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第八話 ライシスの懺悔

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 正直、その前後のことはよくは覚えてはいない……
 あれからマリーさんのカフェを出た私は暫く走ってから今自分が女性のドレスである事に気付いたのだ。
 このままでは騎士団には戻れない、と未来が決まった高揚感で初歩的な失敗をしてしまった私は立ち止まり、鈍臭い自分に失望しながらトボトボとカフェに引き返しているところだった。

 だけどしばらく歩いたところで、突然私の傍に馬車が停車した。
 怪訝に思って構えていると、その中から真っ赤な目をしたライシス様が憎悪に満ちた顔で現れて、もの凄い負のオーラを放ちながら私の前に立ちはだかったのだ。
 もちろんライシス様の目は元々赤い。そうなのだけど、そうではなくて、これはものの例えでも何でもなくて、本当に白目の部分も血管がいくつもキレて、充血してしまったのではないだろうかと心配するほど真っ赤に染まっていたのだ。
 正に瞳は赤地に金色、そう、ライシス様の表情には戦時中にも見た事のない憤激の色が漲っていたのだ。
 それは正に皆が噂する赤目の魔王を彷彿させる姿だった。
 これが愛する人でなければ、それが誰であろうがその場から即撤退していただろう。
 私の頭には、ここは危険だという警鐘が鳴り響いていた。
 だけど、それがライシス様である以上、危険でも逃げる訳にはいかない、解決しない訳にはいかなかった。

「ラ、ライシス様!?どうなさったのですか???」
「このまま逃げられるとでも思っていたか?」

 氷のように冷ややかな口調でそう言われた私は戸惑った。

「へっ?逃げる??いや、他の方はそうでしょうけど、私は逃げませんよ??一体何が………」
「黙れ、私を騙せると思うな、小賢しい、来い!!」

 ドレス姿の私はまるで誘拐される婦女のような勢いでライシス様に馬車に押し込まれた。
 これは世間的に大変よろしくないとハラハラしながらも、取り敢えず今はライシス様に集中する事にした。

「ライシス様?一体何があったと言うのですか?説明してください」

 だけど何を話しかけてもライシス様は一言も話さなかった。
 やがて馬車は小さな屋敷に入り、私は抱きかかえられたまま屋敷内に運ばれて有無を言わさずベッドに押し倒された。

「ライシス様?何を、いけません、私はもう………」
「黙れ、全て諦めさせてやる……」
「へっ?」
「私以外の全てを諦めさせてやると言っているのだ…」

 そして、私は悪鬼のような形相をしたライシス様に何やら心当たりのないことを罵倒されながら、息も出来ないくらいに激しく朝までライシス様の剛直に責め立てられて記憶を失い、今に至る。

―――一体、何が起こったというのだろうか?
 
 体中が痛い、動かない、瞼が開かない、まるで拷問の後のように……
 でも、問題はそこではない………

 ―――何故?

 ライシス様は途中、泣いているようにも見えた。
 あのプライドの高いお方が……
 私にはそれがとてもショックで悲しかった。

 一体どこの誰がライシス様をあんなに悲しませたのか?事と次第では絶対に許せない。
 私はギリギリと歯を噛み締めた。

 だけど、今の自分には何も分からない、分からないけれど………
 一つだけ分かることがあるとしたら……


―――また、流されてしまったのだろうか?

 彼の匂いと熱を感じながら痛みの中で満たされた気分に浸っていた浅ましい自分を朧げに覚えている。
 もう、触れてはいけない人だったのに。
 幸せな夢は、覚めた後の切なさを増大させることなど、もう知り過ぎているはずなのに、王都に戻ってまで自分はなんと愚かなことをしてしまったのだろう。
 
 ようやく覚悟を決めたところだったのに、離れなければいけない人なのに………

◇◇

ライシス視点

 支配したい訳ではなかったはずだ、だけど独占欲が押さえられなかった。
 ミシェルは自分のものだと、まるでケダモノのように身体が動く。
 きっと、自分は怖いのだと思う、自信がないのだと思う、その理由は自分でもよく分かっていた。
 
 自分は彼女の前で決して紳士的ではなかった。
 彼女が兄とも慕ってくれた幼少期も、今でも……
 幼い日、俺の不注意で木から落ちた時に傷ついたミシェルの肩の後ろの古傷を見る度に後悔に襲われるというのに自分の本質はきっと今でもあまり変わってはいない。
 俺は彼女の肩の後ろに二重に存在する傷に唇を這わせて眉を寄せた。


 新しい傷は戦争で俺を守る為に受けた剣の傷……
 古い傷は……
 俺は、ミシェルを傷つけてばかりだ、それなのにまた……


 初めて父に抱かれた赤ん坊のミシェルと出会った時、若葉色の瞳をした愛らしい笑顔に宝物を見つけたような気持ちになった。
 同時に女だと聞いて少しがっかりしたのを覚えている、俺はずっと弟が欲しかったのだ。
 そして周りが女の子を望んでいることも知っていた。
 なんだかそれは男だった自分が否定されているようで、俺は少し意地になっていたのかもしれない。

 ―――母上も、父上も、兄上も、本当は俺じゃなく女の子が欲しかったのか?

 だけど、不思議とミシェルは年の近い自分に一番懐いた。
 起きると必ず自分を探し始めるまだ幼かった姿が忘れられない。

「ライシャスさま」
だ!」
 
 いつも訂正していたが、自分の名前を呼んで後を追われるのは悪くなかった。

 やがて、剣に興味を持った彼女に玩具の剣が与えられると、その類い稀な才能に圧倒された俺は、すごく嬉しくなってミシェルを弟のように扱った。

「ダメですよ、ライシス様、ミシェルは女の子なんですから」

 そう諫める家令に俺は得意げに言った。

「それがどうしたって言うんだ、ミシェルは俺がこのくらいに出来ていたことはなんでもできるぞ?」
 
 クラディッシュ家には母が亡くなってから女性と呼べる者は年配の侍女くらいしかいなかった。
そんな俺に、今後の男女の成長の差など想像できるはずもなく、周囲に窘められるのも聞かずに、俺は得意になって剣に弓、馬、木登りにミシェルを連れ出した。

「お前は俺の弟だからな……」

 今にして思えば、独り善がりな自分の気持ちを口答えも出来ない幼い少女に押し付けたのだと思う。
 その結果がこの傷だった。

 ある日、聞かん坊の俺は、ミシェルを連れ出し、家族の目を盗んで馬を使って遠出をした。その挙句、野犬の群れに遭遇してミシェルと共に木の上に何とか避難したのだ。

 「上がれ、ミシェル、お前がもっと上に行かないと俺が登れない」
 「は、はい、ライシス様……」
 「早く!!」

 だけど、当時の彼女の小さな手には枝は太すぎて、彼女は手を滑らせて地面に落下した。

 「ミシェル!!!」

 俺は咄嗟に飛び降りて、持っていた剣と石で何とか野犬を撃退したが、彼女の肩からは血が滴り落ちていた。ちょうど落ちたところに鋭利な木の枝があったのだ。

 
 俺は家族からこっぴどく怒られて、彼女の性別や女性への配慮を諭されて、今後無理をさせたり、無断で連れ出したりすることを禁止された。
 それを守らなければ、ミシェルを別の場所に移すとも……
 今にして思えばそこの部分はただの脅しだったのだと分かるけれど当時子供だった俺はそれを本気にした。

 一方、ミシェルの記憶はお気楽なもので、俺が自分を助ける為に野犬を追っ払った武勇伝の方が強く記憶に残されているようだった。

 ―――あの頃の自分は怪我は治るものだと思っていた

 まだ幼かったミシェルが俺とまた遊ぼうと「怪我が治ったの」と背中を見せたとき俺の心は罪悪感で凍り付いた。
 プルプルのすべすべの肌についた傷を見たとき、俺は凄く悲しい気持ちになって彼女を抱きしめた。

「ごめん、ミシェル、ごめん」
「どうして泣くのですか?ミシェルは治りました」
「でも傷が……」
「ライシス様は、傷ができたミシェルが嫌いですか?」

 凄く悲しそうな顔をしてそう問われたとき「違う」と言おうとした。
 だけど、俺はそうは言わなかった。

「そうだ、ミシェル、俺は傷が嫌いだ、お前が傷つくのは嫌いだ、だからもう傷を作るようなことはするな」
「でも……」
「いいな、これは命令だ、ミシェルは俺のことが好きか?」
「はい、好きです!」
「それなら、俺のいう事が聞けるな?いいな、これからは傷を作るな」


 たぶんあの時が、今までとは違う意味でミシェルを守ってやりたい、そう思った最初だったのかもしれない。
 
 だけど、きっと時は既に遅すぎたのだと今となっては思う。
 とはよく言ったもので、幼いミシェルの探求心は俺から距離を置いた後も自然と武術に向かっていった。

 やがて、そのセンスと情熱は、滅多なことでは弟子を取らない国宝級の剣の達人でもある師シュゲイツの目に留まることになった。

 だけど、そんな成り行きと自尊心の高い子供だった俺の拘りが、徐々に俺とミシェルの間の溝を深めていく事になる。

 俺は、俺との約束を守らないミシェルに苛立ち敢えて雑に扱い始めたのかもしれない。
 危ないから、小さいから、女だからと……
 ミシェルを弟だ、何でもできると引っ張り回したのに掌を返したように女であることを押し付けた。

 そんな俺にミシェルは悲しい顔をしていたが、俺はそれがあるべき優しさだとどこか頑なに信じようとしていた。

 最初のうちは、前のように一緒に遊びたいと訴え、それに応じない俺に今度は、人形やら刺繍やらを持ってきたミシェルには、「そんなものは女子供の遊び道具だ」と取り合わなかった。

 だけど内心、俺はミシェルに誘われることに優越感を持っていた。
 ミシェルは俺がどんな態度を取ろうとも、俺と一緒にいたいのだと、そう感じることにほのかな喜びを覚えていた。

 俺はきっと、どこか歪んでいた。
 幼い頃から自分はミシェルに対して極端な独占欲のようなものを持っていたのだと思う。
 だけど、俺は自分の心に巣食うその感情の正体を知ろうとはしなかったし、漠然と知ってはいけないと感じていた。

 だけど状況は俺が思っていたようにはならなかった。
ミシェルは女ながらにシュゲイツの元で剣を磨き続けて、恐ろしいほどの上達を見せていたのだ。

 その腕前に驚愕しながらも、一方でその状況を疎ましく思う自分を俺は持て余していた。
 平たく言えば面白くなかった。
 皆がミシェルを褒め讃えることで、ミシェルが俺以外に微笑むのも、彼女が危険な世界に向かっていると感じるのも、話が違うようで俺を苛立たせるだけだった。

 今でこそ友好な関係を築いてはいるが、この頃、兄であるキクルスとの兄妹仲も実は酷かった。
「女性の幸せはなんだかんだ恋愛と家庭にあるからね」なんて言いながらシュゲイツに師事するミシェルを止めないキクルスにも苛立っていた。
「言っていることと、やらせている事が矛盾してるじゃないか、俺にはあれだけ釘を刺した癖に」と訴える俺をキクルスは腹が立つほどのんびりした笑顔で交わす。
「先生は達人だけに、逆に大丈夫だよ、勢いだけのお前とは違うさ」なんて理由に俺は余計に腹を立てて俺達はあの頃よく喧嘩していた。

「でも、ミシェルを心配するなんて、お前も大人になったということだね」と兄キクルスが笑うのも俺には癪に障ったし「ミシェルはここから嫁に出すんだ、ちゃんとレディとしての教育のことも考えているよ」と妙に細かいシスコン気質も正直ウザイとしか思えなかった。

 俺はその言葉に仏頂面で納得したフリをしていたが、内心モヤモヤするものが拭えなかった。
 ミシェルがこれから先、どんな恋愛をするのかと考えた時、胸が苦しくなったからだ。

―――何を考えている、まだ子供だ、でもいつか

 俺はミシェルを手放さなければならないのか?
 でも、俺はそこを突き詰めて考えることは避けてきた。
 その先は考えてはいけない事のように思ったからだ。

―――妹だと思わなくてはならない

 そして、危険を回避するかのように徐々に彼女との距離を取り始めた。


 そしていつの頃からだろう、取り返しのつかない事実に気付いてしまった。
 ミシェルの俺に向ける無邪気な笑顔は遂に過去のものになってしまっていた。
 それに気付いた時、自分でも驚くくらいショックを受けたのを覚えている。

―――ミシェルは

 それに気付いた俺は、それを思い知らされるのが怖くて、一層ミシェルと関わるのを避けるようになった。嫌われているんじゃない、自分がミシェルとの時間を持たないようにしているだけだ。
 
 父や兄、そして師や使用人達と朗らかに笑うミシェルを見るのが苦痛だった。
 そして、その状況は

 十六歳で騎士団に入団してからは必死の毎日だった。
 元々、血統と環境からか剣に対しての探求心が半端ではなかった俺は、猛者と言われる人達と混ざった血を吐くほどの訓練に没頭していった。
 そんなレベルの高い仲間達と切磋琢磨する日々のなかで、努力に応じた評価を得るようになり充実した日々を過ごしていた。
 この頃の俺は圧倒的な実力を欲していた。

 ほどほどに過ごしても出世が約束された家系であることを否定はしない。
 だけど、俺はこの世界で昇進する度に、などと言われて他者から侮られることに耐えられない性分だった。

 だけど、そんな日々のなかでも、時折ミシェルから寄こされた手紙や、彼女の瞳の色である新緑の木々を見る季節にはミシェルの幼かった笑顔を思い出して密かに頬を緩めることもあった。

 家から距離を置き、他の事に没頭すると、当時の自分の事を少し客観的に見られるようになった。
 自分の気持ちにも向き合わない、自尊心の高くて独占欲の強い嫌な子供だったなと。
 そして、俺は心の中で、まだ小さかった彼女に詫びた。

 そして、俺が十九歳の時、父親が突然事故で死んだ。
 三年振りに再開したミシェルを見た時、俺はその成長に驚愕して思わず彼女に見惚れた。

 俺が知る貴族の令嬢と彼女の醸し出す凛とした美しさは明らかに別格だった。

 喪服に包まれていながらも、纏められたミルキーブロンドの髪は艶やかで、昔から焼けても不思議と黒くならない肌はすべすべとしていて、ふっくらとした唇は果実のように熟れた透明感があって、俺の好きだった若葉色の瞳には確かな知性と品性が宿っていた。

 鍛え上げられているのだろう、引き締まった四肢はしなやかで、ドレスの襟元から少しだけ、はみ出て見えるのは、あの日の傷の一部、あの日俺が抱きしめて涙を落としたあの傷跡。
 それを見た俺はごくりと喉を鳴らした。

―――待て、一体俺は、何を考えている?
 
 大切に育んできた妹同然の女なのだ、今更ボロを出して余計に嫌われたくない、そんな思いから敢えて、普通を意識して振る舞った。
 見方によれば、それは普通ではなくそっけないものになってしまったかもしれない。
 だけど、俺はそれほどに美しく成長した彼女の変化に動揺していた。


 だけど、あの日ミシェルを見てから灯った焦燥感に似た何かは、それまで剣一筋に生きてきた自分を少しだけ変えてしまった。
 一人になると彼女を思い出す、よく分からない焦りに苛立ちを覚える。

 この頃、誘われて迷いながらも同行した娼館で女を知った。
 自分に燻っていた男の欲を生身の女で解消するのを知った年齢としてはたぶん自分は遅すぎるくらいだったのだろう。

 友人達が言うように、確かに身体は満たされた。
 だけど苛立ちはそれだけでは解消されなかったことに俺は逆に戸惑った。
 その夜以降、自分に燻る欲を、気が付けばミシェルを思い出して解消するようになってしまった。
 だけど、その後の罪悪感が半端ではなかった。

 金で繋がる身体だけの関係、娼館通いに飽きるのはすぐだった。
 少し癖のある事を自覚していた俺は、金で女を買う事自体に元々嫌悪感を感じる面倒なタイプなのかもしれないとも思い至った。

 プライドの高いところのある自分には、ある程度相手の意思も必要なのか?
 そう考えた俺は、それまで相手にしなかった自分に群がる令嬢達の中で特にしつこく食い下がる女性の一部に問いかけた。

 「自分は近いうちに、戦地に向かう。それまで結婚も婚約もするつもりはないし、特定の女性と特別な愛情を育むつもりもない。故に身体の関係を理由に帰還を待たれても正直困る。ただ、今だけの限定された関係となるが、そんな不義理な関係を望むというのか?」

 これを正直に言うと、奔放に見えても貴族令嬢だ、ほとんどの女性が蜘蛛の子を散らす様に俺から去っていった。

 だけど、なかには食い下がる恋愛経験豊富な強者も数名はいて、その中には、既に非処女であり、結婚に夢を持たず、ただ遊びでもいいと言うものもいた。

 どうしてもこの身体に抱かれてみたいのだ、という物好きな女も……。

 そうして俺は、断る理由もないと見なした女と一時的に逢瀬を重ねるのが日常となった。
 
 要は互いに遊びと割り切った関係だけど、同時に複数を相手することはなかったから周りから見たら付き合っているようには見えたのかも知れない。

 だけどそんな女達とは次第に音信不通になったり、別の相手が出来たと断りを入れられたりしてあまり長くは続かいことも多かったし、一度も追い縋ろうなどと考えたことも無かった。

 その後、偶然見かけたりする事もあったが、案外素朴で真面目そうな他の男と何食わぬ顔をして結婚していたり、見た目のいい他の男に以前のように熱をあげていたりしたようだが、彼女達の強かさはそれはそれでいいと寧ろ理由を知り苦笑したものだ。

 そうして嫌でも気付いた。
 愛さない、愛するつもりもない人間から、愛されるはずなどないのだと……

―――きっと、自分は何かが欠けている

 流石に成長のなかで俺は漠然と気付いていた。
 自分は人を幸せに出来る人間ではない、だから、を与えられたのだと。
 人とは違う形で何かを守れるように……


 
 そうして世間が開戦前夜の不穏な雰囲気に包まれていくなか、俺は余計なことは考えないようにして騎士団で鬼気迫った訓練に没頭するようになった。
 予感はあった。そして感していた通り俺は開戦となったタイミングで最前線に将として赴くことになったのだ。

 兄は既に家を継いでくれていて、俺個人は継ぐ家もない。
 恋人もいない、家族もいない、待つ人もいない……

 死と隣り合わせの前線に赴くには一人である自分は好都合だった。

―――ただ最後になるかもしれない

 そんな思いから、隠れて実家に忍び込み、剣の稽古をするミシェルをそっと瞳に焼き付けて王都を去ったのは恥ずかしいから内緒の話だ。

 
 戦地は想像以上に過酷だった。
 今までの常識が全て通用しない生と死の狭間の世界。
 どう考えても俺達を生かして返す気などないだろうという本国の意図すら感じた。

―――勝つか、死ぬまでここで戦い続けろ
 
 要はそういうことだと正しく理解した俺は、生きる為に、生かす為に、どう戦うか、どう殺すかを考え続ける日々を過ごした。

 やがて、《赤目の魔王》などという妙なあだ名が付き、味方からも恐れられ遠巻きにされる日々にも慣れた頃、俺を思わぬ衝撃が襲った。

 ―――ミシェル!?

 びっくりして声を上げそうになるのを辛うじて堪えた自分を褒めてやりたい。
 男装したミシェルが、援軍部隊の一人として俺の目の前で跪いていたのだ。

 ―――嘘だろう!?

 本国の騎士団幹部である友人からの個人的な方の手紙を見た俺は、そいつを殴ってやる為だけに一旦王都に帰国願いを提出してやろうかという衝動に駆られたと同時に、文面の一つの言葉に目が釘付けになった。

「お前を慕う気持ちに負けて……?」

 ―――俺を慕う気持ちに負けて?
 ―――俺を慕う気持ちに負けて?
 ―――俺を慕う気持ちに負けて?

 あの時、俺の脳内では警鐘を鳴らす鐘と、教会の鐘が同時に煩く鳴り響いていた。

 ―――嫌われているわけではない?

 そう思った瞬間、更に都合の良い解釈をしてしまいたくなる自分がいた。

 (そうだ、こいつは、俺の事を凄く好きだったはずだ、子供の時の話だが………)

 ―――ダメだ!何を考えている、ここは戦地だ、一刻も早く返さなければ!!

 久しぶりにミシェルを見たとき、美しく長かったミルキーブロンドの髪は惜しげもなく肩に届かない長さに切りそろえられて、意志の強そうな若葉色の瞳は毅然とした戦う意思を帯びていて、その騎士としての剣幕にこの自分が一瞬怯みそうになるほどだった。

 それでも、それを許す訳にはいかなくて、俺は、その夜、強靭な態度で彼女に帰還を促した、最期にその姿を見ることが出来たことに、内心では歓喜に震えながら……

 だけど、自分が思う以上にミシェルは成長していた。
 その思考は最早、私の知る少女のものではなく、一人の騎士として認めるしかない者だった。

《私は最早、貴方様の知るミシェルとしてここにいる訳ではありません》
《既にこの剣は国に捧げておりますし、ここに至るまでに多くの民の血税をこの身体と技術に貰い受けております。そんな私がここで任務を投げ出し、国に帰る事は、国王陛下に対する不敬、そして国に対しての許されない不義に値することはライシス様ご自身が一番ご存じのはず……》


 ―――どうか、お傍に、必ずやお役に立てるよう努めます!

 あの若葉色の瞳がこんな色を宿す日が来るとは……
 強い意志と崇高な志が宿るその瞳に気圧されたとき俺は震えた。

 きっと自分はミシェルの事を甘く見ていたのだと悟った。
 都合よく考えそうになっていた『慕う』の意味も自分個人に対してではなくとしてのライシスへの敬愛と忠誠に過ぎない可能性の方が大きい。
 ミシェルを前にして、そう遠くない日に自分の理性は崩壊してしまうのではないのかと正直怖くなった。

 それなのに、こんな深刻な局面で、燻り続けた苛立ちを持て余す獰猛な自分が叫び出すのだ。

―――この女を逃すな、絶対に手に入れろ

 ミシェルが入隊して以来、不思議なことだが、将としての集中力は落ちないどころかむしろ高まっているのを感じた。

 それと同時に恐れや執着、苛立ちという感情も限界を超え始めていた。

◇◇

 そして今、俺というケダモノに蹂躙されて泥の様に眠るミシェルの背中の傷にそっと触れる。

 自分には昔から彼女の愛を計りたがるという悪い癖がある。
 ミシェルの献身が嬉しくて、それに溺れていたくて、そんな自分に堪らなく失望する。
 そんな罪悪感からくる自己肯定感の低さが、結局は猜疑心を育てて、自分を一層狭量にする。

 彼女はいつか自分本位な俺に愛想を尽かして心変わりをしてしまうのではと…、そう思う度にイライラが収まらないで、ついカッとなってしまう。

 ミシェルを最初に抱いた夜もそうだった。

 騎士にまでなってまで、自分を戦地に追いかけてきたミシェル。
 そんな彼女に俺は堪らない劣情を宿している自分を認めるしかなくなっていた。

 もう逢えないだろう、そう思っていたミシェルを思いがけずに戦地で目にした俺は、彼女のなかでの自分の存在感の大きさを確信して内心薄暗い喜びを得た。

 そうは言っても戦況がいよいよとなる前には理由をつけて彼女を王都に返そうと思っていた。
 もちろん清い身体のままでだ………

 だけど、そんなギリギリの理性が吹き飛ぶ事件が起きた。
 ミシェルの部隊が音信不通となり失う恐怖に内心震えながら数日間を悶々と過ごしたところで、ミシェルはようやく帰還してきた。

 
 だけど、俺の顔は悦びの後、おそらくは言い知れない屈辱に歪んだと思う。
 ミシェルが大事そうに一人の青年兵を肩に背負うように抱えて救い出してきたからだ。
 周囲が美談として無事の生還に歓喜するなかで、俺のなかには今にも爆発しそうな複雑な思いが渦巻いた。

 ―――お前は、死ぬかもしれない状況で、この俺と二度と逢えなくなるかも知れない状況で一体何を抱えてきた?

「レオン、しっかりして、生きているぞ、お前はちゃんと生きているからしっかりしろ……」
「ミシェル、助かったのか、助かったのか俺達、お前、すげぇよ……」

 ―――やめろ、その唇で他の男の名を口にするな
 ―――ふざけるな!貴様、迷惑をかけた分際でなにがだ!?

 ミシェルと負傷兵達の帰還を安堵する気持ちの一方で、嫉妬が渦巻いた、などとは兵の命を預かる者として決して誰にも言えるものではなかった。
 その時の屈辱と罪悪感は、自分が墓場まで持っていかざるを得ない重い十字架となって自分の中で未だ燻っている。

 俺はその日、結局気持ちが昂って一睡も出来なかった。

 ―――だが、今日の態度は流石によくなかったか

 反省した俺は、明日は疲れた彼女(と負傷兵)を労わろうと考えていたのに、ミシェルは次の日すでに砦から姿を消していた。

「―――昨日帰還した負傷兵の怪我の様子はどうだ?後、ミシェル隊員はどうしている?姿が見えないようだが」
「はっ隊長、負傷したレオンの代わりに食糧補給の任務につきました!!」

 その言葉に俺は目を見開いた。

「―――何だと?どういうことだ??」

 その理由を知った時俺は言いようのない怒りに震えた。
 元々、レオンという男の役割だった仕事が、手違いにより変更されていなかったから、ミシェル自らが買って出たという。
 補給地域は、今かなり危険な地区だと把握していた。

―――回りまわって自分の不徳

 俺はそう自分に必死に言い聞かせて、手違いを起こした者達を罰したい気持ちを堪えて人には悟られないようにミシェルの無事を祈った。
 もちろん、速やかに改善指導をしたのは言うまでもない。
 ミシェルの帰還を待つまでの数日間、俺の周りは殺伐とした雰囲気に包まれた。

「隊長どうした?目がイってないか??」
「赤い目がイクって不気味だな……」
「そ、そんなに戦況が悪いのか?」
「いや、少し好転していると聞いているが……」
「だったらなんで………」
「知らねぇよ、あの人、二つ、三つ先読む人だから……」
「じゃあ、やっぱり俺らヤバイ状況なのか??」

 
 そうして、俺という赤い瞳の獣が待ち構えた魔王城に戻ったミシェルは俺というケダモノの煩悩まみれの欲を受け入れることになった。

 あの晩、自分の手により汚されていく彼女に堪らなく興奮した。

 それからは容易く欲望に陥落した。
 こんな爛れた関係はダメだと思うのに、愛しいと思う気持ちが強まり過ぎて手放せなくなってしまった。

 執着と独占欲は抱けば抱くほど、増していく……

 まるでケダモノのような交わりなのに、俺が求めれば、いつだって、どんなときだって大抵は拒まず、素直に秘められた穴を差し出すミシェルに俺は堪らない愉悦を覚えた。

 ―――そうだ、ミシェル、お前は俺のものだ
 ―――お前が好きなのは、この俺だ
 ―――その名も、この身体も、この傷も、お前を形作る欠片も全て俺のものだ


 だけど、そう思うのに、俺は自分とミシェルの中にどうしようもなく欠けたものがあることに気付いていた。

 ―――好きだ、そう言ったこともなければ、言われたこともない

 きっと互いにとって、それが呪いの言葉に成りかねないことを同じように理解しているから……

 だけど、そうである以上、自分のこの蛮行は世間一般に見てどう考えても誠実なものとは言えなかった。
 そうかと言って、自分はミシェルに誠実なフリなど出来ないししたくはない。

 この戦いは、自分一人の恋心で簡単に勝利に導けるほど単純なものではなかった。
 それだけに、ミシェルと触れ合える短い時間に、一生分の生の喜びと執着を感じていた。


 ―――だけど、遂に戦いは終わり、自分は生き残った

 多くの戦死者を出した忌まわしい戦争に一国の将として悔いはなかったかと言われたら嘘にはなるし、またあれ以上のことが己に出来たかと問われても答えに詰まる。

 だけど、今、確かなことは、国と我が国の秩序は守られて、兵も民も生きる道を得た。
 戦争は終わり、生き残ったものは国に帰り、新たな時代を生きるのだ。
 それは私もミシェルも例外ではない。

 ミシェルの怪我は軽くはなかった。

 ―――俺の為に負った傷、自らの命も顧みずに

 ミシェルを連れて避難してくれた兵士から事情を聞いた時、死をも覚悟した時の彼女の言葉を念の為にと俺に伝えてくれた。

《もう、十分なんです、ライシス様にどうか、ミシェルが過ぎた恩にただ感謝していたとお伝えください》
 そう聞いた時、俺は不覚にも涙を流した。
 自分はとんでもない存在を無くすところだった。

 ―――愛しているとも、愛されているとも言わず、聞かずのうちに

 俺は今まで信じてこなかった神に祈り続けた。

 ―――ミシェルを連れていかないでくれ、残りの命で彼女を愛したい

 人間らしく優しくしたい。償いたい。
 それが叶えば、もう俺は地獄の業火に焼き尽くされても構わない。




 祈りが届いたのか、ミシェルは一命を取り留めた。
 俺は神に感謝した。

 だが、そうなった時に、改めてこれからの二人の事を考えた自分は、今までのを振り返り背筋を凍らせた。

 ―――待て、俺は、ミシェルに

 何をした?何をした?何をした?何をした?

 ―――彼女を俺はどう扱った?

 どう扱った?どう扱った?どう扱った?

 確かに極限の状態であったとは思う。
 だけど、それを理由に一体なんということをしてしまったのだと絶望的な思いで頭を抱えた俺はクズな自分を恥じ、これでもかと罵った。

―――馬鹿野郎、この、がぁぁぁぁ!!!

 たった十分にも満たない逢瀬の為に、俺は何度劣悪な環境で彼女の身体を求めた?
 初めての彼女をどう扱った?

 そもそもここに至るまで俺はミシェルを傷つけてばかりで、慕われるような過去など在りはしない。

 そう考えた瞬間から、ミシェルに対しての余裕など一ミリもなくなった。
 自分はもう、彼女が忠誠を捧げてきた戦地の将でもない。
 国は救っても、自分自身を断崖絶壁に取り残してきた心境に陥っていた。
 ミシェルに手を離されたら、そこで終わり。

 それからは国王陛下への拝謁も、凱旋パレードも、爵位も、全てが些細なことに思えるようになった。

 ―――やり直さなければならない、何もかも

 そうしなければ、きっと俺はミシェルを失ってしまう、そう思った俺はその日から自らに禁欲を課した。

 ◇◇

 結局、俺は、今更取り繕っても遅すぎることは重々承知のうえで、一つの結論に達した。

 ―――誰より大切にする!そして振る舞う!!

 王都に帰り、爵位を得た俺は、与えられた辺境への赴任が五年後に決まっていた。
 その間は、王都で騎士団の再編成に力を貸して欲しいという国王陛下直々の願いに応じた形だ。

 俺は、王都に帰ったその日から必死に動いた。
 騎士団にほど近い、警備に問題のないテラスハウスを早々に探し、センスの良い義姉上にミシェルの趣味を聞きながら、インテリアの調達をして、ドレス、宝飾品、香油など女性に喜ばれるものを調達し、小さな庭には昔彼女が綺麗だと微笑んだ、青い花を沢山植えさせた。

 終戦依頼、ミシェルに触れることを自分に禁じた。
 それは、とても苦しい選択ではあったが、自分の今までの奔放な振る舞いを考えた時、反省を示すのにそれくらいの方法しか浮かばなかった為だ。

 次にミシェルに触れるのは、彼女に愛を囁き、結婚を申し込み、あの左手の薬指にこの指輪を嵌めてからだと、自らに誓った。

 ―――そのはずだったのに、やはりどうしようもないケダモノだな、俺は

 次に目覚めた時、どう声をかけていいのか正直分からない。
 眠る彼女の長い睫が僅かに揺れている、きっともうすぐ、その目を覚ます。

 こうなってしまっては、きっと自分は不器用な裸のケダモノとして、長年の愛を彼女に告げるしかないのだろう。

 辛うじて残る一縷の望みで、小心者の俺は彼女に心で問いかける。

 ―――俺のことが、まだ好きだろうミシェル、俺はお前だけをこんなにも愛している

 あのレオンという男に「連れて行って」と願ったミシェルの言葉が蘇る。
 脳内で何度も何度も再現されるその言葉の痛さに苛まれた俺は情けなく顔を歪めた。

 ―――あれは違う、何かの間違いだ

 そう呪うように念じながら、そっと、それぞれの指にリングを嵌める。

 ―――もし、本当でも、お前をどこにも行かせない、絶対に誰にもやらない

 そう思うのに、きっと自分にはそう出来るだけの強制力があるのに、心がどうしようもない寂しさと不安に襲われる。
 自分に向けられ続けてきた好意が、自分が粗末に扱い続けてきた想いが、もしも既にここにはなくて、他の誰かに移ってしまっていたとしたら………

 ―――自分は果たして耐えることができるのだろうか?

 もっと、早くに自分の気持ちに向き合っていたら……
 もっと、理性を保って、労わりの気持ちを持てたら……

 ―――しんどい、しんどい、しんどい

 こんなことならば、国と兵を救った後、自分だけ討ち死にした方が楽だったのではないかとすら恨めしい気持ちになる。


「―――ミシェル、何故だ」
「―――本当に、泣いておられるのですか?」

 きょとんとした女の声に俺は身体を震わせた。
 そこには青天の霹靂と見開かれた彼女の若葉色の瞳があった。
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