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第九話 ひとつになった道
しおりを挟む「そんなに、私との別れを惜しんでくださるのですか?」
私の名を呼びながら涙を流すライシス様に心を乱され、思わず口から零れ落ちるようにぽつりと呟いた言葉だった。
それをじわりと実感した瞬間、私は切なくなって鼻の奥がツンと痛む顔を歪めた。
だけどその言葉を聞いたライシス様は顔を強張らせたと思ったら、次の瞬間、私の手首を掴んでベッドに押し付けた。
突然の行動に驚いて身を固める私を、ライシス様は怒りを殺した赤い瞳で見つめる。
その顔を見て私は蒼ざめた、まるで憎いと言われているようで激しく動揺してしまう。
「ライシス様……」
掠れた声はライシス様の怒声により遮ぎられてしまう。
「何を言う、だから、私は、私から離れることなど認めないと、昨夜もあれほど!」
「っ、まだ、分からないというのなら何度だって……」
「痛いっ!」
ライシス様の爪が食い込んだ手首の痛みに思わずそう叫んだ瞬間、ライシス様はハッとして蒼ざめた様子で私から身を引いた。
「す、すまない、……くっ、これだから俺は………」
そう言ったライシス様は後悔とも自虐ともとれる悲痛な表情を浮かべて、ベッドの前で膝をついたまま両手で頭を抱え込んだ。
「ライシス様…、あっ………」
その瞬間、ライシス様の左手の薬指に光るものがあるのに気付いた私は胸の痛みと共に眉を下げた。
「……ご婚約、なさったのですよね、おめでとうございます」
できるだけ動揺を悟られないように静かに口にした言葉にライシス様の逞しい肩がピクリと動いた。
「は?それは何の嫌味だ………」
怒りのこもった目で見つめられた私は、気まずさを取り繕うように曖昧な笑みを浮かべる。どうやら本心から喜んでいないことが伝わってしまったようだ。
「いえ、決して嫌味では、指輪を、してらっしゃるから」
「…………」
気まずい沈黙に居たたまれなくなった私は再び口を開いた。
「そ、それは少し寂しい気持ちはありますが、私はライシス様の幸せをお祈りしていますから」
そう言うと、ライシス様は顔を両手で覆ったまま、はぁーと息を吐いた。
「……お祈りね、ミシェル」
「は、はい……、決して嘘では……」
「そんな陳腐な言葉で、今更この俺から逃げられると本気で思っているのか?」
「は……?」
ライシス様の責めるような赤い瞳に戸惑った。
怒らせてしまった?でも、何故?
纏う空気も酷く重い、そして私は自らの身体の異変に改めて気付く。
腰が今までに感じたことがないくらいに重怠くて、気のせいか先ほどから動く度にこぽりこぽりと蜜口から何かが溢れてくる違和感に内心不安になる。
(………ん?この異様な感触は何だろう、生理はまだのはずなのに)
「この指輪を見て、お前が何を都合よく納得しているのかは知らないが、自分の指を見てみるがいい……」
「えっ、指、指ですか………」
不穏な空気を漂わせながらそう言われた言葉は、まるで死を宣告するような酷薄な響きを湛えていた。
恐る恐る指を見た私は、目を見開いた。
「え!えええっ………、何、これは、どこから……」
全く見覚えのない指輪に状況が理解できず、口をパクパクさせながらライシス様に目を移すと、ライシス様は自嘲するように口元に歪んだ笑みを浮かべた。
それは私には今にも泣きそうな顔にも見えた。
「呪いの指輪だろうよ、つける奴の気持ちによっては……」
「へっ?呪いの、指輪、ですか?」
そう驚きながら、マジマジと指輪を見つめる私にライシス様は意地悪な笑みを浮かべた。
―――もしかして、本当に呪われてしまったの、私達は?
この状況とライシス様の尋常ではない真っ赤な瞳を見ていると嘘だと笑い飛ばすには違和感があり過ぎる。
だけど次の瞬間、この状況に何故か既視感を覚えた私は眉を寄せた。
―――初めてではない、私はこんな状況を知っている?
そんな違和感に戸惑った次の瞬間、ひとつの記憶が脳裏に蘇った。
甘くて、優しい、穏やかな時間……
あぁ、そうだ、あれは確か伯爵家の人達の目を盗みライシス様と遠出したときに見つけた花畑だ……
《ほら、やるよ、ミシェル……》
《うわぁ!!お花の冠、きれい!!ありがとうございます、ライシス様》
《まぁ、呪いの冠だけどな、ほらこっちこい、もっと綺麗に被せてやるから……》
《……呪いですか?》
《あぁ、一生、俺の言うことを聞くと言う呪い付きだ、綺麗だろ?》
《はい!すごく綺麗です!!嬉しいです!!!》
《ふはっ、そこはまず呪いを気にしろよ》
《嬉しい呪いは、呪いでも嬉しいです》
思い出すと胸がキュンと苦しくなる。
「ずっと、傍に居ろ、ミシェル……、どこにも行くな……」
「え………?」
そこには怖いくらい真剣な表情をしたライシス様が、赤い瞳で私を捕らえていた。
「傍に……、ライシス様の傍にですか?」
「そうだ、俺の傍にいてくれ」
「でも………」
その命令に私はどう答えていいか分からず眉を寄せた。
これからも傍にいてもいいのだと……
それはとても嬉しい言葉だけど……
これから王都で、新たな生活を築いていくライシス様にとって私は邪魔にしかならない。何より、そんなライシス様の傍で私はきっと今までのように普通には暮せない。
「それは……」
―――無理だ、ライシス様の命令でもそれだけは無理
無理です、顔を歪めてそう言おうとした瞬間、突然ぎゅっと抱きしめられた。
「頼む、お前がいないと、俺はもうきっと息さえできない……」
「え……」
初めて聞くそんな弱音に私は胸を締め付けられた。
こんな難題でなければ、何でも言うことを聞きたい。
だけど……
「愛してる、愛してるんだ、ミシェル、どうか、この俺と結婚してくれ……」
そ、それでも、私にはそんなこと、とてもじゃないけど無理なんです、分かって下さい!!
―――――――――――――――――
「ふぇ……?」
(今、なんと?なんと聞こえただろうか??)
「……………ライシス様?」
あっけにとられて何の反応もできないでいる私の前で、怯えた目をして固まるライシス様。
心なしか体を縮こませたライシス様は私の知る威風堂々としたライシス様と本当に同一人物かと疑いたくなるくらいに今、自信なさげに私の瞳を伺っている。
「えっ、ええ……?」
「謝る、これまでのことは何度でも謝るから、俺を置いていかないでくれ……」
「ちょ……、ライシス様、私………」
―――これはどういう状況だろう?
夢にしては、抱きしめる力が強い、背中に食い込む指が痛い。
普通の令嬢なら窒息死するレベルなことを考えるとまんざら相手を間違えている訳でもなさそうだ。
「あの男、レオンなんかよりずっと、お前を幸せにする、大事にすると誓う、だから」
「え……、なんでレオン?」
まるで叱られた犬のように私に顔をすり寄せて鼻や頬に唇を落としながら、謝る、約束すると何度もうわごとのように囁くライシス様に状況の掴めない私はどう声をかけていいのか分からない。
「頼む、ミシェル……」
ついに堪り兼ねたように大きな手で頬を包まれて唇を塞がれる。
まるで懇願するように、私の口内を宥めるように深まるライシス様のキス。
昨晩の怒りに任せたキスとも違う、涙の入り混じったちょっとしょっぱいキスを私は今まで知らない。
どれほどそうしていただろう、唇と唇が糸を引きながら離れた後、ライシス様は、宣告を待つような怯えた瞳で私を見つめていた。
「ミシェル、頼む、私と結婚すると言ってくれ……」
―――嘘、でしょ?
「嘘です、だって……」
固まって瞳を曇らせる私の肩を掴むライシス様。
「嘘でこんなことは言わない、俺は本気だ、本気でお前だけを愛している」
「嘘………」
「だから、どうして嘘だと思う?」
茫然と嘘だと繰り返してしまう私にライシス様は苛立ちとも悲しみともとれる複雑な表情をして顔を歪めた。
「ここまで言っても信じてすらもらえないとは、そうだな、だとしたら全て、この俺が悪い、俺がお前のことをあんな風に扱ってきたから……」
再び頬を合わせるように抱き込まれ、スリスリとすり寄られる。
「ちょ、ライシス様……」
「だが、大事に思っていなかった訳じゃない、それだけはどうか信じて欲しい」
(え、大事?)
「子供の頃、お前を急に避けて悲しませた自覚はある、だが、あれは女だということに気付いて怪我をさせたくなかったからだ……」
「まぁ、それは……」
さすがに知ってますけど……
「他の遊びをしようと誘ってくれたのに断ったのは、俺には男のする事しか興味がなかったし、正直気恥ずかしかったのもある、プライドが許さなかったのだ…」
「はぁ、それも、何となく分かってますから……」
今となればライシス様に人形遊びや刺繍をしてもらえると思っていたチャレンジャーな自分に居た堪れない。
「あと、俺の命令を聞かないお前の気を引きたかった気持ちもあった……」
「えっ、それはどういう……」
ライシス様はそれには気不味そうに答えずに、顔を歪めたまま話を続けた。
「十九の頃、父上の葬儀で久しぶりに会ったお前に優しく出来なかったのは、お前があんまりにも急に大人になっていて、その、ど、どう接していいか分からなかったからだし……」
「へ……?」
子供扱いしてたのではなくて?
顔を赤らめて目を合わそうとしないライシス様は、
段々と早口になりながら自棄になったように言い放った。
「出征中、お前に手を出したのは、お前が死ぬかもしれないのに他の男を後生大事に抱えて帰ってきて、俺を嫉妬させたからだ……」
「えぇぇ!?」
まさかの事実に驚愕する私に、一度黙ったライシス様は観念したように口を開く。
「戦争中、あんな扱いしたのだって、今ではあれはなかったなって、本当に酷い男だって分かっている…」
「あれは、戦争中でしたから……」
「やはり、お前はそう思っているのだな、俺も男だから、感情の昂ぶりや性欲は否定しないが、明日死ぬかと思ったら、どうしても最期にお前に触れておきたかった……」
「ライシス様……」
「お前は俺のものだって実感したかった」
「…………」
「想いは、ちゃんとあった事だけは分かって欲しい、他の女ならあんなことはしなかった、俺はお前だから自分を止められなかった」
「そんな…」
「本当はお前に愛を囁き、将来の約束をしたかった、だけど……」
そう言われた瞬間、私は涙を零していた。
その先の想いはきっと私達は似たようなものだったのかもしれない。
「死んだ後、律儀なお前を縛り付けたくはなかった、それなのに矛盾しているが、誰にも渡したくないと、その結果があの姿だ」
「………」
「俺は醜かっただろう、勝手な男だ…」
「ライシス様…」
「だけど、最後、どうしても死にたくないと、死なせたくないと、往生際悪く戦う自分がいた……」
「ライシス様……」
「お前の元に帰る、死なせたくない、共に生きるのだと……」
そこまで聞いた私は胸が震えた。
そんな風に思っていてくださったのだ。
―――どうして私は今まで、知ろうとしなかったのだろう
ライシス様もまた、孤独のなかで、いつだって私に不器用な手を差し伸べてくれていたというのに。
「それなのに、それなのに、今更、この俺を置いてどこかにいくなんて、俺は絶対に許さない!」
「ライシス様……」
「ミシェル、戦争は終わったんだ、俺の為に、俺の隣で生きてくれ」
「…………」
―――ライシス様の隣で?
「お前の為に用意したこの屋敷で二人だけの生活を始めよう……」
そう言って、少し怯えた笑みを作り、手を差し伸べるライシス様。
だけど、色々辻褄が合わない事に気付いた私はその手をとろうとして戸惑った。
「で、ですがライシス様には、帰りを待たれている女性がいらっしゃるのでは?その方と暮らす為に家を探しているとお聞きしましたし、その女性とデートも楽しまれているとお聞きしましたが……」
「………は?何の話だ?」
そう言った瞬間まるで夢から覚めたようにポカンとするライシス様に私は眉を寄せた。
「確かにポロポーズしたくてデートには誘ったが、俺は常にお前につれない態度で断られてきたぞ……」
「そ、それは既にお相手の決まったライシス様にご迷惑をかけない為に」
「待て、だからその決まった相手って誰のことだ?俺にはさっぱり心当たりなどない」
「でも、インテリアやドレスを一緒に購入されている美しい方がいらっしゃるって」
「あぁ?確かにここにあるインテリアやドレスは買った」
「ほら、やはりそうなのではないですか……」
「勘違いするな、全てお前の為のものだ、ほら、他にもたくさん揃えたから後で見せてやる、気に入ってもらえると嬉しいのだが……って、ちょっと待て!」
「はい?」
「それはきっと義姉上だ、それしか心当たりがない、だけどちゃんと兄上だって一緒にいたぞ…」
「…………嘘」
「だから嘘は吐いていないと言っているだろう!!」
確かに私の知るライシス様は、一見傍若無人な態度を取ることはあっても、嘘で相手の機嫌を取るような人ではない
《いい事このご時世に……》
《ライシス隊長のところには……》
《まぁ、それはどういうことなのかしら?真相が知りたいわ……》
《団長は時の人だからな……》
《きっと……》
《違いないわ……》
《そういうことよねぇ……》
《英雄ですもの…》
―――そうだ
たくさんの噂が飛び交っていた。
その多くは、憶測で語られていたのに、私は勝手に傷ついていた。
ライシス様の真意など一度も探ろうとはしなかった。
「キクルス様の奥様……、アニータ様??」
「そうだ、それしかない、喜んで見繕ってたぞ、あの人、ああいうの好きだからな、疑うなら、兄上か本人に聞いてもらっても構わない」
「だけど、どうして兄上が見落とされるんだ、俺には全く理解出来ん……」
それを聞いた私は、時の人であるライシス様とお相手の美女しか見物人には目に入ってなかったのかと愕然するとともに、少しだけオーラの薄いかもしれないキクルス様に同情した。
そして、ようやく、真相が見えてくる。
「そ、それでは本当に、ライシス様は、この私を………」
「だから、さっきからずっと愛していると言っている、あと百回くらい罪滅ぼしも兼ねて言えばお前は納得するのか?それでいいならすぐにだって……」
「いえ、それではありがたみが薄れてしまいます」
そう言った瞬間、気恥ずかしさから少し砕けたように振る舞っていたライシス様は固まった。
「ありがたみって、お前……」
複雑な顔をして顔を赤らめたライシス様を私は見つめた。
「はい、すごく、嬉しいです、涙がでるくらいに……」
「本当か……?」
「でも……」
眉を寄せる私に、酷く慌てた顔をするライシス様。
「ミシェル?」
「………私で、いいのでしょうか?こんなどこの馬の骨とも分からない女」
そう言った瞬間ライシス様は顔を手で覆って大きな溜息を吐いた。
「お前は何も分かってない、いいに決まってる、例えお前の出自が何であろうとこの気持ちが揺らぐことはない……」
「でも………」
反対されなかったとしても内心侮ったり、不満を持つ人は多いのではないだろうか。
何といっても婚姻の申し込みが殺到している時の人ライシス様が、こんな私と結婚するなんてライシス様の輝かしい将来に影を落としてしまうのは心苦しい。
「むしろお前以外では困るのだが…、うーん、どうしたものか………」
ライシス様は迷うように眉を寄せている。
やはり、ライシス様は貴族であり国の英雄、私などが相手では何かと不都合があるのも事実に違いないのだ。
だけど、続いた言葉は予想外だった。
「それにな、この際だから言うが、お前の出生は、本当は父上がとうの昔に突き止めている」
「え……?」
思ってもいなかった話を振られて目を瞬かせる私にライシス様は心底困ったという風に目を逸らした。
「いや、実はな、今回戦った隣国、そこで貴族間が王族を巻き込んで権力争いがあった年があったそうなのだが、その時に謀略により取り潰された侯爵家の主、それがお前の父親だ……」
「へ……?」
―――何、それ?
私は咄嗟にその内容が理解出来なかった。
「ま、まぁ、母親は侯爵の正妻ではなかったようだが、侯爵はお前もお前の母親も外で囲ってそれは大事にしていたそうだ……」
「う、嘘……」
突然のことに信じられない私がそう呟くと、ライシス様は気まずそうに口角を上げた。
「いや、嘘を吐いていたのは、実は俺の父上の方だ、すまないな、ミシェル」
「え……?」
その言葉に戸惑う私にライシス様は言いにくそうに口を開いた。
「実は、俺達の実家に帰って、お前が物心つく頃にはしまい込まれた俺の母親の肖像画を見てもらえたら一目瞭然なのだろうが、その侯爵は、俺とキクルスの亡くなった母上の兄でもある……」
「え……?えええっ??」
私は余りの言葉に口をパクパクさせながら身を仰け反らせた。
「あー、……だからその、俺達は全く似てはいないのだが、実は従兄でもあるという事だ、でも、問題はないだろう?」
「でも……」
何が問題がないのかはよく分からないが、未だに状況が飲み込めない私は、何をどう考えていいのか最早分からない。
「あぁ…、ここは誤解しないで欲しいんだが、父上がお前を拾ったのは本当にただの偶然らしい……」
私はこくりと頷いた。
「お前を拾った時には既に母上は亡くなっていたからな、だけどお前の侍女らしい老女がお前の為に持っていたであろう持ち物と、亡くなった俺達の母親によく似た風貌をしたお前を見て、状況を察した父上はこの国と、何よりお前が政治利用されない為にお前の身元を敢えて伏せたまま手元で育てた」
「そんな……」
「っていうのは、父上の言い訳だけど、実際には俺の母親っていうのが生前、すごく娘を欲しがっていたらしいんだ」
「娘を……?」
(あぁ、これは聞いた事がある………)
「あぁ、だけど、母上はその後、子を産む事はなく亡くなった」
「それは、存じ上げています……」
しんみりと頷く私に、ライシス様は私の頬を大きな手で包み込んで優しく微笑んだ。
この笑顔は、昔私に向けられていたものを思い出させる、安心する笑顔だ。
「……母が嫁いで暫くしてから隣国との国交は途絶えていた」
「離婚をしてから再婚をと勧める親戚もいたらしい、だけど父は母を返さなかった」
「母は、父や家族を愛していたが、故郷や家の事もまた愛していた、貴族というのはそういうものだろう?」
美しく悲しいその話に私は切ない想いで耳を傾けた。
「母の死後、折に触れて故郷に想いを馳せていた母を慰める為に父は国境に向かった、隣国に向かって吹く風に母の僅かな遺髪を任せた後だったらしい、お前を拾ったのは……」
私は眉を寄せた。
「母と同じ髪と瞳の色をした、物怖じする事なく笑う赤子だ……」
ライシス様は遠い日を思い出し、呆れたように笑った。
「後になってご大層な理屈で取り繕って、色々言い訳していたが、普通そんな出会い、妻を亡くしたばかりの未練タラタラな男がただの偶然なんて思わないだろう?」
ライシス様は「単純に欲しかったに決まっているだろう」と微笑んだ。
「ある日、嬉々とした父が亡くなった母上と同じ髪と瞳をした赤子を抱いて帰ってきて、『女の子だ』『女の子だ』って、皆があんまりにも嬉しそうにちやほやするから、ひねくれものだった俺は、思わず『俺は弟が欲しかった!お前は男だ!!』なんて拗ねて意地張ってしまったのかもしれない、お前には悪い事をしたと思っている……」
頬をポリポリと搔きながら、不甲斐なさそうに微笑むライシス様を見て何故だか肩の力が抜ける。
自らの境遇と、待遇の差がずっと理解できず、心苦しかった。
もちろんあの伯爵家の皆さんであれば、私が、誰であってもきっと気にかけて優しくしてくださったことは間違いないと思う、だけど………
「そう、だったのですか………」
―――そうか、そんな風に思っていてくださったのだ
鼻の奥がツンとして涙が溢れそうになる。
花が咲く春には、上機嫌で私を呼び寄せて、奥様が好きだったという花の名前を教えてくれた旦那様、その瞳はいつだって優しすぎるくらい温かなものだった。
「まぁ、運命だったのかもしれないな、俺達の出会いは」
「運命……?」
ライシス様は再び、気まずそうに頬を掻いた。
「本当はもう一つ白状すると、父上から昔、俺もキクルスも釘を刺されたことがあるんだ」
「釘を刺される?」
その言葉に私は目を瞬かせた。
「あぁ、これから先大きくなってもミシェルの事は、女性として好きになってはいけないよって、生涯、本当の妹と思って、静かに見守ってやってくれって」
その言葉に私は眉を寄せた。
確かに、隣国の貴族の血を引いていると言っても、肉親だといっても、いや、肉親だからこそ、そんな不安定な立場での結婚は憚られる。
旦那様は、私達の誰にも辛い思いをさせないように未来を気遣ってくれていたのだろうか、だとしたら………
「待て、たぶんお前は勘違いしている、そうではない……」
「え………」
私が何を考えているのか察したのだろう、訂正するようにライシス様は私を見据えた。
「隣国はその後も国内での王族や貴族たちを巻き込んだ権力争いが燻っていた。密かに情報を収集していた父上はその成り行きによっては、侯爵家や同時に潰された複数の旧派閥の名家が復権を許される可能性も十分にあると当時分析していた」
「それが、私と………」
一体、何が関係あるというのだろうかと眉を寄せる。
「そうなった時に、侯爵家の正式な跡継ぎが既に粛清されてしまっていたとしたら、お前を返す必要が出てくることも考えていたのかもしれない…」
「そんな……」
そう言われた私は驚いた。
「何といっても、父上からしたら、侯爵家は亡き母上の大切な実家だからな、思い入れはやはりあったのだと思う……」
「っ………」
私はようやく、その意味を理解して絶句した。
「まぁ、結局は敵対派閥がそのまま政権を握り、軍部がでかい顔をするようになって、税金を湯水のごとく軍費にあてて、十年数年後にはじめたのが今回の戦争だ、それが、負け戦になったと言うのだから皮肉なものだな……」
そう言ったライシス様は一瞬迷うように口を開いた。
「ミシェル、俺とお前が最期の戦いで仕留めた敵軍の将がいただろう?」
「はい…」
「あれが、侯爵家を謀り事で葬った男の跡継ぎになるはずだった男だそうだ、親父は敗戦と息子の死のショックで引き籠っているらしい、あの国もこれから色々と方針が変わっていくだろうな、父上の先見の明が本当の意味で証明されるのはこれからかもしれない」
「そ、そうだったのですか、でもそんな……」
それが本当ならば、私はライシス様を慕い、そして彼の元で懸命に国を守ろうと戦う内に、実の父親の仇をとっていたということだろうか。
未だに受け入れられない運命に私はただ驚くばかりだった。
「だけど、ミシェル、覚悟しろ、父の想いは想いとして、俺はこれからあの国がどんな動きになろうが、今更お前をあの国に返す気はない」
ライシス様は、私の目を見据えて釘を刺すようにそう言った。
「それは、私だって今更そんなつもりはありませんから……」
寝耳に水の私に、そんな野心など持ちようがない。
ただただ戸惑うばかりだった。
だけど、そんな私にライシス様は、ふぅっと息を吐いた。
「何故だか分かるか?」
「え……?」
そう問われてライシス様を見上げる。
そこには不機嫌な赤い瞳があった。
「もし、侯爵家が復権し、お前が後を継ぐとなったとしたらだ、それ相応の男と婚姻を結ぶことになるだろう?」
「は、はぁ……まぁ、そんなことはないと思いますけど……」
飛躍した話に現実味を持てない私は、どう答えていいのか分からないので曖昧に頷く。
「その相手にこの俺が名乗りを挙げたとして、それが実現すると思うか?」
「あっ………」
「だろう……」
―――なるほど、確かにそれはあり得ない
敗戦の後、旧体制に戻しますとなって、侯爵家が復権した瞬間、婿として入ってくるのが敵国の《赤い瞳の悪魔》だったら、隣国はどれほどの恐怖に包まれるだろう。
そして更には、本国からは常に裏切りを疑われて緊張状態が続くことになる。
―――ないな、うん、ないわ
だけど、そこまで考えたときに私はもう一つの重要な現実に気付いてしまった。
―――あああっ
このライシス様が……
普段から言葉の少ない何を考えているのかよく分からないライシス様が、こんな私の為に、そんなあり得ない事まで考えを巡らせて、それを避けよう拒否しようと悶々としていたとしたら。
―――それでは、ライシス様は本当に私の事が好きだという事になってしまう!
私は、じわじわと高まってくる身体の熱を持て余して俯いた。
「まぁ、そういうことだ、長い間黙っていたが、これでもう俺がお前に隠している秘密はなくなった、まだ何か不服があるなら今の内に言え……」
「いえ、色々と驚きましたが、不服などは特に……」
「ならば………」
ライシス様はベッドに座る私の手をとり跪いた。
そして金色の輝きを帯びた深紅の瞳で真っすぐに私を見つめたまま、形の良い唇から低音のはっきりした声を紡いだ。
「私、ライシス・クラディッシュは、ミシェル・フランシスを生涯ただ一人の妻として愛し、敬い、どんな苦難も共に歩むことを誓う、誓って今後、君との関係を疎かにしたり不安にさせたりすることはしない」
「ライシス様………」
燃えるような赤い瞳には今一点の曇りも感じられなかった。
「だから、どうかこの愛を受け入れて、私を君の夫にして欲しい、ミシェル、誰よりも君を愛している、今までの不甲斐ない行い、君を傷つけたこと、本当に申し訳なかった、反省してもしきれないが、どうかその寛大な心で私を許して欲しい」
「ライシス、さま………」
私は、感無量の思いでライシス様の指をギュッと握りその指先に額を擦りつけた。
―――何それ、ほんとうにどうしよう、もう恰好良過ぎるでしょう、全裸だけど
「ミシェル、返事を聞かせてくれないか?」
「返事なんて、そんなの決まってます」
「それでも私は聞きたい、聞いて安心したい頼むミシェル」
「よ、よろしく、おねがいします、わ、私も、ライシス様の妻になりたいです……」
そう言った瞬間、ライシス様の強面の顔がまるで子供のように綻んだ。
「本当か!ミシェル!!信じていいのか?」
「はい、もちろんです」
「本当だな、嘘は吐いていないな?」
「嘘なんて吐いていません」
「私の事を愛してくれるのか?」
「元々、ライシス様だけをお慕いしていますから……」
「では、あのレオンとかいう男とは……」
「あぁ、私もよく分からないけど、誤解です…」
「っ……、そうか?そうだよな??お前は昔から、俺の事が好きだものな?」
「へっ……?」
「そうか、やはり何かの間違いか、そうだろう、そうでなくては……」
「ん?」
何やら上機嫌でガサガサゴソゴソと準備を始めるライシス様に私は首を傾げる。
「ライシス様……?」
「では早速、これを書け」
「へ?」
「書け!!」
全裸で威圧的に差し出された婚姻同意書に私は目を瞬かせた。
「い、今ですか?」
「そうだ、今だ……」
「い、いいですけど……」
折角の良いムードにまだ浸っていたかった私は、半信半疑でサインする。
ライシス様は、それを手にして、にんまりとほくそ笑んだ。
「あと、これも書け」
「えっ…?」
「あの男への、断りの手紙だ……」
「えっと、もしかしたら私の辺境行の件ですか?あれなら出発日もまだ決まってないはずだから、今度会った時にでも訂正しておけば……」
そう言いかけた瞬間、ライシス様から絶対零度の視線を向けられた。
「会う、だと……?」
「いや、だって、それは、人としてやっぱり……」
「私は、断りを書いて終わらせろと言っている」
「は、はい……」
息苦しいほどの威圧感だ、これは長い付き合いだから分かる。
逆らったら拗れる予感しかしなかった。
渋々とだが、今は言う通りにするのが吉だろう。
刷り込まれた舎弟関係は今、永遠のものに変わろうとしていた。
―――ゴメンね、レオン、昨日の今日で
「既に俺と結婚した、とも書いておけ……」
「え?は、はい……?」
そんなに置いていかれかけたのが堪えたのだろうかと訝しく思う。
私が行こうとしていた辺境はここから馬をかけてたった丸二日の場所だ。
戦地だったあの場所よりも遥かに近い場所であるというのに。
書きあがった短い手紙を見たライシス様は納得したように頷いて、窓をガラリと開けて呼び鈴を鳴らす。
すると、離れのような小屋から一人の老人がやってきてなにやら用事を伺っているようだった。
小さい声だが、私にはライシス様の声がはっきりと聞き取れる。
これも戦時中に培った技の一つかもしれない。
「騎士団にレオンという若い騎士がいるからこう伝言しろ『もう、さすがに今晩中とは言わないが、お前は予定通りに、間違いなく辺境の実家に一人で帰れ!!』とな、これはその男への私からの餞別だ、一緒に渡してやってくれ、あとこうも伝えるのだ『結婚して二、三年は田舎で食っていけるくらいの金だ、お前は子どもを三人は作って、妻の尻に敷かれて頭が薄くなるまでは王都の地は踏むな』とな、ちゃんと伝えておいてくれ、いいな、必ずだぞ……」
「ひっ、は、はいぃ……」
老人は恐ろしいものを見たような顔をして、慌ててその場を走り去っていった。
―――餞別?でも、これは実質追放と言うのでは??
もっと言えばパワハラでは???
私の知らない間に、一体二人には何があったというのだろうか?
でも、と友人の顔を思い浮かべる。
「俺さぁ、報奨金をちょっとずつ使いながら画材を買って休日画家になるんだ!」と言っていたレオンの夢が長く続くように、ここは敢えて口を出さないで見送った方が友人の為になるのだろうか?
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イラスト:ひろ様(https://xfolio.jp/portfolio/hiro_foxtail)

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【短編】旦那様、2年後に消えますので、その日まで恩返しをさせてください
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結婚して5年、初めて口を利きました
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【完結】小さなマリーは僕の物
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