしていると、パァン、と後ろからクラクションを鳴らされ、佳人は慌ててバイクを発進させた。
寂しくて、寂しくて、今すぐにでも芳崎に会いたかった。あの温かい腕で、強く強く抱き締めて欲しいと思う。
そんな切ない願いが通じたのか、アパートに帰って階段を上ると、思いがけず芳崎が佳人の部屋の前に立っていた。
いつから待っていたのか、白い息を吐き、腕を組んで、立ち尽くす佳人を見つけるとふっと小さく笑った。
「遅かったな」
「……どうして」
「メールは無視しても、ここには帰ってくるだろ」
幻じゃないだろうかと思うほど、会えたことが嬉しくて、待たせてしまったことが申し訳なくて、ふらふらと歩み出す。
「芳崎さ、」
「話がある」
芳崎のいつになく真剣な声に顔が強張った。
「入ってもいいか」
佳人は嫌な感じに鳴り始めた鼓動を必死に抑えつけ、微かに頷くと芳崎を部屋に招き入れた。
コトリ、と熱いコーヒーのカップを置くと、芳崎が短く礼を言った。
リビングのいつものソファに座り、ネクタイをくつろげた芳崎は、隣ではなく向かいに座った佳人をじっと見つめた。何を言われるのかと怖くて、佳人は顔をあげることも出来ない。
「ちゃんと食ってるのか。少し痩せたな」
「食べてる。……芳崎さんは」
「俺は、毎日味気ない弁当を食ってるよ。佳人のメシが食えないからな」
弾かれたように顔をあげると、芳崎はちょっと怒ったような、苦いような、複雑な表情で佳人を見ていた。
それが今でも求められているからなのか、みっともなく逃げ回る佳人への皮肉なのかも見極められず、何を言えばいいのか判らない。
本当に、自分は芳崎の前では何も判らなくなってしまう。
不用意なことを言えば、そこから全てが崩れていってしまいそうで、怖くて怖くて仕方がなかった。自分がここまで臆病な人間だとは知らなかった。
だが続けられた芳崎の言葉は、佳人の混乱をいっそう酷くした。
「誠君と、何かあったのか」
「どう…して」
何故、芳崎がそれを知っているのだろう。嫌な想像があっというまに現実味を帯びる。
「偶然会ったんだ。元気がなかったからワケを訊いたら、お前を怒らせてしまったと言っていた」
驚愕に目を瞠る佳人を見て、芳崎は珍しく目を逸らした。
「……へえ、よく偶然会うんだね」
あ、嫌な言い方をした、と自覚したが、言葉は取り戻せない。
案の定、芳崎が顔をしかめた。それに佳人は怯えたが、一方で芳崎を責める気持ちも沸き上がる。
二人が会っていたという事実もショックだったが、それ以上に誤魔化されたことに傷ついたのだ。昨日の今日だ。偶然にしてはあまりにタイミングが良すぎる。
廣瀬が言っていた、芳崎と一緒にいた少年というのはほぼ間違いなく、誠だろう。
二人が会っていたのは一度だけじゃないはずだ。そして佳人とのデリケートな問題まで漏らすほど、誠は芳崎を信頼している。
『進路のこととか、たまたま相談に乗ってもらう機会があって、それで色々話を聞いてもらってるうちに、……好きになってた』
(そういうことか……)
疑う余地はないと思った。誠が想う相手は芳崎なのだろう。
佳人は疲れた笑いを洩らした。これはもう、多分運命なのだ。
「全部、聞いてるんじゃないの。それとも俺の口から謝罪が聞きたいってこと? 誠を傷つけてごめんなさいって?」
「――なんの話だ」
芳崎は露骨に眉を顰めて佳人を見る。その非難じみた目が辛くて、痛くて、余計に攻撃的な言葉を放ってしまう。
「別に隠さなくたっていいのに。良かったじゃん。誠と仲良くなったんでしょ。俺はお役ご免てことだよね」
「どういう意味だ」
「そのままだよ。誠がいるのに俺に構ってるヒマないでしょ。俺たちは、…別につきあってるってワケじゃないんだし、カラダだけの関係なんだから」
ピシッと音を立ててその場の空気が凍りついた気がした。芳崎が持っていたカップを、静かにテーブルに置く。
「――ああ、そうだったな。忘れてたよ。お前は誠君の代わりに、俺の相手をしてくれてたんだったよな」
聞いたこともないような冷たい声音に心臓が凍りつく。眇められた目が、静かに佳人を捕えていた。
芳崎の整った顔は、表情を消すとこんなにも怖いのだと初めて知る。芳崎はいつも優しく笑っていたから。
どれほど佳人に対して温かい眼差しを向けてくれていたのかに、今更ながらに気付く。
けれどそれは佳人の身に余るものだった。自分の心根はこんなにも黒く、汚れている。例え偽ってそばにいても、いつか芳崎は佳人の本質に気付き、失望するだろう。
混じり気のない優しさをもった誠とは違う。自分でも持て余すほどの卑屈さは、いつも周りを傷つけて、嫌な思いをさせて、彼らの好意を踏みにじってしまうのだ。
もうそんなことを繰り返すのは嫌だった。こんな醜い感情に振り回されるくらいなら、独りでいた方がいい。
自分はただ、つかの間、優しい夢を見ただけだ。
「誠にさ、言ってみれば。多分、悪いようにはならないよ」
芳崎がすっと立ち上がる気配がした。思わずすがるように見上げると、芳崎は静かに笑って佳人の腕を掴んだ。
「そうだな。じゃあ、これが抱き収めだ」
耳元で冷たく告げられ、佳人は驚愕に目を見開く。
「い、…イヤだ!」
掴まれた腕を振り払おうとするが、痛いほどに食い込んだ指がそれを許さない。ザッと全身の血が引くような恐怖が襲う。
「やっ、やだ、やめて、芳崎さ、」
床に押し倒されて、荒々しい手で肌を暴かれる。嫌なのに、誠の代わりにされるなんて悲しくて、痛くて、胸が張り裂けそうなのに、芳崎の手に触れられれば、身体は勝手に熱くなる。
乱暴な手にまさぐられて、無理やり快感を引きずり出されて、佳人は呆気なく爆ぜる。惨めで、みっともなくて涙が零れた。汚れた肌を晒したまま、佳人は顔を覆って泣いた。
「――クソッッ、……どうすりゃいいんだ」
暴れ狂う鼓動の向こうで、苦りきった芳崎の声がやるせなく吐き棄てるのが聞こえた。
その翌日、芳崎から一言『悪かった』とメールがあり、それを境に彼からの連絡は完全に途絶えた。
それがあの夜の無体に対しての謝罪なのか、うまく行かなかった二人の関係を終わらせるための最後の言葉なのか、短すぎるメッセージからは真意を読み取ることが出来ず、かと言って問い質す勇気もなくて、佳人の心はまた千々に乱れた。
仕事でもミスばかりを繰り返し、善三に怒鳴られてはいっそう落ち込む日々が続いた。
アパートに帰り、一人きりの味気ない食事を済ませると、佳人はリビングの出窓から空を見上げた。
澄んだ夜空に糸のように細い月がかかっている。もうあと僅かであの月は消えてしまうだろう。かつてあの夜祭の夜に、独りきりの部屋から見上げた月を思い出し、その心細さまでを追体験して、佳人は小さく身を震わせた。
ソファに移動し、芳崎がいつも座っていた左側に深く身を沈めると、目を閉じ、会いたいひとの姿をそっと思い浮かべる。
長い脚をゆったりと組み、右に座る佳人の身体を守るように背もたれに腕を乗せて、佳人をからかったり、笑わせたり、不意打ちのような甘い口づけで黙らせたりした。
佳人が部屋着にしているニットカーディガンは芳崎がくれた物だ。気に入っていたが洗ったら縮んでしまったと言ってある日持ってきた。それでも佳人にはまだ大きいくらいで、袖口から指先だけが覗くのが可愛いと笑って、よくその冷たい指先を温めてくれた。
ポケットから小さなハンドクリームの缶を取り出して蓋を開ける。甘くて爽やかなカモミールの香りがするそれを、水仕事で荒れてしまった佳人の手に丁寧に塗り、いい香りがすると言って、その甲に、指先に、優しくキスを落としてくれたこともあった。
それら全てが優しい記憶で、追想するだけで胸が震える。温かい手で触れられて、大きな胸に抱き寄せられると、幸せが洪水のように沸きあがり、佳人は自然に笑っていた。
愛されたいと、強く願った。このひとのものになれたらどんなにいいだろう。それが叶うなら他には何も要らない。本気でそう思った。
なのに何故、あんなことを言ってしまったのだろう。佳人からは何一つ奪わず、たくさんの温かい気持ちをくれたひとに。あんなに優しく包んでくれたのに、どうして身体だけだなんて酷いことを言ったのだろう。
自分のことばかりで、芳崎の心を顧みることもせずに逃げてばかりいた。
『お前が受け取らなきゃ、棄てるしかない』
俺の気持ちを。
彼は、そう言っていたのだろうか。
『――クソッッ、……どうすりゃいいんだ』
最後に聞いたあの言葉は、佳人の頑な過ぎる態度を前に、途方に暮れているように聞こえた。佳人に心を残していなければ、あんな風に悩む必要もないのではないか。
もし自分と同じように、芳崎も自分のことを想ってくれているのだとしたら。そうなのだとしたら、このまま手を離していいのだろうか。
(芳崎さん――)
佳人はたまらなくなって、ハンドクリームをカーディガンのポケットにしまうと、ジャケットに着替え、バイクのキーを掴んで玄関を飛び出した。
凄く怖い。だけど確かめたい。
その一心で、勇気を振り絞って四駅分の距離を飛ばし、芳崎のマンションまで来た。
駐車場の隅にバイクを停め、白い息を吐きながらエントランスへと向かう。
ここへは一度だけ来たことがあった。初めて芳崎に最後まで身体を許した日、うまく立てなくなった佳人を、芳崎は車でこのマンションに連れ帰った。心配だから少しでも長くそばについていたい、そう言って。
そして恥ずかしがる佳人の身体を丁寧に洗い、清潔なシャツでくるみ、壊れ物を扱うみたいに、大切に大切に腕の中に包んでくれた。
火照る頬を逞しい胸に預けて、優しく髪を撫でられていると、この世の幸せの全てを手に入れたみたいな気がした。
会いたい。会って、謝りたい。そして叶うなら許して欲しい。狡くて、臆病過ぎる自分を。その一心でここまで来たのだ。
だが見上げた芳崎の部屋の窓に、灯りはついていなかった。
どうしようかと白い息を吐きながらマンションの敷地に隣接する小さな公園に目を向けると、ベンチに並んで座る二つの人影が見えた。常夜灯にぼんやりと浮かび上がる姿に目を凝らし、ギクリと身体を強張らせる。
(え……)
大きな背中と細い背中が、人一人分を空けて座り、何かひどく深刻そうな様子で話しているのが聞こえた。
(どうして――)
何故、芳崎と誠がここにいるのだろう。
鼓動が嫌な感じに乱れ、腋の下を冷たい汗が伝う。
やめておけ、と自分の中の何かが止めるのも聞かず、佳人は彼らから少し離れた植え込みの陰に身を潜めるようにして座り込んだ。
誠の涙まじりの声が聞こえきて、心臓が痛いほどに音を立てる。手の先が痺れて、こめかみがズキズキと疼き出す。
「俺はいつも兄さんを傷つける。今度だって、先に好きになったのは兄さんだったのに、結局俺が奪うみたいになって、兄さんはまたきっと嫌な思いをする。だから諦めなきゃいけないって頭では判ってるのに、でも苦しくて……、」
誠が涙に顔を伏せるのが判った。
「好きなんです。どうしても――」
悲痛な告白が、夜の闇を震わせる。重苦しい沈黙のあと、芳崎が宥めるように言った。
「……それはもう、終わったことだ。そうだろう。佳人は大丈夫だ。きっと解ってくれる。ちゃんと話せば大丈夫だから」
衝撃だった。聞いてすぐには、彼らが何を言っているのか判らないほどに。
けれどそれらの会話を反芻するうちに、身体が激しく震え出した。
なぜ誠が佳人の想いを知っているのだろう。芳崎が話したのだろうか。まだ佳人の口から伝えてもいないことを?
なぜ芳崎は佳人の大切な恋心を、そんな、「物」か何かみたいに軽々しく扱うのだろう。こんな風に佳人のいない所で、ただ彼ら自身の新しい恋を語るためだけに――。
握った拳がぶるぶると震え出す。音もなく立ち上がると、両手に顔を伏せる誠が、芳崎の腕にすがるようにして泣いているのが見えた。
とにかく送っていくから、という芳崎の声が聞こえた瞬間、心が粉々に砕けた。
どうやって家に辿り着いたのかも判らなかった。
灯りをつけたままだった部屋に入り、キッチンのテーブルの上にキーを置くと、流しに積まれた皿を脇によけて水を出した。
「明日、何時に起きるんだっけ……」
呟きながら、手をごしごしと洗う。何度も何度も洗う。
濡れて凍える手を見つめていると、ボトボトと涙が落ちた。ラックにささっていた果物ナイフを取り上げ、ほとんど衝動的に手の甲を切りつけた。彼が好きだと言ったこの手を。
鮮血が噴き出し、シンクが真っ赤に染まる。痛みは感じなかった。それが不思議で、許せなくて、反対の手も切りつける。
白い皮膚が裂かれた瞬間、石火のように真紅の線が走るのを見て、ハッと我に返る。
取り返しのつかないことをしたという強烈な悲しみが襲った。
カタンッとナイフを床に落とし、血まみれの両手で顔を覆って泣いた。
冷たい頬を伝う熱い涙と鮮血だけが、佳人の無惨な恋を悼むように、静かに流れ続けた。
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