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第二章 ① 崩れゆく世界
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「ごめん陽愛、僕と別れてほしいんだ……」
幼馴染みで恋人の神谷海晴からそう告げられたのは正に晴天の霹靂だった。
まるで突然の最終宣告のような言葉に、この時の私は、一人暗闇に放り出された気分だった。
(なんで……?)
何て事はない世間ではよくある話だ。
大切な人ができたのだと、そして子供ができたから責任をとらなければならない。だから私との関係は終わりにしたいのだと、海晴は私に告げた。だけど、いざ自分の事となったなら到底一瞬で受け入れられるような話では無かった。
「嘘でしょ、だって………」
「ごめん、陽愛、嘘でこんなことは言えない………」
海晴がこんな風に私を裏切るなんて到底信じられなかった。
だけど、もっとよく考えてみたら、海晴らしいと言えば海晴らしい不用心さだとも思う。
何を考えているのか解らないところは昔からあったし、最近では時々、塞ぎ混む様子あった、そしてなにより情に流されやすいという前科も持っている。
そんな男に子供ができたのだ…
それでも、信じられなかった。
「だっ、だって、私達………」
「……本当に申し訳ないと思っている」
最近では 二人の未来を疑う事すらなくなっていた。
それくらいに海晴は私に優しかったし、そろそろ結婚でしょう、なんて周りからの期待の声に内心その気にもなっていた。
それなのに突然こんな事実を突き付けられたのだ。
眩暈と吐き気を覚えながらも私は、別の可能性を思い浮かべようとする。
―――ははっ、私、また夢でも見てるのかな、それともなにかのサプライズ?
現実だと思いたくない。もし現実だとしても受け入れたくない。
それでも、どうしてもこれが真実だというのなら、もし、泣いて喚いて行かないでと罵れば、昔から私にめっぽう弱かった海晴は思い止まってくれるのだろうか?ずっと私の側にいてくれるのだろうか。
別れるくらいなら死んでやると、もし、今、そう言ったなら………
だけど、私はそうはしなかった。相手の女性のお腹にいる子供の事を考えたら、出来なかったのだ。でも、もっと大きな理由は、絶対の信頼を寄せていた海晴に対しての怒りと悲しみだったのだと思う。
「海晴………」
自分が酷く惨めで、滑稽にすら思えた。
そして今、そんな感情を見せたくないという最後のプライドのなかで私は口を開いた。
「……いいよ、別れてあげる」
私は掠れた声で呟いた。
まるで体の一部をもぎ取られたような痛みのなかで精一杯にそういうと、皮肉にも海晴の方が痛そうに顔を歪めた。
甦る私の記憶にはいつだって海晴がいた。
最初に出会ったのはまだ互いが幼稚園の頃だった。
幼い友達から始まった関係は、やがて性別を超えた親友として育ち長くその関係は続いた。
思春期には、異性としての葛藤で少し距離を置いた時期もあったけれど、その後気持ちをぶつけ合って付き合うようになった私達は直近の八年間を恋人として過ごした。
そんな風に少しずつ形を変えながらも二人の世界は続いていくのだと信じていたし、そうあって欲しいと願いながら海晴の傍に居場所を求め続けてきた。
だけど、そんな長かった私の思いは、ついに行き着くところに行き着いたのかもしれない。
---そうか、ここまでだったんだね
満ちた潮は、時を待つと引いていく。
今がその潮時であるとするなら、きっとこの流れには逆らえない。
いつか故郷の港町で私を育ててくれた祖母が言っていたことを思い出す。
「潮時たぁね、旅立ちの時でもあるんだよ、陽愛、それでもこの海は繋がっているからね、ひとりじゃないよ、ひとりにゃならない……」
そう言って穏やかな海を指し示していた皺の刻まれた優しい笑みの持ち主はもういない。
そして今の私はまだ動揺ばかりで、気持ちのやり場すら分からない。ただただ身を割かれたような喪失感と絶望に押し潰されそうだった。
無意識に持ってしまっていた期待とか……
二人の絆を信じていた気持ちとか……
楽しかった思い出とか……
そんなものが嘲笑われるように崩れ落ちていく、そんな悔しさと虚しさのなかで思った。
「いっそ、こんな世界消えて無くなればいいのに」と。
「………陽愛」
そんな私の前で海晴はとても悲しい瞳をしていた。
(だから、なんであんたがそんな辛そうな顔をするのよ?泣きたいのは、どうしたらいいのか、分からないのはこっちだっての……)
こんな時でも、私への情を滲ませるその表情に恨めしさを覚える。
「やっぱり嘘、嫌だよ、行かないで」と今すぐ崩れ落ちて、伸ばされるかもしれないその腕に縋りつきたい。でも今、それは出来ないし、やってはいけないことなのだ。
自らの意思で私との別れを選んだ海晴が抱きしめるべき存在はもう私ではないのだから。
今にも溢れ落ちそうな涙を意地でも見せたくなくて、私はそのままバックを掴み取って、踵を返そうとした。だけどその時、手首を痛いくらいに捕まれた。
「陽愛、ごめん、だけど待って!?もう少しだけ僕の気持ちを聞いて欲しい」
「離して……」
(離さないで……)
紡いだ言葉と本心との不一致に心が悲鳴をあげていた。
「分かって欲しい、こんなこと言える資格はないけど、僕にとって陽愛との時間は……」
(私との時間は?なんだったの?)
海晴の部屋のドアノブに手をかけたまま、私はその言葉に足を止めた。
たぶん、この時一縷の期待があったのだと思う。
「特別だった、でも、ごめん、こんなふうに、君を傷つけて、本当にごめん……」
その言葉を聞き終わる前に、私は冷えた心で海晴に問いかけた。
「………一つだけ聞いていい?」
「な、なに?」
焦ったように問い返す海晴。
だけどその声は、会話が続くことに安堵を帯びているように感じた。
自分から切り出した別れを惜しんで、まるで行かないでとでも言いたいように聞こえるではないか。
---こんな時まで、本当に意味が解らない
今更お友達にでも戻れると思っているのだろうか、だとしたらおめでたいにも程がある。
そんな海晴に対して、私は抑揚のない声で問いかけた。
「いつから?」
「え?」
思いの他、素っ頓狂な声を漏らす海晴に、私は苛立ち、少しだけ声を荒げて彼を睨み付けた。
聞いてはいけない質問だと分かっているのに、聞かずにはいられなかった。
どう答えられても、自分への暴力にしかならない真実だから。
「その子とは、いつからなの?」
「っ………」
私が再びそう口にした瞬間、海晴は困惑したように眉をひそめた。
長い沈黙の後、海晴は考えるように唇を歪めながら早口に言い放った。
「っ………、は、半年くらい前からかな?たぶん」
「たぶんって……」
胸をぎゅっと鷲掴みにされたように苦しかった。
同時に心に穴が空いたような虚無感に支配された。
(半年………、半年も前から………)
「……………、そう」
---そうだったんだ
そんなにも前から海晴の心は私から離れていたのだ。それを突きつけられた私は海晴の手を振り払い、前を向いたまま再び扉を開いて歩き出した。
あまりの悲しみに冷静さを保てなくなっていく自分が怖かった。この半年、私に向けられていた海晴の優しさは全て嘘だったというのだろうか。
そんな私を海晴は再び焦ったように呼び止めた。
「ひ、陽愛?それでも本当に僕は……」
海晴の声を聞きながら、私は泣くまいと唇を噛み締めた。
いつだったか「別れ際すら非情に徹することが出来ない男なんてクズだ」と泣いていた友人がいた。今ならその意味も痛みもよく分かる。
(いつだって、そうだ………)
きっと、本気で好きだったのは私だけ。海晴の好きと私の好きは最初から意味が違ったのかもしれない。消えない虚無感が心に広がり続ける。
再び足を止めた私は、拳を握りしめて海晴を振り返り叫んだ。
「本当はってなんだよ?本当は、あたしにだって、言いたい事は沢山あるよ?」
石ころのように表情を無くした私はそう口にした。
(そう、言いたい事ならたくさんある………、だけどそんな顔を見せられたら……)
「ごめん……」
そう言われた瞬間、思いが涙になって溢れ出した。
「………あるよ?でも、でもね、もう何を言ったってどうしようもないじゃん?」
溢れそうな涙を流すまいと、瞬きを堪えて必死に続けた。
何を言ったって惨めになるだけだから、せめて醜態を晒すことなく終わりにしたかった。
海晴のなかに最期に残るかもしれない自分をこんな状況でも汚したくなかったから。
「っ………、それでも陽愛、お願いだから、ちゃんと聞いて欲しいんだ、僕はどう罵られても構わない、だけど君には、ちゃんと幸せになってほしいから、陽愛、お願いだから僕のせいで、自暴自棄にだけはならないで欲しい」
「自分を…」
「聞きたくない!」
聞きたいのは、そんな言葉ではないのだ。
琥珀色の瞳がやりきれないとばかりにじっと私を見つめる。
「陽愛、頼むよ、怖いんだ……」
「なんだよ、それ………」
案じるように私に伸ばそうとする海晴の手を私は払い除けた。海晴の傷ついた顔をみてこんな状況でも胸が痛む。だけど、長年の付き合いだから分かる。
海晴のその手は、今、こんな瞬間にめ私を抱き締めようとしたのだ。そして、それは私がそうして欲しいとどこかで願っている事を見透かされているから。今はそんな自分が惨めで悲しかった。
---ダメだ
沈黙のなか寄せられる海晴の悲しそうな瞳を、私は必死で睨み付けた。
「………さわらないで、海晴は父親になるんだよ?」
掠れる声でそう言った瞬間、海晴はハッとしたように顔を歪めて俯いた。
---本当にずるい人
「………そうだ、陽愛の言う通り、だね」
私はその言葉に耐えるように瞳を閉じた。
私達の間に、今までと少し違う距離が出来上がった瞬間だった。
だけど、それは仕方ない。
どれだけ不器用だろうが不甲斐なかろうが、何も知らずにやってくる無垢な命の前で、私たち大人は責任を果たさなければならない。
海晴はもちろん、こうなる前に彼を繋ぎ止めることが出来なかった私自身もやはり、ここで二人の関係にケジメをつけなければならないのだ。
---だから、海晴は変わらなければならない
そして、私も毅然としてこの別れを受け入れなければならない。
頭に酸素を送り込むように息を吸い込み、一言で吐き出した。
「……だったらさ、いいパパになってあげなよ?」
色んな理由を頭で巡らせながらも、本当は私自身が一番分かっていた。これは強がりで、私は本当はそんなに強くない。だからもう、これ以上は涙が抑えられる気がしないし、これ以上ここにはいられない。
「陽愛……」
「………さよなら海晴、今まで、こんな私に付き合ってくれてありがとう、もう自由になっていいから」
笑おうとしたけどそれも叶わず私は俯いた。
「………自、由?」
信じられないとばかりに掠れた声が返ってきた。
「……うん、さようなら、海晴」
(これでようやく、自由だよ…)
涙を隠す様に俯いたまま、私は海晴の部屋を後にした。
「…………自由、はっ、これが自由?………こんな自由なんて、あるの、陽愛、僕は」
海晴のそんな声など、耳にも入らず、部屋を後にした私は徐々に遠ざかる海晴との距離に比例するように、次第に大きくなる自分の嗚咽と胸苦しさに支配された。
絶望のなか夜道を歩く私は人目を憚る余裕もなく泣いていた。
出会って二十年、好きだと気付いて十二年の幼馴染み。そして恋人として過ごした期間は八年間。
(あぁ、これってあれだよ………)
よく長すぎた春というのは報われないなんて聞くけど、本当に救いようのない恋の結末だった。
もはや可笑しすぎて涙が止まらないレベルだ。
(あぁ、やだね、本当に止まらないや……)
幼馴染みで恋人の神谷海晴からそう告げられたのは正に晴天の霹靂だった。
まるで突然の最終宣告のような言葉に、この時の私は、一人暗闇に放り出された気分だった。
(なんで……?)
何て事はない世間ではよくある話だ。
大切な人ができたのだと、そして子供ができたから責任をとらなければならない。だから私との関係は終わりにしたいのだと、海晴は私に告げた。だけど、いざ自分の事となったなら到底一瞬で受け入れられるような話では無かった。
「嘘でしょ、だって………」
「ごめん、陽愛、嘘でこんなことは言えない………」
海晴がこんな風に私を裏切るなんて到底信じられなかった。
だけど、もっとよく考えてみたら、海晴らしいと言えば海晴らしい不用心さだとも思う。
何を考えているのか解らないところは昔からあったし、最近では時々、塞ぎ混む様子あった、そしてなにより情に流されやすいという前科も持っている。
そんな男に子供ができたのだ…
それでも、信じられなかった。
「だっ、だって、私達………」
「……本当に申し訳ないと思っている」
最近では 二人の未来を疑う事すらなくなっていた。
それくらいに海晴は私に優しかったし、そろそろ結婚でしょう、なんて周りからの期待の声に内心その気にもなっていた。
それなのに突然こんな事実を突き付けられたのだ。
眩暈と吐き気を覚えながらも私は、別の可能性を思い浮かべようとする。
―――ははっ、私、また夢でも見てるのかな、それともなにかのサプライズ?
現実だと思いたくない。もし現実だとしても受け入れたくない。
それでも、どうしてもこれが真実だというのなら、もし、泣いて喚いて行かないでと罵れば、昔から私にめっぽう弱かった海晴は思い止まってくれるのだろうか?ずっと私の側にいてくれるのだろうか。
別れるくらいなら死んでやると、もし、今、そう言ったなら………
だけど、私はそうはしなかった。相手の女性のお腹にいる子供の事を考えたら、出来なかったのだ。でも、もっと大きな理由は、絶対の信頼を寄せていた海晴に対しての怒りと悲しみだったのだと思う。
「海晴………」
自分が酷く惨めで、滑稽にすら思えた。
そして今、そんな感情を見せたくないという最後のプライドのなかで私は口を開いた。
「……いいよ、別れてあげる」
私は掠れた声で呟いた。
まるで体の一部をもぎ取られたような痛みのなかで精一杯にそういうと、皮肉にも海晴の方が痛そうに顔を歪めた。
甦る私の記憶にはいつだって海晴がいた。
最初に出会ったのはまだ互いが幼稚園の頃だった。
幼い友達から始まった関係は、やがて性別を超えた親友として育ち長くその関係は続いた。
思春期には、異性としての葛藤で少し距離を置いた時期もあったけれど、その後気持ちをぶつけ合って付き合うようになった私達は直近の八年間を恋人として過ごした。
そんな風に少しずつ形を変えながらも二人の世界は続いていくのだと信じていたし、そうあって欲しいと願いながら海晴の傍に居場所を求め続けてきた。
だけど、そんな長かった私の思いは、ついに行き着くところに行き着いたのかもしれない。
---そうか、ここまでだったんだね
満ちた潮は、時を待つと引いていく。
今がその潮時であるとするなら、きっとこの流れには逆らえない。
いつか故郷の港町で私を育ててくれた祖母が言っていたことを思い出す。
「潮時たぁね、旅立ちの時でもあるんだよ、陽愛、それでもこの海は繋がっているからね、ひとりじゃないよ、ひとりにゃならない……」
そう言って穏やかな海を指し示していた皺の刻まれた優しい笑みの持ち主はもういない。
そして今の私はまだ動揺ばかりで、気持ちのやり場すら分からない。ただただ身を割かれたような喪失感と絶望に押し潰されそうだった。
無意識に持ってしまっていた期待とか……
二人の絆を信じていた気持ちとか……
楽しかった思い出とか……
そんなものが嘲笑われるように崩れ落ちていく、そんな悔しさと虚しさのなかで思った。
「いっそ、こんな世界消えて無くなればいいのに」と。
「………陽愛」
そんな私の前で海晴はとても悲しい瞳をしていた。
(だから、なんであんたがそんな辛そうな顔をするのよ?泣きたいのは、どうしたらいいのか、分からないのはこっちだっての……)
こんな時でも、私への情を滲ませるその表情に恨めしさを覚える。
「やっぱり嘘、嫌だよ、行かないで」と今すぐ崩れ落ちて、伸ばされるかもしれないその腕に縋りつきたい。でも今、それは出来ないし、やってはいけないことなのだ。
自らの意思で私との別れを選んだ海晴が抱きしめるべき存在はもう私ではないのだから。
今にも溢れ落ちそうな涙を意地でも見せたくなくて、私はそのままバックを掴み取って、踵を返そうとした。だけどその時、手首を痛いくらいに捕まれた。
「陽愛、ごめん、だけど待って!?もう少しだけ僕の気持ちを聞いて欲しい」
「離して……」
(離さないで……)
紡いだ言葉と本心との不一致に心が悲鳴をあげていた。
「分かって欲しい、こんなこと言える資格はないけど、僕にとって陽愛との時間は……」
(私との時間は?なんだったの?)
海晴の部屋のドアノブに手をかけたまま、私はその言葉に足を止めた。
たぶん、この時一縷の期待があったのだと思う。
「特別だった、でも、ごめん、こんなふうに、君を傷つけて、本当にごめん……」
その言葉を聞き終わる前に、私は冷えた心で海晴に問いかけた。
「………一つだけ聞いていい?」
「な、なに?」
焦ったように問い返す海晴。
だけどその声は、会話が続くことに安堵を帯びているように感じた。
自分から切り出した別れを惜しんで、まるで行かないでとでも言いたいように聞こえるではないか。
---こんな時まで、本当に意味が解らない
今更お友達にでも戻れると思っているのだろうか、だとしたらおめでたいにも程がある。
そんな海晴に対して、私は抑揚のない声で問いかけた。
「いつから?」
「え?」
思いの他、素っ頓狂な声を漏らす海晴に、私は苛立ち、少しだけ声を荒げて彼を睨み付けた。
聞いてはいけない質問だと分かっているのに、聞かずにはいられなかった。
どう答えられても、自分への暴力にしかならない真実だから。
「その子とは、いつからなの?」
「っ………」
私が再びそう口にした瞬間、海晴は困惑したように眉をひそめた。
長い沈黙の後、海晴は考えるように唇を歪めながら早口に言い放った。
「っ………、は、半年くらい前からかな?たぶん」
「たぶんって……」
胸をぎゅっと鷲掴みにされたように苦しかった。
同時に心に穴が空いたような虚無感に支配された。
(半年………、半年も前から………)
「……………、そう」
---そうだったんだ
そんなにも前から海晴の心は私から離れていたのだ。それを突きつけられた私は海晴の手を振り払い、前を向いたまま再び扉を開いて歩き出した。
あまりの悲しみに冷静さを保てなくなっていく自分が怖かった。この半年、私に向けられていた海晴の優しさは全て嘘だったというのだろうか。
そんな私を海晴は再び焦ったように呼び止めた。
「ひ、陽愛?それでも本当に僕は……」
海晴の声を聞きながら、私は泣くまいと唇を噛み締めた。
いつだったか「別れ際すら非情に徹することが出来ない男なんてクズだ」と泣いていた友人がいた。今ならその意味も痛みもよく分かる。
(いつだって、そうだ………)
きっと、本気で好きだったのは私だけ。海晴の好きと私の好きは最初から意味が違ったのかもしれない。消えない虚無感が心に広がり続ける。
再び足を止めた私は、拳を握りしめて海晴を振り返り叫んだ。
「本当はってなんだよ?本当は、あたしにだって、言いたい事は沢山あるよ?」
石ころのように表情を無くした私はそう口にした。
(そう、言いたい事ならたくさんある………、だけどそんな顔を見せられたら……)
「ごめん……」
そう言われた瞬間、思いが涙になって溢れ出した。
「………あるよ?でも、でもね、もう何を言ったってどうしようもないじゃん?」
溢れそうな涙を流すまいと、瞬きを堪えて必死に続けた。
何を言ったって惨めになるだけだから、せめて醜態を晒すことなく終わりにしたかった。
海晴のなかに最期に残るかもしれない自分をこんな状況でも汚したくなかったから。
「っ………、それでも陽愛、お願いだから、ちゃんと聞いて欲しいんだ、僕はどう罵られても構わない、だけど君には、ちゃんと幸せになってほしいから、陽愛、お願いだから僕のせいで、自暴自棄にだけはならないで欲しい」
「自分を…」
「聞きたくない!」
聞きたいのは、そんな言葉ではないのだ。
琥珀色の瞳がやりきれないとばかりにじっと私を見つめる。
「陽愛、頼むよ、怖いんだ……」
「なんだよ、それ………」
案じるように私に伸ばそうとする海晴の手を私は払い除けた。海晴の傷ついた顔をみてこんな状況でも胸が痛む。だけど、長年の付き合いだから分かる。
海晴のその手は、今、こんな瞬間にめ私を抱き締めようとしたのだ。そして、それは私がそうして欲しいとどこかで願っている事を見透かされているから。今はそんな自分が惨めで悲しかった。
---ダメだ
沈黙のなか寄せられる海晴の悲しそうな瞳を、私は必死で睨み付けた。
「………さわらないで、海晴は父親になるんだよ?」
掠れる声でそう言った瞬間、海晴はハッとしたように顔を歪めて俯いた。
---本当にずるい人
「………そうだ、陽愛の言う通り、だね」
私はその言葉に耐えるように瞳を閉じた。
私達の間に、今までと少し違う距離が出来上がった瞬間だった。
だけど、それは仕方ない。
どれだけ不器用だろうが不甲斐なかろうが、何も知らずにやってくる無垢な命の前で、私たち大人は責任を果たさなければならない。
海晴はもちろん、こうなる前に彼を繋ぎ止めることが出来なかった私自身もやはり、ここで二人の関係にケジメをつけなければならないのだ。
---だから、海晴は変わらなければならない
そして、私も毅然としてこの別れを受け入れなければならない。
頭に酸素を送り込むように息を吸い込み、一言で吐き出した。
「……だったらさ、いいパパになってあげなよ?」
色んな理由を頭で巡らせながらも、本当は私自身が一番分かっていた。これは強がりで、私は本当はそんなに強くない。だからもう、これ以上は涙が抑えられる気がしないし、これ以上ここにはいられない。
「陽愛……」
「………さよなら海晴、今まで、こんな私に付き合ってくれてありがとう、もう自由になっていいから」
笑おうとしたけどそれも叶わず私は俯いた。
「………自、由?」
信じられないとばかりに掠れた声が返ってきた。
「……うん、さようなら、海晴」
(これでようやく、自由だよ…)
涙を隠す様に俯いたまま、私は海晴の部屋を後にした。
「…………自由、はっ、これが自由?………こんな自由なんて、あるの、陽愛、僕は」
海晴のそんな声など、耳にも入らず、部屋を後にした私は徐々に遠ざかる海晴との距離に比例するように、次第に大きくなる自分の嗚咽と胸苦しさに支配された。
絶望のなか夜道を歩く私は人目を憚る余裕もなく泣いていた。
出会って二十年、好きだと気付いて十二年の幼馴染み。そして恋人として過ごした期間は八年間。
(あぁ、これってあれだよ………)
よく長すぎた春というのは報われないなんて聞くけど、本当に救いようのない恋の結末だった。
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