【完結】BONDS OF THE WORLD―太陽が愛した世界― お日様は私でお日様はあなたかもしれない

たまりん

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第十一章 歪曲の世界①

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「陽愛には話したことはなかったと思うけど、僕の生まれたのは小笠原諸島の東にある小さな島なんだ」

そう語り始めた海晴の言葉に私は眉を寄せた。

「小笠原諸島?」

「そう、人が住む島としては、太陽が最初に昇る島っていわれてる、診療所はあるけど病院もない。そんな小さな島さ」

「海晴は、そこから……」

「そう、僕は君に出逢うまでの幼少期をそこで過ごした」

「そっか…」

「美しい島だよ、だけど凄く寂しい場所でね、巫南みなみという名で呼んでいた小さな女の子だけが、僕の唯一の同年代の遊び相手だったんだ」

「南、さん?」

海晴の言葉から出た名前が偶然の一致とは思えなくて私は固まった。
そんな私に海晴は困ったように苦笑した。

「そう、あの南、だけどね、君の知っている南は実体を得てから突然僕の前に現れた彼女で、僕が遊んでいた頃の巫南は実体を持っていなかった」

「え……?」

決まりの悪い顔をした私に、海晴はくつくつと涼やかに笑った。

「…揶揄って?」

「まさか、ないよ……本当に僕にだけ、その姿が朧げに見える女の子だったんだ」

優しい顔でそう語る海晴の話に嘘はないだろうことは、本能が悟っていた。
その証拠に今どうしたことか私の肌には鳥肌が立ち、体中に得体の知れない不安感が渦巻いていた。

「僕も巫南が正解に何者だったのかは未だに分からない、もしかしたら彼女自身にも分からなかったんじゃないかな、なんて今では思うんだ」

「………」

「だけど一つだけ分かるとしたら、巫南は元々神気を纏った特別な存在だったんだと思う……」

(神気……)

そう聞いた瞬間、一瞬体が震えた。

「………そして、彼女は時空を超えた世界を移動できるでもあった」

「っ………」

その言葉に身体中から冷たい汗が滲んだ。
まるで触れてはいけない禁忌を犯したような恐怖が身体を支配する。

「君が戸惑うのは無理がないね、まぁ、でもそんな力もどこか不完全で彼女自身もきっと……」

「海晴……」

狼狽えた私の瞳を静かに受け止めるように海晴は続けた。

「だけど聞いて欲しいんだ、陽愛、僕が見てきた世界のことを…」

私は黙ったまま頷いた。
それに安心したように、海晴は今は凪いだ海のように、静かに語り始めた。

「僕の家系はね、元々あの島で継承されてきた太陽信仰の神官でもあるんだ、なんて言っても、僕もその事を知ったのは大人になってからなんだけどね」

「……神官?」

慣れない言葉に戸惑う私に海晴は自嘲するように頷いた。

「もっとも、それに相応しくなかった僕らは結局あの島を出ることになったんだ、そして父さんは僕にも、誰にもその事を知られたくなかったんだと思う……」

「相応しくない?」

「うん、僕の産まれた理由は訳ありでね、だけど不思議なもので、あの頃の小さな巫南が、島での僕の唯一の友達だった日の事を僕はちゃんと覚えているんだ」

「友達?」

「そう、僕にとって彼女は最初の友達で、彼女にとって僕は二番目の友達…」

そう答えた海晴の声は切なくて、だけど優しい響きを伴っていた。
だけど海晴は、自嘲するように空を見上げて続けた。

「…いや、やっぱり少し違うかな、僕は彼女にとって最初からいなくなった兄さんの代わりにしか映ってなかったんだと思う」

その発言の意味の分からなかった私は無言のまま眉を寄せた。

「そしてあの頃の僕はそれでも構わないと思うくらいには、きっと孤独で寂しい子供だった」

反応に困り複雑な顔をしているだろう私に、海晴は静かな琥珀色の瞳を向けた。

「海晴……」

そう彼の名前を口にした瞬間、海晴は私を見つめて目尻を下げるように微笑んだ。

「あぁ、そう呼ばれるのが本当に嬉しかったな…」

それは胸をぎゅっと捕まれるようなあまりにも優しい笑みだった。

「僕はね、自分の環境が孤独だということにすら気づけずに育った。そんな僕を救ってくれたのは、陽愛、君だったんだ……」

「わ、たし……?」

海晴は優しい顔で頷いた。

「そうだ、陽愛、君だけだった、あの頃の僕は本当にそれだけでよかったんだ……」


海晴の話の内容は予想もしていないものだった。
それは古い信仰としきたりが残る島での不思議な話。

一組の若い恋人達の悲しくも激しい愛が、人と神の均衡を崩してしまったことから始まった悲劇だった。
そして言い伝えというにはあまりにも新しい。

海晴の家は、太陽信仰を執り行う神官の家系で、代々、身の内に神の分身を迎え入れて神事を執り行うという役目を担ってきた。

役割上、家には古くからのしきたりが沢山あったが、一番大きな制約は、結婚と出産だった。

巫女と定められたものは生涯島を出ることを許されず、未婚を貫き、神事によって選ばれたた相手と期間限定の情を通じて、次の巫女を宿し育てるのが役割とされてきたのだ。

神を迎え入れ一体化して生み出し、生涯をかけて仕える、次世代に繋げる。

時代錯誤の迷信のようだが、古くからの島民達はそれを疑うことなく信じる者が大半だった。その信憑性が継続してきた理由の一つに、巫女と呼ばれる跡継ぎが神事で宿した命は必ず女子であり続けたこともあるという。

だけどある年、そんな静かな島を揺るがす出来事が起こった。本土から一人の若い青年が海洋調査を目的に島にやってきたのだ。

彼はその島で祭りの日に巫女舞を踊る美しい女性に一瞬で恋に落ちた。
その女性こそが海晴の母親だった。

やがて紆余曲折を経た二人は密かに恋仲になり、男の懇願により二人で島を抜け出そうとするも島民達の知るところとなりその仲を引き裂かれた。

島から何らかの圧力があったのかは分からないが、間もなく男は旧家である実家に半ば強制的に連れ戻され、間を置かずそのまま良家の令嬢と政略により結婚させられた。

その後、その男は心労が祟ったのか、結婚後間もなく失意のなかで早世したという。

一方、男を島から追い払ったあとの島民達も騒然としていた。巫女の腹には既にその男の子供が宿っていたからだ。

前代未聞のこの出来事に「忌み子」「不吉」だと堕胎を促す声も上がるなかで、神罰を恐れる声もそれ以上に多かった。

そして多数決がとられ、島民達は戦々恐々としながらその出産を見守るしかなかった。
そんななか、寂しさと絶望、島民からの罵倒に疲れた彼女は精神を病んでいった。

そうして生まれたのは皮肉な事に巫女からは生まれるはずのない男子だった。
誰も喜んでくれる人がいないその出産によって生まれた子供を彼女は抱き締めて泣いた。

そんななか、前例のない不始末に信仰に重きをおく島民達は不安と緊張に包まれた。

そして、なんとか状況を打開しようと焦り始めた。 年が明けるのを待ち、未だに癒えない巫女の疲労や精神疾患を省みることなく神事という名の複数人での強姦が幾度となく強行されたのだ。

その行いは恋人を未だに恋い慕う彼女を極限まで追い詰めて、完全に自我を崩壊させてしまった。

だが、皮肉な事にそこまでの暴挙を繰り返したにも関わらず巫女がその神事により懐妊することはなかった。

そして心身喪失となった彼女はある満月の夜の強行の後、月明かりに導かれるように岬に向かい、崖から自らの身を投じたのだ。

ーーこれでおしまい

彼女が飛び降りたのは通常であれば生きているなど考えられない高さの崖だった。
それなのに彼女は最低限の怪我を負っただけで荒れ狂う海から救出されたのだ。
その事実に島民達は恐れ慄いた。

だが、後にその時の彼女の様子を知る者はこう語っている。
巫女はこの時、譫言のように「死ななかったのではなく、死ねなかった、もう終わらせて…」と…

そして、ちょうどその頃、本土から病院のない島の診療所に医師として派遣されてきた年若い医師がいた。
それが海晴の父親だった。

運び込まれた巫女は心身喪失で半狂乱となっていた。
頬は痩せこけ、瞳は虚でまるで廃人のようだった。
そして彼女はその頃から、祈りの言葉を忘れ、世の中を呪う言葉を口にし始めていた。

そんな頃、神事に加わったとされる二人の島の青年が漁で命を落とした。

元々漁に危険は付きもので、こうした不慮の事故自体は決して珍しいことではなかったはずだった。
だが、例の一件で罪悪感を宿した島民達は、巫女の言葉には神力が宿ると今度は彼女を「落ち巫女」と称して極端に恐れ避け始めたのだ。

そんな心身喪失状態の落ち巫女を島民から押し付けられるように保護して、診療所の一角にある療養所で世話したのが海晴の父親だった。

「全く困ったものだね、この島の人達は…、おや、君が息子くんかい?こっちへおいで」

「お名前は言えるかな?」

「ふ、……、ふ、う、が」

「そうか、風雅くんて言うのかい?オジサンや看護師さん達と友達になってくれるかい?」

「う、うん…」

心を壊した巫女の元にはまだ二歳くらいの小さな男の子が不安気に寄り添っていた。
そうして若い医師が心を壊した女性と小さな男の子を見守る生活が始まった。

そして、迷信を気にしない快活な看護師数名が毎日通ってきて世話を焼いてくれる静かな環境で、彼女と彼女の息子は寂しくも静かな時を過ごしていく事になる。

だけど、その男の子は一つだけ他の子供と違っていた。彼は言葉を発するようになる前から人のいない場所を見て微笑んだり、奇声をあげて喜んだりしていたのだ。まるで、彼にだけ見える友達でもいるかのように。

看護師のなかには「女の子だったら、巫女さんになる子だったからかしらぁね?」と戸惑う声もあったが、無邪気に成長する男の子の笑顔はそんな不安を一掃するほど明るいものだった。

そして心を病んだ彼の母も息子の笑顔にだけは反応して、その息子の名をまるでオウム返しのように呼びながら大切な我が子を抱き締めたという。

「風雅、風雅、私の風雅……」と……

やがて男の子は山を登り、砂浜を駆け抜け、水平線に向かって叫び狭い世界の愛情を一身に受けて成長した。

だけど、五歳になったその年、その状況は一変することになった。

男の子の父方の祖父が突然島を訪れて、強引に彼を本土に連れ去ったのだ。
息子が子を成さず早世した事により跡継ぎを失った家を継がせる為だった。

その家は名門の旧家であるが、随分前から資金繰りに行き詰まっていた。
息子を良家の令嬢と結婚させることで家業の延命を計っていたが息子の早世によりその支援と跡取りを失った男は、今度は孫である少年を連れ戻し、まだ辛うじて残っている過去に大臣を輩出したとう家格を利用して当時上り調子だった経営者の娘との婚約させたのだ。

少年の母親はもちろん、医師もそんな理不尽な仕打ちに必死で抵抗した。
だけど、状況は法律的には限りなく不利だった。

心身喪失で何年も仕事をしていない療養中の母親が、やり手の弁護士のついた旧家の主との裁判で争って勝てるはずもなかった。
彼女はまた大切なものをなくしてしまったのだ。

度重なる不遇に巫女の心はとっくに限界を越えていた。

「風雅…」

連れ去られた息子の名を連呼して食事すらとらなくなり、日々痩せ衰えていく彼女に、これまで彼女の側で寄り添い続けた医師は患者以上の感情を持ち始めでいた。

初めは同情から始まっただろう善良な思いは少しずつ劣情に変わり、それは日々身の内を支配するように膨らみ続け、いつの日か押さえられなくなっていた。

一方で、落ち巫女と呼ばれて、唯一の心の支えを失った彼女の心は既に生きることを諦めていた。
死に向かおうとするのに、死ねないと感じている彼女の気持ちを突きつけられた医師は苦しみのなかにいた。

ーー彼女を生に縛り付けたい

なにより、自分に縛り付けたい。
医師は、苦悩の末、彼女に想いを告げ、その身体を求めた。
女には、それをもうそれを拒む気力すらなかった。

そうして繰り返される男女の営みのなかで、その時の二人の想いは皮肉な程に食い違っていた。

医師は、彼女をこの世界に結びつけてくれる新たな命を求めた。だけど、巫女は、心身喪失のなかで、これを信事のように受け入れ、役目から解放される日を待ち侘びていた。

「そうして、僕はこの世に生を受けたんだ………」

そう告げる海晴が悲しくて、私の頬にはいつの間にか涙が流れていた。

「僕の名前は、神谷海晴………」

そう、まるで石ころの名を伝えるように自分の名を口にする海晴が悲しくて、私は顔を歪めた。

「そして、僕の生き別れた兄の名前は、小笠原風雅……」

「つ………」

私はその名を聞いて絶句した。
だけど、不思議なくらい、今、私の神経は研ぎ澄まされていた。

「ここまで言えば、陽愛ならもう分かるかな?」

(あぁ………)

かつてTVで見た南さんを挟んだ有名俳優と海晴との相関図が浮かび上がる。
自分のなかで長年蟠っていたバラバラだった多くの謎が一本の線で繋がったような、そんな心境だった。

(おそらく、南さんは、そして彼女が愛していたのは………)

切なさが込み上げる。

(あぁ、なんて悲しい世界で海晴は生きてきたのだろう)

「兄さんがいなくなった事で心を壊したのは、母さんだけじゃなかった……」

私は無言で頷いた。

赤く染まった空の下では私と海晴、それぞれの子供達が無邪気な影になって戯れている。
まるで、あの頃の私たちのように……

「僕は、母と、その皆には見えない女の子巫南みなみ、二人の女性からと呼ばれて幼少期を過ごしたんだ…、でも寂しくはなかったよ、僕は兄さんの存在を知らなかったからね」

「そんな………」

「その後、ほとんど離れで一人で過ごしていた母さんは僕の成長と共に、少しずつ力を失うように死んで行った、いや、きっとようやく死ぬことができたんだと思う……、『ありがとう、ごめんなさいね』と父への感謝の言葉を残してね」

最期の瞬間、落ち巫女と言われていた彼女は、憑き物が落ちたように澄んだ瞳をしていたという。

私はその『ありがとう』の本当の意味を考えると苦しくなった。
海晴のお父さんの彼女を繋ぎ止めたいと願う行いが、結果的に海晴のお母さんを生から解放する事に繋がってしまったのかもしれない、そう思えてならなかったからだ。

「きっと、母さんはそれで良かったんだと今でも思う、でも巫南みなみは……」

「海晴……?」

「巫南はそうじゃなかったんだ……」

「………」

「父さんは母を亡くして間もなく、失意のうち、僕を連れて島を出た、そして巫南は……」

海晴はその時、苦しそうに間をおいた。

「巫南も、その時、僕について、あの島を出てしまったんだと思う、その後の記憶が僕のなかにはしばらくは残っているから……」

「きっと彼女こそ島を出てはいけない存在だったんだ、でも巫南はたぶんあの時そうするしか無かった…」

その言葉を聞いた瞬間、私は嫌な予感に苛まれた。
思い当たることがあったからだ。

ーー友達
ーー神気
ーー女の子

冷たい汗が背筋を伝う。

(私は、たぶんその存在を知っている…、ずっと昔から……)

海晴には過去の一時期イマジナリーフレンドが存在していた。

そしてその存在はやがて………

(消えた………)

それがもし海晴のなかでだけおきた変化だとしたら、南さんは……

「海晴、それってもしかして……」

震える声で海晴の名を呼び、冷たく震える自分の指先を握りしめた。

「うん、残酷だよね、僕は……」

表情を曇らせる私に自虐的な笑みを漏らす海晴。
この状況に気の利いた励ましの言葉すら思い浮かばなかった。
そして、私には南さんの為に涙を流す資格はきっとない。

―――きっと、私は

そんな考えが顔に出ていたのだろう。
海晴は小さく微笑んで首を振った。

「でも、これは僕の問題。僕はね、海晴、海晴って、何度も繰り返し君に名前を呼ばれて、僕が僕になっていくのが、本当に嬉しかったから……」

「っ………」

「きっと僕は狡かったんだ。成長のなかでいつの日か、少しずつ、本当に少しずつ気付いてたんだ、母さんや巫南のなかで、僕は僕として愛されている訳じゃないってことに…」

「海晴……」

「でも、僕はそれに向き合わなかった、一人になりたくなかったから、だから……」

「っ、海晴!」

それ以上言わせたくなくて私は声をあげた。

「違うよ、だって……」

(あんなに小さかったんだよ、受け止められる訳なんてないんだよ……)

だけど、その声は海晴の傷ついたような静かな微笑に続く言葉で遮られた。

「きっと僕は利用してたんだ、巫南の気持ちも、母さんの壊れた心も……」

「海晴、もう………」

(そうかもしれない、だけど、海晴は悪くない、悪くなんてない)

それ以上を聞くのが怖かった。
だけど海晴は言葉を続けた。

「なのに、僕は、分かっててんだ、彼女もすごく寂しがりだってことも……」

懺悔するように静かにそう言い切った海晴は私を真っ直ぐに見下ろしている。

「陽愛、君の傍で、僕が僕でいるために……」

「海晴……」

「たぶん僕は意図的に巫南の声を聞こうとしなくなった、そしていつか本当に聞こえなくなった……」

「そんなの……」

「ホッとしたんだ、あの時、だから、よく覚えてるよ…」

「海晴…」

「そこからの僕のことは、陽愛、誰でもなく君が一番、知ってるはずだね……」

私はその言葉に顔を歪めて頷いた。
数多の二人の過去が脳裏に蘇る。

お世辞にも都会とは言えないどこにでもあるような中核都市の外れで私たちは出会った。
だけど、当時の私にとってはもちろん、海晴にとってそこは凄く大きな世界だったのかもしれない。

二人で探検をして様々なものをスケッチして、次の日には絵の具だらけになって色を塗って……
子供の足では遠い海まで手を繋いで歩いていって帰って来れなくなって家族に心配かけて大人達から怒られて……
二人で色んなスポーツに興味を持っては挫折を繰り返したりして……
やがて芸術に没頭していく海晴の才能が眩しくて、同時に嫉妬して……

たくさん笑って、劣等感も刺激し合いながら共に過ごした。
たぶん「大っ嫌い」「もう知らない」なんて安易な言葉も一杯口にしたと思う。

だけど、そんな意地っ張りな私にいつも折れてくれるのは海晴だった。
思えば海晴は別れを想定させるような言葉や私自身を否定するような言葉を喧嘩では絶対に使わない出来た子供だった。

だけどそんな海晴が一つだけ私が縮み上がるくらいに真剣に怒る言葉があった。
「消えてしまいたい」そう言った時の海晴は凄く怖くて、傷ついたような顔をしていたのを今でも覚えている。

今にして思えば、離れてしまわないように、壊れてしまわないように、傍に寄り添い続けてくれたのはいつだって海晴の方だったのかもしれない。

そして、私はいつの日かそんな海晴に甘えきってしまっていた。

そして高校の時、初めて南さんが私の前に現れたのだ。

「南さんは……」

私が何を言いたかったのか一瞬で察したのだろう。
海晴は、私の疑問を受け止めるように小さな笑みを作って空を見上げた。

「そう、君が彼女を認識するようになる少し前、巫南は『大地南』として僕の前に突然現れた。実体と、僕の認識には合致しない明らかにを持ってね……」

予兆のようなものは少しずつ感じていたのだという。

当時から海晴は文章を書くのが好きで、歌詞や小説、童話などの創作活動をしていた。
利用していた投稿サイトのなかで寄せられる感想やコメントの中に妙に心惹かれるものが混ざり始めたのが始まりだったという。

同一人物から何度かもらう鋭い感想やコメントは時には自分のなかの何かを抉られるような不安をもたらすものもあったという。

そして全てを見透かされているような緊張感のなかには、同時に自分のなかに普段表現出来ないで燻っている感情を共有する感性の持ち主がいて、自分の作品を見つめているという薄暗い喜びを伴うものだったという。

そのコメントの主も絵や詩などを創作活動をしていると気付いた海晴は、その人の描き出した作品をみて驚愕したのだという。

「涙が溢れたんだ」と海晴はその頃の事を振り返りながらそういった。

その人の作品をみると風景の描写ひとつひとつが鮮やかで、切なくて、心の奥底に燻る何かを揺り動かすようなそんな郷愁に似た気持ちに心を支配されたという海晴。

そして、その後も作品を通じてその人との交流を続けていったのだという、まるで、感性に導かれるように。

「そして、突然、巫南は僕に会いにきたんだ……、その時、可笑しな話だけど、僕は一瞬で全ての状況を理解したんだ。自分が彼女にどれだけ酷い裏切りをしたかも含めてね。まるで知識量が一瞬で倍増してひとつの人生が出来上がるような、あれはそんな瞬間だった……」

そういった海晴は絞り出すようにこう言った。

「それって、ずっと封じていた記憶が戻ったってこと?」

「そうかもしれないね、でもそれだけじゃない……」

「僕は、彼女の魂の質さえ変えてしまうくらいに彼女を傷つけていたことも、同時に思い知った……」

「思いまで、受け止めたってこと?」

「あぁ、ほんと、そんな感じ…」

そう言った海晴はポツリと呟いた。

「あの時、思い知らされた、僕はもしかしたら、人として生きる為に生まれた訳じゃないのかもしれないって…」

「海晴…」

「だけど、どうしても嫌だった、だから僕は…」

そして私の知る海晴も今思えばその頃から雰囲気が変わっていった。
何を考えているのか分からないと感じることも増えていった。
思春期の距離感に悩んでいたつもりでいた私は根本的な事がきっと分かっていなかったのだ。

そうして現れた大地南さんは、私から見ても周囲にきちんと認識されていた。自らが通う学校の才媛として彼女は圧倒的な存在感で輝いていた。
だけど、海晴から見たらそうではなかったということだ。

「あの時は戸惑ったよ、僕の新しい世界には存在しなかったはずの南がいつの間にか実体を持って、僕の傍にいるんだ、そして、周りは自然に『なぁ、お前大地先輩と付き合ってるのか』なんて聞いてくる、そして彼女は事もあろうに『そうだ』と答えた……」

「そんなことって……」

「あるんだよ、そして南が肯定した言葉はに昇格する…」

「そんな…」

体の中から何かが落下していくのを感じた。
時がこんなにも経過して、世界すら変わっても今更ながらその事実には驚愕を隠せない。

「僕もすぐには信じられなかった。だけど、彼女は明らかに昔とは違ってたんだ、戸惑う僕を見て喜んでいた…」

当時を思い出している海晴の表情には、苦悩が刻まれていた。

「明るく振る舞ってはいたけど、南は僕を憎んでいた、そして僕はそんな彼女の笑顔の仮面の下にある暗くて寂しい憎悪に気圧されていた、彼女の変化は『僕の罪』であることを、僕は誰より知っていたからね……」

「海晴……」


「あの頃の彼女の行動は僕を困らせようとする南のだったんだと今なら思う。だけど僕はその時、南が何の為にそんなくだらない嘘を吐くのか分からなかった。寂しさから居場所を確保する為かもしれないと思った僕は、彼女への罪悪感からそれを否定もできないでそのままにしてしまった」

「だけど、その後、僕は南の仕返しの本当の意味に気付いた……」

「そして僕はその後の状況に絶望しかけた……」

「………」

思い当たる経緯に私は言葉を無くしていた。

「陽愛、君が離れていく日々は僕にとっては恐怖だった……」

「海晴、ごめん、わたし……」

(あのとき私は、当て付けるように海晴から距離を取った……)

「謝らないで、あの件があったから、僕はようやく陽愛への自分の気持ちに気付けたんだ。友情とか幼馴染という関係だけじゃ繋ぎ止められない」

「………」

「だけど同時に僕は、愛とか恋人なんて言葉もどこか信じられなかった。だって、っていう、気付きたくなかった自然の摂理にも気付いてしまったから……」

「海晴……」

「あれから僕は南と向き合った。絶対に譲らない覚悟で、未だに僕の事を風雅って呼ぶ南に言ったんだ。『僕は、風雅じゃない、元々海晴だ』って、そして『もう頼むから自由にして欲しい』って」

「………南さんは」

「泣いた、泣かせたんだ、また、南を……」

「……」

「南だけが悪い訳じゃない、そんなのちゃんと分かってるのに、僕は、また南の感情を否定した、そしてそれまでは向き合おうなんてしなかった癖に、兄貴の居場所を必死で突き止めたんだ…」

その言葉に私は絶句した。

「そうだよ陽愛、僕は、自由になりたくて南の気持ちを兄貴に押し付けようとしたんだ、必要な時には散々利用してきた癖に最低な男だよね……」

「だけど、南さんだって、海晴と風雅さんじゃ………」

そう言った私に海晴は皮肉に笑った。

「僕もそう思ってた、だけど、皆から愛されてきた兄貴も、その兄貴の代わりにしか過ぎないと肯定できなかった僕自身も、きっと、あの大きな力の前では、実はに過ぎなかったのかもしれないと思うことが今でもあるよ……」

「箱……」

「そう、巫南を満たす為の箱、彼女はきっとそれをさがしていた…、だけど…」

そう呟いて憂いた顔をしていた海晴は困ったように話を元に戻した。

「まぁ、それはまた後で説明するとして、兎に角、その時の僕は必死で、南に兄貴のところに行くように詰め寄ったんだ、もうあれは喧嘩以外の何者でも無かったけどね、今にしたらよく僕は消されずにすんだなって思うくらいのね……」

それはもしかしたら、海晴と南さんが初めて自分として相手に体当たりで向き合った瞬間だったのかもしれないと私は思った。

だけど、その時の二人に結ばれたある種の「絆」がその後に周囲を抗えない波に巻き込んでいくことになる。

その後、南さんは海晴の前から消えた。
同時に私と海晴は幼馴染から恋人同士にその関係を変えていった。

この話になった時に海晴は申し訳なさそうに私に謝った。

ーーあの頃はごめんね、急激に関係を変えてしまうと、僕の陽愛がいなくなっちゃいそうで怖かったんだ。


そして、私も海晴も知らない世界で巫南こと大地南さんは、本当の風雅さんと再会を果たしたのだという。


【小笠原風雅】

海晴がその後、南さん本人から少しだけ聞いた話だと言っていたから、詳細や男女の機微は正直二人にしか分からないことばかりだ。

だけど、彼女と再会した時の風雅さんは南さんも瞳を曇らせるほどに弱っていたのだという。

いつも自信に満ちた表情でTVで微笑んでいる人気俳優 小笠原風雅。
「貴公子」なんてあだ名がついて持て囃されていた彼にも、人には見せない苦難や弱さがあったとして、誰が責めることができるだろうか。

旧家の祖父に連れ去られるようにして、厳しく寂しい環境で一人耐えるしかなかった風雅少年が思い出すのは、幼い日の母の優しさと、いつも自分に寄り添うように傍にいてくれた太陽のように明るい幼馴染みの女の子の存在だった。

まだ傍にいた頃、心のなかで語りかけて成立していた会話を思い出すように、少年だった風雅は巫南に語りかけていた、例え返事がなくとも……

そしていつの日かそんな暇もないほど、青年期の彼の現実は行き詰まりを見せていた。

祖父が風雅を婚約させることで得た資金援助も効果むなしく家業であった縫製工場には廃業の危機が迫っていたのだ。

そんな心労が祟った祖父は重病となり復帰不可能となっていた。

そんな祖父を見舞いながら、風雅はその双肩に背負いきれない重責を背負っていた。
従業員約五十名、今更転職など不可能と思われる年齢に達している功労者も少なくない。
社長交代、そんな言葉が呟かれるなかようやく二十歳になった自分に何ができるのか、そんな葛藤の日々だった。

そして祖父の逝去と共に、子供の頃から婚約をしていた相手方の家から破談の申し入れがあった。
それは、信用の喪失、事実上の倒産を意味していた。

風雅は婚約解消を思い止まってくれるように相手方の両親に交渉に向かい、土下座して頼み込んだ。
「いくら、昔の家柄がいいっていっても、ここまで落ちぶれたお宅にもう娘はあげられないわ、ごめんなさいね」
「君も分かってると思うがあの頃と今じゃ、お互い釣り合いがとれなくなっているんだよ、我が家はブランドを立ち上げて、娘は自社ブランドのモデルも勤めて人気も出始めているしね、これからは家柄よりもイメージや話題性なんだ、君もまだ若いんだから、あそこは畳んで心機一転出直す方が得策だよ?」

「仰ることは分かります、でも、従業員とその家族を考えると会社を潰すわけにはいかないんです!どうか、お願いします、何でもしますから!!」

「そうは言っても、お祖父さんだったら兎も角、まだ若い君にこの不景気に町工場の社長が勤まるほど世の中は甘くない、それくらいの事は君だってさすがに知らなきゃならない。私はこれから来客の予定があるんだ、悪いがもう帰ってくれ、破談を言い出したのはこちらだからそれなりの慰謝料はちゃんと支払わせて貰うから」
「待ってください!綾小路さん!!」

「すまないね、風雅くん、私は君の事は嫌いじゃなかったよ、だけど、一つだけ言わせてもらうと、君はこうなった今でも、凛子の事は一言も口に出さない。それには親として憤りすら感じるよ……」

「それは………」

「じゃあ……」

「待ってください!綾小路さん、一度だけ、一度だけチャンスをください!!どんな形でも構いませんから、お願いします!!」

綾小路家との交渉が決裂したかに見えた風雅さんは途方に暮れていた。
だけど、数日後、婚約者の綾小路凛子さんが自宅を訪れた。

「風雅、私と結婚したい?」
「………したい」
「ふ、正直な男は嫌いじゃないわ、相変わらず嫌そうな顔が傷ついちゃうけど」
「凛子……」
「……父に、最後のチャンスが欲しいって言ったんですって?」
「あぁ……」
「いいわ、これが私から貴方への最後のチャンス、すべて飲んでくれたら結婚してあげる」
「これはっ…」
「悪い話ではないでしょう?」

凛子さんが風雅さんに突きつけた条件は、風雅さんの家業の工場を実質合併吸収して風雅さん自身はその事業から身を引くことだった。
だけど、その他の従業員は全て新会社で雇用を継続する。

そして風雅さん自身は既にモデルとしてかなりの知名度があがっていた凛子さんと入籍して自社ブランドの看板として夫婦モデルとなり販路を拡大するというものだった。
海晴のお兄さんだけあって容姿端麗、眉目秀麗な風雅さんは、凛子さんの思惑通り注目を浴びて、広告活動は成功し、ブランドはもちろん二人の知名度も上がり、風雅さんはドラマにも出演する俳優として飛躍していったかに見えた。

だけど、風雅さん本来の性格は、どちらかと言えば内向的で、自己の内側にあるものに拘り、静かに磨いていく、そんなアーティストや職人気質に多い価値観の持ち主だった。

人気ブランドの専属モデル
凛子の旦那
抱かれたい男
俳優の小笠原風雅
セレブ

「俺は………」

目を閉じれば、いつも美しい海と静かな時の流れが心に浮かんでくる。
それが唯一の癒しの時間。
朧気な幸せだった記憶。

---あの時、自分は誰と一緒にいたのだろう

多くの人に騒がれても、持て囃されても風雅さん自身は孤独を抱えていた。
人生そのものを再び乗っ取られて他人になってしまったような不安感に支配されて、彼は密かに精神安定剤を常用するようになる。
彼にとって家は心休まる場所ではなかった。

「風雅、もう寝ちゃうの、一緒に飲みましょうよ?」
「ごめん、疲れてるから、すまない……」
「そう、いいわ………」

夫婦関係は静かにすれ違い続けた。
風雅さんには凛子さんの気持ちを思いやる余裕はなかった。
そして凛子さんの幼く純粋だった恋心はいつの日からか風雅さんを縛る枷のように、重く苦しいものに形を変えていた。

そして、そんなある日、実体をもった巫南が、新人女優という彼女が形作った肩書きを持って風雅さんの前に現れた。

海晴と再会した時同様に瞳を合わせた瞬間、全ては繋がった。

「お前は、海晴と違って寂しいな…、私も、ずっと、寂しかったぞ…」

そこにはそれ以上の言葉も、時間も必要無かった。
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