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第一章 湖面の投石

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あなたは不思議な体験をしたことがあるだろうか?もし、私がそう問われたなら、私は「ある」と迷わず答えられる。

だけど、それは誰にも言わない、そう決めた私だけの秘密だ。もしもそれを誰かに話してしまったら、ようやく手に入れた幸せが砂のように崩れ落ちて消えてしまいそうで怖いから。幸せはいつだってとても儚いものであることを私は知り過ぎているから

今日も優しい風が頬に吹き付ける。

それを感じながら、頭上に広がる大きな空を見上げ、時と共に表情を変えながら降り注ぐ陽の光を受けてそっと目を細める。

生きている限り与えられ続けるだろう自然の恵みを感じてそっと目を閉じ、今日がある事を感謝する。

だけど、それと同じように私を包む世界には、目には見えない大きな力があることを私はいつも身近に感じている。そしてそれは、今も絶えることなく私の記憶から大切な存在を奪おうとする。

だから、私は今日もその見えない力に抗うように、こうして在りし日の君の姿を瞼に思い浮かべる。


―――日向


この心の内にだけ確かに存在する君の存在を守るために、私は戦い続けると決めたから。


柔らかな頬、形のよい薄い唇、私を見つめる琥珀色に輝く長いまつげに縁取られたまだあどけない瞳。まるで日だまりのように微笑む年端のいかない少年の顔を思い出し、鼻の先に切ない痺れを覚えて、それに安堵する。


---大丈夫、大丈夫だよ、きっと覚えていられる、覚えていてみせる


私が君に与えてあげられた暮らしはとてもささやかで、いつも重苦しいほどの不安が付き纏っていた。


―――あの頃、私は上手く笑えていましたか?



君はとても素敵な笑顔で笑ってくれたね。

だから、今でもずっと覚えていられる、きっとこの先もずっと覚えていられる。

あの日々の暮らしのなかで、私達は確かに幸せだった。

そうだよね、日向。


だけど、君はもういなくて、そして君の事は誰も知らない。それどころか、君と生きた世界すら、今はもう存在しないのだ。


だからこそ、抜け出せない不安が今もずっと付きまとう。こればかりはきっと経験したものにしか分からないだろう。


だから、もう一度誰にでもなく心のなかで問いかけてみよう。


―――あなたは不思議な経験をしたことがあるだろうか?



もし突然、世界が変わってしまったら、あなたは目の前にある世界とどう対峙するだろうか。それにようやく一つの答えを見出したかもしれない今、どうしても抜け出せないひとつの思いがある。



---今、この手で触れられる幸せは幻ではないのか



そうでないなら、誰かの不幸の上に、無理矢理築かれている砂上の楼閣ではないのかと?

何度も考えては打ち消し、考えないようにしているこの問いを、私は何度自分に問いかけてきたのだろう。




もはや癖のようになったこんな時間は、いつも元気な声で現実に戻される。


「ママ、ケーキの箱、もう開けてもいい!?」


マンションのベランダで物思いに耽りながら洗濯物を取り込んでいた私の背中に焦れたような甲高い息子の声がかかる。


「あっ、ダメだよ、落としたら大変!ちょっとだけ待ってね、この洗濯物を片付けたら、もう準備するからね」


お日様の臭いのするバスタオルを手にそう叫ぶ私に、リビングにいる夫の声がかかる。


「そっち、変わろうか?」


「大丈夫だよ、もう終わるから、その間、ちょっとだけ太陽の相手してやってくれる?」


「了解」


洗濯物を抱えた私がいうと夫が、軽快に返事をして立ち上がる。


「よしっ、じゃあ太陽、今日は特別な日だからな、パパと誕生日らしい音楽でも検索しながら待ってようか?」


そう言って機嫌よくスマホを検索する夫に、画面を覗き込む息子の太陽。


「うん!誕生日の歌?僕も選びたい!!」


「おっ、いいぞ!太陽が知ってるやつは何だ?」


そう言って、スマホから音楽を検索し始める夫と、それを興味深そうに覗き込む息子。


「あ、これなんかいいんじゃないか?」


「……なんか、定番だね」


「おっ、こいつぅ、もうそんな生意気言うようになりやがって!じゃあ、これはどうだ?」

そんな言葉と同時にスマホを経由してスピーカーから流れ始めたお馴染みの誕生日ソングに息子の太陽が顔を輝かせる。


「うん!それがいい!!」

今日は息子、太陽の誕生日だ。

数時間前に家族で買い出しに行った息子の好物を食卓一杯に並べ終えた私たちは、大きなケーキの上に燃える蝋燭越しに、少し大きくなった息子の笑みを見つめた。

丸い頬を膨らませ鳥のように尖らせた唇がここぞとばかりにふぅと大きく震えた瞬間、炎が一気に揺らめき、一瞬にして消える。



「おめでとう、太陽!!」

「太陽ももう6歳かぁ、お兄ちゃんになったなぁ!」

「うん!!」



嬉しそうな笑顔で頷き、待ちきれないとばかりに目の前のごちそうに手を伸ばす太陽。

そんな太陽の世話を案外きめ細かく焼きながら、今日も饒舌に話す夫を中心に盛り上がる家族の会話、それと共にどんどん減っていく料理の数々。



そんな幸せの象徴のような時間だった。

だけど、そんななかで、無邪気に発せられた他愛もない一言に私は内心固まった。

それは私が長年抱え続けてきた罪悪感に似た何かを大きく揺るがせたからだ。

嵐の後、ようやく凪いだように錯覚していた湖畔の水面に、大きな石が前触れもなく投げ入れられた。そんな衝撃に私は内心凍り付いていた。



---僕は元々、ママのなかにいたんだ!



他愛も無い会話の中、息子はこの日、私と夫の桐谷の前でそう言った。

そして、息子が突然投げ入れた一つの石は私の胸に波紋のように幾重にも広がっていく。


---私のなかにいた?


幼い子供が言ったことを鵜呑みにするわけではない。そして無邪気なこの子は、その言葉がどれほど私の心を騒めかせるものなのかも知らないで屈託なくそう言って笑うのだ。

太陽に罪などあるはずがない。あるとしたらならば、それは全てこの私にあるべきはずものだからだ………


だけど、それでも、数年ぶりに広がることを抑えられない胸の波紋は罪という大きな渦に変わりそうになっている。


だからこそこんな夜は、渦巻く思いに身を委ねようと思う。忘れない為に、そして壊さない為にも。


もう一人の君と、もうひとつの私たちの世界に………

もう戻ることのない、懐かしい世界で、眩しく笑っていた君に精一杯の想いを馳せて……
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