天使の隣 〜駅伝むすめバンビ〜

鉄紺忍者

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【7区 7.0km 栗原 楓(1年)】

② ルーキーズ・ハイ

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ローズ大学の4年生アンカー、坂本志保の頬に、斬りつけるような鋭い風が通り過ぎた。

調子は悪くない。それなのに、9秒のリードがあったはずのアイリス女学院大の1年生が、横に並んでいた。

重力に身を任せ、その子は突然、坂本へと「落ちて」きた。瞳は大きく見開かれ、視線は微動だにしない。遥か先、何かを掴もうとするかのように、真っ直ぐだった。その目にはこちらの姿など映っていないように思われた。

その時、彼女のフットギアが、ふと妖しげな輝きを帯びた。周囲の陽光を弾くように煌めき、異様な妖気を纏っている。その空間に、言葉にならない圧迫感を感じた。

(何……!?)

足取りが一層軽くなる。その動きは、羽ばたく鳥のように空気を従えて、下り坂を異常なスピードで転がっていく。次の瞬間、周囲の空気が弾けた。

(……消えた!?)

遥か前方に、その背中が現れた。そして信じがたい光景が目に飛び込んでくる。その背中には、うっすらとした羽のような光が揺れていたのだ。

そんな、まさか、と思う。声にもならない声が、喉元に詰まる。ただ立っているだけでもよろけそうな急勾配だというのに、その足は路面を撫でるようにスルスルと前へ進んでいってしまう。

追わなければいけないのに、焦りとも恐れともつかない感情が渦巻く。そして、その感情の中に、一つの形容が浮かび上がってきた。

(あれじゃ、まるで……)

全てを圧倒する存在感。その走りは、どんなレースも己の領域に変えてしまう、神宮寺エリカの「天使の翼」を思い起こさせるものだった。

*  *  *

秋の日差しが照らすプラットホームで、ジャスミン大の神宮寺エリカは、落ち着かない様子で腕組みをしていた。

激戦を終え、急いで根岸中継所から駅までやってきたものの、ホーム上には観戦客がごった返していた。電車を待つ間、エリカは駅伝がいかに人々を熱狂させているか、その影響力を改めて感じていた。走っている間、観客というのはガードレールを隔てた先にいるものだが、毎年この移動のタイミングになると、その熱気が肌で伝わってくるのだ。今年で三度目の経験。だが、今回のみなと駅伝は、エリカにとって特別な意味を持っている。

その理由は、栗原楓の存在だった。昨日夕方の開会式の後、あの1年生は真っ直ぐな瞳でこう言ったのだ。

『見ていてください、私の走り!』

その一言が胸に突き刺さった。言葉でこそ何も応えなかったが、その言葉が自分にどれほどの重みを持たせたのか、楓は知らないだろう。

楓の走りをどうしても見たい自分がいる。

だが、自分のスマホも、付き添いの部員のスマホも、テレビが見られる機種ではないことに気づいた時、ため息が漏れた。ポータブルテレビを持ってくるのをすっかり忘れていた自分を、これほど責めることになるとは思わなかった。

その時、プラットホームが何やら騒がしくなった。ざわめきの中で、他の乗客たちが小さなテレビを囲んでいるのが見える。画面には、楓の姿が映し出されていた。

「……」

エリカは無意識のうちに、その方向へ歩を進めていた。観客に混ざることなどしない自分が、どうしてもあの画面を見たくて仕方がなく、吸い寄せられる。楓の走りを見届ける義務があるような気がしてならなかったのだ。

「まだ1年生だってよ」と近くの観戦客の話し声が耳に飛び込んできた。その瞬間、エリカはすぐにそれが楓のことだと悟った。

他に1年生アンカーがいるかどうかまでは把握していない。けれど今、自分の耳にその言葉が真っ直ぐに届いた。そのこと自体が、自分に関係のある人物の話題に違いないという確信を強固なものにした。

「楓は! 楓は、何をしでかしたのですか!?」

気づけば、その言葉が口をついて出ていた。普段、冷静沈着で通っているはずの自分が、感情に突き動かされるままに動いている。目の前の画面を覗き込もうと、人混みをかき分けて歩み寄る。

その集団が囲んでいる小さなテレビ。そこには、アイリス女学院大のユニフォームが揺れていた。

エリカの胸がざわつく。観客に混ざり、人の視線を追いかけるなんて自分らしくない。けれど、あの子の走りを見届けなければならない――そんな義務感がどうしても湧き上がった。楓の姿が、彼女の心を掴んで離さない。

エリカが近づくと、テレビの画面を囲んでいた観客の一人が気づき、少し驚いたように顔を上げた。神宮寺エリカだと気づいたのか、それともただの善意なのかは分からないが、少し身体をずらして画面を見る隙間を空けてくれた。

「どうぞ、見ますか?」とその人物が言う。「……ありがとう」とお礼を言って、エリカはテレビに目を向けた。

楓だ。風を切るように軽やかで、それでいて力強いフォーム。全身が一体となって推進力を生み出している。彼女の走りは、エリカがかつてライバルたちから言われた「圧倒的」と評された自分の姿に重なる部分すら感じさせた。

「これが1年生かよ……」と誰かがつぶやく声が耳に入る。

(本当に……ただのルーキーじゃないわ)

画面越しでも伝わるその存在感。その瞬間、エリカの中に芽生えたのは焦りでも嫉妬でもなかった。強くなった楓を目にして、自分がどう応えるべきかを問われているように感じたのだ。

今の楓は、誰にも守られず、何にも埋もれていない。予選会の時とは明らかに違っている。



楓の走りは、驚くほど洗練されている。腕の振り、膝の角度、ストライドの広さ、その全てが自分のフォームと瓜二つだった。まるで自分を真似て作られた完璧なコピーのようであり、しかしその走りはただの模倣ではなく、楓自身のものとして息づいているのをエリカは感じ取った。

「これ……私?」思わず胸の奥でつぶやく。

エリカの眉が僅かに動く。

「……どういうこと?」

周囲から聞こえるざわめきや歓声も、彼女の耳にはほとんど入ってこなかった。楓の走りに圧倒されているわけではない。しかし、それ以上に、まるで自分の技術と哲学が別の人間を通して走っているかのような奇妙な感覚が、エリカの心を掻き乱していた。

「どうもありがとう」

(この走りは、挑戦状ね)

いい。受けて立とう。楓の足音を振り切って、エリカは電車に乗り込んだ。

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