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第一話 戦地からの帰路

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 初夏だというのにまだ肌寒い朝、私は白みかけた空を見つめていた。

  ―――今、馬車はどのあたりを走っているのだろうか。
 
  私の人生をかけた戦いの地は、終戦と共に忘れられない思い出の地となって刻一刻と遠ざかっていく。

 眉を寄せて窓から後方を眺めていると腰に回された男の腕がピクリと反応するのを感じて、しまった、と取り繕うように小さな笑みを浮かべた。

「どうした、眠れなかったのか?」

 私の隣に眠っていたライシスさまが、気怠げに瞳を擦りながら体を起こす。

「いいえ、ただ、景色を見たいと思っただけです、すみません、起こしてしまいましたね……」

 そう言うとライシスさまは、そうか、と目を細めて私の前に身を乗り出し、車窓の景色を眺める。

「ふふ、それにしてもいつもは冷静なお前が、今日は子供みたいなことをいう。確かに、眠っている間に随分進んだようだが、それほどに王都に着くのが楽しみか?」

 そう揶揄うように発せられた問いかけに私は取り繕うように曖昧な笑みを浮かべた。

「そうですね、このように生きて帰れる日が来るなど、最後の頃は特に想像できる状況ではありませんでしたから……」
「……まぁ、そうだな」

 そう頷いたライシス様は、自嘲するように苦い笑みを浮かべた。

 本当は、数年間、戦いのなかで過ごしたあの土地を離れることに、私が後ろ髪を引かれているなどとは露ほども思っていないのだろう。

 ライシスさまは、今年で二十六歳になる我が国の騎士団第一部隊の隊長を務める人物であり、私の長年の私の思い人でもある。

 遠くなる景色を眺めながら、喉の奥に重たいものが込み上げる。

 ―――本当に酷い戦いだった

 どれだけの返り血を浴びて、いくつの死体の山を掻き分けてここに辿り着いただろう。

 生きて帰れるなんて希望は、誰もがとうの昔に捨て去ったような死地へ向かうつもりで挑んだ戦い。

 そしてこの手は、例外なく多くの人を殺めたし、大切な同胞たちを言い尽くせないほどに失った。

 だけど、私の生涯をかけて護りたいと願った人は今、こうして私の隣で生きている。
 こうしてちゃんと生きていてくれている、それだけでもう全てが報われたようなものだ。

 ―――生きてくださっている、ここにいる

「起きるにはまだ早い、もう少し寝ろ、傷に障る……」
「はい……」

 私は、眠りにつくふりをしながら、こっそりとライシス様の肩にもたれ掛かった。
 ライシス様の匂いがする。

 大きくて、温かなその体は、確かな生を私に伝えてくれていた。

―――今だけは、もう少しだけ

 私の名前はミシェル・フランシス。
 二十一になる男装した女騎士である。

 本当の父と母が誰なのかは知らない。
 赤ん坊の頃、家族と死別したのだと思う。

 二十年程前、ライシス様のお父様が領地から戻る旅の途中で辺境の地に立ち寄った際、道の真ん中にどこかの使用人と見られる姿をした老女が瀕死の状態で倒れていた。

 その老女は一歳程度の赤ん坊だった私を大事に抱きかかえていたそうで、それを不憫に思った伯爵が、老婆の死を見届けて、自分の屋敷に連れ帰り、家人の老夫婦に育てさせたのがこの私なのだ。

 だから、ミシェルというこの名もまだ幼かったライシス様に名付けていただいたものだと聞いている。

 当時六歳だったライシス様は、弟が欲しかったそうで、最初はアレックスとかステュアートとか勇ましい名前をつけて下さろうとしたらしいのだが、伯爵と兄君のキクルス様に諫められて、妥協の結果、名付けられたのがミシェルという名前だそうだ。
 それを知って以来、私はこの名前の由来を思う度に、切ない喜びに包まれてきた。

―――私の名前にはライシス様が存在する

 それは私の歴史にはライシス様が刻まれていることを意味するのだ。
 生涯ただ一人の想い人に名をつけられた人などこの世に何人存在するだろうか。
 
 元々生い立ちそのものが、幸運の連続だった。
 私はとっくに死んでしまっていても当然の人間なのだ。そんな幸運を得た私は、もう多くを望んではいけない。

 どこの馬の骨ともしれない私に、伯爵家だったクラディッシュ家の皆さんは一様に優しく接してくれた。

 ライシス様もライシス様の兄君キクルス様も、まるで本当の兄妹のように私を可愛がってくださったのだ。
 もっともライシス様には幼少期には弟としてお世話になった記憶の方が強いのだけれども、私の今があるのは当時ライシス様に目をかけていただいたからであるのは間違いない事実なのだ。

 そして、これは後になって知ったのだが、見ず知らずの子供に何故あそこまで親切にして下さったのかと、伯爵の葬儀の日に家令さんに聞いた時に彼は「今だから少しだけ、でもこれは内緒だよ」とそっと教えてくれた話がある。

 口の固い家令さんが、口を開いたのは、伯爵も亡くなったというのに、そのまま家に居座るのが申し訳なくなり、働き口を探して家を出ようと思うと相談したからだ。

「君は確かに亡くなった旦那様のご意志でここにいるんだから、立派に成人するまでここにいることが恩に報いることだよ…」

 そう言って語ってくれたのは、私がおそらく隣の国からきたこと。
 当時隣国は政権が安定せず、国交が途絶えてはいたが、伯爵の亡くなった奥様の出身国でもあったそうだ。

 故郷を愛していた奥様の遺髪の一部を故郷に戻してやりたい、そう思って訪れた辺境の地で伯爵は、私と出会った。

 伯爵に抱かれた私は、そんな状況でも怯えることなく微笑んだのだという。
 そんな私の若葉色の瞳が、「いつか娘が欲しいわ、きっと可愛いでしょうね、男の子でもこんなに可愛いのですもの」と口にしていた亡くなった奥様にとてもよく似ていたことも、奥様の死後間もなかったあの家の人々が私を他人に任せる気にならなかった理由の一つでもあったそうだ。

 代々優れた騎士を輩出してきた家系でもある伯爵家には、剣術指南の先生が頻繁に訪れていて、剣技に興味を持った私は、やがてそれに夢中になった。
 今にして思えば随分と分不相応な師匠に指南してもらったと思うが、意外にも私の筋がよかったことから、師匠は嫌な顔をすることもなく私を鍛え上げてくれたのだ。

 そんな小さな私の心にあったのは、将来ライシス様やキクルス様のお役にたちたいという、純粋な思いだったのだと思う。

 だけど私は、ある頃を境にライシス様に恋心を抱いている自分に気付いてしまったのだ。

 そして皮肉な事にライシス様はその頃から徐々に遠い人になっていった。
 元々身分違いなうえに、五歳違いの年下で、彼が望んだ弟にも成長できなかったのだから無理もないことだった。

 そして、遂にライシス様が十六歳で私が十一歳の頃、ライシス様は騎士になる為に、騎士団の寮に入ってしまったのだ。


 その日から、私の暮らしは火が消えたようだった。
 四六時中ライシス様の事が頭から離れず、沢山の失敗をした。
 
 私は自らの恋心を突きつけられるしかなかったが、それは同時に失恋でもあった。

 どれだけライシス様を思おうとも、この貴族社会で、私が彼と結ばれることなどあり得ない。
 それでなかったとしてもライシスさまにとっては私は精々、可愛がってきた妹分、いや、弟分………

 それはそれで有難い話ではあるけれど、彼にとって私が恋愛対象になる日なんて一生来ない。そう自分に言い聞かせる日々だった。


 そしてそれから三年後の事、ライシス様が十九歳で、私は十四歳の時、ライシス様の父君であるクラディッシュ伯爵が馬車の事故で突然この世を去ってしまったのだ。
 私にとって、おこがましい話ではあるけれど、父とも慕う大切な人を失くした瞬間だった。

「父上…」
「あぁ、旦那様…」
「御領主様…」
「なんということだ、あんな素晴らしい方が…」

 皆一様に悲しみに沈む葬儀には、三年ぶりに帰宅されたライシス様もいた。
 ライシス様はすっかり大人の騎士様に変貌を遂げていた。

 黒い短髪は凛々しくて、時折金色の光を帯びる赤い瞳は意思の強さが現れているようで、元々スラリと高かった身長は更に二十センチは伸びていて、逞しい筋肉に覆われたその姿を見ていたら、胸が痛くて苦しくて、私は堪らない気持ちになったのを覚えている。

ーーーなんて素敵なんだろう

 再会の瞬間、私を見たライシス様は大きな瞳を見開いた。

 その一瞬の表情を見た私は、もしかしたら昔のように、私の名前を呼びながら笑って頭を撫でてもらえるかも知れないなんて期待を僅かに持ってしまった。
 私にとって、それくらいにライシス様との再会は感極まるものであったのだ。

 だけど、そんな私にライシス様は距離を取ったまま、ミシェルただいま、とだけ仰った。
 その時、すごくライシス様が遠く感じて悲しかったのを覚えている。

 私達の距離はそのまま縮まるはずもなく、私は数日後、騎士団に戻っていくライシス様の大きな背中を見送った。

 亡くなった伯爵よりも大きくなった背中は、私はまだただの子供であり、ライシス様は堂々とした大人になったことを私に突き付けた。

 その後、しばらくしてから、ライシス様がどこかの女性と付き合っているだの、別れたらしいなどという噂が耳に入ってくる度に、私は不毛な一喜一憂を繰り返した。
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