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6 もう一つの世界
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結局私たちはその後も気まずい距離を保ったまま私は颯太君との約束の土曜日を迎えた。
一応「自主練習」という名目の稽古を休むのはいつ以来だろうか。
私はクローゼットを開いた。
夏になる前に、哲ちゃんと付き合うようになったばかりの浮かれた沙耶香と買い物に出かけた時、沙耶香に「もこ、絶対似合うよ、これにしなよ」って勧められて買ったシルバーブルーのワンピースを手にとる。
(デザインはちょっと可愛すぎるけど、色は派手じゃないし、これならいいよね…)
学校と道場との往復で結局着る機会さえ逃していた。
値札の糸を切りながら、 私に買われた服は、毎度不憫な結果となっている事を改めて感じて自嘲した。
(折角、着るんだもん。たまには気合いれてみようかな…下手したらもう着る機会さえないかもしれないしね、大会前に、夏服なんて買うもんじゃないよね……)
でも、そう思ったら、急にウキウキしてきた。
忘れていたおしゃれに対する女の子らしい気持ちが戻ってきたようで、少しだけ気持ちが華やぐ。
スカート部分がロングのシフォンスカートになっているノースリーブのワンピースに、父が誕生日に買ってくれたままこれまた付ける機会を逃していた誕生石のムーンストーンの雪の結晶のようなイヤリングを付ける。
そうして、普段はほとんどつける事はないけど、以前自分で買ったピンクベージュの口紅を唇に薄く乗せてみた。
(うん… こんなもんだよね。)
全身鏡の前に立ち、一歩後ろに引いた自分の姿にそれなりに納得した私は頷いた。
身長162センチの私は、普段、鍛えていると言っても男の子みたいに明らかな筋肉を蓄える訳ではないから、こうしてみると格闘家になんて見えないかもしれない。
少し寂しい胸元をみて、これまた自分を納得させる。生活が生活だから、無駄な肉も付きようはないけど、立派な胸もついてはいないのだ。
うん…これは仕方ない。
なんて、胸の事を空手のせいにしてごめんなさい。
きっと、私の身体には普通の女の子にはあるだろう女性的な柔らかさが若干足りない。だけどそんな身体を忘れさせてくれるような淡い色味にふんわりスカート。これならば、黒髪黒目のどちらかというと、少し強い印象を与えてしまうかもしれない私の印象を中和してくれているように思う。
(さすが…沙耶香の見立てだな…)
自分をよく知ってくれているお洒落な沙耶香の見立てに感謝した。
気を良くした私は、これまたいつのだ?と突っ込みたくなる結構前に買ったきりの淡いピンクのマニキュアをして、お気に入りの籠バックに荷物を詰め替えて、今シーズン初登場の少しヒールの高い華奢なサンダルを履いて家をでた。
「行ってきます!」
そうして自宅の門をでた瞬間、向かいの家のドアも開いた。
「あ… 」
「おっ… 」
稽古に向かう格好をした拓海と目があった。
拓海は一瞬放心したように私を見て目を丸くした。
あれから拓海とはまともに話をしていない。
更に、見慣れない格好をしてるものだから、私は気恥ずかしくなって少し俯いた。
次に目を合わせた拓海は、明らかに苦虫を噛み潰したような不機嫌な顔をしていた。
その視線に刺殺されそうなほど見つめられている。そしてその嫌な予感は見事に的中した。
「大会前にチャラチャラ浮ついた格好してんじゃねえよ…。似合いもしね~くせに、ごつい腕さらしてねえで、上着羽織れ、日焼けすっぞ…」
「っ………」
私は拓海から向けられたあまりの言葉に泣きそうな気持ちで絶句した。
久しぶりのお洒落に、出かけから最悪の人に最悪の形でケチをつけられた私は唇を噛み締めて拓海を睨みつけた。大した言葉が見つからないのが悔しいけど、精一杯に言い返した。
「沙耶香が…派手じゃないって言ってくれたもん。 腕、そこまでごつくないもん。日焼け止めだって、ちゃんと塗ったもん!!拓海の馬鹿!! 大っ嫌い!!」
私はそう言って、涙に堪えながら、拓海の横を走り去った。
「おい… もこ… 待てよ!!」
拓海の声になんて振り向かない。
振り向いてなんか、やらない!
(ムカつくムカつく、ほんっとうに、ムカつく!!)
もしかしたら、可愛いなんて思ってもらえるかもなんて…
ちょっとだけでも、あり得ない期待をしてしまった自分が馬鹿だったと、自分が妙に悔しい。
(どうせ、私は拓海の彼女みたいに、線の細い身体付きじゃないですよ!)
沙耶香に「もこの二の腕、白くて綺麗だから絶対ノースリーだよ!!」
そう煽てられてその気になって買ってしまったワンピース。
きっと、華奢でふんわりした拓海の彼女の方がこんな服は似合うのだろう。
それくらい、……私にだって判っている。
(でも、酷いよ…拓海)
私は涙を堪えながら情けないくらいに顔を歪めた。
(この身体だって、稽古して、ランニングして、サイクリングして、拓海と一緒に創り上げた身体なのに。)
私に力がついて、攻撃力が上がって、身のこなしが一つ上になる度に、誰より近くで一緒になって喜んでくれたのは拓海だったはずなのに…
ほんと、馬鹿だな、私…
今更、拓海に女として見てもらえないことに気付いて、こんなにも傷ついてるなんて。
そんな付き合い方しかしてこなかったのは私自身だったのに…
自分で選んだことだったのに。
そして、こんな惨めな今でさえ、自分のこれまでの生き方に、やっぱり、後悔なんてこれっぽっちもできないのに…。
―――私には、やっぱり、この世界しかないから。
***************
約束していた水族館のある駅につくと、颯太君が嬉しそうに手を振っていた。颯太君の周辺は、まるでそこにだけ爽やかな風が吹いているかのように華やぐ。
(ほんと、私はある意味君が羨ましいよ、颯太君…)
お洒落なブラックジーンズに、シンプルなTシャツ、半そでのパーカーを羽織ると言う、今時の男の子に多いありふれていると言える格好なのに、今も周囲から注目を浴びているのは、彼の顔立ちと、柔らかい雰囲気のせいだろう。
イケメンな上に、纏う雰囲気も甘く柔らかいのだ。さぞモテるんだろうと、華のない私は溜息を吐く。そして、そんなずるい程のイケメンが出会ってすぐに言ってくれた。
「桃ちゃん。メッチャ可愛い…、似合ってるね、そのワンピース色も形も凄く可愛いし桃ちゃんの雰囲気に凄く合ってる。 今日の僕、魚に失礼かも…、きっと、もう桃ちゃんしか目に入らない。」
大げさな褒め言葉に、半ば呆れて苦笑いする私だったが、その言葉に少しだけ出かけから撃沈していたメンタルが持ち上がるのだから、不思議なものだ。
人の言葉って本当に魔力を持っている。
こんなに綺麗に微笑んで、真っすぐな瞳で毎日好意的な言葉を囁かれ続けたら、私みたいな、武骨な女でも、毎日の積み重ねの中で女として少しずつ変っていったりするのかな、なんて事を考えてしまう。
「そんなに大げさに褒めてくれなくてもいいよ…、でもありがとう、出かけに拓海にごつい腕だすな、って散々嫌味言われて…、ちょっと参ってたんだ」
そう言って、私は見透かされそうな気持ちを隠すように、笑って、そっと、二の腕を隠すように両手を回した。
「ごつい…?どこが?」
そう言って、私の二の腕に目をやった颯太くんは怪訝そうに目を細めた。
「メッチャ綺麗だよ?桃ちゃんの腕は、ほら、こんなに綺麗に引き締まってて、白くてつるつるだし。どんな絵具使ったら、どんなふうに陰影をつけたら出せるんだろうな、この質感って、実はずっと考えてた。 今度、一之瀬に言っとくよ。『僕、桃ちゃんの二の腕、すっごい好き』って…」
私はその言葉にギョッとした。
(いや… 言わなくていいから… むしろそんな事、絶対言わないで…、というか、絵具??)
目を見開いて固まっている私に構う事無く、颯太くんは嬉しそうに私の手をとった。
「行こう… 桃ちゃん」
そう、当然のように自然に繋がれた手に、再び目を見開いて赤面した私は、慌てて手を引っ込めた。
「手は、…ダメだよ」
「なんで?」颯太くんは不思議そうに首をかしげる。
「だっ、だって、デートじゃないから。」
私は、しどろもどろにそう言った。
それに対して、颯太君は、少しだけ拗ねた顔をして唇を尖らせた。
「僕、デートのつもりなんだけど、じゃあさ、こうしない? 僕はデートのつもりで、桃ちゃんはデートじゃないつもりでもいい。帰るとき、それかさ、もっと先でもいいからさ、いつか二人でまた、決めよう? これが、初デートだったかどうか」
「……初、デート?」
戸惑う私にそう言って、颯太くんはずるい位の笑顔で笑って、再び私の手をとって歩き出した。
その後も少しだけ抗議してみたけれど、颯太くんは宣言どおりマイペースに「デート」を楽しんでいるようで、離すつもりは無さそうな彼に、私も遂に折れて諦めた。
上空を泳ぐ魚の大軍を見上げながら、私の心は躍った。こんなところに来たのは、小学生の時以来かもしれない……
種事に個性的な魅力に溢れる色とりどりの魚達や大きなサメにあっという間に目を奪われる。イルカショーの水しぶきを受けて、キャーキャーと子供みたいに笑い、幻想的なクラゲを見つめて時を忘れた。
昼は水族館の敷地内の堤防で海を見ながら、水族館のフードコートで買ったハンバーガーを頬張った。颯太君は先に私が上るのを手伝ってくれて、ドリンクやバーガーを食べやすいように差し出してくれてから、上がってきて、多島美の煌く海に目を細めた。
(海は、好きだ…)
「綺麗だね、桃ちゃん……」
そんな颯太くんに頷きながら、私も、その景色に目を細めて頷いた。
海風が心地よい。
何もかもが酷く久しぶりで、忘れかけていた大自然は私の中のなにかを震わせた。
青空と海と風、そして降り注ぐいくつにも姿を変える光を五感で感じながら、サンダルを傍らに置いて、両手両足を伸ばして伸びをしていると、愛しげに私を見つめる颯太君の視線があった。
「あ… ごめん… 一瞬、いろんな事、忘れてくつろいじゃってたよ…」
私は、気まずくなって微笑んだ。
一瞬、颯太くんが隣にいることさえも忘れてしまっていた。
「ううん… 何か今、素の桃ちゃんがいた。そんな、桃ちゃんと出かけるって、幸せだなって、そう思って見てた。」
そう言って、颯太君はにっこり笑ってくれた。でも、なんでだろう、その笑顔の奥に今、少しだけ寂しそうな何かを見たような、そんな気がした。
「あは、だらしなく伸てただけの私と? 颯太君って、やっぱり変ってるよね?」
本当に颯太君は変わり者だと思う。
何も私じゃなくても、こんな風にデートしようと思えば、綺麗な女の子達の中から、選り取り見取りの選び放題だろうに。
「そうかな、でも、何ていうのかな、 桃ちゃんてさ、何見ても、凄く新鮮で嬉しそうな顔するから…一緒に何かを見るなら、桃ちゃんとがいいなって」
「…そうかな?」
「ねぇ、桃ちゃん…、桃ちゃんの瞳には、この世界も、今目の前にあるこの景色も、どんなふうに、見えてるんだろうね?」
そう言って、颯太くんは海を見つめたと思ったら、押し黙った。
「え……?」
ふいにそんな事を問われた私は戸惑って目を瞬かせた。
「あっ、いや、なんでも楽しそうに見てくれるから、嬉しいなって、話…」
焦ったように、そう言われて、少し考えた。
「それ、多分、私があんまり、遊びに行ったりしてないからだよ?もうずっと長いこと、稽古を優先してきたから。でも、こんな事でも無かったら、今日も稽古に行ってたし、なんだかんだで久しぶりに凄く楽しかったし、色んな意味で目の保養もさせてもらったし、ありがとうね。きっと、私、今日はここにきて正解だったと思う。」
「そう…よかった。」
そう言って笑う私に、颯太くんも笑い返してくれた。だけど、どうしてだろう。その笑顔は、やはり少し寂しいものに感じた。
その後、海を見ながら、二人で話した。
お互いの子供の頃の話や、高校での話。
颯太くんのお母さんは早くに亡くなったそうで、それ以来、お父さんと二人で暮らしているそうだ。知らなかったけど、颯太君のお父さんは、私でも名前くらいなら聞いたことがある「梶原颯久」という日本でも有数の画家で、各地にあるアトリエや、ホテルで過ごすことも多くて、颯太くんはお手伝いさんと過ごすことが多かったらしい。
颯太くんも、見よう見真似で、小さな頃から絵を描いたりしていたようで、何度か賞をもらった事もあるらしい。「でも、最近は描いてないんだ…」そう言って颯太くんは寂しそうに微笑んだ。
「ねえ… 桃ちゃんに見てもらいたい場所があるんだ。ここからそう遠くないから、もう少しだけ僕に付き合ってくれる?」
「え… 」
私は、携帯の時計をチラリと見た。
今から帰れば、夜の稽古には参加できるかなって思っていたところだったから、私は戸惑った。
「お願い…」
颯太くんに妙に真剣に見つめられて、私は頷いた。
「本当? 嬉しい。 じゃあ行こうか。」
そう言って、満面の笑顔を浮かべた颯太くんは、再び私の手をひいて浜辺の砂から立ち上がった。
水族館を出たところで彼はタクシーに乗り込んだ。
タクシーの運転手さんは、颯太くんを見た瞬間、おやっと微笑んで、「随分お久しぶりですね、お父さんのアトリエですか?」と声をかけた。
颯太くんは顔馴染みらしい運転手さんに、にっこりと頷いた。運転手さんはチラッと私を見つめて優しい顔で微笑んだ。
運転手さんはそこから海岸沿いを走り、しばらく奥に入っていくと森の中にログハウスが一軒だけ立っていた。
(こんなところに…)
不思議な思いで、ログハウスを見つめた。
「可愛い建物だね」
そう言うと、彼は小さく笑った。
颯太君は、運転手さんに帰りも迎にきてもらう約束をしてタクシーを見送った。
「入って」
そう言われた私は少しだけ戸惑った。
この間の拓海の言葉を少しだけ思い出したからだ。
まさか、いきなり襲われたり
……あっ、流石にそれはないか。
こんな怪力女、学校の王子様の颯太君がわざわざ危険を冒してまで、どうこうするなんて現実的じゃない。
そんな私の一瞬の戸惑いが伝わったのだろう。
「ふふっ、桃ちゃん警戒してる…?残念!!」
そう言って、颯太くんは、全然残念そうじゃない顔で笑った。
「そ、そんなんじゃないけど…」
そう顔を真っ赤にした私に颯太くんは微笑んだ。
「大丈夫だよ。元々、テラスに招待したかったんだ。君にみせたいものがあるから」
そう言って、颯太くんは室内を経由しない道を選んでくれた。
「しばらく使ってないんだ、だから、蜘蛛の巣はってたらいけないから、僕が先にいくね」そう言って、ハウスの横の細道を時々、手で払いながら進んでいく颯太君に申し訳ない思いで後に続く。
テラスに出た私は目を見張った。
―――一面の森に囲まれた湖が目の前で歓迎するように煌めいていた。
絵画のように美しい光景は、正に絵画の為にここに建てられた場所だからこそだろう。
「ここっ、すごい… 」
目の前の光景に驚いて目を丸くした私に颯太くんも、眩しそうに微笑んだ。
「でしょ?もうすぐ、夕方になるから、この一面が赤く染まって凄く綺麗なんだ。
それを桃ちゃんに一緒に見てもらいたいって、ずっとそう思ってた。」
「ずっと…?」
その疑問の声には、颯太君は答えなかった。
その後、颯太くんは、中から、雑巾を持ってきて、ガーデンテーブルセットを綺麗に拭きあげて、中から持ってきたお洒落な座布団をしいて私を座らせてくれた。
その後、中で紅茶を入れて運んできてにっこり微笑む颯太くん。
「なんか… カフェみたいだね… 」
まるで、お洒落なお店のイケメンマスターみたいだ。
颯太くんはそんな私に微笑んで隣に腰掛けた。
「ここはね、病弱だった母の静養の為もあって、父が絵を描きながら一緒にすごせるように立てた場所なんだ。」
そう言って颯太くんは当時を思い出したのか、少し寂しい顔で笑った。
チラッと中を覗くと、ここから描かれたであろう風景画がいくつか壁に飾ってあった。
床には飾られる事もなく大量に並べられた絵もある。
「あの絵も、ここを描いてるんだね。凄く素敵。お父様の作品?」
絵の事がよく判らない私は、壁にかけられた美しい夕暮れの湖の風景に目を細めた。
「あ… あれは違うんだ、僕の作品… まだまだ親父には、全然及ばないよ。でも、母さんの命日に母さんの為に描いてみたから… ああやって、飾ってるんだ。」
そう言って颯太くんは微笑んだ。
「うっ、うそ… 天才だね…、あっ、ごめんね、安易に天才なんて… 」
才能って、確かにあると思う。
でも天才が作り出す世界を安易に才能のせいだけにする事が失礼な事は、よく分かっているつもりだ。そんな私に颯太くんは困ったように微笑んだ。
「ありがとう。僕もね、絵がとても好きだったんだ。でも、天才じゃないよ、もう最近は描いてないしね。何年も…」
そう言って颯太君は面目無さそうに小さく笑った。
「なんで…」
そんなのもったいないと思って、颯太くんを見つめた。これほどの絵が描ける人がどれほどの努力をしてきたか、どれだけ描く事が好きなのか、それだけは何故だか分かる気がしたのだ。それを止めてしまうなんてもったいないし、それ以上に痛々しい。
そんな気持ちが伝わったのか、颯太くんは、はぐらかすように笑った。
「さあ… 何で、だろうね?」
そう言って、颯太くんは紅茶の御代わりを入れてくれた。
私は美味しい紅茶を飲みながら、美しい湖と、美しい緑に魅入った。日常生活の全てのストレスから解き放たれるように、ここはまるで異次元の別世界のようだった。
その後、颯太くんは、私のおねだりに応じて、他にも描いた作品を見せてくれた。
「ごめんね、本当は父の作品をみせてあげられるといいんだけど、文化的価値がとか、物騒だからとか、画商さんが出来たら、私物でも全部すぐに持っていっちゃうから、僕のしかないんだ…」
そう言われて、いやいやと恐縮する。
それほどに素晴らしい作品の数々だったから。
高校生にしては凄いとかそう言うレベルではない。
美術館に飾ってあっても、きっとこれを見つめたら、心惹かれて足を止めて魅入ってしまうに違いない。
「ここじゃない風景もあるね…」
私がそういうと、彼は少し寂しそうに笑った。
「ああ…」
そう言って、彼は数点の自分の作品をジッと見つめていた。
残された作品は全て素晴らしいものだった。
だけど、その時、アトリエの奥に無数に壊されたような絵の数々が廃棄されているものを見た私は眉を寄せた。
きっと、芸術の世界はとても厳しいものなのだろう。無から有を生み出すなかで、産みの苦しみを味わい続けるのもまた芸術家の宿命だと聞いたことがある。まるで憎むように廃棄された廃材に、もう一人の颯太君をみたような気がした。
夕日の入り込み具合で部屋の色が変った時、颯太くんはハッと顔を上げて、私の手を引いて再びテラスにでた。
「これを、君と見たかったんだ…」
その世界に私は目を見開いた。
――― 一面のオレンジ…
空も、湖も…
その上を羽ばたく鳥たちも…
光、色彩、水面、緑、羽ばたく鳥、それぞれが発する音…
胸を締め付けられるような、瞬間的な感動と躍動感
私は振り返って、さっきの絵を見上げた。
この瞬間なのだ。
あの絵はこの感動を見事にキャンバスに表現している。
言葉に尽くせない世界にただただ感動した。
これが、颯太君の世界?
そして、今、私はそれを表現さえもできる人と、こうして肩を並べて同じ光景を見つめている。
景色に魅入る私の瞳を、隣で、ジッと見つめる颯太くんの視線に気付いた私は、目を見開いたまま颯太君の赤に染まった瞳と瞳を合わせた。
「やっぱり桃ちゃん、君、なんだ… 」
いつもの笑顔もない真顔の颯太くんが真っ直ぐに私を見据えていた。
違う、今の颯太君が本当の颯太君なのかもしれない。
いつもの笑顔は、この顔を隠すための偽りの仮面だと言われたら、その方がずっとしっくりくる。
思いつめたような、どこか暗い救いを求めるような真顔を見て何故だか不意にそう思った。私は戸惑って、颯太くんを見つめ返す事しかできなかった。
「わ、たし…?なに、が…?」
そう、かろうじて掠れた声で聴き返すと、颯太君は、本当に困ったような、負けたような小さな笑顔で言った。
「うん、僕はね、君の傍にいたい。そして色んな景色を眺めていたい、そう思えるのは君だけだから」
そして、続けた。
「僕、きっと、君の事、好きになっちゃうよ……、ううん、もっと、ちゃんと好きに、なりたい」
そう言って、颯太くんは真っすぐな瞳で私を捉えた。
それは、熱のこもった、真っすぐな告白のようで、たぶん、そうじゃない。
「そ…颯太君…?」
どうしていいか判らない表現方法を遣われた私は戸惑った。
(好き…って言われたら、応えようがあるけど、好きになっちゃうよ…好きになりたいって、どう応えるのが正しいのだろう?)
そんな風に心の中で対応に困っていると、颯太君は、またクスッといつもの笑顔に戻り、私を見つめていた。
「…だから、桃ちゃんも、今は、僕を好きかどうかで僕の事、考えるのは止めて。好きに、なれそうかどうか、それだけで考えて?そうじゃなきゃ、僕、きっと勝てそうにないから。」
「颯太くん…?」
私はどう言っていいのか判らなくて固まってしまった。
「大丈夫だよ… 桃ちゃん。僕、実は凄く気が長いから、君を見つけたことだけで希望が持てたから、きっとこれから、少しずつ自分を変えていけると思うんだ……」
そう言って、微笑んだ颯太くんは何故か幸せそうに笑った。
「だから… 桃ちゃん。今日で終わらせないで…、友達からでも、それでも構わないから。君の心に、少しずつでも、近付かせて…」
そう言って、颯太くんは縋るように私を見つめた。
結局私は、それに何の答えも出せなかった。
颯太君の問いに答えを出すのは、きっと私ではない、そんな気がしたからだ。
その後、行きと同じタクシーが迎えにきて私たちはそれに乗り込んだ。
タクシーを降りて、ホームまで歩きながら、颯太君は困ったように、笑った。
「ごめんね、急に変なこと言っちゃて、自分でも強引だったって、本当はね、分かってるんだ。」
「颯太くん…」
「ねぇ、桃ちゃん、僕、急がないから、もし、これから先、お互いの事を好きと思えるようになったら、その時に前に進めたら、それでいいから、桃ちゃんは桃ちゃんでのペースでいて、僕もう、出来るだけ邪魔はしないから…」
その言葉に、私は、どう返していいか分からなくて、戸惑った顔をする事しかできないでいた。そんな私に颯太君は続けた。
「大丈夫、もし、そうならなくても、桃ちゃんの事 責めたりなんかしないから。」
そう言って笑ってくれた。
日が落ちてから急に冷たい風が吹き始めたとき、颯太くんはノースリーブの私を気遣いTシャツの上に着ていた半袖のパーカーを脱いで私に着せてくれた。
「せっかく可愛いけど、冷えちゃうとよくないから…」
そう言って少し残念そうに笑っていた。
心配だから家まで送るって言ってくれる颯太君に首を振った私は「大丈夫だよ。私強いから」って言うと、颯太くんはまた困ったように笑った。
結局駅で颯太くんは私が電車に乗るまで名残惜しそうに見送ってくれた。
ドアが閉まる寸前に「君にみせたい場所が、まだまだ、沢山あるんだ。また連絡するね。」颯太君はそう言った。何となく断られるのが怖くてあのタイミングだったのかなって判る気がして、胸が切なくて、それでも温かくなった。
押しが強いようで、本当の颯太君は、そうじゃないのかもしれない。
いつもの飄々とした有無を言わさないあの笑顔は、颯太くんの本心を守る為に纏った仮面なのかもしれない。何となくそう思った。
そう思うのは、今日一日で彼の素顔らしきものを何度か垣間見たからだろうか。
(もし、お互いがお互いの事を好きと思えるようになったら、その時に前に進めたら、それでいいから。)
颯太くんの言葉を思い出す。
本当に、そんな言葉に甘えていいんだろうか。
一応「自主練習」という名目の稽古を休むのはいつ以来だろうか。
私はクローゼットを開いた。
夏になる前に、哲ちゃんと付き合うようになったばかりの浮かれた沙耶香と買い物に出かけた時、沙耶香に「もこ、絶対似合うよ、これにしなよ」って勧められて買ったシルバーブルーのワンピースを手にとる。
(デザインはちょっと可愛すぎるけど、色は派手じゃないし、これならいいよね…)
学校と道場との往復で結局着る機会さえ逃していた。
値札の糸を切りながら、 私に買われた服は、毎度不憫な結果となっている事を改めて感じて自嘲した。
(折角、着るんだもん。たまには気合いれてみようかな…下手したらもう着る機会さえないかもしれないしね、大会前に、夏服なんて買うもんじゃないよね……)
でも、そう思ったら、急にウキウキしてきた。
忘れていたおしゃれに対する女の子らしい気持ちが戻ってきたようで、少しだけ気持ちが華やぐ。
スカート部分がロングのシフォンスカートになっているノースリーブのワンピースに、父が誕生日に買ってくれたままこれまた付ける機会を逃していた誕生石のムーンストーンの雪の結晶のようなイヤリングを付ける。
そうして、普段はほとんどつける事はないけど、以前自分で買ったピンクベージュの口紅を唇に薄く乗せてみた。
(うん… こんなもんだよね。)
全身鏡の前に立ち、一歩後ろに引いた自分の姿にそれなりに納得した私は頷いた。
身長162センチの私は、普段、鍛えていると言っても男の子みたいに明らかな筋肉を蓄える訳ではないから、こうしてみると格闘家になんて見えないかもしれない。
少し寂しい胸元をみて、これまた自分を納得させる。生活が生活だから、無駄な肉も付きようはないけど、立派な胸もついてはいないのだ。
うん…これは仕方ない。
なんて、胸の事を空手のせいにしてごめんなさい。
きっと、私の身体には普通の女の子にはあるだろう女性的な柔らかさが若干足りない。だけどそんな身体を忘れさせてくれるような淡い色味にふんわりスカート。これならば、黒髪黒目のどちらかというと、少し強い印象を与えてしまうかもしれない私の印象を中和してくれているように思う。
(さすが…沙耶香の見立てだな…)
自分をよく知ってくれているお洒落な沙耶香の見立てに感謝した。
気を良くした私は、これまたいつのだ?と突っ込みたくなる結構前に買ったきりの淡いピンクのマニキュアをして、お気に入りの籠バックに荷物を詰め替えて、今シーズン初登場の少しヒールの高い華奢なサンダルを履いて家をでた。
「行ってきます!」
そうして自宅の門をでた瞬間、向かいの家のドアも開いた。
「あ… 」
「おっ… 」
稽古に向かう格好をした拓海と目があった。
拓海は一瞬放心したように私を見て目を丸くした。
あれから拓海とはまともに話をしていない。
更に、見慣れない格好をしてるものだから、私は気恥ずかしくなって少し俯いた。
次に目を合わせた拓海は、明らかに苦虫を噛み潰したような不機嫌な顔をしていた。
その視線に刺殺されそうなほど見つめられている。そしてその嫌な予感は見事に的中した。
「大会前にチャラチャラ浮ついた格好してんじゃねえよ…。似合いもしね~くせに、ごつい腕さらしてねえで、上着羽織れ、日焼けすっぞ…」
「っ………」
私は拓海から向けられたあまりの言葉に泣きそうな気持ちで絶句した。
久しぶりのお洒落に、出かけから最悪の人に最悪の形でケチをつけられた私は唇を噛み締めて拓海を睨みつけた。大した言葉が見つからないのが悔しいけど、精一杯に言い返した。
「沙耶香が…派手じゃないって言ってくれたもん。 腕、そこまでごつくないもん。日焼け止めだって、ちゃんと塗ったもん!!拓海の馬鹿!! 大っ嫌い!!」
私はそう言って、涙に堪えながら、拓海の横を走り去った。
「おい… もこ… 待てよ!!」
拓海の声になんて振り向かない。
振り向いてなんか、やらない!
(ムカつくムカつく、ほんっとうに、ムカつく!!)
もしかしたら、可愛いなんて思ってもらえるかもなんて…
ちょっとだけでも、あり得ない期待をしてしまった自分が馬鹿だったと、自分が妙に悔しい。
(どうせ、私は拓海の彼女みたいに、線の細い身体付きじゃないですよ!)
沙耶香に「もこの二の腕、白くて綺麗だから絶対ノースリーだよ!!」
そう煽てられてその気になって買ってしまったワンピース。
きっと、華奢でふんわりした拓海の彼女の方がこんな服は似合うのだろう。
それくらい、……私にだって判っている。
(でも、酷いよ…拓海)
私は涙を堪えながら情けないくらいに顔を歪めた。
(この身体だって、稽古して、ランニングして、サイクリングして、拓海と一緒に創り上げた身体なのに。)
私に力がついて、攻撃力が上がって、身のこなしが一つ上になる度に、誰より近くで一緒になって喜んでくれたのは拓海だったはずなのに…
ほんと、馬鹿だな、私…
今更、拓海に女として見てもらえないことに気付いて、こんなにも傷ついてるなんて。
そんな付き合い方しかしてこなかったのは私自身だったのに…
自分で選んだことだったのに。
そして、こんな惨めな今でさえ、自分のこれまでの生き方に、やっぱり、後悔なんてこれっぽっちもできないのに…。
―――私には、やっぱり、この世界しかないから。
***************
約束していた水族館のある駅につくと、颯太君が嬉しそうに手を振っていた。颯太君の周辺は、まるでそこにだけ爽やかな風が吹いているかのように華やぐ。
(ほんと、私はある意味君が羨ましいよ、颯太君…)
お洒落なブラックジーンズに、シンプルなTシャツ、半そでのパーカーを羽織ると言う、今時の男の子に多いありふれていると言える格好なのに、今も周囲から注目を浴びているのは、彼の顔立ちと、柔らかい雰囲気のせいだろう。
イケメンな上に、纏う雰囲気も甘く柔らかいのだ。さぞモテるんだろうと、華のない私は溜息を吐く。そして、そんなずるい程のイケメンが出会ってすぐに言ってくれた。
「桃ちゃん。メッチャ可愛い…、似合ってるね、そのワンピース色も形も凄く可愛いし桃ちゃんの雰囲気に凄く合ってる。 今日の僕、魚に失礼かも…、きっと、もう桃ちゃんしか目に入らない。」
大げさな褒め言葉に、半ば呆れて苦笑いする私だったが、その言葉に少しだけ出かけから撃沈していたメンタルが持ち上がるのだから、不思議なものだ。
人の言葉って本当に魔力を持っている。
こんなに綺麗に微笑んで、真っすぐな瞳で毎日好意的な言葉を囁かれ続けたら、私みたいな、武骨な女でも、毎日の積み重ねの中で女として少しずつ変っていったりするのかな、なんて事を考えてしまう。
「そんなに大げさに褒めてくれなくてもいいよ…、でもありがとう、出かけに拓海にごつい腕だすな、って散々嫌味言われて…、ちょっと参ってたんだ」
そう言って、私は見透かされそうな気持ちを隠すように、笑って、そっと、二の腕を隠すように両手を回した。
「ごつい…?どこが?」
そう言って、私の二の腕に目をやった颯太くんは怪訝そうに目を細めた。
「メッチャ綺麗だよ?桃ちゃんの腕は、ほら、こんなに綺麗に引き締まってて、白くてつるつるだし。どんな絵具使ったら、どんなふうに陰影をつけたら出せるんだろうな、この質感って、実はずっと考えてた。 今度、一之瀬に言っとくよ。『僕、桃ちゃんの二の腕、すっごい好き』って…」
私はその言葉にギョッとした。
(いや… 言わなくていいから… むしろそんな事、絶対言わないで…、というか、絵具??)
目を見開いて固まっている私に構う事無く、颯太くんは嬉しそうに私の手をとった。
「行こう… 桃ちゃん」
そう、当然のように自然に繋がれた手に、再び目を見開いて赤面した私は、慌てて手を引っ込めた。
「手は、…ダメだよ」
「なんで?」颯太くんは不思議そうに首をかしげる。
「だっ、だって、デートじゃないから。」
私は、しどろもどろにそう言った。
それに対して、颯太君は、少しだけ拗ねた顔をして唇を尖らせた。
「僕、デートのつもりなんだけど、じゃあさ、こうしない? 僕はデートのつもりで、桃ちゃんはデートじゃないつもりでもいい。帰るとき、それかさ、もっと先でもいいからさ、いつか二人でまた、決めよう? これが、初デートだったかどうか」
「……初、デート?」
戸惑う私にそう言って、颯太くんはずるい位の笑顔で笑って、再び私の手をとって歩き出した。
その後も少しだけ抗議してみたけれど、颯太くんは宣言どおりマイペースに「デート」を楽しんでいるようで、離すつもりは無さそうな彼に、私も遂に折れて諦めた。
上空を泳ぐ魚の大軍を見上げながら、私の心は躍った。こんなところに来たのは、小学生の時以来かもしれない……
種事に個性的な魅力に溢れる色とりどりの魚達や大きなサメにあっという間に目を奪われる。イルカショーの水しぶきを受けて、キャーキャーと子供みたいに笑い、幻想的なクラゲを見つめて時を忘れた。
昼は水族館の敷地内の堤防で海を見ながら、水族館のフードコートで買ったハンバーガーを頬張った。颯太君は先に私が上るのを手伝ってくれて、ドリンクやバーガーを食べやすいように差し出してくれてから、上がってきて、多島美の煌く海に目を細めた。
(海は、好きだ…)
「綺麗だね、桃ちゃん……」
そんな颯太くんに頷きながら、私も、その景色に目を細めて頷いた。
海風が心地よい。
何もかもが酷く久しぶりで、忘れかけていた大自然は私の中のなにかを震わせた。
青空と海と風、そして降り注ぐいくつにも姿を変える光を五感で感じながら、サンダルを傍らに置いて、両手両足を伸ばして伸びをしていると、愛しげに私を見つめる颯太君の視線があった。
「あ… ごめん… 一瞬、いろんな事、忘れてくつろいじゃってたよ…」
私は、気まずくなって微笑んだ。
一瞬、颯太くんが隣にいることさえも忘れてしまっていた。
「ううん… 何か今、素の桃ちゃんがいた。そんな、桃ちゃんと出かけるって、幸せだなって、そう思って見てた。」
そう言って、颯太君はにっこり笑ってくれた。でも、なんでだろう、その笑顔の奥に今、少しだけ寂しそうな何かを見たような、そんな気がした。
「あは、だらしなく伸てただけの私と? 颯太君って、やっぱり変ってるよね?」
本当に颯太君は変わり者だと思う。
何も私じゃなくても、こんな風にデートしようと思えば、綺麗な女の子達の中から、選り取り見取りの選び放題だろうに。
「そうかな、でも、何ていうのかな、 桃ちゃんてさ、何見ても、凄く新鮮で嬉しそうな顔するから…一緒に何かを見るなら、桃ちゃんとがいいなって」
「…そうかな?」
「ねぇ、桃ちゃん…、桃ちゃんの瞳には、この世界も、今目の前にあるこの景色も、どんなふうに、見えてるんだろうね?」
そう言って、颯太くんは海を見つめたと思ったら、押し黙った。
「え……?」
ふいにそんな事を問われた私は戸惑って目を瞬かせた。
「あっ、いや、なんでも楽しそうに見てくれるから、嬉しいなって、話…」
焦ったように、そう言われて、少し考えた。
「それ、多分、私があんまり、遊びに行ったりしてないからだよ?もうずっと長いこと、稽古を優先してきたから。でも、こんな事でも無かったら、今日も稽古に行ってたし、なんだかんだで久しぶりに凄く楽しかったし、色んな意味で目の保養もさせてもらったし、ありがとうね。きっと、私、今日はここにきて正解だったと思う。」
「そう…よかった。」
そう言って笑う私に、颯太くんも笑い返してくれた。だけど、どうしてだろう。その笑顔は、やはり少し寂しいものに感じた。
その後、海を見ながら、二人で話した。
お互いの子供の頃の話や、高校での話。
颯太くんのお母さんは早くに亡くなったそうで、それ以来、お父さんと二人で暮らしているそうだ。知らなかったけど、颯太君のお父さんは、私でも名前くらいなら聞いたことがある「梶原颯久」という日本でも有数の画家で、各地にあるアトリエや、ホテルで過ごすことも多くて、颯太くんはお手伝いさんと過ごすことが多かったらしい。
颯太くんも、見よう見真似で、小さな頃から絵を描いたりしていたようで、何度か賞をもらった事もあるらしい。「でも、最近は描いてないんだ…」そう言って颯太くんは寂しそうに微笑んだ。
「ねえ… 桃ちゃんに見てもらいたい場所があるんだ。ここからそう遠くないから、もう少しだけ僕に付き合ってくれる?」
「え… 」
私は、携帯の時計をチラリと見た。
今から帰れば、夜の稽古には参加できるかなって思っていたところだったから、私は戸惑った。
「お願い…」
颯太くんに妙に真剣に見つめられて、私は頷いた。
「本当? 嬉しい。 じゃあ行こうか。」
そう言って、満面の笑顔を浮かべた颯太くんは、再び私の手をひいて浜辺の砂から立ち上がった。
水族館を出たところで彼はタクシーに乗り込んだ。
タクシーの運転手さんは、颯太くんを見た瞬間、おやっと微笑んで、「随分お久しぶりですね、お父さんのアトリエですか?」と声をかけた。
颯太くんは顔馴染みらしい運転手さんに、にっこりと頷いた。運転手さんはチラッと私を見つめて優しい顔で微笑んだ。
運転手さんはそこから海岸沿いを走り、しばらく奥に入っていくと森の中にログハウスが一軒だけ立っていた。
(こんなところに…)
不思議な思いで、ログハウスを見つめた。
「可愛い建物だね」
そう言うと、彼は小さく笑った。
颯太君は、運転手さんに帰りも迎にきてもらう約束をしてタクシーを見送った。
「入って」
そう言われた私は少しだけ戸惑った。
この間の拓海の言葉を少しだけ思い出したからだ。
まさか、いきなり襲われたり
……あっ、流石にそれはないか。
こんな怪力女、学校の王子様の颯太君がわざわざ危険を冒してまで、どうこうするなんて現実的じゃない。
そんな私の一瞬の戸惑いが伝わったのだろう。
「ふふっ、桃ちゃん警戒してる…?残念!!」
そう言って、颯太くんは、全然残念そうじゃない顔で笑った。
「そ、そんなんじゃないけど…」
そう顔を真っ赤にした私に颯太くんは微笑んだ。
「大丈夫だよ。元々、テラスに招待したかったんだ。君にみせたいものがあるから」
そう言って、颯太くんは室内を経由しない道を選んでくれた。
「しばらく使ってないんだ、だから、蜘蛛の巣はってたらいけないから、僕が先にいくね」そう言って、ハウスの横の細道を時々、手で払いながら進んでいく颯太君に申し訳ない思いで後に続く。
テラスに出た私は目を見張った。
―――一面の森に囲まれた湖が目の前で歓迎するように煌めいていた。
絵画のように美しい光景は、正に絵画の為にここに建てられた場所だからこそだろう。
「ここっ、すごい… 」
目の前の光景に驚いて目を丸くした私に颯太くんも、眩しそうに微笑んだ。
「でしょ?もうすぐ、夕方になるから、この一面が赤く染まって凄く綺麗なんだ。
それを桃ちゃんに一緒に見てもらいたいって、ずっとそう思ってた。」
「ずっと…?」
その疑問の声には、颯太君は答えなかった。
その後、颯太くんは、中から、雑巾を持ってきて、ガーデンテーブルセットを綺麗に拭きあげて、中から持ってきたお洒落な座布団をしいて私を座らせてくれた。
その後、中で紅茶を入れて運んできてにっこり微笑む颯太くん。
「なんか… カフェみたいだね… 」
まるで、お洒落なお店のイケメンマスターみたいだ。
颯太くんはそんな私に微笑んで隣に腰掛けた。
「ここはね、病弱だった母の静養の為もあって、父が絵を描きながら一緒にすごせるように立てた場所なんだ。」
そう言って颯太くんは当時を思い出したのか、少し寂しい顔で笑った。
チラッと中を覗くと、ここから描かれたであろう風景画がいくつか壁に飾ってあった。
床には飾られる事もなく大量に並べられた絵もある。
「あの絵も、ここを描いてるんだね。凄く素敵。お父様の作品?」
絵の事がよく判らない私は、壁にかけられた美しい夕暮れの湖の風景に目を細めた。
「あ… あれは違うんだ、僕の作品… まだまだ親父には、全然及ばないよ。でも、母さんの命日に母さんの為に描いてみたから… ああやって、飾ってるんだ。」
そう言って颯太くんは微笑んだ。
「うっ、うそ… 天才だね…、あっ、ごめんね、安易に天才なんて… 」
才能って、確かにあると思う。
でも天才が作り出す世界を安易に才能のせいだけにする事が失礼な事は、よく分かっているつもりだ。そんな私に颯太くんは困ったように微笑んだ。
「ありがとう。僕もね、絵がとても好きだったんだ。でも、天才じゃないよ、もう最近は描いてないしね。何年も…」
そう言って颯太君は面目無さそうに小さく笑った。
「なんで…」
そんなのもったいないと思って、颯太くんを見つめた。これほどの絵が描ける人がどれほどの努力をしてきたか、どれだけ描く事が好きなのか、それだけは何故だか分かる気がしたのだ。それを止めてしまうなんてもったいないし、それ以上に痛々しい。
そんな気持ちが伝わったのか、颯太くんは、はぐらかすように笑った。
「さあ… 何で、だろうね?」
そう言って、颯太くんは紅茶の御代わりを入れてくれた。
私は美味しい紅茶を飲みながら、美しい湖と、美しい緑に魅入った。日常生活の全てのストレスから解き放たれるように、ここはまるで異次元の別世界のようだった。
その後、颯太くんは、私のおねだりに応じて、他にも描いた作品を見せてくれた。
「ごめんね、本当は父の作品をみせてあげられるといいんだけど、文化的価値がとか、物騒だからとか、画商さんが出来たら、私物でも全部すぐに持っていっちゃうから、僕のしかないんだ…」
そう言われて、いやいやと恐縮する。
それほどに素晴らしい作品の数々だったから。
高校生にしては凄いとかそう言うレベルではない。
美術館に飾ってあっても、きっとこれを見つめたら、心惹かれて足を止めて魅入ってしまうに違いない。
「ここじゃない風景もあるね…」
私がそういうと、彼は少し寂しそうに笑った。
「ああ…」
そう言って、彼は数点の自分の作品をジッと見つめていた。
残された作品は全て素晴らしいものだった。
だけど、その時、アトリエの奥に無数に壊されたような絵の数々が廃棄されているものを見た私は眉を寄せた。
きっと、芸術の世界はとても厳しいものなのだろう。無から有を生み出すなかで、産みの苦しみを味わい続けるのもまた芸術家の宿命だと聞いたことがある。まるで憎むように廃棄された廃材に、もう一人の颯太君をみたような気がした。
夕日の入り込み具合で部屋の色が変った時、颯太くんはハッと顔を上げて、私の手を引いて再びテラスにでた。
「これを、君と見たかったんだ…」
その世界に私は目を見開いた。
――― 一面のオレンジ…
空も、湖も…
その上を羽ばたく鳥たちも…
光、色彩、水面、緑、羽ばたく鳥、それぞれが発する音…
胸を締め付けられるような、瞬間的な感動と躍動感
私は振り返って、さっきの絵を見上げた。
この瞬間なのだ。
あの絵はこの感動を見事にキャンバスに表現している。
言葉に尽くせない世界にただただ感動した。
これが、颯太君の世界?
そして、今、私はそれを表現さえもできる人と、こうして肩を並べて同じ光景を見つめている。
景色に魅入る私の瞳を、隣で、ジッと見つめる颯太くんの視線に気付いた私は、目を見開いたまま颯太君の赤に染まった瞳と瞳を合わせた。
「やっぱり桃ちゃん、君、なんだ… 」
いつもの笑顔もない真顔の颯太くんが真っ直ぐに私を見据えていた。
違う、今の颯太君が本当の颯太君なのかもしれない。
いつもの笑顔は、この顔を隠すための偽りの仮面だと言われたら、その方がずっとしっくりくる。
思いつめたような、どこか暗い救いを求めるような真顔を見て何故だか不意にそう思った。私は戸惑って、颯太くんを見つめ返す事しかできなかった。
「わ、たし…?なに、が…?」
そう、かろうじて掠れた声で聴き返すと、颯太君は、本当に困ったような、負けたような小さな笑顔で言った。
「うん、僕はね、君の傍にいたい。そして色んな景色を眺めていたい、そう思えるのは君だけだから」
そして、続けた。
「僕、きっと、君の事、好きになっちゃうよ……、ううん、もっと、ちゃんと好きに、なりたい」
そう言って、颯太くんは真っすぐな瞳で私を捉えた。
それは、熱のこもった、真っすぐな告白のようで、たぶん、そうじゃない。
「そ…颯太君…?」
どうしていいか判らない表現方法を遣われた私は戸惑った。
(好き…って言われたら、応えようがあるけど、好きになっちゃうよ…好きになりたいって、どう応えるのが正しいのだろう?)
そんな風に心の中で対応に困っていると、颯太君は、またクスッといつもの笑顔に戻り、私を見つめていた。
「…だから、桃ちゃんも、今は、僕を好きかどうかで僕の事、考えるのは止めて。好きに、なれそうかどうか、それだけで考えて?そうじゃなきゃ、僕、きっと勝てそうにないから。」
「颯太くん…?」
私はどう言っていいのか判らなくて固まってしまった。
「大丈夫だよ… 桃ちゃん。僕、実は凄く気が長いから、君を見つけたことだけで希望が持てたから、きっとこれから、少しずつ自分を変えていけると思うんだ……」
そう言って、微笑んだ颯太くんは何故か幸せそうに笑った。
「だから… 桃ちゃん。今日で終わらせないで…、友達からでも、それでも構わないから。君の心に、少しずつでも、近付かせて…」
そう言って、颯太くんは縋るように私を見つめた。
結局私は、それに何の答えも出せなかった。
颯太君の問いに答えを出すのは、きっと私ではない、そんな気がしたからだ。
その後、行きと同じタクシーが迎えにきて私たちはそれに乗り込んだ。
タクシーを降りて、ホームまで歩きながら、颯太君は困ったように、笑った。
「ごめんね、急に変なこと言っちゃて、自分でも強引だったって、本当はね、分かってるんだ。」
「颯太くん…」
「ねぇ、桃ちゃん、僕、急がないから、もし、これから先、お互いの事を好きと思えるようになったら、その時に前に進めたら、それでいいから、桃ちゃんは桃ちゃんでのペースでいて、僕もう、出来るだけ邪魔はしないから…」
その言葉に、私は、どう返していいか分からなくて、戸惑った顔をする事しかできないでいた。そんな私に颯太君は続けた。
「大丈夫、もし、そうならなくても、桃ちゃんの事 責めたりなんかしないから。」
そう言って笑ってくれた。
日が落ちてから急に冷たい風が吹き始めたとき、颯太くんはノースリーブの私を気遣いTシャツの上に着ていた半袖のパーカーを脱いで私に着せてくれた。
「せっかく可愛いけど、冷えちゃうとよくないから…」
そう言って少し残念そうに笑っていた。
心配だから家まで送るって言ってくれる颯太君に首を振った私は「大丈夫だよ。私強いから」って言うと、颯太くんはまた困ったように笑った。
結局駅で颯太くんは私が電車に乗るまで名残惜しそうに見送ってくれた。
ドアが閉まる寸前に「君にみせたい場所が、まだまだ、沢山あるんだ。また連絡するね。」颯太君はそう言った。何となく断られるのが怖くてあのタイミングだったのかなって判る気がして、胸が切なくて、それでも温かくなった。
押しが強いようで、本当の颯太君は、そうじゃないのかもしれない。
いつもの飄々とした有無を言わさないあの笑顔は、颯太くんの本心を守る為に纏った仮面なのかもしれない。何となくそう思った。
そう思うのは、今日一日で彼の素顔らしきものを何度か垣間見たからだろうか。
(もし、お互いがお互いの事を好きと思えるようになったら、その時に前に進めたら、それでいいから。)
颯太くんの言葉を思い出す。
本当に、そんな言葉に甘えていいんだろうか。
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