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12 対岸の景色

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その後、颯太君は、少しずつ過去の事、今の自分の思いを語ってくれた。

 「僕ね… 長い事、描きたいと思う景色に出会えなくて…、ずいぶん色々なところに行ったんだ」

そう遠くを見つめるように目を細める颯太君に、私は頷いた。

「でも、なかなかそんな場所に会えなくて、ずっと悩んで腐ってた。でも、ある日気付いたんだ。描きたい景色に会えないんじゃなくて、僕自身が、新しい世界を受け入れられなくなってたんだって」

「え……?」

眉を寄せた私に、颯太君は少しだけ微笑んで、溜息を吐くように口を開いた。

「……こんな話、誰にもするつもりが無かったんだ。本当、自分でもね、恰好悪くて嫌になっちゃうんだけど、桃ちゃん、格好悪いついでに、僕の話、聞いてくれる?」

そう言われて、私は、頷いた。

 「僕の母親が死んだ話は、…少しだけしたよね?」

「うん……」

「母さんが死んでからも、何度か納得できる絵は描けたんだ。」

颯太君は静かにそう語り始めた。

「でもね、ある日、その全部が、母さんと一緒に見つめた景色だったことに僕は気付いた」

 「…颯太くん」

その言葉に私は目を見開いた。
だけど、颯太君の絵を見た時の感動に近い何かを思い浮かべ、何故だか胸にストンと落ちるものがあった。

 「自分でも呆れたよ。ほんと子供っぽい話で、格好悪いよね?」

そう自嘲するように微笑む颯太君に私は首を振る。
 颯太君の絵は、絵に何の知識もない私でも判る一瞬の感動みたいなのを与えるものだった。

その景色を見る人間の心…
感動の瞬間というものを捉えているような作風。

 「颯太君の絵は、きっと、それを一緒に見た人への思いごと、思い出を閉じ込めてるんだね」

自然と口をついた私の言葉に、颯太君は瞳を瞬かせた。

「 颯太君の絵は、なんだかとても温かくて、人の五感を感じるっていうか、切なくなるくらい何かの“想い”に寄り添ってる感じが… 」

「……桃ちゃん」

「あ、なんか、ごめんね?私、絵の事なんて、なんにも判ってないのに。でも、なんだか、初めて見せてもらった時、あの沢山の風景が、景色の宝箱と言うか、…思い出の宝箱っていうか、そんな大事なものって印象があって、凄く惹きつけられたから…」

 私がそう言うと、颯太君は唇を結ぶように顔を歪めた。次の瞬間、突然トスンと肩に重みを感じた。
颯太君の頭が私の肩に乗っている。

突然の行動に躊躇いながらも、ハッとして悟った。
少し震えている颯太くんの肩の動きを感じた私は、黙ったまま、その姿勢を受け入れた。

―――きっと、顔を見られたくないのだ

そう思った。
生きていれば、頑張っていればこそ、そんな瞬間はどうしたって訪れる。

颯太君は私の肩におでこを乗せたまま、絞り出すような声で囁いた。

 「ありがとう、…桃ちゃん」

「ありがとうなんて……」

「だからね… 僕、もういい加減、そこから抜けようと思う。今までとは違う目線で、色んな景色を、思い出としてじゃなくて、無理矢理にでもなくて…」

「……うん」

「自分の目を通して、しっかりと向き合ってみようと思う。それが、たぶん、僕にとっての、って事だから」

「うん…」

「絵を描きたい場所を探すんじゃなくて、いつか大切な人と眺めたい僕の景色を、しっかり自分の手で探してみようと思うんだ」

 「うん…」


「―――今なら、出来そうな気がするんだ」

気の利いた事さえ言えず頷く私に、颯太君は再びポツリと口を開いた。

 「今まで、そんな気持ちになんてならなかった。そう思えるようになったのは、きっと桃ちゃんのお陰だよ? 桃ちゃんはいつだってしっかり“自分の世界”を持っていて、女の子とは思えないくらい格好よくて、なのに胸を締め付けるくらい可愛い瞬間があって…」

「そんな…、買い被りだよ?」

(私はそんなに立派な人間ではない…)

だけど、ようやく顔を上げた颯太くんは、今度は私の肩に両手を重ねて優しく首を横に振った。

「…買い被りなんかじゃないよ、桃ちゃん」

「………」

「君は時々、凄く眩しそうに、世界を見つめるんだ」

「颯太君…」

「その姿が、感動を無くした僕には眩しかった」

「え……?」

その言葉の意味が分からなくて真意を探るように、颯太君を見つめる。小さく微笑む颯太君は、懐かしそうに目を細めた。

「僕、桃ちゃんの事、多分ずっと前から、気になってた…」

「え……?」


「君の存在に、初めてあれって思ったのは、去年の夏の終わりだった…」

(え…、去年の夏?)

私は思いがけない言葉に目を瞬かせた。
そんな私に、まるで観念したかのように颯太君は少し照れた笑みを浮かべて、静かに先を続けた。

「突然の夕立で、帰るのを躊躇って学校で暇潰ししてたら、雨が止んだんだ。同じように雨宿りしてた奴らも何人かいて、皆、雨が止んだこと喜んだり、ぬかるんだ地面に靴が汚れるって渋い顔してたりしてた。」

いつの事だろう?
全く覚えていない話だった。

「そんななか、桃ちゃんは、雨上がりのありふれたその世界を身体中で感じようとするかのように、裏庭で一人立ち止まって、何とも言えない顔で、濡れた木や空を仰ぐように目を細めていて、その時、君は呟いたんだ。『…夏も終わりだね。よし』って…」

「あ……」

その言葉で私は、朧げに状況を察した。
それに気が付いたのだろうか。
颯太君も私を見て懐かしそうに小さく笑った。

「次の瞬間、君は少し微笑んで、真っ直ぐ歩き出したんだ。その背中は、一本の芯が通ったみたいに凄く真っすぐで、揺るがない強い意思みたいなものを感じる凛々しさがあって…」

その時を思い出すような優しい瞳で颯太君は私を見つめた。

「僕はね、初めて知らない女の子を、その存在感自体を『あぁ、綺麗だなっ…』て、そう思った。」

そして、颯太くんは私を見つめたまま、優しい笑顔で続けた。

「今なら、僕にも判るよ…」

「……え?」

「僕はただ夏って記憶してたけど、9月、…その大切な意味」

「………」

「あれはきっと、前回の大会の後だったんだね。きっと、あれは君が気持ちを入れ替えて、再び新たな歩みを始めた瞬間だったんじゃないかな」

私は颯太君の言葉に目を見開いた。

(そう、9月…)

昨年、9月に入って直ぐの大会で、有力選手と目されていながらも途中で膝を負傷して、BEST8で涙をのんだ。

【桃ちゃん、先生がね、一年は様子を見てみたらどうかって】

運び込まれた病院での医師の見解。

悔しくて、不甲斐なくて、直ぐにでも練習を再開したいのに、膝の回復が思わしくなく、休養を余儀なくされて、あの頃の私は上手く自分のモチベーションを保てずにいた。

その後、長引く事が確実となった膝の不調を抱えながらも、拓海に励まされながら、少しずつでもと、自分にできる稽古を再会したのが、調度その頃だったのかもしれない。

拓海はそんな私に寄り添ってくれた。
その頃からかもしれない。
拓海が妙に怪我や療養について詳しくなっていったのは…

「その頃、僕は、一之瀬や、成瀬達と、同じクラスで時々話すくらいだったけど、あいつ等が空手をしてるっていうのは知ってて、君の事、その後も何となく気になって、見かけた君を無意識に目で追うようになっていたんだ。だから、気付いたんだ。」

そう思いがけない方に話が進み始めて、私は戸惑いの目を颯太君に向けた。

「君は何故か、厳つい男達といつも一緒にいた…。 最初、一番一緒にいる一之瀬の彼女なのかなって…そう思ってた。」

そう言われた私は、顔を歪めた。
そう思われても仕方がないくらいには私たちはいつも一緒にいたから。

「でも、桃ちゃんは、一之瀬とだけじゃなくて、成瀬や、瀬川や、斉藤ともいつも楽しそうにふざけあってて、僕はそんな君が益々気になって、毎日一喜一憂するように君の姿を探すようになっていったんだ。」

まさか、学年の王子と言われる見知らぬ男の子からそんな視線を受けていたなどと知る由も無かった私は、想像の斜め上をいく颯太君の言葉に戸惑う事しかできなかった。


「ははっ、引いちゃうよね?人に興味持った事なんてないのに、周囲の奴らと君たちの話題になったら、必死に情報を得ようと、自分から話ふって探ったりして…」

(そんな風に、見ててくれたんだ…)

「そんな中で、君たちの情報が少しずつ分かり始めたんだ。同じ道場に通ってて、君自身も空手女子の強豪って言われてるって聞いて、正直、ホッとした」

「え…?」

「だから、あんな風に、男女関係無く、親しくしてるんだって。多分、その頃から、僕の中で君は、少しずつ君が特別になっていたのかも知れない。」

「颯太君…」

「でもね……」

颯太君は、今までにない、困ったような笑顔になった。それに私は若干の違和感を覚えて首を傾げた。

「でも、正直、を聞けば聞くほど、僕、参っちゃって、知らなきゃ、もっと早くに声をかけることもできたかも知れないけど…」

そう言って、颯太君は苦笑いした。
私は、颯太君の言っていることの意味が判らなくて眉を寄せた。

「私の話?」

私の問いかけに、颯太君は、「そう」とまるで悪戯っ子のように微笑んだ。

「あれだけ可愛い九重桃子ちゃんに何で彼氏がいないのか?」

「……へ?」

突然、突拍子もない事を言われた私は目を瞬かせた。

「男子の中では有名な話だよ?」

そう言って、クスっと笑う颯太君。

(何、……それ?)

「小さな頃から空手をやっていて、今では黒帯で、巴御前も顔負けに強いって」

「そ……そんな噂があるの?」

(まさかの、校内認定の怪力女扱い?)

私は顔を引き攣らせた。

学校では、あまり空手を意識させずに振る舞ってきたつもりだったが、周りはそうは見ていなかったことを改めて痛感した。

でも、巴御前ってたしか、馬に乗って槍か刀で戦う人だよね??私は、腑に落ちないで眉を寄せた。

「そして『九重桃子は、弱い男には一切興味がなくて容赦無い』そんな噂知らない?」

「は…??」

私は更に斜め上を行く話に、ギョッと目を見開いた。

(知らないし!そんな事、言った記憶なんか、過去に一度も無いし、思いもよらないよ!!?)

「だから、告白して断られても、しつこく引き下がらなかったら、『私に勝てたら、考えてあげる』と言われて、その後、無傷で通学できたものはいないって」

そう言って颯太君は私の反応を楽しむようにクスッと笑った。

「は…い?」

(今…なんて聞こえた? それ、一体何の都市伝説だよ!??)

そんな、かぐや様よりも極悪非道で粗暴なこと…
もはや、ホラーじゃないだろうか?

「もっ、桃ちゃん…?」

「おーい、桃ちゃん??」

余りの衝撃にワナワナと震える私。
そんな私の頬を、颯太君が目を細めて、ツンツンして微笑みながら、優しく突いた。

「ご、誤解だよ? わ…私、そんなこと…」

ハッとした私は夢中で自己弁護した。

「だっ、第一、高校に入ってから、男の子に告白されたことすら一度もないんだから!」

私は完全な濡れ衣に、涙目でブンブンと首を振って、必死に無実を訴えた。

「あはっ、分かってるよ…、君の囲みは、いつも厳重すぎるほど厳重だからね…」

その言葉に涙目でホッとした私に、颯太君はため息を吐くように続けた。

「それが誰の仕業だったかもね、一体、これまで、何人の人が泣く泣く諦めてきたんだろうね?君の事…」

そう言って颯太君は面白そうに笑った。

「え………?」

まるで鳩が豆鉄砲を食ったように、未だ立ち直れない私に、颯太くんは、自分を指さして、にっこりと誇らしげに微笑んだ。
 
「だから、僕って、案外根性座ってるでしょう?全部、覚悟の上だったからね」

そう言って、颯太君は、また、あははっと笑った。
その瞬間、私は、颯太君が何を言いたいのか察して、顔を歪ませた。沸々と怒りと恥ずかしさが込み上げる。

(あっ…あいつ等だ!!そして、主犯格は拓海)

―――絶対にそうだ!

あ…あの「オカン」あり得ない。
本当にあり得ない。

ごく普通の女子高校生の日常をホラーに塗り替えるなんてぇぇ

名誉毀損で訴えてやる!

私の青春をどうしてくれるつもりなんだ!?
この時ばかりは、私は盛大に怒りに震えた。

その後の颯太君の話はこうだった。

そんな風に、いつもあのしゅうだんに取り囲まれていた私のことを、あの中の誰かの彼女なのかもしれないと思いながら、颯太君は見つめていた。

特に、可能性がありそうなのが一番一緒にいる時間が長い拓海。そして、いつも親しげで、時々だけど、一緒に下校していた哲也君。

実際には、拓海は向かいの家だし、沙耶香と哲也くんとは家も近くて、道場への道も一緒だから、拓海や沙也加に用事があったりした時、二人でごく普通に一緒に道場に向かう事もあったと言えばあった。普段から道場帰りも一緒だし、私たちは全く気にしてなかったけど、年頃になって二人で歩いていたら、周囲にはそう見えなくもなかったのかな、と今なら思う。

そんな風に、私達、拳闘会のメンバーを気にしながら見ていた颯太君は、ある日、哲也君と沙耶香の関係に変化があったことに気付いたそうだ。

(まぁ、あれだけ仲良く手を繋いで、イチャイチャしながら歩き始めたら…そりゃ気付くよね)

だから、必然的に哲也君は違う、と考えた颯太君は、私の彼氏はやはり拓海なのかと私達の様子を見つめていたら、その数ヶ月後には、拓海は、入学してきたばかりの一年生の女の子を連れて歩き始めた。それが凛子ちゃんだ。

哲也くんと拓海に彼女がいる事を知った颯太君は、しばらく一也君や、晴人君との私の様子を見ていたようだけど、ただの友達というにはかなり近いけれど、恋人という雰囲気ではないと感じていた。

ちょうどそんな頃、偶然にも、あの公園での変質者の事件があったというのだ。

偶然、公園にいた颯太君は、私と同じように、夏の夜空を見つめていたらしい。

夕焼けから、宵闇色に変り、星空になる空を綺麗だなって、確かにそう思うのに、思うだけでは描けない事に、溜息をついていると、ベンチで顔の見えない女の子が夜空を見上げていた。

そのときフッと思ったらしい。

「あの子にはこの空は、一体、どんな空に見えてるんだろう?」

そんな興味を持って、遠めに誰とも判らない私を見つめていたら、不穏な人影に気付いている事に気付いて、慌てて駆け寄って助けようと思ったら犯人はカッターナイフを持っていて、狙われているのは私だった。

どうやら、そう言うことらしい。

そして、颯太くんは交番での私と拓海のやり取りでようやく、今の状況を察した。

きっと、あの瞬間、感のいい颯太君にはあの僅かな会話で、私たちの状況が全て分かってしまったのだと思う。

私達の関係も、私が拓海のことをどう思っているかも、きっと全て颯太君にはお見通しだったのかもしれない。

眉を寄せて颯太君を見つめた。
そんな私に、颯太君は、困ったような顔で小さく微笑んだ。

「ごめんね… 軽蔑されちゃうかな。正直に言うと、僕は、あの瞬間、君たちの状況も、桃ちゃんの痛みもそれなりにちゃんと悟ってた」 

「颯太君…」

「それでも、あれが、神様がくれた唯一のチャンスだと思った。今しか無いんだって…、それくらい、いつも君は遠かった」

少し申し訳なさそうに告白する颯太くんの瞳を受け止める。

「でも、あの夜、君と初めてお互いを認識して、少しだけど、話をして、突きつけられたんだ」

「……」

「君を、やっぱり、もっともっと、知りたいと思った。遠くからみるだけじゃ足りなくなってた。言い訳なんてできない。僕はきっと、君の痛みに漬け込もうとしたんだから…」

そんな自虐的な言い方をする颯太君に私は首を振った。

「そんな… 漬け込まれたなんて、思わないよ?」

「桃ちゃん…」

「寧ろ、あの時、颯太君がいてくれなかったら、私は自分を保っていられなかったかも知れないし、他にも色々考えさせてもらったんだと思う」

「……」

「だから、すごく感謝しているの…」

だからこそ、言わなくてはならない。
真っ直ぐに寄せてくれた気持ちに誠実でありたいから。

「でも、颯太君、そんな風に思ってくれてるなら、尚更、やっぱり私……」

(もう、中途半端に颯太君の優しさには甘えられないよ… だって私、どうしても、どう足掻いたってやっぱり、拓海のことが好きだと思うから…)

「桃ちゃん…、ごめん、やっぱり待って……」

そう言おうとした瞬間私は、抱きしめられていた。

同時に、感じた経験のない温もりに私は、目を見開いた。私の唇は颯太君の柔らかくて熱い唇で塞がれていた。

(な、に…?これ……)

あまりの事にしばらく放心していた私は、ハッと我に返って、颯太君の胸を押し返した。

颯太君は、そんな私の行動を予想していたように、素直に身体を離して、少し気まずそうに唇の端を上げた。

「ごめん。でも、桃ちゃん、僕はやっぱり君が好きなんだ」

「だっ、だからって……」

「だから、今はやっぱりまだ、答えを聞きたくないんだ」

(そうじゃなくてキスって……)

「自分でも、ずるいと思うけど、今はまだ、終わりにされたくないんだ。お願いだから、もう少しだけ、この状態でいさせて欲しい…」

そう言って、颯太君は切なげに私を真っ直ぐに見据えた。

「颯太君… でも、それじゃあ… 」

気持ちに応えられない私は切なく私を見つめる颯太君にどう言っていいか分からなかった。

(きっと、私の気持ちは変わらない…)

それはもう理屈じゃない。
自分にだってどうにもできない。
だけど、それは颯太君もそう?
だとしたら…

「桃ちゃん。そんな顔しないで?」

そう言った颯太君は、私の頭にそっと手を乗せた。

「さっきも言ったように、これは、僕の勝手な想いだって事は、僕自身が誰よりもよく分かってるから」

「颯太君…」

「だから、今はまだ勇気が持てないけど、君の答えが、僕が望んだ答えじゃなくっても、その時には、自分の感情への責任は、必ず自分でとるから」

そうして、彼は、困ったように、私に笑った。

「でも、一つだけ、こんな不利で格好悪い状況でも分かってることがあるんだ。」

そう言って、顔を覗き込まれた私は、その奇麗な笑顔に固まった。

「僕、どんな結果になっても、桃ちゃんを好きになってよかった」

「……」

「きっと、未来の僕は、君に出会えた事に、後悔なんてしないよ?」

そう言って、颯太君はベンチから立ち上がった。

後悔はしない……?
それならば、私は、どうなんだろう?
拓海と過ごしてきた事に、後悔などしたことは無かった。

今、こんなに惨めな状況になっても、私は拓海の傍にいる事ができて本当に幸せだった。それは、例え拓海本人にでも否定などされたくはない。

じゃあ、颯太君との付き合いとも呼べないようなこの関係は、颯太君が寄せてくれる想いは、私が否定できるものではない?

(上手くいかないね…、私も、颯太君も…)

颯太君はそんな思いでいる私の手を引いて、立ち上がらせてくれた。そして私の頬に僅かに残っていた涙を拭い、汗と涙で張り付いていた額や、顔周りの髪の毛を、指先で整えてくれた。

そうして、羨ましいくらい綺麗な笑顔でふんわりと笑った颯太君は言った。

「うん…、メッチャ可愛い♡ もう大丈夫だね!」

そう言って、私に鞄を握らせて、道場の方を指差した颯太君は、今までに見たことが無いほど、吹っ切れたような顔をしていた。

私は、一度だけ颯太君を振り返って手を振った。
颯太君も、同じように私に手を振り返してくれた。

恋愛音痴の私でも、この時なんとなく察するものがあった。私達の関係は、きっとこれ以上に発展する事がないだろう。

そして、たぶん颯太君もそれを察している。

でも、きっとこの数か月間の二人の記憶は、私達に生涯残り続ける。

そんな、特別な出会いだった。

――私は颯太君にたくさんの「ありがとう」を言わなければならない。
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